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2025年8月3日日曜日

タイヤ交換2025

前輪にそろそろスリップサインが見えて来たので、前後輪のタイヤを同時に交換しました。
タイヤの種類は、Road 6。
順当に同系統で交換すると、Anakee Adventure辺りになると思うんですが、最近は史跡やお城でも舗装道が整備されていることが多くなり、フラットダートなどを走る機会もほぼ無くなっていることを考えると、もうちょっとオン寄りでいいのではないか、となりました。
そこで候補に挙がったのが、Anakee RoadとRoad 6。
さて、どうしたものか。
オフ成分を少し残しておきたいのならAnakee Road、オンに振ってしまうならRoad 6というところになるんですが、迷いましたね。
決めた理由は、乗る人本体の経年劣化が進んでいるので、より安全性を重視したのと、Pilot Roadから続くRoadシリーズは、ツアラーやアドベンチャー系のバイクなら、取りあえずそれにしとけ的なタイヤですから、興味があったんですよね。
どんな乗り心地かと。
というわけで、交換!
 
 
 
交換後、そのまま慣らしで神戸市内をウロウロしました。
皮むきがある程度進むまでは、慎重に。
感想としては、オンロードタイヤらしい剛性があるなという感じでした。
倒し込みも非常にスムーズ。
ただ、これは前のタイヤの中央が平たくなってきてた反動っぽいですね。
なので正確な比較は無理っぽい笑
梅雨明け直後の暑さの中、梅雨明けでこんなに水が少なくて大丈夫なのかと心配しながら呑吐ダム周辺などを走りましたが、止まると暑さがダイレクトに・・・
少し短いですが、70kmほどで切り上げました。
また涼しい早朝にでも続きで走りますか。
 

2025年6月11日水曜日

東信群馬埼玉ツーリング その10

前回のあらすじ
 
地図で見つけてふらりと立ち寄った雉岡城。
想像以上に良いお城でした。
 
続いて訪れるのは鉢形城。
関東の風雲児長尾景春が、叛乱を起こす直前に本拠として築いた城です。
この景春という武将は、野心の塊かという印象すらある人で、俗に言う戦国三梟雄の面々に負けず劣らずの経歴の持ち主。
斎藤道三の親子2代説や、三梟雄の逸話のほとんどが講談ベースというのを考えると、武将単体としては三梟雄よりも強烈な人生を歩んだ武将かもしれません。
Wikipediaでは、景春について割とあっさりした記述になっているんですが、扇谷上杉家をひとりで背負っていた太田道灌との熾烈な戦いや、帰参からの再叛乱、亡命と客死など、ドラマが盛り沢山。
この頃の関東の争乱に色濃く影を落とした武将でした。
誰か詳しい人がwikiを充実させてくれないかな笑
まぁその話は横に置くとして、その後の鉢形城は、山内上杉家の居城にもなり、北条氏時代は、北条氏康の四男氏邦が城主となるなど、北関東の最重要拠点のひとつとなりました。
城主が変わっても重要な城であり続けたんですね。
その過程で城には改修が幾度も加えられ、北条氏時代の大改修で完成した城は、びっくりするぐらいの広さを誇っています。
さて、夕暮れ迫る中、その巨城をいよいよ散策。
まずは案内図。
 
 
案内図だけで、どれだけの巨城か解りますね。
最初は、中心部であったと思われる本曲輪から。
本曲輪は東西で二分されてまして、西の荒川側が城主の居住空間だったようです。
あくまで「伝」ではありますが、伝御殿曲輪という名前が付けられていました。
その伝御殿曲輪には、石垣の痕跡も。
 
 
北条氏の城と言えば土塁のイメージですが、要所は石垣だったんでしょうね。
伝御殿曲輪は、上りながら3段の削平地で構成されています。
その2段目から最高部の1段目の様子。
 
 
最高部の写真右手側に、鉤型に土塁が残っています。
この伝御殿曲輪の最高部と東側の伝御殿下曲輪とは、10m程度の高低差。
 
 
伝御殿下曲輪は、都市公園になっていました。
 
 
続いて、本曲輪から二ノ曲輪方向へ・・・向かう前に深沢川の様子をば。
 
 
主郭部から下りた場所です。
この深沢川によって、主郭部と外曲輪に分かれ、写真で言うと、川の向こうの台地上が外曲輪になるんですが、当初の城は、荒川と深沢川によって城を守るという地形だったんでしょう。
戦国末期の北条氏の拠点は、どこも相当に巨大化して行った印象で、鉢形城も例に漏れず、外曲輪を拡張したことで川を跨ぐ形になったと思われます。
深沢川かも戻って南へ行くと、すぐに二ノ曲輪。
 
