2017年3月28日火曜日

直虎 1Q

今年はなかなか冬が明けない感じですな。
今週末は花見だってのに、
桜咲いてませんやん。
どうすんのこれ?
蕾見?
 
ま、それはそれとして、今年の大河ドラマ、なんとか1Q完走しました。
でもね、なんて言うかね、
恋愛ドラマ?
そんな印象です。
やっぱり女性向けの内容なんでしょうな。
直虎に関する史料が少ない為にフリーハンドで描けるわけですが、やっぱそっち方向になっちゃいましたか・・・
それはともかく、今週でようやく次郎直虎が誕生したわけですが、直親謀殺から結構駆け足でしたね。
史料上で、というか井伊家家伝がそのほとんどなんですが、出来事を年次を追ってみると、
 
直盛討死(桶狭間の合戦) ・・・ 永禄3年(1560)
直親暗殺 ・・・ 永禄5年
三河一向一揆 ・・・ 永禄6年
直平死去(死因不明) ・・・ 永禄6年
中野直由・新野親矩討死 ・・・ 永禄7年(同8年説も)
 
となります。
約5年の期間があるとは言え、まさに激動ですな。
こうして永禄8年に、次郎法師が還俗して直虎と名乗ります。
この後、領主としての活動があり、天正3年(1575)に虎松が徳川家康に出仕した後は、虎松が井伊谷の実質的な領主となりました。
と言っても、虎松改め万千代は家康に近侍していたので、実質的な領内政治は直虎が行っていたと思われます。
ただ、その頃の直虎に関する史料が無いんですよね。
だから、実際にはどうだったかはよく分かりません。
ともかく、1/4終了時点で恋愛パートは終わったかな?
これからどういうドラマになっていくのか、楽しみにしますかな。
 


2017年3月21日火曜日

厄落としツーリング その11

前回のあらすじ
 
ま、まさかバイク歴20余年で初めてのパンクがこんな遠隔地とは!
 
御前崎は、観光客が多い為に道も整備されていて、海岸沿いの道は4車線道路になっています。
この道が整備されるまでは、恐ろしい渋滞がシーズンごとに発生していたんやろなぁ
そんなリゾート気分満点の道。
この道は国道ではないんですが、そのまま進んで行くと御前崎手前で西へと折れた国道150号線との交点を境に、国道150号線のバイパスになっています。
いかにもバイパスという感じで少し山側を通っており、信号も無いので、快調な道でした。
ここで偶然に250ccのオフロードバイクと一緒になり、少しの間、ランデブー。
この辺りは丘陵地も多いので、純粋なオフ車で農道林道巡りというのも楽しそうですね。
バイパスは、行く時に使った県道69号線をくぐり、大沢I.C.を越えると国道473号線のバイパスとなります。
道は連続してるので、走ってると、知らん間に473になってるやん!とびっくりしますが(^^;)
ここから北は、バイパスらしく本道の国道473号線に並走しており、東名高速を越え、更に北へ続いているのですが、自分は六本松I.C.でバイパスを降り、牧之原の集落へ。
途中、飯屋があれば寄ろうと思ってたんですが、山間を走るバイパスに店は無く、牧之原の集落のスーパーでパンを買って昼食を摂りました。
牛丼は頻繁ですが、スーパーで済ませたのは初めてですな(笑)
お腹も落ち着いたので、目指す勝間田城へ出発。
 
勝間田城は、午前に寄った横地氏の一族である勝間田氏の本拠で、勝間田川沿い一帯を開墾した領主だったのでしょう。
城は、勝間田川の最奥部とも言える場所にあり、牧之原の集落から行くと、反対方向からのアクセスになります。
なんでこちらから行ってみたかと言うと、勝間田川まで行くとぐるりと遠回りする形になるからなんですが、残念ながら城への案内はありませんでした。
近道になるかと思ったんですが、残念。
牧之原台地はどこもそうですが、開墾されたのが近代ですからね。
当時は原野だったはずで、勝間田城の縄張を見ても、谷筋にあたる北側への防御が重視されていて、背後の南側は比較的手薄です。
従って、当時の登城ルートは勝間田川の谷筋からのはずで、廃城後もその道が踏襲されたなら、こちらからは無くてもしょうがないですな。
仕方がないので、いったん台地を降りて勝間田川まで行き、そこから川を遡る形で城の麓へ。
麓には立派な駐車場と案内板がありまして、そこにバイクを止めて徒歩で登っていきます。
 
 
駐車場から立派な車道はあるんですが、その先は茶畑で、車を止める場所はありません。
突き当りの茶畑から城へ入ると、まず城址碑の建つ場所近くに食い違いらしきものがあました。
 
 
この写真の奥側ですね。
勝間田氏滅亡以降、戦国時代まで城が活用されていたそうですから、構造物的に勝間田氏時代より後世の構築でしょうか。
そこを過ぎると三ノ丸にあたる三ノ曲輪です。
 
 
この郭の縁辺部には、綺麗に土塁が残っていました。
郭としても大きくて、下のように東側も相当な空間がありますね。
 
 
そこから一段上に行くと二ノ丸にあたる二ノ曲輪。
 
 
ここも相当広かったですね。
近世城の雰囲気さえあります。
また、虎口も非常に立派でした。
 
 
この二ノ曲輪の西には、西二ノ曲輪というのがあり、二ノ曲輪と同じく居住空間だったんでしょう。
二ノ曲輪からは建物跡も検出されていますね。
 
 
二ノ曲輪の上には、峰筋に北尾根郭と東尾根郭があります。
まず東尾根郭。
 
 
ここは比較的狭く、中世的な雰囲気が漂っていました。
勝間田氏時代の構築なのでしょう。
突端部には広めの平たい地形があり、櫓台だったのかもしれません。
この先には堀切があり、その先は藪でしたが、小郭が続いている感じでした。
 
 
ここから本丸方向に向かうと、北尾根郭があります。
 
 


 
この上に本丸。
 
 
本丸の先には鋭い堀切を挟んで南郭がありました。
 
 
左手が南郭で、右手が本丸です。
下の写真は南郭内部。
 
 
で、この南郭と本丸の間は写真のように道になっており、その先にも続いてるんですね。
この先は何があるんだろうと進んで行くと、道は恐ろしいほどの九十九折れの険しい山道になり、やがて明るくなると、茶畑に出ました。
見覚えのある茶畑。
やっぱり道があったんか(> <)
無事?元の牧之原集落の茶畑へとでました。
 
勝間田城を後にし、違う道で牧之原台地へと駆け上がり、牧之原集落経由で国道473号線バイパスへと戻ると、スマホの電池がエライことになっていました。
結局、充電ケーブルは見つからないまま、 道すがら、100円ショップも電気屋さんも無く、ここまで無充電ですからね。
時々地図も表示させてたし、もう限界。
というわけで帰路に就く前に、I.C.近くのコンビニでケーブルを物色しました。
しかし、これが高いのなんの。
単純なUSBケーブルでいいのに、コンビニに売ってるのは、電池でいけるやつとか、シガーでいけるやつとか、シンプルなのは無いんですよね。
ま、コンビニで買う人は非常事態な人が多いはずだから、そういう充電可能なものが売れ筋で当たり前なんですけども。
でも、あまりの高さに、そっとスマホの電源を切って撤退しました(^^;)
非常連絡用の電池だけは残しとかなアカンからね・・・
そんなこんなで、東名高速に突入。
まだ陽が高い時間なんで、路面の温度も高く、スローパンク状態の後輪が気に掛かります。
なので、速度はできる限り抑えつつ、S.A.、P.A.ごとに休憩して空気圧のチェックと、タイヤの冷却。
ついでに充電ケーブルのチェックもね!
後輪に関しては、陽が暮れるまで各駅停車状態でチェックしつつの走行でしたが、問題なし。
充電ケーブルに関しては、電池で充電するタイプが1000円ちょいと最安値だったので、それで妥協しました。
陽が暮れてからは、充電バッチリ、タイヤ温度もそんなに上がらないはずなので、音楽も掛けながらペースを上げ、大した渋滞にも引っ掛からず、無事帰宅。
ありがちですが、帰宅後、荷物を整理していたら、充電ケーブルが出てきたという・・・
ま、なんだかんだありましたが、霊峰も拝めたし、パンクも厄落としということで考えときまひょ。
その後、自転車も2度パンクしたというのは、また別のお話・・・
か?
 
1日目:116.1km
2日目:470.6km
3日目:523.2km  総計1109.9km
 
参考:
地図付きはこちら
 
 

2017年3月16日木曜日

厄落としツーリング その10

前回のあらすじ
 
しかし静岡は茶畑ばかりじゃのぅ
土地土地の景色というのはいいもんだ(^^)
 
横地城を満喫し、次に目指すのは南の御前崎。
先っぽハンターとしては譲れない場所ですな。
とは言え、横地というのは菊川系流域の場所。
東側は山がちで、御前崎へと抜ける道は少ないんですね。
山越えで東の国道473号線まで出て国道150号線に入るか、菊川に出て西回りで向かうかのどちらかしかありません。
というわけで、今回、県道69号線で山を越える東ルートを選択しました。
横地城からまず南下して、県道69号線へと入ります。
この道は快走路。
とても気持ちが良かったですね(^^)
左手に突然石灯篭が見えたんですが、快走路の気持ち良さに何気なく通過。
しかししかし、後で調べてみると、
塩買坂やったやないかい!
前回に出てきた横地城を攻略した今川義忠が、残党に襲われて落命したという因縁の場所。
不覚!
横地城から塩買坂という鉄板ルートやったのに、あまりにも迂闊。
んー、久能山から登呂遺跡、更に今川家臣の朝比奈さん所縁の城もあるし、確実にまた静岡に来なあかんねぇ
 
県道69号線は、大部分が新しくて快調な道なんですが、国道150号線へ近付くと明らかに旧道へと変わり、更に国道のバイパスに出るのかと思ったらサクっと陸橋で越えて住宅地へ。
なかなか一筋縄では行きませんな(^^;)
住宅地を抜けて国道473号線に入り、突き当たると、ようやくバイパスではない国道150号線へと入ることができます。
国道150号線に出てしまえば、後は迷うこともないし楽勝やなと思った刹那・・・
体の下から急にシューという強烈な音が!
エンジンの掛かったバイクに乗って、しかもヘルメットを被っているという状況で聞こえるなんて、相当な音です。
ラジエーターがおかしくなったのかと慌ててバス停の隅にバイクを止めて見てみると、水蒸気の類は出ていない。
音は相変わらず大きいままなので、その出元を確かめてみると、どうやらタイヤの模様。
バイクを少し押してタイヤを回転させてみると
パンクしとるやないかい!
バイク歴25年にして初のパンクを、まさか家から400km離れた場所で経験するとは・・・
一瞬、ヘルメットとパニアを抱えて新幹線に乗る姿が浮かびました(^^;)
いやいや、そんな事を思ってる場合じゃない。
こんな時の為にパンク修理キットを積んでるやないか。
というわけで、バス停で説明書とにらめっこしながらパンク修理に取り掛かりました。
途中、マスツーのバイク集団が通り過ぎましたが、何してるんやろ?という感じで見られてたんかも。
まずは、犯人の摘出。
ずっと前にもご尊顔を出しましたが、↓こいつです。
 
 
釘なんかじゃなく、凶悪なお顔をしてはりますな。
当然、タイヤの穴も巨大。
修理材で埋められるのか?という懸念はあるものの、やるしかない。
修理材を強引に差し込んで、隙間を接着剤で固めて行きます。
そして、圧縮ボンベで空気を投入。
修理時間約20分。
なんだかんだで仕上がりました。
 
 
初にしては上出来ちゃう?
ガソリンスタンドでバイトできるな(笑)
ただ、どう考えても空気圧が足りない。
ボンベに目安が書いてあるんですが、3本入れてだいたい100kPa強ぐらい。
正規量の半分以下。
指で押すと少し凹みますからね。
取りあえずGSを探さないと!
恐る恐る御前崎方向へ向かって南下して行きます。
この辺りは、ほぼ直線でタイヤに負担が掛からず助かりました。
数km行くと、ようやくGSを発見。
最近はGSも数が減ってますからね。
最悪、御前崎近くまで行かないと無いかと思っていたから、良かった(^^)
GSで礼儀として給油し、エアも入れてもらって、ついでに空気漏れチェックもしてもらいました。
希釈の洗剤を掛けてもらうと、微量ながら泡が。
GSのおっちゃん曰く、これぐらいなら1日2日は問題ないとのこと。
取りあえず家には帰れそうや。
 
このGSから4kmほど南東へ向かった先が御前崎です。
マリンパーク御前崎なんて海際のリゾート地帯があるんですが、そんなものはソロツーリストには当然関係なく、ひたすら灯台を目指します。
御前埼灯台は御前崎丘陵の上に建っており、住宅や旅館が建ち並ぶ一角にある為、灯台前の駐車場が小さく、ほぼ満車でした。
駐車場の空き待ちの車がウロウロしてましたが、そこはバイクの利点で1台ぐらいはどうとでもなります。
青空に映える灯台。
いいですね(^^)
 
 
ここは参観灯台なので、内部にも入れます。
灯台からの景色は最高。
天気も良いので、海岸沿いにはたくさんの観光客が。
 
 
西方向を向くと、こちらは奇岩と雄大な丘陵の風景があります。
 
 
いや~気持ちいいですわ(^^)
 
つづく
 
参考:
御前崎
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2017年3月9日木曜日

厄落としツーリング その9

前回のあらすじ
 
三重堀はオツなもの。
 
小山城を後にして、少し北西に行けば、東名高速の吉田I.C.があります。
次の目的地は西の横地城。
県道79号線の地蔵峠越えで西進してもいいんですが、まだまだ寄りたい所があるので、高速で時間短縮を図りました。
乗ったのはひと区間だけで、相良牧之原I.C.で東名高速を降り、南西方向へ。
牧之原台地と言えば茶畑で、降りたその辺り一帯は、もう茶畑だらけ。
横地城方向の南西への適当なアクセス路が無い為、県道以外の道を選ぶと、これが悉く茶畑の農道だったんですね。
天方本城は茶畑農道の突き当たり。
天方城も茶畑農道が公式ルート。
花倉城は超長茶畑農道。
そして、この横地城へ向かう道も、茶畑の真っ只中を進んで行くわけですわ。
いやー、茶畑ツーリングですな。
途中、うっかり茶畑への幅1.5mほどの枝道に入ってしまい、これが緩やかな凸地形の道で、足漕ぎバックすると転倒しかねず、凸の頂上部分のところでUターンした時にはどうなることかと思いましたが、汗だくで恐ろしい回数の切り返しをこなし、事無きを得ました(^^;)
こんなところに軽トラはバンバン入って行くんやから強いよな。
坂でもバックできるのが何より強いわ(笑)
そんなこんなで、茶畑一杯の牧之原台地から急激な坂を下り、1車線の木々に囲まれた道を進むと、横地城の案内がありました。
 
 
この案内板の場所に駐車場があり、ここから直登のような形で城に登れますが、もう少し先のため池の所にも駐車場があります。
下調べでは、二ノ丸にあたる横地神社の下にも駐車可能という事だったので、自分はバイクの機動力を生かして横地神社まで行きました。
ただ、ため池のところから横地神社への道は、ギリギリ車1台分の幅しかなく、しかも曲がりくねっているので、車の運転技術に自信がない人は、そこまで行かないほうが無難かもしれません。
意外と車通りのある道みたいですからね。
すれ違えず、あんな細い道で延々バックするなんて考えるだけでも嫌すぎる・・・
そんなこんなで、バイクを止めたのは横地神社のすぐ下の千畳敷と呼ばれる区画です。
 
 
相当広い場所で、ここは居住空間だったのかもしれませんね。
横地城が健在だったのは戦国時代初頭までですから、当時は居館と詰城という構成が主で、平時から横地氏が居住していたわけではないとは思いますが。
ちなみに、横地城を築いたのは、太平記にも登場する横地家長とされ、南北朝時代の頃とされています。
その後、横地氏は、ほぼ遠江今川家の家臣として活動していたようですが、遠江今川家の没落と遠江での斯波氏の勢力拡大で、応仁の乱の頃に斯波氏に属したようですね。
これに危機感を覚えたのが、遠江今川家の本家筋にあたる駿河今川家の義忠で、横地氏とその一族勝間田氏の討伐を図り、両氏を滅ぼしますが、文明8年(1476)に塩買坂で両氏の残党に襲撃され落命してしまいます。
ただ、横地氏の記録を見ると、この戦い以降も活動が見られ、義忠の子氏親の時代の永正年間(1504-21)の初め頃に落城滅亡し、嫡流の元国は武田に仕えたようですな。
つまり、義忠の討伐は完全なものではなかったというわけです。
また、討死した塩買坂も駿河への退路ではない為、実は義忠の討死は一連の討伐戦の最中に起こった敗死ではないか、という見解にも十分な説得力がありますね。
ちなみに、この義忠の討死後、残された遺児龍王丸とその母北川殿は義忠の従兄弟小鹿範満に家督を奪われかけるのですが、母子を守る為、幕府から伊勢盛時こと北条早雲が派遣され、戦国北条氏創業の切っ掛けとなって行くわけです。
この辺りを見ると、歴史の流れというのは、本当にダイナミックに繋がりますよね。
というわけで、横地城の二ノ丸であった横地神社へ登って行きます。
 
 
なんか写真では平地に見えますが、左側の道と比べると、上り坂というのがわかるでしょうか。
参道とは言え、城の段郭を登って行く道そのものでした。
途中、土塁壕跡という表示もあり、段郭の中の各所に土塁や空堀が確認できます。 
 
 
右手を見れば、断崖ではないものの、かなり急峻な坂が。
竪堀ではなさそうですが、谷筋から攻め上るのは相当厳しそうですね。
 
 
横地氏は、牛淵川や菊川の流域を開発した領主で、居館等の治所は南西側にありました。
つまり、治所の北東に張り出してきている台地を利用した詰城なんですね。
牧之原台地周辺は、地質的なものでしょうが、台地と平地の間が非常に急峻です。
その急峻さを利用していますから、この城の谷筋はびっくりするほど深く険しいんですね。
この城の見所のひとつでしょうな。
更に上がって行くと、頂上部にが社殿あります。
 
 
ここが二ノ丸の最も大事な部分ですが、上から覗くと車道沿いにも削平地があり、往時は今の境内よりももっと規模が大きかったんでしょうね。
ちなみに、この裏手から焼米が出土したそうです。
二ノ丸を散策し終え、横地神社から下りてきて東に進むと、中城の説明板が。
 
 
ここは倉庫等があった場所です。
本丸、二ノ丸とは雰囲気が違い、標高が低いことから、それほど防御力を期待された場所ではなかったのかもしれません。
木戸もあったそうなので、本丸と二ノ丸が一城別郭として機能する為に設けられた郭だったのかもしれませんね。
一応、南側には腰郭のような段郭がありました。
中城から更に道を進んで行くと、金寿城こと本丸があります。
 
 
この案内板の真上が本丸最高部ですね。
 
 
その先っぽには城址碑が。
 
 
この最高部の北側が比較的なだらかで、複数段の郭が構えられていました。
その一角には井戸跡も。
 
 
ここが一番広い郭でしたね。
この左手には、明確に堀切があり、その先にも削平地が確認できます。
また、ここから北西側へも尾根筋があり、武者走りとして通路になっていたようですね。
その先に進んで行くと、二重堀切がありました。
 
 
写真ではちょっと確認し辛いですがね・・・
時期が時期だけに下草が膝を越える部分もありましたが、全体的には散策しやすい城でした。
また、城内から見た城外の崖の険しさ。
これもこの城の重要なテーマですね。
そして、番外編。
 
 
おい、待て!
いや、まぁ、史跡の名前だからいいんだけども(笑)
 
つづく
 
参考:
横地城
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2017年3月4日土曜日

メディアとトランプ大統領

しばらく前に、CNNとなどがトランプ大統領の記者会見から締め出されたことが報道され、問題として取り上げられていました。
一見すると、トランプ大統領が対立するメディアに情報を与えないようにした工作にも見えます。
しかし、一連の流れを追ってみると、これがなかなか面白いというか、シュールというか、苦笑いが出るんですよね。
おおまかな流れをニュースで追ってみます。
 
まず、1/16にホワイトハウス内の記者会見場移転を検討とのニュースが流れました。
 
トランプ陣営、ホワイトハウスの会見場移動検討 記者協会は反発
http://jp.reuters.com/article/usa-trump-media-idJPKBN1500UO
 
本文を参照すると解りますが、より多くの報道機関を受け入れる為に、手狭な会見場からの移転を検討しています。
しかし、記者協会は反発していますね。
反発理由としては、「報道陣の目から遮断する動き」としていますが、個人的には、色んな報道機関が同じ舞台に立つ事は良い事だと思います。
また、建て前は別として、前にも触れましたが、ホワイトハウス内の記者会見場に入ることができるのは、ひとつのステータスになっているというのもあるでしょう。
それは、直接、質問等で情報を得られるという既得権でもあります。
 
次に、1/19に移転撤回のニュースが流れました。
 
トランプ氏、ホワイトハウス記者会見室の移転撤回
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM19H4Z_Z10C17A1FF2000/
 
トランプ大統領は、「メディアが怒るからやめとくわ」という感じですね。
でも、「入れなくなる人が出てきたらこちらで選ぶよ」とも言っています。
 
そして、2/26。
 
トランプ政権、記者懇談からCNNなど締め出し
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM25H2D_V20C17A2MM0000/
 
CNNやニューヨークタイムスなどのリベラル系メディアが締め出されました。
これに代わって保守系のニュースメディアが選ばれています。
まぁ、なんでしょうか。
自業自得じゃね?
という感想しかありません。
ニュースメディアに、右も左もあっていいんですよ。
色んな意見や言論が出る中で、合意を図って行けばいい。
わざわざ、古くからあるといった理由だけで独占させる必要はない。
オールドメディアもネットメディアも、横一列で1次ソースにアクセスできることが、報道の成熟には必要条件だと思います。
ちなみに、保守寄りで有名なFOXも、オバマ大統領には冷遇されてましたので、メディアの選別は今に始まった事ではないんですよね。
優遇された側は騒がないので、今回はそれが反転したから騒いでる、という側面も強いと言えるでしょう。
翻って、日本にも記者クラブというものがありますが、個人的には、そういうのももうやめたらいいのになんて思ってます。
今はともかく、昔の記者クラブは麻雀ばっかりしてたなんて話も有名ですから。
情報の独占は怠惰を生む。
報道機関なら、自分の足で情報を集めて欲しいものです。