2016年5月31日火曜日

近頃の問題

サミットが終わり、また色々なトピックが出てきてますな。
消費税延期。
衆参同日選挙回避。
パンク。
 
そう、喫緊の大問題はパンクなんですよ!
釘を踏んだとかのレベルではなくて、走ってると急にプシューってなりましたわ、プシューって!
家から400km先で。
けしからん犯人はこやつですわ↓
 
 
こんなデカいのを踏んだんかい!って話なんですがね。
見落とすなんて自分の過失やわ・・・
パンクが酷かっただけに、メットを小脇に抱えて新幹線に乗ってる図、という切ないイメージが湧きましたが、素人作業で緊急補修。
 
 
我ながら醜い素人補修ですな(^^;)
しかし、これでなんとか帰還には成功。
ただ、空気を入れてくれたガソリンスタンドの人に洗剤で確認してもらうと、かなり少しですが微妙に漏れて僅かに泡立ってました。
それでも、1週間や10日では抜け切らない程度とのこと。
タイヤ交換は来年かな?なんて思ってましたが、もう強制交換ですな。
タイヤはanakee3にしよう。
あの独特のトレッドパターンはかっこいいし、ほぼオンロードという乗り方にも合ってる。
anakee3でもフラットダートぐらいなら問題無いみたいで、お城に行く時の少しの林道程度なら十分でしょう。
しかし、結婚式ラッシュの後の自動車税フィニッシュかと思ったら、まだ財布への負荷が残っていたとはね・・・(泣)
 

2016年5月26日木曜日

伊勢志摩サミット開幕

本日より、伊勢志摩サミットが開幕しますな。
外国人観光客が多くなった日本ですが、伊勢志摩というのはあまり知られていないそうで、海外への紹介としても良い会場選定なのかもしれません。
サミットは、日本では7年ぶり、ではなく8年ぶりの開催ですか。
7ヶ国持ち回りなのに何故8年かと言えば、前回はロシアが入っていたG8だったからなんですね。
正確に言うと、そのロシアが当番だった2014年にクリミア半島の動乱があり、ロシアがG8から外され、結局その年はベルギーのブリュッセルで開かれました。
もう既にG8が懐かしい響きになってる感がありますし、時の流れというのは早いものです。
そのロシアも、日本との友好、特にトップ同士の友好を介して、復帰を狙っているとも言われておりますが、当分はまだ厳しそう。
 
で、サミットの議題はと言うと、不安が続く世界経済情勢と租税回避がメインになるかと思われます。
ただ、世界経済情勢に関しては、安倍首相が推す財政出動はドイツが首を縦に振らないでしょうね。
EU内の経済的小国があれだけグタグタになりながらも、それに対する加盟国の批判がありながらも、ドイツは原則を曲げていないですから。
一番成果が得られそうなのは、租税回避ですか。
そういう意味では、良いタイミングでパナマ文書が出ましたな。
国際的な租税回避はG20でも度々議題に上がっていますが、何より損をしているのはグローバル企業を抱えた先進国ですから、その集まりであるG7で取り決めは大幅に進むと思われます。
中進国との利害対立があるG20なんかより、利害は断然一致しますから。
ま、テレビやニュースサイトもサミット一色になりますから、情報収集も楽ですし、この他にどんなニュースや情報が出てくるか楽しみですね。
 
個人的に、サミットでちょっと注目しておきたいのは、アウトリーチ会合。
先進国以外で招かれた国との会合なんですが、この参加国は、
バングラデシュ・チャド・インドネシア・ラオス・パプアニューギニア・スリランカ・ベトナム
の7ヶ国。
チャドを除いた国々を見ると、日本から近いという地理的な要素もあるんでしょうが、南アジア、東南アジア重視の日本の外交方針が透けて見えるようですね。
アメリカも、サミット直前にはかつての敵国であったベトナムに対して武器禁輸を解除したというニュースもありましたし、大統領が初めて原爆投下地を訪問するというトピックもあります。
これらを並べてみると、今までとはちょっと違う方向に向かう、何か大きな転換点が来ているなと感じるのは、気のせいではないのかもしれませんね。
世界情勢が今後どう動いていくのか、注目です。
 

2016年5月20日金曜日

素人仕事と本質の削り出し

最近、ちょっと結婚式ラッシュになってまして、お財布が波状攻撃を喰らっている状態なんですが、それは被害甚大ながらも置くとして、最近の披露宴は動画の上映が多いですな。
手元に動画の撮影、録画ができるデバイスがあるので、動画に対する敷居も低い。
いろんなツールもあるので、編集もし易いですしね。
とりあえず、新郎新婦のプロフィール紹介動画は基本になっているみたい。
それに加え、友人代表挨拶の際にその親しい仲間達の動画が流れたり、余興みたいな感じで友人らの自作した動画が流れたり、あとはエンドロールですか。
昔はエンドロールなんて無かっと思うんやけど。
ただ、エンドロールは多分パッケージに入ってて、プロが作るから手は掛からんとは思いますけどね。
自作の場合は、披露宴で流すとなるとちょっとしっかり作らないとさすがにみすぼらしい、ということで気合いが入るんでしょう。
その結果、ちょっと冗長な動画が多くなってるように思います。
有り体に言えば、ややクドい。
BGMが終わるかと思ったらそのまま次のBGMが始まったりして、
「長ぇな、おい(笑)」
ぐらいのチャチャを入れる時もありますな。
なぜクドく感じるようになったかと言うと、動画の本数が増えたからでしょうかね。
昔は、たとえ多少長くても1本か2本ぐらいだったし、新鮮に見れましたよね。
それが4本5本となるとさすがにちょっと飽きがくる。
それに加え、素人仕事だと、入れたいやつを全部入れしてしまって、ちょっと印象がボヤけてしまうのも多いように感じます。
削る作業が不十分なんでしょうね。
盛るだけ盛って、最後に切れ味良くスパッと不要な部分を叩っ切る、ぐらいの勢いが必要かもしれません。
ま、かく言う自分も文章は冗長な事が多いので、自省を込めての話ですが(^^;)
 

2016年5月15日日曜日

東九州縦走 その9

前回のあらすじ
 
朝の内に4城完走。
うむ。満足じゃ。
 
日知屋城を下りて来たのは9:15頃。
まだまだ早い時間ですが、ここから帰路に入ります。
なんたって神戸は遠い!
まずは、日知屋城跡の伊勢ヶ浜公園からすぐ近くの大きな県道15号線に入り、あとは道なりに進行。
すると日向I.C.が見えるので、そのまま高速でビューンと戻り、更に延岡も越えて北へ。
高速で大分まで抜けてしまってもいいんですが、さすがそれは面白くないので、延岡の北の外れの北川I.C.を降り、国道10号線へと入ります。
14年前は、このまま10号線で佐伯に向かいましたが、今回は直線的に北上する為と、前回と違う道を走りたいということで、国道326号線を選びました。
この道、凄く快走路ですね。
走っててとても心地よかった(^^)
交通量も少なくて、ほぼ全線2車線。
2車線快走路の分、Rが浅くて攻める感じはあまりありませんが。
地元ライダーに知られた道なのか、バイクも多く走っていました。
晴れてるけど少し寒いやん!と思いつつ山を越え、豊後大野に入り、犬飼で国道57号線、そのすぐ先で国道10号線に合流します。
この辺りは14年前も走ったはず。
当時は夕闇迫る中で、景色は全然違いましたけど。
この国道10号線の横を流れるのは大野川。
少し走って戸次の辺りに来ると、当時は戸次川と呼ばれていました。
そう、戸次川の合戦の舞台となった川です。
必然的に、戸次川で討死した長宗我部信親の墓や、合戦の端緒となる攻防が行われた鶴賀城が近くにあるわけですな。
今回の目標はその鶴賀城。
これまたアクセスがかなりややこしく、予習必至の城ですわ。
 