 
ここはひたすら視界の広い広場となっていました。
さらに南へ歩けば三ノ曲輪。
 
 
三ノ曲輪の荒川側の突端部は高くなっています。
その高くなった部分は、伝秩父曲輪。
 
 
発掘調査で、門や庭園などが検出されており、ここには門と石積土塁が復元されています。
ただ、何故か写真を撮ってない・・・
この三ノ曲輪周辺には、城らしい造形があり、城跡としての見所が多かったですね。
下は三ノ曲輪馬出。
 
 
馬出の切岸。
見事に逆光ですね。
夕日が眩しい!
 
 
三ノ曲輪には付随する郭がありました。
南西側には、諏訪曲輪だったともいわれる諏訪神社。
 
 
明確に堀によって区画されていました。
大手門と接続する南側には伝逸見曲輪。
こちらも堀の跡が明確ですね。
 
 
最後に、最高部から荒川と断崖の様子。
 
 
なんという後堅固の城なんだと、結構高低感を感じたんですが、写真にするとそうでもないですね笑
それにしても、広いお城でした。
満足です!
 
つづく
 
参考:
 

2025年4月27日日曜日

東信群馬埼玉ツーリング その9

前回のあらすじ
 
関東管領山内上杉氏の居城だと思うと、さすがに感慨がありましたね。
室町時代から戦国時代の中頃まで、関東の歴史のど真ん中のお城でしたから。
 
時間の関係で平井金山城へ登るのを断念して、平井からさらに東へと進んで行きます。
今夜の宿は行田。
忍城のすぐ近くです。
時間的に、平井金山城をスルーしてなお忍城を今日中に散策するのは無理っぽいですが、ルート上にある雉岡城や鉢形城はしっかりと押さえておきたいところですね。
 
途中にある雉岡城は、史料によく出てくるという城でもないので、その歴史をほとんど知らなかったんですが、地図上で見る限りは、なかなかの城跡のように見えたので、訪れることにしました。
訪れてみると、周辺から少し盛り上がった丘陵にある城で、土塁や堀が素晴らしく、これは土の城として当たりのお城でしたね。
歴史を調べてみると、関東管領山内上杉氏の居城として築城されたものの、居城としては使われなかったということらしいですが、関東のNo.2で上野の主という大大名の居城候補だっただけあって、しっかりと築かれていたんでしょう。
それをベースとして、後に北条家臣の横地忠晴が大改修した為、現在に残っている城跡は、北条氏の城という雰囲気が強くなっていますが。
まずは入口です。
 
 
入口からすぐの所にある城址碑。
 
 
主郭部に向かっていくと、緩やかな坂が続きます。
明確に段に分かれるようになっていないのは、後に改修した北条氏のお城らしい感じでしょうか。
ただ、初期の頃の雉岡城はどうだったんでしょうか。
その頃からこんな地形ならば、北条氏ではなく、関東のお城全体の傾向ということになるんですが、少し気になりますね。
公園入口から入ると、すでにそこは本丸と二ノ丸に続く南ノ郭です。
ただ、縄張図に関して公園内には2つの案内板があり、各郭の名称が違っていました。
時代によって名称が違うんでしょうかね。
 
 
南ノ郭の東側には、明確に土塁も残っていました。
 
 
公園内の最高部はこの南ノ郭で、本丸と二ノ丸に続く郭ですが、二ノ丸方向には、ここだけ近世的になっている角馬出があります。
 
 
南ノ郭の南側は、主郭部の大手門跡。
現在は道路になっている堀に橋が渡され、南側の丘陵へと続いていたようです。
堀の切岸はそのままにされたようで、公園としての出入口にはなっていませんでした。
 
 
二ノ丸と南ノ郭の間は、深い空堀になっています。
堀底には、夜泣き石の碑がありました。
城の奥方によって非業の死を遂げた側女が大きな石になったという伝承があるようですね。
 
