2014年5月30日金曜日

小田原城リベンジ その2 (八幡山古郭)

前回のあらすじ

小田原来たで~
着実に、確実に、天守登ったったで~
 
仕事終わりに小田原へ特攻し、翌日にリベンジを果たしたわけですが、この日のメインディッシュは何と言っても八幡山古郭。
戦国時代の小田原城ですな。
と言っても、現小田原城からも戦国時代の遺構が検出されているので、戦国時代の小田原城と、今残っている小田原城が、全くの別物というわけではありません。
北条流の築城術では、詰の城と根小屋という形態が多く、現小田原城の辺りは、居住スペースだった根小屋区域だったのかもしれませんね。
 
さてさて、メインディッシュの八幡山古郭ですが、小田原城からは西北方向に見える丘陵がそうです。
天守郭から鉄道たちを挟んで向こう側ですな。
ただ、現在は住宅地や学校、運動施設などになっていて、遺構が残っている場所はそう多くありません。
江戸時代の絵図で見ると、八幡山に畑なんて文字も見えるし、禁制地にもならず放置されてたのかも。
こんな、城を見下ろせる至近の丘陵を放置してええんかいな、とも思いますが、江戸時代はそういう想定をしないほど平和だったんですかね(^^;)
ま、惣構の内側だからどうにでもなるか・・・

小田原城から西北側の出口を抜け、跨線橋を渡り、まず向かうのは東曲輪。
ここは本曲輪の東側に続く郭です。
現在は公園になっていますが、土塁などのような遺構が無く、城跡という感じは残念ながらあまりせず。
ざっと見る限り、東曲輪の地形は、斜面にあわせて幾段かある郭だったのか、それとも後世の改変で段々になったのか、ちょっと判断できず。
東曲輪から見る現小田原城と小田原市街はこんな感じです。

 
ん~曇天が恨めしい!

東曲輪からは、住宅地の細い路地を登って八幡山中心部へと向かいます。
登り切った先は小田原高校で、この裏門の所に西堀、中堀、東堀の3つで構成された三味線堀の跡地が示されていました。
その向こうに見える小田原高校のグラウンドが西曲輪で、その西の校舎の場所が藤原平と呼ばれる郭です。
この小田原高校のグラウンド脇には、遊歩道が整備されており、野球部の練習を懐かしみながら見つつ歩いていくと、グラウンドの東南隅に本曲輪の土塁らしき部分が。

 
しかし、案内図から見ると郭の形と方向が合わず、堀から立ち上がる土塁の一部のような、高台を後世にえぐり込んで整地しただけのような、なんとも判断が難しい地形。
この後ろが本丸である本曲輪なのは間違いないんですがね。
その本曲輪は、今は住宅地となってました。

遊歩道から高校の南側へ抜け、明らかに八幡山大堀切を道に転用したと判る道を辿り、毒榎平と呼ばれる公園を西に抜ければ、小峯御鐘ノ台大堀切東堀という場所に出ます。
ここは遺構として最もよく残っている場所で、その名の通り西堀、中堀、東堀という3本の大堀切の最も東側の堀です。
本曲輪を始めとする主郭部分の西の守りで、3本もの堀切で守られていることから、その重要性がひしひしと伝わってきますな。

 
土塁を越えて堀へと足を踏み入れてみると、イメージとしては山中城の三ノ丸堀と同じような雰囲気ですね。
比較的平坦な場所にズドーンと真っ直ぐ切られた堀。
木々も刈られて、清々しいほど見通しがよろしい。
うむ。
満足じゃ。
小雨がパラつく中、歩いた甲斐があったもんだ。

帰りは、小田原高校の横を通って城山入口の交差点へ。
御前曲輪の跡に造られた陸上競技場を見つつゆるゆると下り、鍛冶曲輪の石柱が建つテニスコートの横を抜け、八幡曲輪の石柱を越えるともう駅です。
駅では早雲さんがお出迎え(^^)

 
も~画が暗いねん!
所詮携帯のカメラなんてこんなもの・・・
曇天だと限界を感じますわ。
よし、メインディッシュは行けたから、天気がもつかぎり西進しながら城を攻略していくべや!
 