城へ行く前に、まずは通り道にある長宗我部信親の墓へ。
川筋を見つつ、国道10号線を北上し、大南大橋先の交差点で右折すると、道は丘陵へと入っていきます。
大きく曲がりながら丘陵を上って行くと、その途中に墓の案内表示が見えてきました。
長宗我部信親が討死した戸次川の合戦は、天正15年(1587)の九州征伐の前哨戦となった戦いで、前年の12月12日に行われています。
ただし、西暦で言えば1587年ではありますが。
動員されたのは四国勢で、長宗我部家と共にその宿敵であった十河家の軍勢も参加していました。
軍監は、四国征伐後に讃岐の領主となっていた仙石秀久。
秀久は、秀吉からは守備に徹して本軍を待てとの命を受けていたようですが、後に鈴鳴り武者と異名を取ったほどの自己主張の激しい男。
持久戦なんてやってられるかとばかりに功に焦ります。
そして、戸次川を見下ろす鶴賀城が攻められた事を知ると、後詰作戦を採りました。
結果論から言うと、後詰作戦は失敗だったわけですが、とは言え、府内の大友館は防御に適した城ではなく、川筋、街道筋の鶴賀城が落とされると防備に重大な懸念が生じるのも確かで、判断の難しい場面でしょうかね。
適当に陣城でも築いて対陣し、島津本隊を釘付けにすれば良かったのかも知れません。
士気は低いとは言え、府内にいる大友軍を合わせれば島津軍と同等以上の兵力は確保できたわけですから。
しかし、血気に逸る秀久は、勢いをつけようと渡航作戦を提案しました。
これに同調したのが十河存保で、反対したのは長宗我部元親・信親父子といわれます。
ただ、諸説あって、存保も同じく反対したという話もあり、実際はどうだったかわかりません。
いずれにしろ、秀久が逸っていたというのは間違いないでしょう。
これを迎え討った島津軍は、得意の釣り野伏という戦法を用いました。
釣り野伏は、陽動伏兵戦術とも言うべきもので、敗走の振りをして誘い込み、伏兵で包囲殲滅するという作戦です。
まぁ、戦史上よくある戦法ではあるんですが、得意ということからわかるように、島津軍は特に連携がうまかったんでしょうね。
釣り野伏でこの戦い以前から数々の大将首を挙げていますが、部隊同士の連携がうまくいかないと、なかなかそこまでの戦果は得られないはずです。
こうして、島津軍の左翼に誘い込まれた先陣の秀久隊には、島津軍の主力と右翼が殺到し、秀久隊は瞬く間に壊滅。
勢いに乗った島津軍は第二陣の長宗我部信親、十河存保隊にも襲い掛かり、両将は奮戦するも、敢え無く討死しました。
第三陣だった長宗我部元親は、前方の友軍が壊滅したことで負け戦を悟り、自慢の嫡子を失った事も知って自刃しようとしたといいます。
それでも家臣に説得され、伊予へと敗走しました。
しかし、嫡子を失った精神的打撃は大きかったようで、この後の長宗我部家には暗い影が漂うようになって行き、関ヶ原の合戦後の改易の遠因となってしまいます。
もっと悲惨だったのが十河家で、存保には千松丸という子がいましたが、遺領相続はされず、やがて病死したことで大名家としては潰れてしまいました。
この病死には、養育していた生駒親正による毒殺の説もあるなど、政治のきな臭い部分が影として残っています。
また、これにより、三好氏の直系は完全に没落しました。
この頃には、三好康長の養子になっていた後の豊臣秀次も三好姓を名乗らなくなっており、一時は三好政権を打ち立てるほど隆盛した三好氏も、すっかり歴史の表舞台から姿を消すこととなります。
一方、真っ先に潰走した秀久はと言うと、敗軍をまとめるという軍監の任務を放棄して小倉城に落ち、更には四国へと帰ってしまいました。
指揮権を預けられた武将としては、失態以外の何者でもありません。
この後、秀久は怒った秀吉によって高野山に追放されていますが、小田原の役では徳川家康の仲介によって参戦し、なんと功を挙げて大名として復活しています。
面白い事に、この大名として復活した地である小諸では、秀久のこの失態はうっすら触れるだけで、基本的には地元発展に貢献した勇将という姿で小冊子などに描かれていました。
吉良上野介なんかもそうですが、地方地方で描かれる武将の姿が違うのは面白いですね。
話が逸れました。
その長宗我部信親の墓。
前回来た時は、すでに陽が落ちた時間でかなり暗かったんですが、今回は真昼間。
写真撮影には最適な時間です。
 