 
角馬出と二ノ郭方向の眺め。
 
 
本丸は児玉中学校の敷地になっていて入れないんですが、本丸東側の土塁まではギリギリ公園側で、立ち入り可能。
 
 
二ノ丸の本丸北側部分は、今は児玉高校の敷地になっているんですが、高校の近くまで行くと、綺麗に水堀が残っていました。
雰囲気がありますね。
 
 
前述のように、そんなに有名なお城ではなかったんですが、遺構がはっきりと残っていて、なかなか良い城でした。
ちょっと長くなってしまったので、鉢形城は次回にしましょうか。
 
つづく
 
参考:
 

2025年4月20日日曜日

姫路城小天守

前回の記事で取り上げたように、万博の開催に合わせた姫路城の春の特別公開で、小天守が公開されています。
仕事が休みの日に天気が良かったので、ちょいとバイクで行ってきました。
バイクで姫路城に行く際の注意点は、大型バイク用駐車場が少ないこと。
知る限りでは、大手前公園地下駐車場しか止めるスペースが用意されていません。
他の駐車場は、125ccまでなら止められる場所もあるんですけどね。
ただ、大手前公園地下駐車場は、三ノ丸大手門からすぐの場所という1等地で、台数も48台と非常に恵まれた駐車場です。
入口がちょっと判りづらいですが。
 
さて、駐車場にバイクを止め、いざ姫路城へ。
予想通り外国人観光客が多いですが、平日のためか、激混みというほどではありません。
桜の季節が終わってすぐというタイミングもあるんでしょうね。
大手門である菱の門をくぐると、まずは千姫ゆかりの西ノ丸へ。
ワの櫓の横から入って百閒廊下を歩いて行きます。
全国に残っている城郭建築物の中でも、この百閒廊下ほどの長さで多門櫓が残っている城は、無いんじゃないでしょうか。
その長さ約240m。
しかも途中で階がひとつ上がるという、ちょっと変わった構造をしています。
他に類を見ない巨大な大天守も、姫路城に現存する櫓の特徴のひとつですが、この百閒廊下も、姫路城でしか見ることができないという城郭建築物なんですよね。
 
西ノ丸探索を終えた後は、順路通り大天守へ。
大天守は、紹介するサイトがたくさんあるので感想だけ。
ここでは日本人が少数派でした笑
大天守を降りて向かうのが、今回の目的の小天守とそれを繋ぐ渡り櫓。
入場料1000円を払い、いざ行かん。
順番は、東小天守から乾小天守、そして西小天守を回って大天守入口に戻るという順路です。
まずは東小天守。
 
 
東小天守から見えるのは、正面の乾小天守と左の大天守です。
大小天守の連結の内側の、このアングルは貴重ですね。
東小天守の先は、乾小天守の間にロの渡り櫓があります。
 
 
ここは、映画撮影にも使われる場所とのこと。
なかなか重厚感がありますね。
それと、別料金ということで、観光客の少なさが写真から見て取れますでしょうか。
非常に快適でした笑
このロの渡り櫓の床には、釿(ちょうな)の後が残っています。
 
 
釿の跡は、独特の雰囲気があって、個人的には大好きです。
ロの渡り櫓の先は乾小天守。
大天守の対角にある小天守で、3棟ある小天守の中で最も規模が大きい櫓ですね。
ここからは大天守がよく見えます。
 
 
東小天守とロの渡り櫓もバッチリ。
 
 
続いて最後の小天守である西小天守。
 
 
なかなか貴重な体験でしたね。
公開は25日までです。
姫路城に寄る予定がある人は、是非見学してみてください。
特にロの渡り櫓と、いつもと違う大天守のアングルは、かなりお勧めです。
 
参考:
 

2025年2月15日土曜日

東信群馬埼玉ツーリング その8

前回のあらすじ
 
松井田城は、かなり良い城でした。
北条氏系城郭の緒戦としては、いい始まりですね。
 
松井田城の次の目標は、関東管領山内上杉氏の居城平井城。
ここも度々歴史に登場するお城ですからね。
しっかりと押さえておきたい所です。
ただ、素直に松井田城から見下ろせる国道18号線を東進してしまうと、高崎まで出てしまうので、少し戻って上信越道で東へ。
世界遺産になった富岡製糸場にも行ってみたいと思いつつ、時間も無いので吉井I.C.まで走り、南の山塊の麓を辿って行く県道41号線で平井へと進みます。
この道、なかなか良かったですね。
快走路というほど交通量は少なくなかったですが、遠くに山地を眺めつつ田舎らしい風景の中を、少しのアップダウンを重ねつつ走ることができました。
そして、西平井の交差点が。
その名の通り、この辺りはもう平井城の近くですね。
東の鮎川と、西平井の交差点のすぐ南を流れている荒神堀という小川が平井城の堀となっていて、交差点付近は城外ではあったんですが、関東管領山内上杉氏の居城でしたから、この辺りまで城下町があったのかも知れません。
交差点の南には、その荒神堀を示す案内が建っていました。
 
