2020年6月30日火曜日

香港国家安全維持法成立

今日、中国全人代で香港国家安全維持法が成立しました。
このことは、香港に関する問題だけではなく、米中、または旧西側諸国と中国の間で、間違いなく分岐点になる出来事なんでしょうね。
いや、分岐点と言うよりも、容易に想像ができた既定路線の中の大きな区切り、つまりただのマイルストーンと言った方が正しいのかもしれません。
 
1997年7月1日に香港がイギリスから中国へ返還されるということが確定した1984年の共同宣言の際、当時のトップだった鄧小平が、香港特別区の高い自治性の維持を約束し、50年間に渡って社会主義政策を香港に適用しないということを約束しました。
これにより、現在の一国二制度の骨子が定まり、途中で天安門事件を挟みつつも、ソ連の崩壊などもあって融和的な環境が整い、約束通り1997年に中国へと変換されたんですね。その後、中国のWTOへの参加もあり、旧西側の自由主義諸国は中国が徐々に自由化、民主化して行くものという幻想を抱いたと思います。
しかし、WTOの自由主義体制に参加しつつも、完全に貿易の障壁を取り払わずに美味しいどこ取りの状態のままで、更に習近平総書記の就任以降は覇権主義を隠そうとしなくなりました。
そして、香港についても、約束された50年の半ばすら超えずに中国化を進めて行くわけです。
ここ数年はそうでしたが、このことは旧西側諸国の、中国は変わるだろうという幻想にいよいよとどめを刺した可能性がありますな。
これに敏感に反応しているのがアメリカで、数日前から中国当局者のビザの制限を始め、軍事装備品の輸出停止を発表しており、以前にトランプ大統領が表明していたように、香港に対する優遇措置は次々と停止されて行くでしょう。
まして米中対立の最中で、米国原産の技術について非常に厳しい締め付けを始めていますからね。
交渉や緩衝の余地がほぼありません。
今後、中国向けの金融窓口として機能していた香港は、試練の時を迎えるでしょうね。
中国も、もう旧西側からの幻想が無い分、美味しいとこ取りはできず、このままであれば、西側の技術系統から徐々に離れて行かざるを得ないかもしれません。
コロナ禍の中、各国共に余裕が無くなっており、いよいよ国際情勢も目が離せなくなってきましたな。
 

2020年6月25日木曜日

鹿児島熊本ツーリング その12

前回のあらすじ
 
鹿児島さようなら。熊本こんにちは。
 
水俣城を後にして、国道3号線を進んで行くと、数km先に津奈木という小さな町があります。
17年前、この津奈木駅前の公衆電話から旅館に電話をし、湯の児温泉でなんとか宿を確保したことを思い出しますな。
あの当時は、携帯からインターネットは辛うじてできましたが、予約できる宿なんてほとんど無く、長旅をしている身の上では、ほど近い場所まで行ってのタウンページが頼りでした。
人生で一番テレホンカードを使った期間だったかもしれません(笑)
その頃のテレホンカードがまだ2000円分ぐらい残っているんですが、このスマホの時代にどうしたもんでしょうか・・・
という脱線はほどほどにして、この津奈木という小さな町にも城がありました。
17年前は、目標とはしていなかったんですが、通りすがりに案内表示を見て、指し示されるまま山道を上って行ったわけです。
しかし、その時は城跡の公園が工事中ということで、立ち入り禁止になってました。
今回はそのリベンジ。
遠い記憶を辿り、確か国道3号線の熊本側に案内があったはず・・・と思いながら走ってみると、南九州道ができた影響で、記憶の景色とは全く違っており、ちょっと混乱しました。
南九州道まで走って明らかに通り過ぎてしまったので、Uターンし、戻ってくると、当時の記憶のままの案内表示があり、「おぅコレコレ」と、そこから細い山道を上って行きます。
結構な距離でしたが、ウネウネとした山道を上って行くと、舞鶴城公園へと到着しました。
17年前は工事中でしたが、その工事でかなり綺麗に整備されていますね。
当時は倒れていた説明板も、今は新しくなり、写真なんかもあって分かりやすくなっています。
 
 
案内板を見ると、津奈木城は本丸と二ノ丸という2区画がある城の模様。
ただ、これだけ両区画が離れていると、本丸と二ノ丸という言い方は似合わないですね。
南九州らしく○○城と呼んだ方が、相応しいかもしれません。
舞鶴城公園は本丸の直下の削平地で、恐らく物見台としても使われていたであろう写真の重盤岩と本丸との間を繋ぐ場所であり、城番なんかの居住区画として使われたのかもしれませんね。
 
 
駐車場にバイクを止め、本丸へ登ると、本丸はざっと2段構成のシンプルな郭でした。
まず下段から上段方向を撮影。
 
 
次に上段のテレビ塔。
 
 
一番初期の城郭は、この2段だけだったのかもしれませんね。
本丸から東方向の眺望。
視界が開けています。
 
 
この他、公園入口付近には、明確な堀切も残っていました。
ただ、二ノ丸と呼ばれる別区画への道は無いようで、そこだけは残念でしたね。
案内図を見る限りでは、複数の段を重ねた中世山城らしい技巧的な構造のよう。
もしかすると、本丸一帯の郭と、二ノ丸と呼ばれる郭では、築城時期が違うのかもしれませんね。
 
津奈木でリベンジを無事に果たしましたが、早くもいつものようにちょっと時間がヤバくなってきました。
丁度、というか狙い通り、津奈木の町のすぐ北には南九州道の津奈木I.C.があり、八代南I.C.まで時間短縮。
そこから国道3号線に入り、肥後高田駅前から妙に直線的な道をスルっと抜けて国道219号線へ。
この肥後高田駅前から北東方向に延びる直線的な道は、旧国道か何かだったんですかね。
妙に真っすぐで妙に流れが良い道でした。
成り立ちが気になるところです。
スマホの地図を眺めていると、次の古麓城へ行くには、球磨川を少し遡った所にある橋から行くのが最も近そうなので、国道219号線で球磨川を少し遡ったんですが、橋があるはずの所に見えてきたのは、
遥拝堰!
橋ちゃうんかい!
スマホに道っぽく写ってるのに、道ちゃうんかい!!
ということで急いでUターン。
国道219号線で球磨川を渡って国道3号線を経由し、旧市街を抜け、春光寺と古麓稲荷神社の間を上って駐車場へようやく辿り着きました。
時間のロスは最小だったはず(^^;)
今回のツーリングの目玉でもある古麓城。
中学生ぐらいの頃に、「なんて読むねんこの城」が城を知った切っ掛けでしたが、歴史を調べてみると、肥後南部のとても重要な城ということが分かり、いつか来たいと思っていたんですね。
いよいよその時が来ました。
駐車場には案内板もあり、城に来た気分を盛り上げてくれますね。
 
 
古麓城は、歴史上では7つの城があり、それらを総称しての名前です。
登山道が通じている新城は、比較的新しい時期に築かれた城で、大きな湊町であった八代を支配した相良氏によって築城されました。
この新城のある峰にいくつかの城が築かれていますが、南西側の谷を挟んだ峰にも飯盛城と呼ばれる区画があり、ここが名和氏が築いた最初期の城と言われています。
新城を中心とする区画の各城の位置関係を示したのが下の鳥瞰図。
実に広大ですな。
 
 
さて、駐車場から整った道をしばらく行くと、いよいよ登城の山道へと入って行きます。
その入口にも説明板が。
 
 
この登山道は、かつては石畳だったようです。
大手だったんでしょうか。
 
 
途中、段郭を横目に見ながら登って行くと、突然という感じで新城の下段に着きました。
ここはなかなか広い郭で、新城の上段の北側を半周する感じで削平されています。
広さからすると、居住空間として使われたのかも知れませんね。
 
 
下段から切岸を直登するような急階段を登ると、新城上段です。
 
 
ここからは八代、かつての徳淵津が見下ろせました。
写真ではあまり見えていませんが・・・
 
 
新城にも案内板があります。
これが一番、案内板としては解りやすかったですね。
 
 
新城を下って北東方向には、細長い郭と大きな堀切があります。
ここにも説明の杭が建てられていました。
 
 
堀切の上には橋が架けられており、その上から堀切がよく見えます。
 
 
いや~念願の古麓城攻略ですな。
ただ、新城以外の城への案内が皆無だったのがちょっと残念でしたね。
等高線のある地図もありましたが、丸山城は新城を始めとする郭群からやや独立していて、古麓稲荷社あたりから南へ入るような感じです。
最初期の飯盛城はもっと離れていて、城下町だったにべ谷のにべ神社辺りから登山道へ入れるのかも知れません。
今回は時間の関係で新城だけでしたが、いつかまた再訪して他の6城を散策してみたいですな。
 
つづく
 
参考
津奈木城
古麓城
地図付きはこちら
 

2020年6月18日木曜日

第201通常国会閉会

コロナで非常にバタバタした印象のある通常国会が、閉会しました。
コロナがやや落ち着いて来た情勢でもあるし、野党は相変わらず建設的な議論ができないし、河井夫妻の捜査もありますし、閉じてしまって良かったと思います。
特に、河井夫妻は国会議員ですから不逮捕特権もありますし、100%の確率で野党が検察の真似事をするでしょうしね。
国会を開くのもお金が掛かりますから、本筋の特捜部に任せるのが一番ですな。
ちゃっちゃと捜査してやって下さい。
 
で、今回の国会で決める事無く保留されたものに、9月入学があります。
これに関しては、現状維持で取りあえずは良かったと思いますね。
何故なら、メリットが少なすぎるから。
国内においては、会計年度が4月からということで予算編成が容易ですし、会計年度に合わせて3月末で決算という企業も多いのが現状です。
つまり、国内状況としては、現状で結構合理的なんですよね。
そうなると、入学時期を9月にすることで色々とずれが生じ、かなりの混乱が予想されます。
採用に関しては、通年採用に移行して終わりでしょうが、扶養する側としては半年分の計画のずれが生じますし。
ただ、それよりも、個人的には「コロナの混乱に合わせて半年遅らせる」というのに対して、デメリットが大きすぎると感じますな。
なぜなら、これを実施すると、日本は世界に比べて1年遅れになるからです。
世界的に見て、入学月は8月~9月にかけてが多く、グローバルスタンダードと言えますが、4月生まれで例えると、6歳半での入学なんですね。
日本で4月生まれだと7歳。
半年遅らせれば7歳半です。
9月入学推進派は、グローバルスタンダードに合わせるというのを大義名分にする場合が多いですが、今回のように半年遅れで入学させるとグローバルスタンダードから外れるんですね。
このグローバルスタンダードに合わせると言いながら外れることになる矛盾。
すごくモヤモヤしてました。
あと、留学生が来にくいから制度的に来やすいようにする、というのも理由としてよく語られますが、9月入学の中国から山ほど留学生が来とるやないかい、と。
結局は大学の魅力なんですよね。
その本質的な部分を何とか改善しないと、小手先の変更に終始するだけで、混乱という無駄なコストが掛かるだけ。
ま、中国から沢山来るのは、バイトができるというのが最大の魅力なんで、理由がアレなんですが・・・
ともかく、9月入学をやるとしても、半年前倒しですな。
半年遅らせるのはデメリットが半端なく多すぎます。
また、早生まれは不利という事で計画出産した家庭もありますから、導入の相当前から議論と周知を進め、幼稚園の入園時から切り替えないといけません。
 
個人的な考えとしては、この9月入学に関しては2期制の徹底でいいんじゃないかと思うんですけどね。
どうせ単位は前期後期で判定されるわけですから、それを徹底して、規定の単位数を取得すれば3年半で卒業も可とするというのでもいいと思います。
留学生は後期から入学でいいでしょう。
高等教育機関なわけですから、優秀な人はどんどん先に進んでもらう。
我が友人のように勉強が好きということで5年で卒業した人もいますが、これが1単位や数単位の差で卒業を逃したという人なら、4年半で卒業できるという道も開けます。
文系で、4回生は数単位だけで後はほぼ就職活動みいな訳の分からない状態も、さっさと3年半で卒業すれば改善できるでしょう。
お金持ちの家は、モラトリアムをたっぷり楽しめばいいですが。
採用は、世界で人材が流動化する中、経団連なんかは移行したがってますから、前述のように通年採用で問題ないでしょう。
3年半で卒業して半年インターンというもアリですしね。
学費がその分安くなれば、返済型奨学金を受けている苦学生も楽になるし、扶養する側も助かる。
大学の経営は、その分、大変になるかも知れませんが・・・
こんな制度はいかがですかね?
 

2020年6月11日木曜日

鹿児島熊本ツーリング その11

前回のあらすじ
 
あんなにお城を探したのは久々かもしれん・・・
 
いよいよ本日で鹿児島ともお別れです。
その感慨を胸に、いつものように朝風呂を浴びると、露天風呂のすぐ裏手がマンションということもあって、平日の朝の住宅地の音が、そこにはありました。
平日のホテルの朝風呂。
俺・・・今日も働かんでええんや・・・
これぞ、労働者ならではの、優雅さを感じるポイントですな。
温泉から上がり、朝食バイキング会場に向かうと、これがなかなか眺望の良いレストランで、清々しく朝食を頂けました。
この場所は多分、結婚式やイベントなんかにも使われる場所なんでしょうね。
屋外テラスや照明用の器具なんかもあって、なかなか良さそうな感じでした。
そういえば昨日、ホテルに着いた時にぞろぞろと団体さんが出て来ていましたな。
そういうイベントを盛んに催しているホテルなのかもしれませんね。
 
ゆったりと過ごせたホテルキングを出て、向かうのは出水城。
宿をここにしたのも、出水城から近いからです。
18年前に辿り着けなかった城ですなのが、調べてみると、城の大部分は立入禁止になっているようでした。
そりゃ辿り着けんわ。
でも、城のすぐ近くまで行けるようなので、観光名所となっている武家屋敷の裏山にあたる城山の方向へと進んで行きます。
出水城は、最初は肝付氏系和泉氏が築城し、そのまま出水の地を支配していましたが、やがて島津氏系和泉氏が支配するようになり、その断絶後の享徳2年(1453)に、宗家の久豊の子用久が入城して薩摩守を名乗ったことから、島津薩州家の城となりました。
この薩州家は、島津忠良・貴久父子と壮絶な家督争いを演じた実久を出したことで有名です。
実久は、一時は実質的に島津当主として振る舞ったとされますが、やがて忠良・貴久父子に追い落とされ、実久の子義虎は貴久の子義久に臣従しました。
義虎の子忠辰はこれに不満だったようで、朝鮮の役の際に軍務を怠り、それによって改易され、秀吉の直轄領を経て島津宗家が領する事になったようですね。
この間、城の動向は不明となりますが、江戸時代の島津家の外城制度が最も早く始められたのがこの出水とも言われ、城はともかく、出水の地は領境に近いことから、島津家は重視していたようです。
さて、その出水城ですが、国道328号線のすぐ北側の城山墓地がその一部ということで、墓地へと向かう細い道をゆるゆると上って行くと、やがて駐車場に到着しました。
この駐車場の向かいの細長い公園が、花見ヶ城と呼ばれる城の郭の跡です。
 
 
公園には、説明板もありました。
 
 
縄張図を拡大。
 
 
この写真の左端が花見ヶ城です。
名前からすると、桜でも植えられていたんでしょうか。
しかし、この公園の大きさから想像すると、他の郭を含めた城の規模は相当大きいことになりますね。
さすがは宗家継承まであと一歩だった薩州家の居城といったところ。
この花見ヶ城の横にふと目をやると、遊歩道の階段がありました。
 
 
これは典型的な、シラス台地を利用した群郭式の城ですな。
階段の勾配がエグい。
さて、問題の主郭部分ですが、予想通り立入禁止でした。
 
 
道があるので、いつか城跡として散策できるよう整備して欲しいところですね。
この奥に花見ヶ城と同じような大きさの郭が7つほどあるはずなんですから。
メジャーな観光地・・・にはならないかもしれないですけど、自分みたいな物好きはいっぱい来るはず(^^;)
最後に、公園の崖から出水市街。
 

実久もここから城下町を見ていたんですかねぇ
 
いよいよ、丸2日間滞在した鹿児島に別れを告げて、熊本へと入って行きます。
国道3号線を北上して行くんですが、意外と交通量が多いんですよね。
まだ高速道路が開通してないのもあるんでしょう。
緩慢な流れのまま、県境を越え、水俣市街を過ぎ、国道3号線が再び山へ入ろうとした時、城山という文字が見えました。
ここですかさず右折。
曲がったすぐ先に水俣城がありました。
危うく行き過ぎる所でしたね。
ナイスな判断(^^)
水俣城は、肥後南部の芦北郡の要衝で、相良氏が戦国時代の前夜から支配しており、相良氏の内訌や、北上する島津氏との戦いで度々登場する城です。
以前にも来たことがあるんですが、その時は近世城郭部分しか見ていない為、再訪する事にしました。
国道3号線から下ってきたのがちょうど公園の東側だったので、東の中世城郭の部分から散策していきます。
水俣城は激戦を繰り広げた城ですから、相応の規模を持っていたと考えると、地形から見て、この公園東側の道は空堀で、水俣第一中学校に掛けてか、更にその東に掛けても城が続いていたような気はするんですが、収容人数的にそこまでの規模が必要だったのか、どうだったんでしょうね。
ま、想像はその程度にして、公園内部へ。
まずは中世城郭部分の頂上へ。
 
 
比高は20m強といったところでしょうか。
段状の場所がいくつもあって完全に城跡という趣ですが、この部分から遺構は検出されていないという話もあります。
しかし、城以外には考えられない地形なんですよね。
最上段から次段を眺めるとこんな感じ。
 
 
どう考えても城の段郭なんですよね。
下は上から数えて3段目の削平地。
 
 
上から数えて4段目の付近には、西南戦争での薩軍の慰霊碑もありました。
水俣は主な行軍路では無かったようですが、それなりの戦闘があったようです。
 
 
そして、広大な4段目。
この削平地は、後世に改変されて広げられたような感じがしますね。
当時からこの大きさなら、居住空間だったと思われますが、どうなんでしょうか。
  
 
中世城郭と近世城郭の間に、説明板と城址碑がありました。
 
 
水俣城は、後に肥後が加藤清正に与えられた際に大幅に改修したようで、加藤家独特の巨石の石垣が顔を見せています。
なんとなく、佐敷城の雰囲気に似ていますね。
 
 
石垣のラインの屈曲部分も残っていました。
この上に石垣があったなら、なかなか壮大な城跡だったんですが、残念。
 
 
近世城の中にはよく分からない窪んだ部分も。
井戸にしてはちょっと形が違うしなぁ
 
 
近世城の本丸部分近くの石垣。
探せば結構あるんですよね。
 
 
近世城の本丸たる最上部。
木々が鬱蒼と茂っています。
 
 
中世城をじっくりと散策できて、とても満足しました。
 
つづく
 
参考
出水城
水俣城
地図付きはこちら→鹿児島県熊本県
 

2020年6月5日金曜日

アベノマスク届きました

ようやくアベノマスクが届きました。
周囲にも届いているようです。
今更・・・という感は否めず、やっぱり評判は悪いですねぇ
個人的には、運用的にはなかなかいいアイデアだと思ってるんですが。
 
例えば、何か商売をしてて大量の受注があった場合、当然、卸から商品を掻き集めますよね。
ところが流通在庫が空っぽという場合、どういう手を打つか考えてみると、次はメーカーへの問い合わせでしょうか。
メーカーに在庫あるか?と。
需要が厚いなら、無いならリベート出すから作ってくれ、という小売りも出てくるかもしれません。
3月ごろの状況で言えば、これがマスク製造に対する補助金と同じなんですな。
そして、メーカーに手当てもしたけど、当面の需要に何とか応えなければいけない。
次に考えられるのは代用品です。
似たような品物で代用できないか、と。
これが布マスクなんですよね。
日本政府の取った対策というのは、こういう民間でも発生するような流れであって、当然の対策でもあるんですな。
布マスクの代用性というのは早くからネットでは周知されていましたが、状況がコロコロ変わる状況で、生産機械や工場の系統が違うことでリソースの取り合いにならないというのは、無駄な混乱を抑えられる非常に良いアイデアなんですよね。
しかも、あの混とんとした状況で1億5千万枚という大量の発注を消化したというのは、なかなか凄いんじゃないかと思うわけです。
ただ、この辺りは商社の頑張りが称賛されるべきだとは思ってますが。
いずれにしろ、そんなに叩かれることか?というのが正直な感想です。
4月末から配布してまいすから、発注時期は恐らく3月前半から半ばというところでしょう。
その頃はマスクは完全に在庫が払底してて、もの凄い高値になっていた時期です。
正規ルートの補助金は既に出していて、それを利用して参入する企業は製造設備の設置に取り掛かっていましたが、製造はまだ先。
じゃあどうする?
別のルートで代用品だな、という話になったわけですが、経緯を見ると合理的な判断だったと思います。
それとも、あのまま補助金以外の対策をしなかった方が良かったんでしょうか。
GW前からマスクの輸入が可能になりましたが、それはマスク外交をしていた中国国内が落ち着きを見せたのと、ブローカーが価格下落を見越して放出したからですが、そんな予測が難しい外部要因に頼った運営が良かったんでしょうか。
中国がマスク輸出を解禁しなければ、恐らく今でもマスクは品薄ですからね。
今、手に入るというのは、ただの結果論にしか過ぎません。
価格にしてもそう。
 
政府の布マスクの契約額が260億円になる見込み 以前より約200億円圧縮
https://news.livedoor.com/article/detail/18348449/
 
上の記事にもありますが、総額は260億円になる見込みです。
260億円で1億5千万枚。
つまり、1枚173円(送料込み)
そんなに高いですか?
あと、現金を配った方が良いなんて意見も見かけましたが、それは10万円の給付で別途手当してますし、当初予算の460億円を国民に配っても400円弱にしかなりません。
こういう緊急事態の際は、色々な対策を打ちますから、その内のひとつにフォーカスを絞ってやいのやいの言ってもしょうがないと思うんですがねぇ
もちろん後の検証は必要ですから、議事録を残していないというのは論外ですが。
あと、非常時の予算というのは、通年の予算と違って厚めに確保して事後清算となります。
マスクもそうですが、スピードが必要な緊急対策は、足りなくなるとストップしてしまうので、止まらないよう厚めに用意するんですね。
で、後で清算して使用予算を確定するわけです。
この仕組みはマスコミがちゃんと説明するべきだと思うんですが、その仕事を全然せず、センセーショナルな数字ばかりを報道してるんですよね。
非常時と散々煽っておきながら、視聴率しか見てないんでしょうか。
無用の対立ばかりを煽っているように感じます。
もうちょっと報道機関としての仕事をこなしてほしいですね。