つづく
 
参考:
小田原古城
地図付きはこちら
 

2014年5月24日土曜日

小田原城リベンジ

前のツーリングの際に、小田原城はあえなくタイムアウトとなって天守閣に登れませんでした。
でも、 神奈川と静岡東部はもうほとんど目的の所は行き尽くしたので、ツーリングに小田原だけを組み込むのは、ちとツラい。
いや、かなりツラい(笑)
でも、復元天守閣はともかく、戦国時代の八幡山古郭にはかなり行きたい!
というわけで、昨年末、ひょんなことから平日に休みが取れたので、特攻してきました。
前日の仕事終わりからそのまま新幹線に乗り直行。
翌日は小田原から西へ進みながら行ける所を拾っていくという感じで。
時間は自由。
じっくり見て、行けるだけ行く。
そんな電車旅になりました。
 
当日、朝一に小田原城へ行って、天守閣の開く時間よりも前にじっくりと城内散策。

 
懐かしき小田原城天守ですな。
いや、たった2ヶ月半前やけども(笑)
3ヶ月の間に2度も小田原へ来るなんて思ってなかったな。
城内は、御用米曲輪は発掘調査中、弁財天曲輪は復元予定と、まだまだ小田原城は整備されている途中のようです。
また、近世城の小田原城ですが、報徳二宮神社付近の小峯曲輪北堀なんかを見ると、戦国時代の雰囲気そのままでなかなかよろしいですな(^^)

 
そうして城内を歩いていると、小田原城歴史見聞館なるものが。
そういえばツーリングの際にもちらっと案内を見た記憶がある。
これは行っとかねばなるまいか。
長距離ツーリングになると、資料館系は時間が取られるのでどうしてもハナからスルーになるけど、今日はそういうのも許される(^^)
個人的に興味があったのは、北条早雲素浪人説がほぼ否定されている現在では、どういう展示内容になっているのかというところ。
内部の展示は、小田原北条氏5代の展示で2/3、近世小田原の展示で1/3といった配分でしょうか。
気になる早雲に関しては、よく知られた講談をベースに史実と見られる最近の説を注釈するという感じでした。
訪れる人の層が様々なので、あまり予備知識の無い人にはこれぐらいがちょうどいいんでしょうね。
個人的には、小田原に関する年表が、結構細かいところまで網羅されてて、一番参考になりました。
あと、職員のおばちゃんが雑談してたんですけど、その雑談が歴史に関する事だったので、「この施設の職員に相応しいやん」と関心させられたのが妙に面白かった(^^)
雑談してるって職員としてはアカンやん!
というツッコミは無しで(笑)
 
見聞館を出て、ようやく小田原城天守閣リベンジです。
しかし、この日は生憎の曇天。
天守閣からの眺めはイマイチで、石垣山城も稜線の所々に雲が垂れ込めて霞み、場所がはっきりとしない。
遠くを諦めて近くに目を移すと、天守閣の真裏に八幡山古郭東曲輪が見えます。
ここは割と最近に公園として整備されたみたいで、その一角だけ妙に綺麗。
待ってろよ、お前が今日のメインディッシュだ!

 
というわけで、八幡山古郭へと続く。
 
参考:
小田原城歴史見聞館
小田原城
地図付きはこちら
 

2014年5月20日火曜日

美味しんぼ その2

さてさて、問題の例の美味しんぼ。
問題以前からこの雑誌を愛読している自分は、否応無く読むわけですが、今週号の漫画の後には、寄せられた各意見が載っていました。

全体を読んで総評すると、影響があるとも無いとも断言できないけど、実際、鼻血を出した人はいるにしても、やっぱりちゃんとした調査を経ている国連科学委員会の報告が信ずべきところなのかな、という感じです。
鼻血が出たという報告があるという人と、無いという人に分かれているんですが、出るという人は周りにもいた、たくさん聞いたなど、ちょっと科学的な根拠が薄い感じですね。
人間というのは、自分の経験を世間全体に投影しがちな傾向があります。
そういう理由から、科学実験なんかでもそうですが、こういう追跡調査はサンプル数が正義みたいなところがあって、多ければ多いほど客観的に見ることができますし、突飛なデータも埋もれるので、正確になります。
また、そのサンプルはもちろん偏りの無いことが前提です。
で、鼻血が出るとする人は、そのサンプル数が多くなさそうだったり、母集団に同じような考えの偏りがあるように個人的には感じられました。
一方で、出ないとする人は、ちょっと驚きをもって「え?聞いたこと無いよ?」と言ってる感じですかね。
こういう状態になったのはあれが原因では?というのは、各意見の文中にあったように、後付けバイアスと呼ぶそうですが、鼻血は確かに当てはまりそうです。
集団催眠効果のようなことがあるのかは知りませんが、母集団が同じような考えの傾向だと、「そういえばこんな事も」となって、これが強く働くというのも実体験から容易に想像できます。
そういう部分から、やっぱりちゃんと追跡調査してる結果が一番だろうと。

ただ、個人的には、大阪のガレキ処理に対する作品中の言葉から、結論ありきじゃないか?という思いが強くなりました。
ガレキ処理をしたのは、大阪の舞洲の施設です。
舞洲のグラウンドで何度もサッカーをしたことがありますが、焼却施設はとてもカラフルな外観のところですな。
最初は、「こんなところにショッピングモールか!」と思ったぐらいのカラフルな施設(笑)
たしか外国人デザイナーのデザインか何かだったと思います。
で、その施設がある舞洲は埋立地で、周辺は工業団地。
そして、海を隔てて少し離れた所にUSJ。
そんな場所です。
住んでる人が皆無かどうかは分かりませんが、少なくとも普通に住宅があるという場所ではありません。
そんな場所なのに、「付近に住んでる住民1000人の内800人が何らかの不調を訴えた!」といっても、現地を知ってるだけに、「は?」としかなりません。
しかも、大阪で処理されたのは岩手のガレキで、福島のガレキよりよほど放射線が低かったはず。
そして、大阪市にもそのような苦情は上がっていない。
何か、いろいろ混ぜ混ぜして、印象を膨らまそうとしているような気がしてなりませんな。
 
放射線というのは、少量でも当たると細胞やDNAが壊れます。
これは間違いのない事実です。
また、ひと口に放射性物質といっても、ヨウ素のように人体にとって必須元素であったり、セシウムのように化学的にはほぼ無害という場合もあり、出てくる放射線だけが有害というパターンもあります。
つまり、放射性物質なら何でもかんでも恐ろしいのではなく、放射線についてしっかり理解しておく必要があるということ。
まず、この事はしっかりと押さえておかなくてはならないですな。
そして、細胞やDNAが壊れると言っても、壊れる数のレベルというのがあって、微量の放射線による破壊よりも、人体内で呼吸によって発生している活性酸素などによる破壊の数が相当多いという事実も知っておかないといけない。
その数というのは文献に詳しく載ってるので、調べればすぐに出てきますが、低線量の放射線による破壊と、人体内の通常生活での破壊数は、放射線による数が誤差レベルと言えるほど差があるものです。
この科学的な既知の事を踏まえた上で、放射能や放射線について反対するなり、対策するなりしてほしい。

放射線による影響が0じゃないから、とか、現実に事が起こってしまった後では机上の空論です。
起こった事をどうしようもない現実として認め、現実的に安全と考えられる閾値や数量を設定し、折り合いながらやっていくしかない。
現地の市町村なんかは、試行錯誤しながら情報公開し、よくやってると思うんですがね。
前記事にも書きましたが、そういう現場の現実を見る努力ってのが、理想ばかりを追いがちなリベラルな方々には不足している気がします。
織田祐二の演じた青島刑事じゃないけど、「現場で起こってるんだ!」というのを、もっと認識してほしいですね。
でないと、現場が積み上げた努力に水を差しかねない。
言うな、と言ってるんじゃなく、避難する人、戻る人、双方にとって議論の深まる提案の仕方ってのがあると思うんです。
もちろん、根本の原因となった事故の検証や責任は、もっともっと追求しなければならないのは当然の事ですけども。
 

2014年5月15日木曜日

美味しんぼ

北関東、中越のツーリングでは、自身最長不倒の1日750kmオーバーを走り、数日では回復できない疲れが体に残りました。
いやはやいやはや。
気付けばアラフォー。
この年で最長走行記録を更新すると、こういう後遺症が残るわけですな(笑)
この行軍記は、ある程度整理ができてからということで、また後日。
 
帰ってきてニュースを賑わせているのは、美味しんぼ。
美味しんぼなのに、最近は食べ物以外のことをずっとやってるのはどうなん?というのもありますが(笑)、まぁ習慣で読み続けている雑誌に載ってるので、毎回読んでおります。
個人的には、説明文がやたら多い&ご飯ものにあまり興味がない、ということで常に最後に読む漫画ですがね。

この漫画の中で、福島を訪れた主人公山岡さんが、帰って来てから突発的に鼻血を出すシーンがあります。
作中で科学的に放射線との関係は無いと書かれていますが、流れ的にはどう考えても放射線が影響しているという描写です。
ですが、ソースはネット上に転がってると思いますが、国連の科学委員会か何かの報告では、鼻血は放射線との関連は見られず、不安感やストレスなどの心理的要因による症状ではないかとされていました。
また、新聞各紙を見ると、京都医療科学大学の学長や現地で活動した医師、現地の一般の方の声を載せ、鼻血は有り得ない、聞いた事が無いと書いています。
一方、震災直後のネット上には、鼻血が出たという話は、ちょこちょこと目にしました。
どちらが正しいのか。

遠く離れた場所に住んでいる自分には確かめようがないですが、科学的な調査を経た、という事を考えると、今のところは影響無しという説に説得力がありそうです。
鼻血が出たという意見を見ても、少なくとも通常とは違う状況にあり、本人が感じる感じないに関わらずストレスなどがあった可能性が十分考えられますしね。
あくまで、今のところは、ですけども。
この際、鼻血が出ると唱える人が、噂や身の回り程度じゃなく、しっかりとサンプル数を確保した追跡調査をしてみては?
もしくは、どこかそういう調査に興味を持つ教授が現れないものか・・・
議論が高まってる今こそ、調査予算も取り易いと思うのですが。

しかし、作者の表現と言うには、作中に実在の人物を登場させて物語の同一線上に乗せるという手法は、ちょっと悪どいなぁ
歴史小説を読み始めの頃は、実在の歴史上の人物に絡む言動やその人物と繋がる架空の人物なんかをすべて史実と思ってしまうことが、誰しも大なり小なりあったと思いますが、その錯誤に近い。
実在の人物を登場させることによって、読者は無意識に真実性を感じてしまうもの。
作中の人物が、全員架空の人物なら作者の表現でも問題ないと思うんですがね。
それか、完全なるドキュメンタリーとして描くか。

ちなみに、この原作者の雁屋哲という方は、リベラルな考えの方として有名なんですが、リベラルな方って現場無視って印象があるなぁ
主義主張が優先して、現場の実情無視という感じ。
沖縄の基地問題や各地の反原発にしても、現場のメリットデメリットを大して語らずに、己が主義主張だけを優先させてるイメージがある。
今回も同じく、復興や風評被害を消そうと頑張っている大多数の現地の方々を無視して、一部の意見を以って問題提議も何も無かろうという感じ。
これがちゃんとした科学的な裏付けのある事なら、賛同できるんですがね。
ちょっと穿ち過ぎかなぁ
 

2014年5月7日水曜日

兵庫城 その2

前に、こちらで記事にした兵庫城。
予想通り、発掘調査でした。
今日は、こんな感じです。
 

 
最初は重機が入って豪快に掘っていたので、発掘調査と確信を持てなかったですが、ブルーシートが掛けられてたのはやっぱりそういうことやったんやな、と。
色んなやり方があるとは思うんですが、最初にガッツリ通路部分を碁盤の目状に掘ってしまって、通路で囲まれたいくつもの四角形を丹念に発掘していくという方法でした。
なかなか発掘調査の初めのほうから見ることができる機会は無いので、色々と面白かったです。
発掘報告書が上がってくるのは来年かな?
兵庫城が出てくるのか兵庫津が出てくるのか、
さあDotch?(死語)
楽しみだ(^^)
 
さて、今週末はいよいよ恒例春のツーリング。
日光目指してGoですわ。
体調だけには気をつけて、出発時間を見据えながら早朝活動スケジュールにシフトしないとね。
 
参考:
兵庫城

地図付きはこちらから
 

2014年5月1日木曜日

相模・駿河ツーリング (箱根秋編) その7

前回のあらすじ

山中城すげぇーー
1日浸りたいぐらいやわ~
 
しつこいようですが、山中城は、ほんとにお薦めです。
城に詳しいくない人でも、あれだけの大きな範囲全面に芝生が敷かれた空間というだけで、実に清々しいもんです(^^)
ジョギングなんかの運動にもいいですねぇ
実際、岱崎出丸でトレーナーらしき人と一緒に2人でトレーニングしてた人もいましたから。
色んな意味で、かなり良い空間になってます。

そんな浸りたいほどの山中城を後にして、国道1号線を下って行くと、前方に広がるのは駿河湾の眺望。
うん、こういう眺めが山下りのいい所やね(^^)
坂を下りきれば、三島、沼津へと入っていきます。
この三島と沼津、ぶっちゃけよく混同します。
どっちがどっちやったかな?という感じで。
個人的なイメージでは、距離が近く、街の大きさも同じぐらいのイメージで、高崎前橋の関係とよく似た印象ですな。
高崎と前橋は仲が悪いとは聞きますけども(笑)
そんな関西人の不案内さがあったのか、三島駅への案内が見えた時に、何も考えず国道1号線から反射的に曲がってしまった・・・
曲がってからようやく、「あれ?三島駅?沼津駅方向に行かなアカンねよな?」と気付く始末。
そこから、市道を駆使しつつ、「こっちに出るんかい!」と独り言を叫びつつ、なんとか県道22号線に出て、沼津へと向かいましたとさ。
後で確認してみると、三島大社のすぐ近くを通っていたので、寄っとけばよかった!と気付いたんですが、まぁ仕方がない。

沼津へ向かう目的は、そのものずばり沼津城。
戦国時代は三枚橋城と呼ばれてた城で、自分も城名はこっちのほうが馴染みが深い。
しかし、今はすっかり市街地化して遺構のかけらもありません。
駅前、しかも旧国道1号線が通っていたとあっては、さすがに遺構を残すのは困難ですな。
一応、本丸跡が中央公園になっており、下の写真の右手奥に城址碑があります。

 
こういう市街地では、バイクの強みが出ますな。
エンジン切って押し歩けば、大型バイクと言えど歩行者と同じで歩道を歩ける。
車ではこうはいかない・・・
 
沼津城には、散策するほどの遺構はないので、5分ほどで出発し、次に向かうは、北条早雲所縁の興国寺城。
国道1号線は回避して、一番浜手の県道を西進します。
この道、防風の松林が続いて信号も少なく、かなりいい道ですな(^^)
特に目指したわけでもないのに、こういう雰囲気のある道に当たると、ラッキーと笑みがこぼれますわ。
ま、こぼれついでに、曲がるべき交差点を行き過ぎたわけですが・・・
信号無さ過ぎて止まらんから地図が確認できん!
良い道の弊害っちゃ弊害ですかね(笑)
原町の駅を過ぎる頃に、あれ?ってなったんですが、Uターンできるほどの駐車場もなかなか出て来ず、どこまで行かされんねん!と、ちょっと動揺。
なんとか路地を見つけてUターンをかまし、原町から北上して興国寺城へ。