 
ここから南は城内ということになります。
武家屋敷が基になっているのかなという感じの集落を進んで行くと、平井城の土塁が見えてきました。
 
 
これは残念ながら復元なんですが、象徴的だったので、感慨深かったですね。
このほか、土塁跡や堀跡の碑も建てられていました。
城址公園内部には、色々な案内板が建てられています。
 
 
 
 
 
 
 
さらに奥には、上杉氏の碑が。
上杉氏の本拠らしさが残っていますね。
  
 
この奥には、天然の堀である鮎川沿いの河岸段丘も見えました。
当時はなかなか壮大なお城だったんでしょうね。
 
平井城の南西には、平井城の詰城といわれる平井金山城があります。
平井城からさらに南に進むと、県道175号線との三差路に出るので、右折してしばらく行くと、立派な駐車場が用意されていました。
でも・・・時間が無い。
今日中に鉢形城に寄って、行田まで行かないといけないんですよね。
こんな家から遠い場所で登城を見送るのは無念でしたが、遠景を写真に収めて平井を後にしました。
 
 
 
つづく
 
参考:
 

2025年1月6日月曜日

2025走り初め

2025も年が明けましたね。
明けましておめでとうございます。
今年は去年のように、新年早々暗い話題が無いように、平和に過ぎてもらいたいものですな。
 
さて、正月休みと言えば、走り初め。
やっぱり休みの間に走っておかないと!という訳で、例年のごとく神出神社にお参りしてきました。
三木市寄りの神戸市西区にある神出神社までは、数10分の行程です。
以前は、正月に餅ばっかり食べて正月痩せというのがあったんですが、それも無くなってしまったので、重い体を動かすために、まずは徒歩でお参り。
神出神社のある雌岡山の山道は、花崗岩質で滑りやすく、斜度の割に体力が要りますが、距離が短いので、なまった体のウォームアップとしてはちょうどいいですね。
正月三ヶ日は過ぎていましたが、ちらほらと参拝客がいます。
お参りをして、お御籤を引くと、小吉。
しかししかし、今年はもうすでに元日に大吉を最初に引き当てているので、意味不明な余裕がありますな。
雌岡山からの景色は、相変わらず爽快!
 
 
去年もそんなに天気が良くなかった印象ですが、今年はもっと良くない感じです。
でも、大吉をすでに引いてあるので余裕!(何が?)
少し汗が引いたら、来た道を下山。
そして、今度は山道をバイクで駆け上がって、バイクもお参りさせておきます。
去年は、ツーリングに関しては散々だったので、今年は連休を取った日に晴れることをお願いしておきましょう。
 
参考:
 

2024年12月26日木曜日

2024年走り納め

2024年ももう終わりますね。
ということで、走り納めをしてきました。
仕事の関係で、12/25に。
クリスマスツーリングやないかい!
さすがに赤白の帽子は被りませんが、クリスマス気分でぶらりと遠回りしながら三木へ。
なんとなく冬場でぶらりと行くと、三木か稲美町か呑吐ダムか、行き先が偏りますね笑
30分ほど走り、昼飯を食べようと、時々行く体育館のすぐ近くにあるレストランに向かいました。
小洒落た感じで気になっていたんですよね。
しかし、本日は予約のお客様のみとの文字が。
仕方ないので、三木の市街地に向かい昼食を摂りました。
お腹が落ち着いたところで、近くの明石道峯構付城跡へ。
 
 
この付城は、三木合戦の際に築かれた多くの付城のひとつで、平成11年になって場所がはっきり判ったという新しい遺跡です。
城としては、丘陵に築かれた3郭構成の城で、構造としては非常にシンプル。
高さといい、規模といい、ご飯の後の散歩にはちょうどよかったですね。
この遺跡は、ターゲットバードゴルフという、バトミントン的な羽が付いたボールを打つゴルフ場の横にあるんですが、ゴルフ場の駐車場に1台分の駐車スペースが史跡散策の方用として確保されていました。
これも、とても有り難かったですね。
なかなか良い走り納めになりました。
 

