2020年6月11日木曜日

鹿児島熊本ツーリング その11

前回のあらすじ
 
あんなにお城を探したのは久々かもしれん・・・
 
いよいよ本日で鹿児島ともお別れです。
その感慨を胸に、いつものように朝風呂を浴びると、露天風呂のすぐ裏手がマンションということもあって、平日の朝の住宅地の音が、そこにはありました。
平日のホテルの朝風呂。
俺・・・今日も働かんでええんや・・・
これぞ、労働者ならではの、優雅さを感じるポイントですな。
温泉から上がり、朝食バイキング会場に向かうと、これがなかなか眺望の良いレストランで、清々しく朝食を頂けました。
この場所は多分、結婚式やイベントなんかにも使われる場所なんでしょうね。
屋外テラスや照明用の器具なんかもあって、なかなか良さそうな感じでした。
そういえば昨日、ホテルに着いた時にぞろぞろと団体さんが出て来ていましたな。
そういうイベントを盛んに催しているホテルなのかもしれませんね。
 
ゆったりと過ごせたホテルキングを出て、向かうのは出水城。
宿をここにしたのも、出水城から近いからです。
18年前に辿り着けなかった城ですなのが、調べてみると、城の大部分は立入禁止になっているようでした。
そりゃ辿り着けんわ。
でも、城のすぐ近くまで行けるようなので、観光名所となっている武家屋敷の裏山にあたる城山の方向へと進んで行きます。
出水城は、最初は肝付氏系和泉氏が築城し、そのまま出水の地を支配していましたが、やがて島津氏系和泉氏が支配するようになり、その断絶後の享徳2年(1453)に、宗家の久豊の子用久が入城して薩摩守を名乗ったことから、島津薩州家の城となりました。
この薩州家は、島津忠良・貴久父子と壮絶な家督争いを演じた実久を出したことで有名です。
実久は、一時は実質的に島津当主として振る舞ったとされますが、やがて忠良・貴久父子に追い落とされ、実久の子義虎は貴久の子義久に臣従しました。
義虎の子忠辰はこれに不満だったようで、朝鮮の役の際に軍務を怠り、それによって改易され、秀吉の直轄領を経て島津宗家が領する事になったようですね。
この間、城の動向は不明となりますが、江戸時代の島津家の外城制度が最も早く始められたのがこの出水とも言われ、城はともかく、出水の地は領境に近いことから、島津家は重視していたようです。
さて、その出水城ですが、国道328号線のすぐ北側の城山墓地がその一部ということで、墓地へと向かう細い道をゆるゆると上って行くと、やがて駐車場に到着しました。
この駐車場の向かいの細長い公園が、花見ヶ城と呼ばれる城の郭の跡です。
 
 
公園には、説明板もありました。
 
 
縄張図を拡大。
 
 
この写真の左端が花見ヶ城です。
名前からすると、桜でも植えられていたんでしょうか。
しかし、この公園の大きさから想像すると、他の郭を含めた城の規模は相当大きいことになりますね。
さすがは宗家継承まであと一歩だった薩州家の居城といったところ。
この花見ヶ城の横にふと目をやると、遊歩道の階段がありました。
 
 
これは典型的な、シラス台地を利用した群郭式の城ですな。
階段の勾配がエグい。
さて、問題の主郭部分ですが、予想通り立入禁止でした。
 
 
道があるので、いつか城跡として散策できるよう整備して欲しいところですね。
この奥に花見ヶ城と同じような大きさの郭が7つほどあるはずなんですから。
メジャーな観光地・・・にはならないかもしれないですけど、自分みたいな物好きはいっぱい来るはず(^^;)
最後に、公園の崖から出水市街。
 

実久もここから城下町を見ていたんですかねぇ
 
いよいよ、丸2日間滞在した鹿児島に別れを告げて、熊本へと入って行きます。
国道3号線を北上して行くんですが、意外と交通量が多いんですよね。
まだ高速道路が開通してないのもあるんでしょう。
緩慢な流れのまま、県境を越え、水俣市街を過ぎ、国道3号線が再び山へ入ろうとした時、城山という文字が見えました。
ここですかさず右折。
曲がったすぐ先に水俣城がありました。
危うく行き過ぎる所でしたね。
ナイスな判断(^^)
水俣城は、肥後南部の芦北郡の要衝で、相良氏が戦国時代の前夜から支配しており、相良氏の内訌や、北上する島津氏との戦いで度々登場する城です。
以前にも来たことがあるんですが、その時は近世城郭部分しか見ていない為、再訪する事にしました。
国道3号線から下ってきたのがちょうど公園の東側だったので、東の中世城郭の部分から散策していきます。
水俣城は激戦を繰り広げた城ですから、相応の規模を持っていたと考えると、地形から見て、この公園東側の道は空堀で、水俣第一中学校に掛けてか、更にその東に掛けても城が続いていたような気はするんですが、収容人数的にそこまでの規模が必要だったのか、どうだったんでしょうね。
ま、想像はその程度にして、公園内部へ。
まずは中世城郭部分の頂上へ。
 
 
比高は20m強といったところでしょうか。
段状の場所がいくつもあって完全に城跡という趣ですが、この部分から遺構は検出されていないという話もあります。
しかし、城以外には考えられない地形なんですよね。
最上段から次段を眺めるとこんな感じ。
 
 
どう考えても城の段郭なんですよね。
下は上から数えて3段目の削平地。
 
 
上から数えて4段目の付近には、西南戦争での薩軍の慰霊碑もありました。
水俣は主な行軍路では無かったようですが、それなりの戦闘があったようです。
 
 
そして、広大な4段目。
この削平地は、後世に改変されて広げられたような感じがしますね。
当時からこの大きさなら、居住空間だったと思われますが、どうなんでしょうか。
  
 
中世城郭と近世城郭の間に、説明板と城址碑がありました。
 
 
水俣城は、後に肥後が加藤清正に与えられた際に大幅に改修したようで、加藤家独特の巨石の石垣が顔を見せています。
なんとなく、佐敷城の雰囲気に似ていますね。
 
 
石垣のラインの屈曲部分も残っていました。
この上に石垣があったなら、なかなか壮大な城跡だったんですが、残念。
 
 
近世城の中にはよく分からない窪んだ部分も。
井戸にしてはちょっと形が違うしなぁ
 
 
近世城の本丸部分近くの石垣。
探せば結構あるんですよね。
 
 
近世城の本丸たる最上部。
木々が鬱蒼と茂っています。
 
 
中世城をじっくりと散策できて、とても満足しました。
 
つづく
 
参考
出水城
水俣城
地図付きはこちら→鹿児島県熊本県
 

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