2013年12月30日月曜日

相模・伊豆ツーリング(箱根春編) その4

前回までのあらすじ

三浦半島まで到達!ひとこと言いたい政治ニュースが多くて日記が進まん!


ツーリング2日目。
この日の午前中は鎌倉観光です。
ツーリングながら、鎌倉はバイクで行くにはハードルが高い。
渋滞、一方通行、通行禁止、駐車禁止・・・
地元民じゃない自分には抜け道もよく分からないし、ほんまハードル高いっすわ。
決定的に心が折れたのは、銭洗い弁天への道が土日通行禁止になるのを知ったこと。
結局、銭洗い弁天は徒歩では遠くて、時間の都合もあって諦めたんですけど、通行禁止や駐車禁止で、バイクを適当に置いて観光するのが不可能な街というのを思い知らされました。
まぁでも江ノ電に乗れたのは良かった(^^)
江ノ電に乗れる鎌倉まで1駅、ということで初日の宿は大船。
平塚とかに比べればちょいと高かったけど(^^;)
泊まった相鉄フレッサイン大船鎌倉は、玄関前にバイクを置かせてもらえるので、バイク乗りにとってはありがたい。
繁華街が近いので、酔っ払いだけが心配ですけどね。

朝、バイクをホテルに置かせてもらい、大船駅から鎌倉へ。
そして江ノ電に乗り換えです。



しかし、この江ノ電、平日より休日のほうが混んでるじゃないかというぐらいの混み方です。
これにはびっくり。
いつも通勤は空いてる電車を選んで乗ってるけど、その普段の通勤電車よりも混んでるって・・・
東京近郊の観光地はやっぱ人が多いわ(> <)
江ノ電に乗って向かう先は、鎌倉の大仏さん。
一応、高徳院とか、清浄泉寺っていう寺院の名称はあるんやけど、道路の青看板にも「鎌倉大仏」とダイレクトに書いてあります。
判りやすくていいんですけど、もっと寺院名を表に出したほうが奥ゆかしさがあって情緒があるように思うのは、個人の勝手な思い込みですかね・・・
大仏さんの中にも入れるんですけど、
大仏の内臓側なんか見たら信心もクソもあらへんな(笑)
と思ったのは秘密です。
構造物としての大仏に興味があるのならいいですけど、一応、仏像というのは拝む対象なんですけどねぇ
なんだかマジックのネタばらし感がしますな。
大きすぎて拝む対象としては曖昧すぎるのかもしれませんがね(^^;)

鎌倉の大仏さんを後にして再び江ノ電に乗り、鎌倉駅に戻って今度は鶴岡八幡宮へ向かいます。
しかし、参道は人また人。
自分のペースですら歩けない。
もうゴールデンウィークは終わったんだぜ?
恐るべし、鎌倉。
八幡宮では丁度結婚式をやってました。



こんな大きな神社で結婚式なんてめっちゃ記念になるやろな~
でもなんぼぐらい掛かるんやろ?とすぐ銭計算する俺みたいな関西人は下世話ですな(^^;)

この八幡宮には、鎌倉幕府3代将軍源実朝が暗殺された時、襲撃した公暁が隠れていたという大銀杏がありました。
数年前の嵐で倒れてしまったんですが、その大銀杏の根株から新芽が出ていました。
木の生命力は凄い!
こんな古い株からでも生命力を感じられるというのは、ちょっとした感動ものです。


鎌倉から大船に戻ったのは昼過ぎ。
ホテルにお礼を言ってバイク旅の再開です。
大船に宿を取ったのには、鎌倉に近いというほかに、もうひとつ理由が。
それは、玉縄城!
北条氏の東相模の重要拠点です。
この玉縄城は大船駅のすぐ西なのです。
しかし、バイクで行くとなると、大きく北に迂回して鉄路を跨ぎ、狭い住宅地の道を辿っていかねばなりません。
絶対迷うんやろな・・・と覚悟しながら進んでいくと、ほぼ最短距離で到着(^^)
しかし、バイクですら迷惑を掛けない止め方が難しくてしばらく右往左往(笑)
車じゃぜったい止められへんわ。
ただ、玉縄城自体は、遺構がほとんど無いのが残念なところ。
唯一と言っていい諏訪壇という場所は、学校の敷地内なので、申請しないと見学できません。
そして、どこでも大抵そうですが、平日限定という制限付き。
でも、周辺の急な坂道や城址碑で、城跡に来た感は味わえたから満足(^^)
帰ってからの話ですが、実は知り合いが玉縄中学出身だったのにはびっくりした(笑)


玉縄城の次は、緩慢な県道や国道の流れの中、王城山城へ向かいます。
この城は事跡不明なんですが、地図にプロットしてあるのなら、行きましょう!という感じ(笑)
某社長か!(笑)
地図には天王山城とあります。
事前に下調べしていたので、曲がる所を1度通り過ぎてしまった以外は迷う事無く(?)無事に到着したんですが、城の遺構としては2段の削平地があるだけで、シンプルなもんです。
恒常的な城郭施設というよりは、見張台や烽火台という感じですな。


次に向かったのは大磯城山公園の小磯城。
大磯なんか小磯なんかはっきりせぇや
的な城です。
多分、昔は徳島の大歩危小歩危みたいに並立した地名やったんやろねぇ
今では大磯の名前が大きくなったんで小磯は取り込まれてしまってるけど。
ここは、三浦半島へ向かう行き道に発見し、
城山公園だと!?
とカッコ良さ気に反応した場所。
実際にカッコ良かったかどうかは知らんけども(笑)
予定には無かったけど、そう何度も来ることができないので、悔いを残さないよう突撃!
ただ、ここも城跡だったかには諸説あるようです。
また、遺構も、明治時代に三井の別邸が建てられていたことから、その頃の写真なんかが案内されており、城跡云々というのは無いです・・・
でも、帯郭のような不自然な中腹の細長い削平地なんかがあったりして、別荘工事や公園化工事でこんな不自然な使い辛い場所は造らんやろな~という地形が所々見られるので、個人的な感想としては城跡だと感じました。
発掘調査とかしてくれへんかなぁ(^^;)

上の3つの城の写真は前の記事からどうぞ。


つづく


参考:
高徳院清浄泉寺
鶴岡八幡宮
玉縄城
王城山城
小磯城

上記地図付きはこちら

2013年12月28日土曜日

ここ数日の報道で

ここ数日、辺野古の埋め立てが承認されたり、首相の靖国参拝があったり、大きいニュースが相次いでいます。
まぁ、人によって賛成反対は当然あるでしょうが、報道で気になった点が2つほど。

まずは神戸新聞。
神戸新聞は首相の靖国参拝には否定的で、ものの見事に反対意見が紙面を占めてるわけですが、後ろの方に憲法学の学者さんの意見が載っている記事がありました。
当然ながら、憲法に関することや憲法学的見地に立った意見が読めると思ったんですが・・・
普通にその学者さんの政治意見とその分析が載ってました。

ん?

え?

いやいやいやいや。
有識者の意見ってその専門分野だから貴重なんであって、全くの門外漢ではないにしても、専門外の事を言われても困る。
政治的な見解や分析なら、政治ジャーナリストや国際政治学者の方が確実に詳しいし、そっちに聞くって(^^;)
国内に、教授から助教授や助手、果ては講師や臨時講師まで、有識者と名乗れる人が万人単位でいるのに、専門外の事を聞いてどうすんねん。
ネットやってりゃ素人でも一次ソースをいくらでも収拾できてそこそこの意見を吐ける時代に、専門外の人の私見なんていらんのですわ。
参拝が、憲法や法律のどの部分に論拠が在り、どの部分に抵触するか、なんて意見が欲しいんです。
こんな記事、全く参考にならない。
ただでさえ、地方紙は全国記事は共同通信なんかの通信社のコピペばっかりって言われてるのに、こんなんじゃ益々信頼性を失ってしまうよ。
知り合いに神戸新聞がらみの人もいますけど、大丈夫か?神戸新聞。


次はTBS。
辺野古の埋め立て承認に対し、金平さんが知事に質問する場面。
金平さんは、報道特集のキャスターの人ですな。
この質問が文字に起こされてますが、これが酷い。
「仲井真さんは・・・常識的な日本語能力をお持ちの方と思うのでお聞きするが・・・」
とか、
県の開いた記者会見なのに、
「申請のあった場所は県内か、県外か?」
とか、
何この法廷的質問。
誰もが分かりきってる事に対して、言質をとってどうする。
小馬鹿にしたような持って回った嫌味ったらしい質問の仕方で、限られた時間での質疑応答なのに時間の無駄やし、かなり失礼ですわ。
地方行政のトップたる首長にする質問の仕方じゃない。
そら仲井真さんも怒りますわ。
政治ジャーナリストなら単刀直入に、公約と承認との整合性はどうするのか?って聞けばいいのに。
これが政治記者として実績のある人っていうんだから驚く。


なんかねぇ、いろいろと大丈夫?
もっとマスメディア頑張れよ!
だから世界で、日本のメディアはレベルが低いって言われるねん。
ネット上のたくさんの素人に突っ込まれてるんやで?
ほんま頼むわ・・・

2013年12月24日火曜日

相模・伊豆ツーリング(箱根春編) その3

前回までのあらすじ

箱根北回りで相模突入!河村城ってばいい感じ!


河村城を出て次に向かうのは湘南海岸。
この日は、三浦半島まで行くのが目標です。
山北からは、酒匂川沿いに下りていけば海沿いに出ますが、地図を見ると小田原方面まで下がってしまう。
ここは真っ直ぐ東に走って、湘南海岸まで最短距離で行きたい。
というわけで、大井松田I.C.から東名高速に入って秦野中井I.C.まで走り、そこから海へ真っ直ぐ南下という道を選んだわけですが、これでもちょっと遠回りですな。
西相って海岸に対して直角な道が多いので、西北から東南方向への道が乏しいのが難しい。

中井P.A.で連チャンとなるうどんを掻き込み、二宮から国道1号線へ。
道中、徳富蘇峰記念の案内を見掛け、徳富蘇峰はこの辺りと関わりがあるかと思いながら、家政婦は見た的な一旦停止取締営業中の警官を華麗にスルーし、大磯から国道134号線を辿って湘南海岸に出る。
しかし、この国道134号線というのは、聞きしに勝る渋滞道路ですな(^^;)
混む混むとは聞いてたけど、金曜の昼からこんなに混んでるとは・・・
4車線化工事の最中だったけど、4車線化が終わってる場所以外の部分は昔の対向2車線の国道そのままで、右折車左折車があると、それだけで流れに影響が出てしまう道。
神戸で言えば、西舞子辺りから塩屋あたりまでの国道2号線に雰囲気が似てます。
交通量そのままに、道を2.5じゃない本当の2車線の幅にすればそっくりになるかな?
ある程度余裕を見てたものの、ここで予想以上に時間が掛かってしまった。
バイクがガンガンすり抜けていくけど、こちらはパニア装備でこの細い隙間をすり抜ける気にはなれないし(> <)
七里ヶ浜の所なんかは、江ノ電が横に見え、更に学校帰りの高校生がワンサカいて、ドラマみたいな感じで良かったんですけど、バイクなのに、徒歩の高校生にどんどん抜かされて行く始末。
しかも、見通しが利くだけに、車列がずっとずっと先まで連なって見えてしまうのはちょっと精神的に辛かった・・・

流れが遅い中、江ノ島、稲村ヶ崎と、お目当ての場所を巡っていきます。
江ノ島と稲村ヶ崎は、以前に個別で載せたので、合作をば(笑)
稲村ヶ崎からの江ノ島の眺めですけど、よく見たら斜めに傾いてるな・・・
さすが素人仕事(笑)
稲村ヶ崎の斜めに見える稜線に釣られたか!



とは言え、江ノ島は、観光客がワンサカいる中に入りたくなかったので、軽く寄っただけですけどね。
稲村ヶ崎の辺りも渋滞してて、止める所に苦労した(^^;)
しかも、まだ三浦半島もあるのに、この夕景になりかけの時間というのはまずい。

鎌倉への滑川の交差点を過ぎれば、国道134号線も流れはマシになります。
しかし。
しかし、駄菓子菓子。
金曜だからかも知れないけど、サンデードライバーな感じの横浜ナンバーの車がまぁゆっくりと前を走るんですな。
ようやく流れる、と思ったらこんな状態(^^;)
ヨットハーバーとか週末の別荘に行きはるんかなぁ
こればっかりは運が悪いと諦めるしかないけど、日没が迫ってきて、気ばかりがあせる・・・

三浦半島を南下して、寄ったのは新井城と三浦道寸の墓。
新井城址碑と道寸の墓は前に載せてあるので、城の遺構を。



東大の地殻変動観測所の敷地に明確に残っている空堀。
調べてみると、期間を決めて見学会のようなものがあるらしい。
普段は立入禁止です。

油壺からは、もう少し半島の先に行き、ジェットコースターみたいで楽しい城ヶ島大橋を渡って城ヶ島へ。
城ヶ島灯台と安房崎灯台を見学です。
続いて三浦半島に戻り、剱崎。
この灯台の近くまで行ってしまうと駐車するところが無いし、道も狭い。
何となくふら~っと灯台の近くまで行ってしまったけど、車で来たらやばかった(^^;)
剱崎の次は観音崎。
浦賀城や衣笠城にも行きたかったけど、浦賀手前で完全に陽が沈んだので断念。
なんとか観音崎だけはと、観音崎に行ってみたら、なんとか肉眼では灯台を見ることが出来ました(^^)
案内板は光を当てないと読めなかったけどねっ!
写真は案の定、ほぼ黒一色・・・
これら灯台の写真はこちらで。


先っぽにきたら必ず灯台。
灯台マニアではないけど、灯台に行くと行った感が出る(^^)
この日は、城巡りよりも灯台巡りを優先した感じ。
浦賀と言えばペリーだけに、またそぞろ歩きに来たいですな。
その時には、三浦氏所縁の衣笠城や、水軍監視城だった浦賀城へも行きたいっすね(^^)


参考:
江ノ島
稲村ヶ崎
三浦道寸墓
新井城
城ヶ島大橋
城ヶ島
安房崎
剱崎
観音崎

上記地図付きはこちら

2013年12月20日金曜日

「反論指南書」って

数日前の毎日新聞に、自民党が特定秘密保護法案の「反論指南書」を作成していたという記事が載っていました。

ん?
反論指南書?
これって解り易く言えばQ&Aじゃないん?
新聞テレビといったマスメディアの報道に対する回答なのに、取り上げ方が恣意的過ぎるな~
答えなかったら答えないで、沈黙してるって叩くくせに(笑)
こんなん作ってる!ってヒステリックな反応じゃなくて、その回答に対して理論的に更に反論するというのなら解るんやけどね・・・
それにこの記事、有識者の意見として指南書に反対する人の意見しか載せていない。
社説ならともかく、時事ニュースの報道というのは公正中立が建前なのにね。

そろそろ新聞やテレビは、この公正中立という変な建前を捨てるべきだと思うんですがね。
つまり、言論機関になったらいい。
マスメディアが支持を明確にして悪いことは無い。
アメリカの3大ネットワークも支持を明確にするし、その立場で報道する。
それでいいと思うんですがね。
変に建前だけ公正中立で、中身は偏りまくってるなんて、そんな欺瞞はもういいと思うんです。
特定秘密保護法に関する報道を見ていて、特に思いますな。


この特定秘密保護法、人によって支持不支持はあると思います。
しかし、マスメディアがよく使う「世界各国では」という言葉で考えてみると、あって当然の法律です。
少なくとも、映像隠しをやって沖縄の一検事が船長の処遇を政治判断する、という訳の分からん処理をした民主党は、反対する権利なんて無いはずですわな。
どこの国にだって公に出来ない情報はあるし、それを持ち出そうとすれば罰せられます。
アメリカがアサンジ氏を血眼で追い回したように。
日本にも公務員法はありますが、情報管理が省ごとになりがちですし、その基準も曖昧。
なんで総合的な運用ができるように、というのもこの保護法の趣旨のひとつでもあります。

CIAが一時期、産業スパイのようなことをしていたり、中国に対する秘密漏洩事件てのはググれば何件も起きてるのが分かるように、国と国との情報戦は、それはもうエグいものですわ。
それなのに、ソ連のベレンコ中尉亡命事件のように戦闘機が来てるのに自衛隊ではなく何故か警察が対応したような、宇出津事件や西新井事件で北朝鮮工作員を処罰できていない顛末といったような、平和ボケの対応、チグハグな対応と、同じにおいが報道からは漂ってきます。
言葉ではうまく説明できませんが、頭で考えた理想世界と、現実との乖離についていけてない、そんな気持ち悪い感じ。
少なくとも、上のような事件の場合でも、危機管理において統一的な対応の根拠となる法律、というのは法治国家においては非常に大事ですわな。


新聞の話に戻りますが、各新聞、こういう場合に罰せられる、と挙げた事例がこれまた酷い。
特定秘密保護云々の前に、ほとんどただの守秘義務違反ですやん、というのばっかり。
今や民間でもISOや企業統制、個人情報保護なんかで情報管理は徹底されてきてます。
そんな風潮の中で働いてる社会人からすると、もうレベルが低すぎて呆れますわ・・・
ええなぁ~
こんな記事書いてても、平均年収の遥か上の給料を貰えるんやから羨ましい(> <)
 

2013年12月18日水曜日

相模・伊豆ツーリング(箱根春編) その2

前回のあらすじ。

プロローグで450km走ったった!御殿場に着いたった!


御殿場I.C.を降り、何かご飯を掻き込める所はないかなと見ながら、向かう先は深沢城。
ここは武田信玄と北条家臣北条綱成の攻防が有名な城で、東駿の要衝です。
箱根の北側から平野部へ出たところにあり、ここを押さえておけば西の駿河、甲斐、反対方向の東の相模にも睨みの利く城。
信玄自らが攻略し、北条氏康も家中随一の猛将であった綱成を据えたという事実からしても、城の重要性というのが解ります。

現在の深沢城は開墾されて田園となっていますが、現地を訪れると城の痕跡がいたるところにあり、散策が楽しい城ですな。
縄張はこんな感じ。
見やすいようにちょっとコントラストを上げてみました。



三日月堀なんかも見所ですけど、個人的には特に川が迫ってる本丸の辺りが前線の城らしくて良かったな~
これは本丸袖郭のところで、この奥側、ちょっと石垣のようになってる所が川です。
この川が本丸の縁ををぐりんと廻って流れてて、この袖郭の下でヘアピン状になってます。
なかなか高低の妙がある場所ですな。



それから、写真は無いんですけど、三ノ丸の東南側に農家がありまして、ここも良かったな~
この農家のエントランス部分がまるまま土橋と空堀!
空堀は深沢城のものをそのまま使い、土橋は後付けか往時のものを太くしたのかは不明ですが、形は城門の構造そのままです。
見る人が見たら、これは家じゃなくて居館だ!と言いそうなぐらいで、羨ましかった(^^)


深沢城の後は山北の河村城へ向かうんですが、すでに深沢城の辺りで飯屋なんて皆無・・・
どこかドライブインみたいなところでも無いかなと思いながら走ってみましたが、国道246号線は山道なのに意外と流れが良くて止まるのもなんだかもったいない。
まぁ、コンビニはあっても適当な飯屋なんてのは無かったんですがね。
そうこうしているうちに河村城へ到着。
この河村城の駐車場には、自分の他にiQという小さい車が止まってました。
駐車場があるとは限らない、狭路があるかもしれない、迷ってUターンなんてのもしばしば、というお城巡りにはこんな車が最適かもしれへんな~と思いいつつ、空腹のまま2城目に突撃です。

この河村城、城郭構造物のデパートみたいな山中城や、絶景の足柄城に比べればマイナーですが、箱根近辺の城らしく構造物が豊富で、それがまたよく残り、整備もされています。
畝堀や大堀切、広々とした削平地など、城としてはかなり面白かった。
下はアップダウンのある畝堀。
畝っぷりが分かります?



蔵郭と近藤郭の間の堀切はかなり巨大。
高さ10mぐらいある感じ。
底部には畝の痕跡がちゃんとあって、ちょっと芝生が剥げてるけど、そこを含めて整備されています。



まだ、城全体としては整備途中の工事中の部分がありますが、それが終わったら訪れ易くてかなり見所のある城になりそうですな。


つづく


参考:
深沢城
河村城

上記地図付きはこちらから
静岡県
神奈川県

2013年12月14日土曜日

相模・伊豆ツーリング(箱根春編) その1

バイクや雑感の防備録的な目的で始めたこのブログ。
なんだかんだと旅行記なんかが増えてきました。
当初の目的とは違う方向に進んできた感じはありますが、まぁいいか、ということで、ツーリングの日記もここに記そうかと思う所存であります。
古い日記はMottyの旅日記にありますけど、日記部分だけ移籍ということで。

前説はさて置き、この春、相模と伊豆に行ってきました!って以前写真だけアップしてたやつなので改めて宣言するのもなんですがね。
また、年末に書いてるのがなんか微妙。
この寒い頃に、ぼちぼち暑くなってきたきたかなって頃の事を思い出しながら書いてるのがねぇ(笑)


出発は5/17の金曜日。
高速の早朝割引を使うべく朝6時までに名神高速西宮JCT通過を目標として、5時30分の少し前に出発。
これは去年秋の山梨行きでも使った作戦。
早起きに慣れてきてるのは年寄りになった証拠か(笑)
慣らしがまだ終わりきっていないので、回転数を気にしながらの行軍です。
納車後すぐはわざわざ市街地を走って、下のギアからちゃん慣らしてきたから、それほど神経質にならんでいいと思うけど、まぁ念の為。
なんとか滑り込みで名神高速に入り、大阪のラッシュを前に吹田S.A.で1回目の休憩です。

吹田S.A.からは、交通量がぐっと増えてきた茨城高槻を通過し、天王山トンネルをくぐって京滋バイパスへ。
さすがの京滋バイパスも、この時間は交通量が多い。
草津で一旦名神に戻って新名神に入り、一路四日市へ。
新名神はバイクで初めて走るけど、なかなか視界が広くて良い道ですな。
ただ、標高が高いのか妙に風が冷たい。
帰りに陽が暮れてたら、結構頑張らないとアカンかも・・・

しばらく走り、新名神土山S.A.で休憩。
うどんと白飯を食す。
大阪京都を越え、名古屋圏を控えて休憩ってのは山梨行きと同じやな(笑)
多分名古屋圏を越えたら、同じようにまた休憩するんやろうね。
場合によっては仮眠、と(^^;)

新名神からは四日市で東名阪に入り伊勢湾岸道を通って東名へ。
幸いにも名古屋圏で渋滞には引っ掛からず。
赤塚P.A.で予想通りの休憩(笑)
少し眠くなったのでベンチで横になったけど、仮眠は出来ず。
ここは散歩道があるから意外と人通りが多いので落ち着かない(^^;)

赤塚P.A.からしばらく走って、いよいよ新東名へ。
今回は、新名神、新東名の新しい高速を走ってみるのも目的のひとつです。
いや~道が広いっすね~
噂の猪瀬ポールもしっかり確認(笑)
しかし、視界が広くて車幅も広くて、体感速度が恐ろしく遅くなりますな。
トンネルもLED照明でトンネルらしくなく、なんだか山奥の落石避けの川側が開いている半トンネルみたいで、おかしな感じです。
そして静岡S.A.で休憩&しばし仮眠。
勢いでここでしか売ってないとポップが出てたタミヤTシャツを購入(^^)
後日、このネタを話すと、他でも見たという目撃談が複数出て、ダマサレタ~となったわけですが・・・
それはさて置き、静岡広し!
なんか名前、そう、藤岡弘みたい(笑)
新潟や岩手も広いと思ったけど、それに匹敵しますな。

静岡S.A.を出ると、いよいよ富士山が眼前に!
テンションMAX!
いや~やっぱり日本人は富士山見るとテンション上がりますな~
富士山よ!私は帰ってきた!
とか、
フッ!ジッ!サ~ン!フッ!ジッ!サ~ン!高いぞ高いぞフッ!ジッ!サ~ン!
とか、メットの中で言いたい放題です。
元ネタが分かる人がいるのか?というのはさて置き、裾野市辺りの景色は抜群ですな。
この景色はここでしか見られない!
走行中は写真が撮れないのが非常に残念です(> <)
そうこうしている内に御殿場に到着。
いよいよ今回のツーリングの本格的な始まりです!
プロローグ長っ!


つづく



2013年12月6日金曜日

新車祝いプチツー

前出の友人が、ついにシグナスを購入。
ということで、新車祝いに軽くツーリングへ。

ルートは、
自宅 → 衝原湖 → 淡河で豊助饅頭 → 帰宅
という2時間程度のコース。

出だしは順調。
後ろを気にしながら走ってみるが、多少の峠道でも大丈夫な様子。
事前に、事故の原因になるから置いていかれても自分のペースは絶対守りよ、とは言っておいたので、無理もしてないと思われる。

衝原湖で一旦休憩。
コーヒーで祝いの乾杯。
そして小便という冬のライダー黄金コース(笑)
ちみなに衝原湖はほぼ満水の様子。
渇水時に、湖底に沈んだかつての集落辺りを散歩したのが懐かしい。

衝原湖から、国道428号線で峠を越えて淡河へ。
ハーレー集団の後ろになったが、ハーレーってどれもこれも爆音よなぁ
お陰で自分のバイクのエンジン音が聞こえない。
姫路から来た集団だったみたいやけど、珍しく女の人が3人もいて、ちゃんと千鳥の隊列もできてたし、統制が取れてたね。
ベテランの人がリーダーなんやろな。

こそっと成りすましてた大集団ツーリング態勢から離脱し、道の駅淡河でトイレ休憩(笑)したが、この道の駅も知らん間にえらい繁盛してるなぁ
昔来た時は駐車場もスカスカやったのに、この日は満車。
色々と工夫してるようで。

豊助饅頭を購入して帰る途中、ツレが見たい場所があるとのことで、急遽ルートを変更してツレの先導に。
しかし、信号置いてけぼり、急に右折なんざ当たり前。
更に原付感覚で急にUターンするんやもん。
びっくりやわ(^^;)
思わず三村的に、
「ここでかよ!」
ってメットの中で言ってもたわ(笑)

ツレの先導で迷いながら紆余曲折を経て、明石海峡大橋と淡路島が見える場所を走り、ようやく地元へ。
そして、解散前に少し説教(笑)
しかし、マスツーなんて何年振りや?
気を使いながらも楽しかった(^^)

2013年12月2日月曜日

バーモンドファミリーウォーク2013

23日の勤労感謝の日に、バーモンドファミリーウォークというイベントに参加して、姫路の街を練り歩いてきました。

学生時代によく来た姫路。
改めて歩いて見て回るのもまた良し。

集合場所兼スタートは、しろとぴあ記念公園。
お城の裏側の公園です。



姫路城はまだ補修工事が終わってないけど、北側から見ることもあまり無いので新鮮ですな。
見上げると、城壁と多聞櫓がより重層的な景観を作り出していて威容があります。
この石垣を登って力攻めしろと言われたら嫌すぎるな(笑)
石垣も城壁も多聞もまるで壁のよう。



城の北西の清水門を出て、千姫の小径という、船場川と堀の間の道を歩いて城外へ。
姫路バイパスから書写山へと向かうときに通る名古山トンネルのある、名古山の手前で南に折れます。
そして、本徳寺の巨大なお堂を見つつ大通り横の路地を辿って南へ南へと進み、途中から県道62号線の大きな道を南下していきます。
この道沿いには、左手に今時の郊外モールであるイオンタウンがあるかと思えば、右手には姫路モノレールの軌道跡が朽ちつつも立っていて、新旧混在の面白さがありますな。
ここまでくれば前半戦もほぼ終わり、しばらく歩くと手柄山公園に到着です。



上は昼食を摂った庭園。
このすぐ横に、例の軌道を走ってたモノレールの車両が展示されてます。
懐かしき昭和のかほり。
いや、リアルタイムで見てたわけじゃないんやけどね(笑)

午後は手柄山から外堀川に出てひたすら北上。



元外堀だけあってひたすら真っ直ぐな川です。
川には鯉も泳いでて、もうちょっと水藻とかを綺麗にすれば、かなり景色や情緒を楽しめる散歩道になりそう。
裏を返せば、藻が繁茂して澱んでるってことやけどね(^^;)
ただ、澱ませておくにはもったいない雰囲気がある。

更に北上していくと、JRのガードをくぐって再びお城へ。
JRが高架化されてから初めて駅の周辺を歩いたけど、駅の周辺は、もはや学生時代の頃の面影が無いなぁ
商店街の方はまだまだ懐かしい雰囲気が残ってる(^^)

そうこうしているうちに、お城までもうすぐの所にある総社門跡。



総社門は中郭の南側にあった門で、現在の国道2号線の場所にあった中堀に面した門でした。
現在の町名などから見ると、中郭までが武家屋敷で、この総社門と中堀の外、つまり外郭が町人町のようです。
上級家臣の屋敷は、城によっては防衛拠点として設計されていることもあり、武家屋敷の範囲は、大きく見れば軍事拠点としての城の範囲です。
町人町は、商業都市としての城の中核部分なのは言わずもがな。
戦国末期に発達した惣構によって、日本の城も中国の城塞都市のように城と城下町全体を囲むようになりましたが、この総社門と中堀は、姫路城における実質的な城と城下町の境目なんですね。

ここからしばらく歩くとゴール!
帰りには、予想通りハウス食品の数々のお土産が。
これは、嬉しい(^^)
来週中にカレーが出てくるのは間違いないな(笑)


2013年11月26日火曜日

大返し飯

このブログ最初のコメントが、西播磨観光協議会からのコメントだったわけですが、お誘いいただいたブロガーツアーは、ツアー予定日に私用があって申し込めませんでした。
23日の勤労感謝の日のバーモンドファミリーウォークなるものに当選した為、23日を空けるべく17日に私用を入れたんですが、それが仇となってしまうとは・・・
ウォーキングイベントは姫路なので、西播磨観光協議会の趣旨には合う?
合うなら次回のウォーキングイベントのブログで勘弁してもらいますか(^^;)

こんな過疎ブログにコメントしていただいたのに申し訳ないなぁと思いつつ、ツアーの予定表を見ると、姫路、龍野の観光がメインだったようですね。
姫路や龍野はもう何回も行ってるのでヨシとして、気になるのは昼食の「大返し飯」・・・
大返し飯だと?
まさか・・・大返しの時の飯を再現したのか?
んなわけない(笑)
握り飯とお茶という、日の丸弁当に匹敵する昼食では半分罰ゲームや・・・
当時の武士のご飯を再現したものなら食べてみたいんですが、残念ながらちょっとググった程度では出てこなかった。

この昼食のモチーフとなった秀吉の大返し。
結構謎に包まれてます。
現在の自衛隊が武器を装備した状態で再現しても出来ないとかなんとか。
まぁ移動手段が足だった時代、江戸時代でも普通の人は1日10時間40kmを歩いたといいますから、頑強な兵士なら可能なのかも知れません。
沿道の農民に炊き出しをさせる、足の速い部隊を先に出して行軍の渋滞を避けつつ後続部隊の為の準備をさせる、なんかの工夫はもちろん有ったはずですけどね。

秀吉は、過去の奇策を何回か用いるということをしており、墨俣一夜城を成功体験に九州の益富城や小田原の石垣山城で一夜城を演出しています。
そして、この大返しも、賤ヶ岳の合戦の際に岐阜から賤ヶ岳まで軍を戻した時に使っており、佐久間盛政を慌てさせて序盤の優勢を得ています。
どちらも、事前準備をきっちりやって電光石火に実行、というのは同じで、秀吉の管理能力の凄さが解る事跡ですね。

2013年11月19日火曜日

民間議員

昨日、楽天の三木谷社長が産業競争力会議の民間議員の辞意を撤回するという記事がありました。
この辺りの事情は、

三木谷さん 「医薬品のネット販売全面解禁を!」
政府     「う~ん、やっぱ一部規制するわ・・・」
三木谷さん 「もう民間議員辞めるわ(怒) あと、ケンコーコムと共闘して裁判するで」

という流れがあって、首相が慰留した結果の辞意撤回です。

まぁなんと言うか、ちょっと違和感がありますな。
民間の有能な人間を会議に招聘するのはもちろんいいのですが、様々な議題の中で利害関係者となる議題に関しては参加すべきでないように思います。
傍から見れば、民間議員という立場を利用した、ただのごり押しにしか見えませんし、そういう利害関係者が参加した会議の結論はどうも中立性というのに疑いの目を向けざるを得ない。
しかも反対するだけならまだしも、訴訟をチラつかせるとか、ちょっとやり方があくどい。

ネット通販は非常に便利かつ合理的で、これからもどんどん拡がっていくのは間違いないと思われます。
合理性が無いのなら問題外ですが、そういう機能的な裏付けがあるのだから、もっと正攻法で行ってもらたいですな。
合理的なものには世論の後押しがあるんやから。

2013年11月18日月曜日

バブル後の対応

近頃、また株価がやや乱高下の気配を見せていますな。
為替、株、共に少し動きが荒い。
金融危機の出口理論とリンクして、思惑が交錯しているようで。

バブルとバブルの崩壊というのは、グリーンスパン元FRB議長も書いてましたが、それ自体は避けるのが非常に難しく、大事なのは事後処理といわれています。
日本では90年代のバブルの崩壊が象徴ですが、直近ではアメリカのサブプライム問題もバブル崩壊ですね。
2006年頃から、すでに崩壊は近いんじゃないかとネットではちらほら言われていました。
このサブプライム問題でFRBの舵を取ったのがバーナンキ議長で、この人はヘリコプターベンという異名を持っています。
なぜそんな異名なのか?

バーナンキ元議長の師匠はフリードマンという学者で、バーナンキもフリードマンも世界恐慌の研究者です。
で、その論はというと、おおまかには、世界恐慌の時にはもっとお札を刷って供給すべきだった、という理論。
この理論に基づき、バーナンキはある席で、恐慌になりそうだったらヘリコプターからお札をばら撒けばいいと言ったとされています。
ここから、ヘリコプターという冠を名前に付けられることに(笑)
実際、サブプライム問題以降のアメリカの金融政策は、QEという量的緩和を推し進めており、その政策はFRB議長だったバーナンキ元議長が主導しました。

日本はバブル崩壊時にどういう対策を行ったかと言うと、簡略的に言えば、財政政策が主ですね。
ハコモノ行政だのなんだのと言われて評判の悪い公共事業です。
ただ、投資としては乗数効果、つまり投資した何倍の国民所得が得られるかという数字が高く、悪い選択ではありません。
日本人の国民性からして、直接給付金としてばら撒いたのに貯め込まれるよりは遥かにマシです。
ただ、それに頼りすぎたきらいはあります。
また、色々批判されたのは、政治的な絡みも多かったようにも思います。

財政と金融。
経済学の素人である自分には、なかなか理解するのも難しいですが、バブルで上がりすぎた不動産や株に対し、アメリカはサブプライム問題でお札の価値を減らして物価などを上げるという金融中心の政策を採り、日本は実体経済を底上げしようと財政中心の政策を採った、というところでしょうか。
上がりすぎた値は、適正価格まで崩れるのが摂理。
崩れれば、その差額が不良債権となります。
逆資産効果という言葉もありますが、売却損や含み損は個人消費などを冷え込ませてしまいます。
その適正価格を、貨幣の希薄化でバブルの基準近くまで上げようとしたアメリカ、実体経済の底上げで値を支えようとした日本。
端的に言えば、こんな感じですかね。
バブルの頃に株に投資していた日本人はそう多くは無く、アメリカでは一般の人々が単純な投資以外でも個人年金などで突っ込んでるという場合も多い、という違いもあります。

財政と金融のバランスというのは難しいはずなんですけど、アメリカがこの年月で回復の道筋が見えるところまで漕ぎつけていることを考えると、それなりに最善に近い政策を打って来れたのではないかと感じます。
ただ、時間は不可逆で、違う方法を試すことは不可能であり、最善だったかどうかは不明です。
未だに金融危機を先延ばしして揉めている欧州なんかを見ると、震源地のくせにさすがだなと思わずにはおれません。
日本は前例が少ないというハンデがあったにせよ、バブルの後処理に関しては、金融の経験も知識も豊富だったアメリカが日本や欧州よりも優秀ですな。

2013年11月11日月曜日

魚住泊

先日、神戸新聞に明石市魚住の湊の遺物の年代が確定したというニュースが載ってました。

魚住、そう魚住。
個人的には非常に馴染みの深い場所ですな(笑)
なぜ馴染みが深いのかは置いておくとして、ぶっちゃけ、田舎です。
正確にカテゴライズするなら、郊外。
まぁ魚住という言葉から判るように、かつての中心部は海沿いだったんでしょう。
今はJR魚住駅が中心ですけどね。
そのかつての中心だったと思われる魚住の海沿いというのは、旧山陽道の町並みなんかも残ってて、ぶらっと散歩したりサイクリングしたりするのにかなり良いです。

そこに湊があったなんていうのは、自分も魚住城について調べて初めて知りました。
それぐらい、過去に湊があったという面影がない。
でも古代には確かに魚住泊という湊がありました。
この湊を開いたのは、あの有名な行基。
この人、大層な土木家で、全国各地、池を造るわ湊を造るわ寺を造るわ、探せば恐ろしいほどの伝説が出てくるという奈良時代の土木王。
いや、王と言っても鉄鋼王や石油王というような金持ちじゃないんですけどね(笑)
常にボランティア。
さすが坊主!現代の生臭坊主は見習いやがれ!
・・・という鬱憤はさて置き、行基が開いた摂播五泊というのがありまして、そのひとつが魚住泊なんですな。
東から並べてみると、河尻泊、大和田泊、魚住泊、韓泊、室生泊。
現在の地名に直すと、神崎川河口、兵庫港、魚住、姫路的形、室津です。
並べると、その後の格差が酷い・・・
神崎川河口部は言わば尼崎で、大物なんかも含まれます。
「オオモノ」じゃなく「ダイモツ」。
両細川の乱が終結した大物崩れと言うのが有名ですけど、その頃も大きな港湾都市で、今も尼崎の工業地帯として名残を留めてます。
大和田泊は兵庫津、今の兵庫港で、古代から中世にかけても日本有力な港湾都市でした。今も三菱重工、川崎重工のある船の町です。ただ、造船は昔に比べればちょっと勢いが無いですけど・・・
この2つが古代から現代までの現役組ですな。
次が近世まで栄えてた室津と韓泊。
平清盛の大河ドラマでも出てきてましたが、戦国時代には浦上氏の拠点があり、江戸時代にも繁栄してました。
韓泊も瀬戸内の重要な港で、鎌倉時代には兵庫に劣らず繁栄していたという記録が残ってます。
ただ、この2港は山がせり出して風避けになる天然の良港ではあるけど、規模が小さく、後背の平野が少ないという共通点があります。
近代の陸上交通の発達は平野部が有利となり、大規模輸送を可能とした物流手段の進化は船の優位性を奪いました。
こうして近代化に取り残され、いまは鄙びた町になっています。
正確に言えば、隣接する相生港や姫路港にそれぞれ吸われたんでしょうな。
鉄道と接続できない港は栄えることが出来なかった、と。
とは言っても、室津なんかはその頃の遺産で観光地化できてますけどね。

翻って魚住。
嗚呼魚住。
平安時代までの記録はあるけど、そこからが不明瞭・・・
戦国時代には魚住城があり、赤松さんの分家の小寺さんの、そのまた分家の魚住さんが住んでいました。
秀吉が三木城を攻めた時、魚住城に荷揚げされた兵糧が運ばれた話は有名で、三木城の有力な補給線のひとつでした。
包囲する秀吉軍から三木城の新鮮な明石鯛が見えた、なんて話もあります。
ただ、荷揚げということは、港湾施設はなんとかあったようだけど、物流でどの程度の重要性があったかというと、不明としか言いようが無い。
古代に比べれば確実に寂れていたでしょう。
というわけで、摂播五泊の中で、一番早く寂れてしまったのは魚住なのでした。
個人的には好きな所やけど、湊としては需要が無かったな・・・
ちなみに、魚住さんのその後はというと、補給線潰しで数の暴力に曝され、あっけなく落城して滅んでしまいます。
しかししかし、家老だった卜部さんがほとぼりが冷めた江戸時代に魚住へ戻ってきて、酒造業を始めます。
これが今の江井ヶ島酒造の原点。
没落したと言っても酒造業なんか資本が要るから、ある程度の利権は手放さんで済んだんやろな~
この世渡り上手!

話を戻すと、魚住泊というのは地質的なものなのか、壊れ易かったらしく、幾度か修復の記録が残っています。
今回、年代が測定された木材は、港湾の堤防の基礎を構成した部材と見られ、人による加工が見られるもの。
この部材の年代が、10世紀初頭に伐られた木材ということが判明しました。
記録上では、延喜14年(914)に魚住泊の修復が論じられており、この時の修復材とするなら年代が合致します。
これが出土したのは赤根川の河口で、これにより魚住泊の場所もほぼ特定できたとのことです。
なるほど、魚住泊の直系子孫にあたるのは江井ヶ島港か。
しかし、普通の漁港で、
やっぱり面影なし!

2013年11月5日火曜日

江戸時代と米 その2

長くなってしまった前回の続きで徒然に。


江戸時代となり、合戦をすることが無くなると、各藩は余ったリソースを開拓開墾に向けました。
こうして江戸時代前期から中期にかけて猛烈な新田開発が進むんですな。
各藩は、合戦に備えた動員体制をスリム化せずに行政組織へと転じたわけですから、仕事を創るという公共事業的な側面もあったと思います。
また、米本位制の武家社会では、新田開拓は事業拡大ですから、米を払う藩政府側としては収入が増えてありがたいわけです。

大名家の石高は表高(オモテダカ)と呼ばれていました。
これは江戸時代初期の石高です。
現在で言うところの地価の評価額が近いかな。
大名の実際の収入はと言うと、実高(ジツダカ)や内高(ウチダカ)と呼ばれていました。
地価で言えば実勢価格というやつです。
各藩は新田開発をしていましたから、大抵は表高より実高のほうが多かったのですが、山間部の小藩などでは、実高のほうが低かったという場合もありました。
大藩では新田開発の規模も大きく、江戸時代末期には表高と実高が2倍以上も違う藩すらありました。
幕末の長州藩なんかはその典型で、それが志士の活動の経済的バックボーンになったといわれています。
それはさておき、時は大増産時代。
「米穀王に、俺はなる!」
と言った藩主がいたかどうかは知りませんが、各藩は増産で得た米をせっせと大坂の米市場に送って金銀を得ていました。

前回で、武家社会は米本位制と言いましたが、商人の世界は違ってました。
商人の世界では、関西は銀中心、関東は金が中心の金銀本位制でした。
当然、米を給料としてもらう武士は、生活していく上で金銀を基にした貨幣に交換しなくてはなりません。
時は大増産時代。
「米k・・・(略)」
大坂の米相場に大量の米が送り込まれる時代になると、人口も増えたとは言え、供給が多いわけですから値崩れが起こります。
すると武士が手にする実質的な賃金は少なくなってしまいます。
これが江戸時代の貧乏武士形成の一端でした。
根本的には、市場経済や貨幣経済の発達で、一次産品である米本位制より金銀本位制が有利になったいったというのもあるんですがね。

江戸時代というのは、武士という支配者層の比率が高い時代でした。
そして、その生活はというと、被支配者層とあまり変わらない生活で、零細武家では内職や畑仕事というのが当たり前。
お金で威張れないから、名誉と誇りを重んじる。まさに、「武士は喰わねど高楊枝」。
江戸時代に完成した武士道という価値観には、こんな側面もあるわけです。
ヨーロッパの騎士道は、ナイトという領主層、言わば富裕者に課せられる義務のという側面があり、その名残がある欧米では、今でも富める者は寄付をして当たり前というような習慣があります。
金持ちなんだからそれなりの規律と社会貢献が求められる、と。
しかし、武士道では富裕でもない者にも規律や誇りが求められました。
そして、失敗や粗相をすけば切腹など、高潔な命をもって贖う。
こういう支配体制っていうのは、世界的に見てもかなり珍しいんじゃないんでしょうかね。
実際の経済的見返りが少ないのに、責任はとんでもなく重大なのです。
中には、やってらんねぇと武士を廃業する人も結構いたんですがね(笑)
経済体制を見ても、江戸時代は、米本位制と金銀本位制の2本立て、場合によっちゃ関東と関西での金本位制と銀本位制の並立を入れて3本立と考えることも可能で、江戸時代というのは色々面白い時代ですな~

2013年10月31日木曜日

江戸時代と米 その1

今回は江戸時代の米について、少し思い付いたことを徒然に。


江戸時代の武士というのは、給料が米でした。
大名の家格も米。
米以外では、国持ち大名とか血筋の良い高家なんていう家格もありましたが、加賀100万石と言われたように基本は米。
まだ歴史に無知だった昔は、何万石というのは面積だと思ってたっけ。
小学生か中学生ぐらいの頃は。
しかし、石高というのは収穫高で、要は経済力の指標ですな。
俺んちは年間これだけの米が入ってくるんだぜ!という数字。
今で言う、年商何億円とか何十億円というのが感覚的に近いかもしれません。
なので、「三日月のまるくなるまで南部領」といわれた南部藩が10万石だったりします。
1800万石とも2000万石とも言われる全国の総石高の中で、岩手県程度の大きさがあったのにたった10万石。
さらに北海道松前の松前藩は無高!
石高無しです。
無高で1万石格とか3万石格として大名待遇でした。
北の地は寒冷地で、米の品種改良が進んでいたとは言え、石高ではやっぱり厳しい(^^;)
稲ってのは、もともと中国江南からベトナムにかけての暑い地方が原産やからねぇ

このように江戸時代の武士社会は米が中心、いわば米本位制だったわけです。
そんなわけで江戸時代初期の石高が、その後の身分社会の基準でした。
そしてこれは世襲されるわけです。
各藩はいわば会社で、社長も専務も常務も平社員もみな世襲。
そしてその社員の格が何石とか何俵とかの禄でした。
日本全体で見れば、いわば各藩は江戸幕府HDのグループ会社という感じで、江戸幕府はある程度の指針を示しますが、各会社の経営は各会社の社長や取締役会に完全に任されていました。
あまりに借金が膨らんだ場合や、取締役会のゴタゴタ、一揆を起こされるなど経営がうまく行ってない会社は、親会社の命令で取り潰されたりもしましたがね。
そして、有能、もしくは政治道楽が好きな子会社の社長は、藩主という立場を持ちながら、江戸幕府HDの取締役会に大老や老中などという立場で参画していました。
この辺りは珍しく世襲でない実力部分ですかね。
世襲ばっかりじゃ低位安定はしますが、やっぱり全体の指針を決める根幹部分は実力主義でないと回らないようです。
ぶっちゃけて言えば、大組織の幹部が自分の持つ組の組長でもあるという、ヤクザの組織がもっと近いかも・・・

まぁそんなこんなで石高というのが大事な身分社会だったわけです。
と言っても身分社会が厳密だったかと言えばそうではなく、農家の次男三男が丁稚奉公で商家に入り、商人になるという例もあったし、職人になる例もありました。
幕臣の勝海舟の先祖はもともと農家で、御家人の株を買って幕臣になったという家です。
意外と緩やかなんですな(笑)


なんか米の話が社会制度の話になってしまった(笑)
では改めて米の話は次回に。

2013年10月24日木曜日

付き添い

友人が原付二種のバイクを買うらしい。
そういえば数年前に二輪の免許を取ってたが、バイクを買ったという話は聞かなかった。
で、色々相談された。
そして、今週日曜には付き添いでバイク屋さんへ。
お決まりのコースやな(^^;)
これがかわいいお姉さんならテンションも上がるんやけど(笑)

しかし、原付二種って、車の保険のファミリー特約で任意保険はカバーできるし、30km/h制限無いから流れに乗ってるのにお巡りさんのお世話になるなんてこともないし、税金も安いし、取り回しも楽。
長距離さえ走らなければ、いいとこ取りなバイクですな。

候補は、DIO、シグナス、リードの3車種らしい。
PCXは?と聞いたら、車体が大きいのと値段が高いからダメとのこと。
タイヤがデカいし、一番安定感があると思うんやけどな~

まぁ何にしろ、どれにするか迷ってる時期が一番楽しいかも(笑)

2013年10月17日木曜日

歴史的誤変換

大仰な題名ですが、何のことは無い、単なる誤変換のお話です。

歴史に関する文章をパソコンで書いていると、学習機能が勝手にバンバン歴史的な語句に誤変換しよる。
この一文でも、「文章」の第一候補が「文正」と出てきたり。
ちなみに文正とは、応仁の乱が起こった応仁年間の前の元号。

そのほかでは、

呪文の「詠唱」が「永正」に!
永正って細川政元が暗殺されて永正の錯乱が起きたり、関東で上杉同士の戦いである永正の乱が起きたりと、戦国史では熱い時代。考えると両方とも管領の家柄。永正の錯乱は両細川の乱とも呼ばれるから、関東も両上杉の乱とかにしてしまえば解り易いのに(笑)

「高福祉」が「降伏し」に!
割とメジャーな誤変換。お城の紹介をしているサイトでも、時々「降伏し」が「高福祉」に誤記されてたりする。これは逆バージョンやけど。

「灯台」が「当代」に!
ツーリングで岬を回ると直後にバンバン出てくる(笑)

「交渉」が「康正」に!
康正は応仁の乱の10年ほど前の元号。ぼちぼち越前辺りが怪しくなって朝倉孝景が台頭してくる頃ですな。ちなみに、行賞は論功行賞で変換するから出てこないみたい。

「回線」が「会戦」に!
カイセンと読む熟語は多いけど、第一候補に会戦が出てくるのは軍事マニアか歴史マニアぐらい?

「口頭」が「皇統」に!
戦前は皇統っていっぱい使われてたんやろな~

「一気」が「一揆」に!
最近、イッキというファミコンのゲームのキャラがイケメンになってたのを見た(笑)

「元気」が「元亀」に!
戦国時代を象徴する元亀天正の元亀。年号としては4年までで短いのは意外。

「工事」が「弘治」に!
これも戦国時代の元号。元亀と同じく短い。織豊系はこの時代に種まきしてる話が多い。小説で言う伏線が張られた時代。

まだまだまだまだあるけど、取りあえずこんな感じで学習機能が染められてます(笑)
と、書く間にも「感じ」が「寛治」に!

2013年10月11日金曜日

箱にゴム足

春に完全体となったGIVI箱。



・・・は違う完全体か。
GIVI箱は、
http://oshiro-rider.blogspot.jp/2013/06/givi.html
が完全体の姿。
しかしながら、ちょっと気になるところがありまして。
箱を立てて置くと、下側の蝶番の部分が一番張り出してて、地面に当たります。

ん~
蝶番にはちょっと余分な負荷は掛けたくないな~
この蝶番からピンが脱落してパカーンと開きかけた、なんて同型箱のブログの記事を読むとなおさら。
まぁ外して立てる事は余り無いんですが、宿の駐車場がアスファルトだと、立てかけたままうっかり引きずってゴリゴリすり下ろす、なんてことも考えられるわけで。

そこでひと工夫。
箱に付いていた備品にこんなのがありました。



これはGIVI純正のトップ装着用のステーにはめるゴムのクッションです。
最初は用途が分からず、デイトナにわざわざ電話して聞きました(^^;)
これを、差し込む部分とクッション本体にカッターで切り分けます。



処理が甘いのは素人ならでは(笑)
それを箱の下に貼って出来上がり。



これで辛うじて蝶番は地面に付かなくなった(^^)
まぁデコボコが大きいと相変わらず付くんですがね・・・
トップケース使用時もゴム足はライダー側に来るので外観も損なわず。
安心して地面に置けるぜ!

2013年10月5日土曜日

ちょいと国盗り

先週、国盗り合戦という位置ゲーの夏の陣というキャンペーンの為に、ちょいと国盗りしてきました。

一応、候補にあったのは、
 ・ 伊丹城-池田城-亀山城-福知山城-黒井城
 ・ 姫路城-竹田城-福知山城-黒井城
の2通り。

でも、伊丹から篠山へ今年の春に慣らしで行ったし、数年前には尼崎城から伊丹城、池田城、亀山城ってまんまのルートを早朝突撃してるし、結局は姫路ルートへ。

姫路までバイパスで100円、そこから播但自動車道で北へ。
生野峠って楽しいのか行ってみるかという感じで神崎北I.C.で下りると、なんと出口はETC未対応・・・
料金所で止まってエンジン切ってシートのけてカード出して料金払ってカード仕舞ってシート戻してエンジン掛けて
って面倒臭いわ!
こんな小さなI.C.で誰も来ないだろうと思ってたら後ろから来た車が並ぶし、あせりますわ(汗)
しかも、こんな要らぬ苦労をして下りたというのに、生野峠は割とアップダウンがあるだけの普通の道だったり・・・
もっとグネグネ曲がっといてくれ~

気を取り直して竹田城へ、と思ったら、朝来手前の国道312号線では、多重の玉突き事故で一部通行止め。
うわ~、結構酷い事故やなと思いながら誘導されるがままに進むと、農道の交差点でトレーラーと大型トラックが睨み合い・・・
幹線国道から広くもない農道に誘導したらこうなりますわな(^^;)

そんなこんなで竹田城到着は8時半。
雲海目当ての人と、観光客の間隙を縫う為に8時過ぎを目標にしてたから、ほぼ予定通りなんですが、なんとこの時点で駐車場は30分待ち!
並ぶ事無くUターンして引き上げました・・・
20年近く前に初めて来た時には自分ともう一組ぐらいしかいないような山城やったのに、こんなことになるとは。
8年ぐらい前はガラガラで、3年ぐらい前はまだ駐車場は一杯でも待つことは無かったのに。
なんかマチュピチュ的なポスターも時々見かけるし、当分はこんな状態ですかね。
良さを知ってもらうのは嬉しいけど、のんびり過ごせなくなるのは複雑やなぁ

後は国道312号線から9号線へと行くだけで、お城には直接行かず、淡々と走り、近付いたら淡々と国盗り。
そして福知山城が取れたら国道429号線へ。
この道の青垣へ抜ける峠部分は酷道状態ですが、前のバイクの時はかなり嫌だったのに、このバイクになってから、こんな道がなんか楽しい(^^)
視界の良さとサスが長くて安定してるってのは偉大ですわ。
しかし、早朝に出て帰るまで6時間。
ほぼ乗り続けたらめっちゃケツが痛い(笑)
視界の良さがこんな所に影響を与えるなんて・・・

今回の国盗り、ガラケーの皆さんのお役に立って欲しいですな。
ツレも国盗りをやってて、ガラゲー位置ゲーもう無理ゲーなんて韻を踏んでましたが、スマホとは言え旧式3Gの自分も大して変わりない。
現地攻略とあいのりにもっと差をつけていいから、人数制限は緩和してほしいですな。
人数制限方式から、宣言から5分だけ無制限であいのりできるみたいな時間制限方式にするとか。
マイナーな場所のあいのり失敗をずっと続けてると、さすがに飽きがきますわ・・・


参考:
竹田城

上記地図付きはこちら

2013年9月29日日曜日

兵庫・ブロガー戦国トリップ 淡路冒険記!? その4

前回のあらすじ

台風一過の快晴になりつつあるとは言え、台風の影響は色濃く、私は倒木に敗れ去り、運転しながら酔うという失態を犯したのであった・・・


白巣城から引き返し、淡路島の島央部の道を南へと進むと、三原平野という所に出ます。
この三原平野というのは、古代から中世にかけては淡路島の中心で、国府が置かれていたほか、鎌倉時代から室町時代には守護所という守護大名の居館が置かれていました。
倒木に撥ね返された白巣城の次に向かうのは、この守護所です。
養宜館というのがその守護所で、淡路守護であった淡路細川氏の居城でした。
淡路細川氏というのは、管領を世襲して絶大な権力を誇った細川家の分家で、比較的早くに分かれた家です。
鎌倉時代の長沼氏の守護所ははっきりと確定していませんが、史料に細川氏が城に入ったという記述があることから、養宜館が鎌倉時代も守護所であったといわれています。
現在の状況はこんな感じ。



今でも土塁が東と北に残っており、居館らしさは健在。
もともと中世の居館というのは、館の四方に堀を掘り、出た土を掻き上げて土塁にする、というのが基本で、正方形や長方形が多く、非常にシンプルです。
これに出入口である虎口が進化して桝形や馬出というのが設置され、戦国時代の複雑な居館や平城へと変化していくわけですが、この養宜館はシンプルな時代に廃された為、そのような構造は持っていなかったようです。
北の土塁の外側には溝と土塁の間に水が溜まってましたが、昔の水堀の跡の証拠かな?
経験上、堀の跡ってのは親水性があって水が溜まり易いし。



養宜館の周りは田園地帯が続くばかりで何も無く、この何も無さが古城の趣を引き立てます。
そして、吹き返しの風が体を強めに撫でていくのですが、快晴の日差しがまだまだ強く、絶妙なバランスで気持ちよかった(^^)


養宜館の次は、道を西に辿って志知城に向かいます。
このお城に来るのは何年ぶりですかねぇ
そうこうしている内に志知に近付いてきたなと思ったら、大日川のところに志知城の案内板が。
こんなのは前に来たときは無かったはず。
少しずつではありますが、観光地として整備されている様子。
そして、その先には駐車場が完備されていた。
いや~前に来た時も車だったんで、止める場所を探してウロウロしたんですよ(^^;)
だから駐車場はかなりありがたい。

駐車場から、台風の影響で木材やらクッションやらが流れている大日川になんでクッションやねんとツッコミを入れつつ橋を渡り、川の土手から左斜め方向に進めばすぐに志知城です。



淡路には大きな城は洲本城ぐらいしかなく、お城にあまり詳しくない人でもお城とちゃんと分かるのは、志知城ぐらいじゃないですかね。
なぜなら、水堀がちゃんとした形で残っている城だから!
水堀があると俄然お城っぽくなりますな(^^)
ただ、城の内部に関しては肝心の本丸が藪ってます。
でも木や竹が切られて大分マシになった。
前に来た時は、本丸へ入るのが絶対不可能というぐらいの深い藪だった(^^;)
何もしなくてもお城っぽい雰囲気があるので、史跡公園として整備すれば、結構良い空間になる気がするんですがねぇ
ちょっともったいない。


志知城の次は、そのまま海まで西進して叶堂城です。
関東の古河城なんかが有名ですが、川沿いの城というのは、河川改修の犠牲になりやすい。
この叶堂城もそれら犠牲になった城のひとつで、遺構は消滅してますが、城址碑はあります。



また、城跡に建っていた感應寺という寺が改修時に東へ300m移転していますが、この寺の土台に野面積の石垣があります。
穴太衆による復元の碑が近くにあるので、寺の移転時に石垣も移転、復元されたようです。
叶堂城の規模からすると、300m東へ行くと城外で、城外にこんな城中が見渡せる高台があったと考えるのは不自然ですしね。
でも、十分に往時の雰囲気が漂ってます。
石垣というのは、時代を経るにつれて野面積から打ち込みハギ、切り込みハギへと進化し、見た目が綺麗になって行きます。
同じ淡路では、切り込みハギの城は江戸時代の洲本城(山麓の城)しかありません。
感應寺の土台を左、5年ほど前に撮った洲本城の参考写真を右にして並べてみました。



写真じゃ違いが分かりにくいですが、やはり野面積とは趣が違いますな。
野面積は武骨さがあって良い。切り込みハギはちょっとのっぺりした感がある。
洗練された美しさがあるのは切り込みハギですけど、野面積は野趣があって、城の軍事拠点という役割が強く出てる気がします。
対して切り込みハギは、行政拠点という感じですな。
また、切り込みハギは見た目は綺麗ですが、水捌けなんかは野面積のほうが優れいるらしいです。
石垣を見ながら、したり顔で写真を撮る・・・
一般人からすると、もはや変人の域(笑)
でも撮らずにはおられない!


帰りは淡路サンセットラインを通って岩屋城と松帆の郷へ。



サンセットラインで撮ったんですが、ちょっと夕日には早かったですな。
本当なら、バイクの影と夕日という構図で撮りたかったのに、台風め!
代役がオッサンですが、勘弁してつかぁさい・・・

この道は海岸線ですが、コーナーは少なく淡々と走れる道です。
所々小さな休憩ゾーンがあり、夕日が楽しめます。
一度、夕日が沈むまで見てた事もあったな~
その頃はまだフェリー時代で、帰りにめちゃめちゃ船待ちをした記憶があります。
懐かしい・・・


淡路サンセットラインの終点は国道28号線ですが、この境目のところの岩屋港の近くに絵島という島があり、その向かい側に岩屋城という城があります。
岩屋城と呼ばれる城は2つあり、こちらは丘陵の名を取って絵島ヶ丘城や三対山城とも呼ばれます。
お城の周囲はこんな感じで、漁師町の家々が並ぶ路地。



人ひとり通るのがちょうど良いぐらいの道幅で、かなり風情があります。
こういう散策もなかなか楽しい(^^)
結局、お城に入れそうな道は無かったんですがね。
そうやってブラブラ路地を歩いていると、後ろからバイクが・・・
路地の幅は1mあるか無いか程度。
シャシャっと教習所のクランク状態の道を通って家に帰って行かはりました。
いや~、そういう環境になれば順応するもんですな。
リッターオーバーのバイクなのに軽やかやった。


淡路の最終目的地は松帆の郷。
ちなみに、ここはもうひとつの岩屋城。
俎板(マナイタ)山や松尾山と呼ばれる山にあったので、俎板山城や松尾城という呼び名もあります。
しかし、大正時代からの砂利採取で遺構は綺麗さっぱり無くなってしまいました。
そして、その採取場跡地に建てられたのがこの松帆の郷。
美湯とビューが掛かってるように、ここはもう眺めが特急品です。
携帯カメラなんでそんなに綺麗ではないですけど、こんな感じです。
夕景と、



夜景。



露天風呂はもう最高!
3時間ぐらいぼ~っとできる自信があります(笑)
脱衣所でやたら黒い人が多いなと思ったら、サーファーの一団が入ってたらしい。
淡路に来たら入って帰るのもよく解りますわ。
景色としてはほんま最高です(^^)


旅行記を書くつもりが、何故か冒険記になった今回の旅ですが、最後ぐらいはなんとか旅行記になったかな?
しかし、今回は本当に・・・
 台風か
    ああ台風か
         台風め!
ですな!
いやはや、自然には勝てないというのを痛感した旅でした(^^;)


参考:
養宜館
志知城
叶堂城
淡路サンセットライン
絵島ヶ丘岩屋城
俎板山岩屋城
岩屋松帆温泉
明石海峡大橋

上記地図付きはこちら

2013年9月25日水曜日

兵庫・ブロガー戦国トリップ 淡路冒険記!? その3

前回のあらすじ

台風に翻弄された私は、その動揺からかブログに載せる料理の写真を撮る前に食してしまうという失態を犯し、失意のまま枕を濡らしつつ眠りに就いたのであった・・・


翌16日(月)の敬老の日。
台風も無事に過ぎ去り、今日は次第に天候が回復してくるとのこと。
ようやくちゃんと城めぐりができますかね

とりあえず、東浦花の湯の外観をパチリ



昨日は雨風で外に出ることすら叶わなかった・・・
少し濁りのあるお湯で、浴感も良かったです(^^)


まず目指すのは喫茶店のモーニング。
昔、泊りがけの仕事で淡路に来たことがあって、その時に食べたモーニングが忘れられません。
パンとコーヒーとサラダ。
メニューはごく普通のモーニング。
でも値段が尋常じゃなかった。
250円!!
えっ?にひゃくごじゅうえん?
思わず聞き返しましたわ(笑)
まだデフレの波が日本を覆う98年の消費税増税の少し前。
淡路って物価安いな!と思ったあの頃。
国道28号線沿いと、ランドマークになる観音様の近くだったという朧気な記憶しかない。
その頃にもうすでに結構年配のご夫婦がやっておられたので、もう廃業しはったんかなぁ
少し走ってみたけど、見つけられませんでした。
というわけで件の観音様の下の喫茶店でモーニングを頂きました



この観音様も色々と曰く付きで、地域の方に迷惑となっている様子。
写真でも十重の塔の屋根が一部飛んでる・・・
天気が良い日には須磨近辺や飛行機からも見えるほどの巨大さで、個人的には淡路のランドマークなんですが、うまく解決の話がまとまることを祈ります。
喫茶店のモーニングは、値段は普通だったけど、ベーコンエッグのソースがテリヤキ風味で美味しかった(^^)
うむ。
良い日になりそうだ。


次に向かったのが、たこせんべいの里。



ここはお土産リクエストにも上がるほどで、結構な人気スポットです。
内部はこんな感じで、各せんべいが試食でき、無料のコーヒーやお茶もあって、買ったその場で食べることができます。



この日は稼動してませんでしたが、平日には工場が稼動する様子も見学できます。



割と開店すぐの時間だったんですが、もうお客さんがたくさん来てました。
買い物に勤しむおばちゃんやお母さんと、コーヒーエリアでぐったりしてるおっちゃんや子供の世話をするお父さん。
ありがちなショッピングの光景がここでも展開されてる(笑)
ここでの戦利品は盛り合わせのこれ。



個別の品ではガーリックマヨネーズとたまねぎせんべい、梅小花がかなり自分好みで美味しかったっす(^^)


次に向かうのは伊弉諾(イザナギ)神宮。



伊弉諾神宮に祀られている伊弉諾尊は、解り易く言えばギリシャ神話でのゼウスで、創造神です。
神を創り、国土を創った伊弉諾尊は、やがてこの淡路の多賀の地に幽宮(カクリノミヤ)を構えて隠退したと古事記や日本書紀に書かれています。
そして、その子、天照大御神が皇室の祖神ということで、天皇家に繋がるわけですな。
伊弉諾神宮は、その幽宮の跡地とされる神陵の上に本殿が建てられています。
古事記や日本書紀といった記紀の記述通りなら2600年以上前、考古学上の史実年代でも1700年は下らないといったところでしょうか。
いや~悠久の時間の流れですな。
天皇家所縁の神宮だけにバーンと菊の紋が目立っとります。

次は、伊弉諾神宮の祭主家の田村氏が本拠地とした郡家城へ。
中世の頃、神社というものは神領という領地を持っておりまして、土地から上がる収入というのがありました。
また、祭祀を行うにも人数が要るわけで、その人数を養うのも神領からの上がりで賄うわけです。
神社によっては、中央権力と繋がりを持つ場合もあり、貴族から土地の寄進を受けたりしました。
その頃の宗教は神仏習合で、神道と仏教が合体してました。
これは実に日本的な融合の考え方です。
今も日本は、外国からの文物を受容してそれまで在ったものと組み合わせ、日本的に変換してしまうクセがありますが、神仏習合もそのような形のひとつだったかと思われます。
まぁ俗に言う魔改造のハシリですかね(笑)
真っ先に出てくるのは、カレー、ラーメン、肉じゃが・・・って食い物ばっかりかい!
仏教の教義自体も、浄土宗や浄土真宗が出る頃には日本独自規格となって魔改造されてしまってますな・・・

神仏習合では、神社には神宮寺というお寺が建立され、神社に祀られた神様には本地仏という仏が設定されていました。
そして今考えると奇妙な、神主ではなく僧侶が神社の祭祀を行い、毎日神様にお経を読み聞かせる、ということが行われていました。
有名な神仏習合の例は春日大社と興福寺ですね。
貴族の中の貴族、藤原氏の氏神が春日大社で、その神宮寺が興福寺です。
この興福寺には僧兵がいたように、全国各地の有名寺社にも僧兵がいました。
つまり武力です。
土地の上がりで武力を養う。
これはもう武家そのものですな。
こうして戦国時代には、全国にそのような神職上がりの武家がありました。
信濃の諏訪氏、九州の宗像氏や阿蘇氏がそうで、この郡家城の主であった田村氏も、伊弉諾神宮の祭主から地域領主に転じた武家です。
もちろん諏訪氏などに比べると、規模は小さいものでしたが。

田村氏の事跡を簡単に追うと、戦国時代の最初期に本格的に武家化し、淡路を統治した細川氏や三好氏に従っていたようです。
そんな田村氏も時流に流され、三好氏の衰退と共に織田信長の圧迫を受け、武田征伐の参陣を断ったことから当主の経春が天正9年(1581)に切腹に追い込まれています。
そして、その子村春と康広も、羽柴秀吉の淡路侵攻に敗れ、滅んだとされています。

郡家城の前説が長くなりましたが、郡家城の実物はこんな感じです。



川の合流地点にある丘。
川の流れがそのまま堀として使える、典型的な築城適地ですね。
しかし、城へと入る道が藪化してて散策できませんでした。
山に向かって右手の川沿いから入る道があるのですが、どうも丘の頂上への道が見当たらない。
明らかに人工的な地形改変が見られるのですが、城があった当時のものか、後の開墾によるものかは判断できませんでした。
もう1本、写真には写ってないですが、左手前の小屋の向こう側の麓部分に小さい橋があり、そこから入れそうだったんですが、そのすぐ前の民家が空き家になっているようで、橋に繋がるあぜ道さえ人の手が入っておらず、草が繁茂してどうしようもない。
突っ込めば何とかなりそうではあったんですが、台風の後で草の下がどれだけぬかるんでるか分からず、藪漕ぎする装備も持ってないので、登城は断念しました・・・


郡家城をあとにして、次は白巣城へと向かいます。
空はもう雲が吹き戻しの風で流れ去って、台風一過の快晴になってきてました。
が、しかし、ここでまさかの再冒険を強いられるとは・・・

白巣城へは、五色町鮎原という集落にある神陽台という住宅団地の南東から山へと入る道が出ています。
住宅団地を抜けた先にはもう城の案内表示が。
助かりますな~
昔は城の近くまで辿り着いても、城へと向かう山道が分からず、1時間ぐらいウロウロした挙句に断念なんてことも多々ありましたが、最近の戦国ブーム、お城ブームで案内表示の類が充実してきてるのは非常にありがたいです。
遠くまで来たのなら、それはもう尚更に。

指示通り山へと入っていくと、鳥獣除けのこんな柵がありました。



これはかなり本格的山城の予感。
しかし、この山道が昨日の台風の影響でエラいことになっている!
あちこちに折れた枝は落ちてるわ、20cmぐらいの落石も転がってるわ、水が流れた跡が砂溜まりになってるわ・・・もう大変ですわ。
その都度、車を降りて枝を谷に投げ捨て、石を道の脇に転がし、亀の子にならないか砂溜まりの深さを確かめ・・・って各駅停車かい!!
車なのに異様に行軍速度が遅いんですわ。
が、この頃はまだ楽観してました。
嵐の後の山道ではよくあること。
苔と濡れ落ち葉が敷き詰められた、転倒の罠だらけの道をバイクで行ったことを思えば、なんてことは無い。
酷道たる国道、険道たる県道をツーリングで走破してきた経験もあるし。
そう思っていました・・・
人間は、悲しいかな過去の体験をよりどころにするものなのです。
そうこうしてるうちに次第に視界が明るくなり、いよいよ山道も終わりかと思われたその時!



・・・。
・・・・・・・。
ぅええええええええェェェェェェ~~~~!!!
もう説明など、要りませんな・・・
心が折れちゃったよ・・・

大変だったのはこの後。
当然こんな山道でUターンなぞできるわけもなく、Uターンができる場所まで数100mも山道をバックする羽目に・・・
「酔える・・・酔えるよ、ララァ」
と、どこぞのニュータイプが言ったか言わずか知りませんが、左右のサイドミラーを頻繁に切り替えながら見つつ山道を数100mバックすると、運転しながらでも酔えるという新事実が発見されました。
ここに謹んで皆様へご注意とご報告を申し上げます。


つづく


参考:
東浦温泉
伊弉諾神宮
郡家城
白巣城

上記地図付きはこちら