2024年12月16日月曜日

東信群馬埼玉ツーリング その7

前回のあらすじ
 
碓氷峠制覇!
峠と言いつつ、ひたすら下っただけですが。
 
何か、このツーリングの話がなかなか進まず、月刊のようになっていますが、ようやく長野を脱出しました。
長野群馬県境の碓氷峠を下ると、そこは群馬県。
旧国名では信濃と上野の境となりますが、ここは勢力の境目でもありましたね。
室町時代には、鎌倉公方の管轄であった上野国と、幕府の管轄であった信濃国の境目で、戦国時代に入ると、上野の守護でもあった関東管領山内上杉家が勢力を増すと峠の西の信濃側へ影響力を及ぼし、戦国大名化した武田家が信濃まで進出すると、峠の東の上野側まで勢力圏を拡げました。
国境は、ちょうど天秤の真ん中のような感じでしょうかね。
ここを中心に、信濃側に傾くのか、上野側に傾くのか。
戦国時代の中期から後期に差し掛かると、上野まで北条氏が進出しますが、西上野は武田領のままで、碓氷峠から安中の辺りは武田家臣となった安中氏が支配していました。
それが、武田氏の滅亡を経て、武田氏旧領を併呑した信長が本能寺の変に倒れると、武田旧領では武田旧臣が蜂起し、それぞれ徳川氏と北条氏が支援したことで、両者による争奪戦である天正壬午の乱が繰り広げられます。
しかし、この戦いは膠着状態になってしまい、両者で甲斐信濃は徳川領、上野は北条領にするという手打ちが行われました。
この手打ちによって、信濃から上野に掛けて領地を持っていた真田昌幸がヘソを曲げるわけですが、それは同じ上野でも北西辺りの別のお話。
安中辺りの西上野は、手打ちの通り北条領となり、北条氏の伊豆時代からの重臣の家系である大道寺正繁が、境目の城として松井田城を大改修するわけです。
今回、ここまで来た主目的のひとつは、この松井田城。
いよいよですね。
横川から少し東に行くと、松井田の集落へと入ります。
ここには菩提寺があり、ここにも松井田城の説明板が。
 
 
ここから北へ走り、松井田城のある山塊へと入って行きます。
ちょっと足で登らないといけないかとも思っていたんですが、幸いにも山道を登った先の駐車場がもう城域の一角で、すぐに散策に入ることができました。
 
 
この松井田城は、別城一郭のようになっていて、安中氏時代の城と、大道寺氏時代の城が峰筋に並んでいます。
このほかに、詰城と呼ばれる場所も西にあり、集落にあった松井田の居館の詰城だったと推測されていますね。
それだけ、それぞれの時代で要衝として重視されていた地域だったということの証になるでしょうか。
城の駐車場の辺りはもう城内で、早速、堀切と土塁が出迎えてくれます。
 
 
良きですね。
次に向かうのは本丸北側。
横堀がありました。
 
 
続いて武者溜。
 
 
そして連続竪堀が見えます。
ただ、例のごとく写真ではちゃんと見えないんですよね。
 
 
続いて大手門跡。
 
 
巨石の石垣の痕跡が残っています。
ここから先は、いよいよ主郭部ですね。
まずは馬出。
 
 
そして二ノ丸へと入って行きます。
二ノ丸の西側突端には、土塁が残っていました。
 
 
同じく二ノ丸の南側。
 
 
いよいよ本丸へ。
 
 
本丸には櫓台もありました。
戦国時代も末期に整備されたので、天守的な櫓だったのかも知れませんね。
今は社が祀られています。
 
 
松井田城は、上で書いたように時代の異なる2つの城が一城別郭のように並んでいるんですが、東へ進んで行くと、その古い時代の城郭が見えてきました。
安中郭です。
 
 
こちらは細長い峰筋を削平した感じで、中世的な匂いが強いですね。
奥へと進んで行くと、松井田城址碑がありました。
 
 
詳しい話は分かりませんが、安中郭だけが安中市の史跡になっているようなので、そのためですかね。
安中郭から下りて行くと、S型空堀がありました。
 
 
この辺りまで下りると、再び北条氏の匂いが強くなりますね。
滝山城の長大な堀を思い出しました。
さらにその先には水ノ手があります。
 
 
いや~、大きな城でしたね。
非常に満足です。
ちょっと文と写真が多くなり過ぎたので、今回はここまでにしましょうか。
次回は、いよいよ管領山内上杉氏の居城平井城です。
 
つづく
 
参考: