2020年7月30日木曜日

鹿児島熊本ツーリング その14

前回のあらすじ
 
17年掛かりで八代三城を攻略!
 
霊台橋を出発して、目指すは通潤橋。
そのまま国道445号線を北東へと進んで行くと、快走路を15分少々で到着です。
平日ということもあって、駐車場もまばらで散策にはいい感じでした。
通潤橋は、五老ヶ滝川に掛かる水路橋ですが、その五老ヶ滝川は丘陵をぐるりと北から西、南へと廻っており、その南の部分に架かっています。
丘陵地の三方を巡る川。
城には最適な場所ですな。
そう、ここは阿蘇氏が本拠を置いた城のひとつ、岩尾城跡でもあるんですね。
通潤橋が有名で、岩尾城の二ノ丸から通潤橋を眺めることができることから、何となく西側が城の正面のようなイメージを持ちがちですが、五老家滝川を北に挟んだ向かいの矢部高校の場所に浜ノ館という阿蘇氏の平時の居館があったことから、岩尾城の正面は北になるんでしょう。
丘陵の北側に本丸、南に二ノ丸、東に三ノ丸ということは、矢部高校から南に渡って三ノ丸、二ノ丸の脇を通って本丸という動線だったのかもしれませんな。
 
とりあえず、散策するとしましょう。
まずは、通潤橋から。
この時期、稲穂と通潤橋が映えますね(^^)
 
 
農業用水の水路橋ですから、この黄色い風景がよく似合う。
ただ、熊本地震による補修中で、水は通っていませんでした。
前回2001年に来た際も補修中で、蓋の開いた貴重な姿を拝めましたが、また補修中とは。
ある意味、ついているのかもしれない(^^;)
この写真の左手は丘陵になっていますが、ここが岩尾城の二ノ丸です。
通潤橋を上から見る為に遊歩道が付けられており、木々や草が刈られている二ノ丸の形状がわかり易かったですね。
まず目に入るのは説明板。
 
 
遊歩道を登っていくと、二ノ丸の腰郭が見えます。
 
 
そして、上から数えて三段目の削平地。
 
 
続く二ノ丸の下段。
この削平地はなかなか大きい。
 
 
ここから通潤橋を眺めることができます。
 
 
二ノ丸には、もうひとつ上の段もあります。
 
 
前回は城の全容を知らず、二ノ丸周辺を散策しただけでしたが、この北側にも城が続いているんですよね。
現地にもっと案内があってもいいんじゃないでしょうか。
でも、普通の観光客は、そこまで城に興味無いか・・・
二ノ丸から本丸へ向かおうと北へ歩くと、二ノ丸北側に空堀のような地形がありました。
でも規模が小さいので、ただの排水路かもしれませんね。
 
 
判断が難しいですな・・・
大きさもそうですが、風化した感が無いんですよね。
昔に比べると文化財への意識が強くなってますから、新しく掘ったというのも考えにくいですが。
続いて、本丸と二ノ丸の間の削平地。
 
 
本丸方向へ歩いて行くと、古いながらも縄張図の説明があります。
 
 
本丸へ登って行く途中で、三ノ丸を上から撮ってみました。
ただ、三ノ丸はあまり整備されていませんでしたね。
 
 
続いて本丸下段。
腰郭的な感じですね。
 
 
いよいよ本丸。
本丸は境内地となっていました。
 
 
さすが阿蘇氏の本拠城。
中々の規模です。
前に来た時、二ノ丸だけ見て、思ったより小さいななんて思ってすいませんでした(> <)
 
つづく
 
参考:
通潤橋
岩尾城
地図付きはこちら
 

2020年7月26日日曜日

浄土宗の日常勤行式

先日、身内に法事がありまして、その家の宗派が浄土宗だったんですが、ウチは現世利益の色が濃い商人御用達の法華宗なので、それと比べて色々と作法が違って面白かったですね。
その法事では、お坊さんから日常勤行式次第という本が配られ、中身は偈とか礼とか請と呼ばれるものが解りやすく書かれていました。
研究者じゃないので詳しくは知らないですが、偈は自らの表明など、礼はそのまま形式的な挨拶のようなもの、請もそのままお願いというような感じでしょうか。
法事は、それに沿ってみんなで唱しながら進んでいったんですが、普段の、ほぼ聞いてるだけのウチの法事と勝手が違って、新鮮でした。
この日常勤行式というのは、浄土宗では日々の御勤めのことらしいですが、恐らく浄土宗が宗派として確立していく間に、色々足されたり引かれたりして今の形になったと思われ、興味深かったですね。
漢文と和文、それぞれ特徴があり、浄土宗について書かれたものや、大師の御言葉、日々の心得など、哲学的な事から日常に近い所まで非常に幅が広く、何となく文章が成立した頃の雰囲気まで伝わるようでした。
漢文は五言、七言で、残念ながらスラスラと読むような技術は持ち合わせていませんが、漢字にリズムがあり、読みながら漢字の意味を追っていくだけでなかなか面白かったですね。
現代でも使われている熟語に親近感を覚えたり、更にその読みが違うかったり、聞き覚えはあるけどめったに聞くことが無い熟語なんかも出てきて、面白かった。
一方の和文は、それこそ成立した頃の空気をダイレクトに反映しているようで、こちらは言葉が生々しかったですね。
当然、現代とは言葉遣いが違いますから、サラッと聞くと呪文化しているんですが、成立した当時はもちろんそれが生きた言葉で、迷いや苦悩を抱えた信徒には響いたことでしょう。
これに加え、金物の鋭く単調な音と焼香の臭い。
一種のトランス状態へ向かわせる舞台照明ですな。
葬式仏教と言えども、宗教はやっぱり宗教なんですね。
 

2020年7月19日日曜日

鹿児島熊本ツーリング その13

前回のあらすじ
 
メインターゲットである古麓城を攻略!
 
古麓城を後にして向かうは麦島城。
八代城は、2001年に行っていますから、麦島城を攻略すれば、室町・戦国時代の古麓城、安土桃山時代の麦島城、そして江戸時代の八代城と、八代の支配拠点だった3城を制覇したことになります。
麦島城は、麦島の中洲にある城で、古麓城からは至近ですね。
古麓城へと辿った道を戻らず、球磨川沿いに出て土手道を走って行くと、左手に見えるのが麦島の中洲。
国道3号線に入って、そのまま流れに任せて橋を渡れば、もう麦島です。
そのままズバリの麦島交差点を西に折れ、麦島の真ん中あたりまで進むと麦島城跡なんですが、残念ながら道沿いに表示は無いので、キリシタン殉教者列福記念公園を目印に、住宅地の中へ突入。
これ、車では絶対通れない細い道ですね。
バイクで良かった(^^)
すると、住宅地の中に青々とした芝生が綺麗な公園がありました。
 
 
記念公園にバイクを止め、少し南に行くと、天守台跡とされる小山があります。
 
 
縄張図によれば、この天守台跡は、当時の北半分ほどが残っているみたいですね。
ここに、城址碑と説明板もありました。
 
  
説明板の拡大。
 
 
もうひとつの説明板。
 
 
麦島城は、部分的に発掘調査がされていて、説明板によれば、石垣なども八代古城館で見られるとのこと。
ちょっと見てみたかったんですが、この時にはもう13時過ぎ。
宿を予約しているのが阿蘇の向こう側の原鶴温泉ですから、ちょっと時間が足りない。
例によって例のごとく、どうやらちゃんと昼ご飯を食べてる時間も無さそうです。
うむ、先を急ごう。
 
麦島城から、県道42号線で前川を北に渡ったんですが、八代の支配者が重要視した外港徳淵津は、この橋の真下、前川の位置にありました。
中世から江戸時代初期までは入り江で、その後の細川氏時代に前川が開削され、球磨川の支流の一部になったんですね。
それと同時に麦島が分離されて、島になったというわけです。
ただ、中世に湊として整備されるよりはるか前は、氾濫時には水が流れる流路なんかがあって、厳密な半島ではなかったように思うんですよね。
麦島自体も平坦な中洲ですし、徳淵がなぜあのような細長い入り江だったのかを考えると、球磨川の、恐らく時代によっていくつか存在した古い流路のひとつだったと考えたほうがすっきりします。
球磨川が湾曲しているが故に、その部分に土砂が溜まって流路が変わり、その跡が徳淵の入り江になった、といったところでしょうか。
あくまでも完全な推測ですが(笑)
前川の橋を渡って北に行くと、八代城が右手に見えてきますね。
麦島城も今の八代城こと松江城も、徳淵の南北に位置しており、経済重視の近世城です。
徳淵津の繁栄は無くなってしまいましたが、この2つの城を考える上で、徳淵津は切っても切れない関係なんですね。
 
さて、懐かしい八代城の石垣を右手に見ながら、県道14号線へと入り、そのまま北東方向へ。
スマホの地図を見ていると、この県道14号線が旧国道3号線だったような雰囲気ですね。
県道14号線をしばらく進み、九州新幹線をくぐった所で適当に右折。
千丁という変わった地名に興味を抱きながら、千丁駅の横から東へ抜けて国道3号線へ。
そして、国道443号線から阿蘇方向へ進んで行きます。
この400番台国道は、川沿いでなかなか気持ち良かったですね。
やっぱりツーリングはこうでなくっちゃ。
国道218号線で出たところで、交通量もちょっと多くなったので、コンビニでサンドイッチの昼食を摂り、国道218号線から今度は国道445号線へと入って行きます。
そして、国道445号線が緑川を跨ぐ霊台橋で写真撮影。
 
 
江戸時代にこんな橋を架けるなんて、凄いですな。
パッと見ただけでは、明治から大正ぐらい架けられたんかな?というぐらい精度が高く、モダンな仕上がりになっています。
ちなみに、橋上はこんな感じ。
 
 
今の国道鉄橋がすぐ横を通っています。
 
 
この霊台橋も、2001年に予備知識も無く休憩しているんですが、ちゃんとした写真が無かったんですよね。
ミッション達成ですわ。
しかし、記憶力の交代が激しい今日この頃、写真は記録と言う意味で非常に大事ですな(^^;)
 
つづく
 
参考:
麦島城
霊台橋
地図付きはこちら
 

2020年7月12日日曜日

7月の風

九州や飛騨、長野などで豪雨が続いていますが、酷くはないとは言え、神戸もここのところずっと雨模様です。
ところが今日、曇天ながら雨は降らず、乾いた路面が何だか新鮮でした。
こんな日は走らないと!
ちょっと用事があったんですが、隙を見て、17時ごろから30分だけ出撃してきました。
曇天で風も強かったんですが、そのせいもあって、とても心地よく走れましたね。
7月でこんなに気持ち良かったのは、記憶にありません。
汗もかかず、風は強くても体は冷えず、本当に気持ち良かった。
7月にこんな体験ができるとは。
新型コロナウイルスのせいで春のツーリングには行けませんでしたが、この30分でそれを取り返せるぐらい満足度が高かったですね(^^)
この為にバイクに乗ってるってのを実感した日でした。
 

2020年7月9日木曜日

筑後川氾濫

ニュースを見ていたら、筑後川の氾濫のニュースで泰泉閣が写っていました。
泰泉閣のある原鶴温泉は、中洲状の場所にありますから、筑後川が氾濫してしまっては、確かにひとたまりも無い場所です。
自分はこの温泉旅館に、2018年に泊まったんですよね。
目の前に筑後川が見え、趣向が凝らされた温泉もあり、朝食のバイキングも美味しく、とても良い旅館でした。
入る事ができる時期では無かったんですがプールもありましたし、設備は豪華でしたね。
その知ってる旅館が水害に遭うとは・・・
ちょっとショックでした。
ホームページを見ると、1週間程度で再開予定ということですので、致命的な被害ではなかったようですが、それでも営業を止めるというのは、コロナの影響も大きい中、非常に厳しいと思います。
なんとか頑張って欲しいですね・・・
 

2020年7月6日月曜日

麒麟がくるまでお待ちください

鼻歌交じりに20:00、いつものようにテレビ前にスタンバイ。
さて今日は何の名場面かな?と思っていたら、
小池百合子氏当選確実!
そうでした・・・
今日は都知事選挙だったねぇ
誰がどう見ても一強で、しかも自分と関係無い地方首長選挙の関心なんて、こんなもんだよなぁ(^^;)
 
ちょっと話が逸れましたが、麒麟がくるまでお待ちください、楽しみに見てます。
独眼竜政宗に国盗り物語、まだ生まれて無かったり、幼くて大河ドラマに興味が無かった頃の作品ですから、見ていて新鮮です。
今では貫禄たっぷりの渡辺謙や高橋英樹、近藤正臣が若い若い!
で、ちょっと気になったんですけど、昔って主役の年齢が若かったよな、と。
そこでちょっと調べてみました。
幕末ものは、志士自体がたいてい20代から30代なので若手がやるとして、老年まで演じる可能性のある戦国ものをwikipediaでいくつかピックアップ。
 
1965年 太閤記 緒形拳 28歳
1969年 天と地と 石坂浩二 28歳
1973年 国盗り物語 平幹次郎 40歳 高橋英樹 29歳 近藤正臣 31歳
1983年 徳川家康 滝田栄 33歳
1987年 独眼竜政宗 渡辺謙 28歳
1988年 武田信玄 中井貴一 27歳
1992年 信長 緒形直人 25歳
1996年 秀吉 竹中直人 40歳
1997年 毛利元就 中村橋之助(当時) 32歳
2002年 利家とまつ 唐沢寿明 39歳 松嶋菜々子 29歳
2006年 功名が辻 仲間由紀恵 27歳 上川隆也 41歳
2007年 風林火山 内野聖陽 39歳
2009年 天地人 妻夫木聡 29歳
2011年 江 上野樹里 25歳
2014年 軍師官兵衛 岡田准一 34歳
2016年 真田丸 堺雅人 36歳
2017年 おんな城主直虎 柴咲コウ 36歳
2020年 麒麟がくる 長谷川博己 43歳
 
こうして見ると、90年代半ばまでは、大体20代後半から30代前半の役者さんが起用されていますね。
ちょっと様相が変わってくるのは竹中秀吉40歳あたりから。
女性の主人公は概ね20代後半ですが、男性は30代後半を中心とした分布に変わってきます。
芸能界も割と高齢化が進んでいますから、業界的に同じようなポジションの人を起用しても、年齢としては上がってしまうという傾向があるのかもしれません。
それと、以前の大河ドラマは興隆していく様を描くのがひとつのパターンでしたが、現在は、主人公の人としての葛藤の部分がより重視されています。
そういう演技を求めるなら、イキの良い若い人の演技よりもしっかりと演じられる人を、というキャスティングの傾向が出ているのかもしれませんね。
ちなみに、今年の麒麟がくるの明智博己は、この一覧の中では最高齢になります。
そして、今作は見た目を合わせる為なのか、脇役陣も同様の傾向が。
前にもちょっと書きましたが、伊藤義龍44歳に対して、実際の斎藤義龍は長良川の合戦の時で29歳、享年は35。
ユースケ義景(朝倉サンタマリアにするとなんだか美人っぽい!)49歳に対して、実際の朝倉義景は長良川の戦い直後の年齢は23歳で、享年は40。
更に、若そうな設定に見える岡村菊丸が50歳。
通説では光秀より年下のはずの佐々木秀吉52歳。
なかなか厳しいですな(^^;)
役者さんも、若い時代の演技には結構苦労してるとは思いますが、全体的にもう5歳若いキャスティングでいいような気もします。
そう、染谷信長27歳ぐらいがちょうどいい。
今回の信長は、成熟し切れない感じで狂気が垣間見えて、新たな信長像としてなかなか良いですしね。
今後、信長と光秀の関係性がどう描かれていくのかが楽しみです(^^)