興国寺城は、愛鷹山の裾野にある城で、地形的に変化が少ない場所にあります。
ここで城を築くとなると、必然的にこういう形になるよな、という感じの縄張で、異常に巨大な土塁と巨大な空堀でなだらかな裾野を区切り、階段状に郭を構築しています。
裾野という地形的に、城より北側の標高が高いので、改修を重ねてここまで巨大化したんやろなぁ
ざっと一望するとこんな感じです。

 
写真ではあまり伝わらないですが、この土塁がもう凄いの一言!
壁ですわ壁。
その土塁から城の北側の空堀を見ると、

 
崖ですわ崖。
この写真は横からですけど、上から見ると、落ちたら下手したら死ぬな~的な。
この部分がもうね、凄いとしか言い様がない城でした。
 
興国寺城からは、国道1号線で西へ。
富士由比バイパスの異常な高速の流れに驚きつつ、吹上の浜を過ぎて高浜I.C.で下り、新蒲原駅北側の蒲原城へ向かいます。
蒲原城も、武田北条の争奪地だったんですが、石垣の跡や堀切など、見所はなかなかあります。
また、善福寺郭には逆茂木のレプリカなんかもあって、城跡として整備されてるなと感じました。
惜しむらくは、南の大手方向の遊歩道が藪化していて行けなかった事ですかね。
大手口や大手郭があるらしいんですが、確認できませんでした。
下の写真は、本丸の機能があった南郭。

 
鳥居が変な見切れ方してますが、そこは素人のご愛嬌ということで(^^;)
桜がたくさん植えられており、春には花見客で賑わうそうです。
 
蒲原城の散策を終えたのは午後3時半。
ここから少し戻り、富士川S.A.から東名高速に入ってあとは帰るだけ。
とは言え、その「だけ」ってのが400km以上あるんやけども・・・
とりあえず、富士川S.A.からなら確実に無給油で帰れるので、蒲原から北上する道すがら、セルフのガススタを探したけど、結局見つからず、S.A.で給油することに。
ついでにお土産を買ったら、なんとガソリン200円引きの券をくれました。
20リッター入るとして、リッター10円引きとは超お得!
ガススタの兄ちゃんに、今から神戸まで帰ると言ったら驚かれたけどね(笑)

ここからはひたすら長い旅路。
神戸まで帰るには、名古屋圏と京都圏と大阪圏を突破を突破せにゃならんけど、時間的にどこかで渋滞を喰らうことになります。
オールスルーで行く為には、夕方前に大阪圏を突破する必要があるので、10時ぐらいには帰路に就く計算となり、1日ほぼ潰れてしまうのでさすがに勿体無い。
あとは深夜ですかねぇ
しかしながら、もう四十路も近い身としては、日が変わってから家に着くなんていうハードスケジュールはもう無理!!
というわけで、渋滞上等で突っ込む訳ですが、できれば名古屋圏だけの渋滞で抜けたいところ。
予想通り、三ヶ日JCTで6km、岡崎I.C.から11kmの渋滞。
でも、伊勢湾岸道に出てしまえば、あとは快調でした(^^)
東名阪に入ると、反対車線は行きと同じく大渋滞。
名古屋圏へ帰る人が多いんやねぇ
そして、とりあえず近畿に帰って来たということで、新名神の甲南P.A.で夜ご飯休憩。
黒醤油ラーメンがとても美味しかった(^^)
P.A.やし期待してなかったから、妙にテンションが上がります(笑)

しかし、ここまではほぼ予測通りやったのに、まさかまさかの草津田上から事故渋滞7km。
これは予想外やった・・・
結局、帰宅したのは22時過ぎ。
予定より1時間ほど遅れましたわ(> <)
 
1日目:605.8km
2日目:191.6km
3日目:515.7km  合計:1313.1km
 
参考:
沼津城
興国寺城
蒲原城

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