 
傍らには、没落した十河一族の慰霊碑も。
 
 
この一帯には、墓だの慰霊碑だのが密集しており、全体的に鎮魂の空間となっているのはやたら印象的でしたね。
 
墓と慰霊碑を後にし、本当の目的地である鶴賀城へ。
墓の駐車場からそのまま県道を上って行くのですが、この城への入口は、かなり分かり辛いところにあります。
約1km弱ほど走ったところで、側道が分岐するように下る道が出てくるのですが、そこへ入り、未舗装路を道なりにどんどんと進んで行くとひたすら上り道となるので、一抹の不安を抱えながら終着点まで行くと、城の表示が出てきました。
この部分は二ノ丸のすぐ直下のようですね。
県道からの分岐はこんな感じでした。
 
 
ほんま細道やで・・・
鶴賀城は、歴史上は有名な城ですが、城の規模自体はそれほど大きくありません。
ここの城主であった利光氏も、一般に大友支族とされていますが、あくまで伝承の範囲を出るものではなく、戸次川の合戦で初めて名前が出て来る程度の、つまり大友家中でもそれほど重要な勢力を占めていない家でした。
城を散策してみると、全体的にはかなり中世的で、最高部の峰筋上に東から本丸、二ノ丸、三ノ丸と郭を設けていますが、ある程度の居住空間が取れそうなのは本丸だけ。
二ノ丸、三ノ丸は防衛拠点という感じですね。
ただ、土塁や堀切、それと連続する畝状竪堀などの遺構は明確で、土の城としてはかなり良い城でした。
立派な城址碑は、なぜか二ノ丸にあります。
 
 
二ノ丸は楕円形の空間ですが、あまり平坦ではありません。
この城址碑の部分がちょっと盛り上がってるので、櫓台か何かだったのかもしれませんね。
この下には土塁もありました。
ここから東にある三ノ丸は出丸という感じ。
 
 
西へ向かうと、二ノ丸を過ぎて本丸が見えてきます。
堀切や竪堀などの土の城としての遺構は、本丸と二ノ丸の間が一番充実していました。
いつものように写真ではよく判らない感じになってるので、載せませんが・・・
なんか記憶と照合して判るレベル(^^;)
竪堀の写真はほんま難しい。
それらを越え、本丸に入ってみると、本丸は上下段に分かれており、櫓台のような地形もありました。
これは本丸上段。
 
 
この下にも土塁で囲まれた下段があります。
ただ、雑木林状態でしたが・・・
上の写真の先は視界が開けており、本丸から戸次川古戦場を眺める事ができます。
 
 
籠城していた城兵は、固唾を呑んで合戦の成り行きを見守っていたことでしょう。
 
鶴賀城から、例の未舗装の道をしずしずと下り、無事コケずにオンロードに生還。
国道10号線に戻り、県道38号線、国道197号線と斜めにショートカットして佐賀関港へ。
13:00の便に間に合わせるべく走り、なんとか12:20頃に到着しました。
よし、計画通り!!と駐車場へ入ると、
「満車なので次の次の便の枠に止めて下さい」
なぬ?
もう満車??
積み残し???
うそ゛ーん!
フェリーの便はほぼ1時間ごとなんですが、13時だけ手前に2時間空くんですよね・・・
前日に門川周辺まで回れてれば11時の便が狙えたのに・・・
どうせなら転んでもタダでは起きまいと、佐賀関の先端である関崎に寄ってみようとも思いましたが、枠を数えると8台分しかない。
自分は次々便の3台目。
あと5台じゃ、マスツーリングの団体が来たら一発アウトで3便後。
素直にやめときました。
しかし、結構大きな船なのに8台なんやね。
予約もできひんし、今後、九四フェリーはちょっとロングツーリングに組み込むのは怖いな・・・
 
そんなこんなで、佐賀関で手持ち無沙汰に1時間半を過ごし、フェリーで更に1時間。
三崎港に着いたのは15:10でした。
時間的に考えて、佐田岬も寄ってやろうという野望も敢え無く潰え、帰路に就くしかありませんな。
しかし、ハーレー乗りの爆音好きはなんとかならんもんか。
ハーレーの団体と一緒になったけど、フェリーの駐車スペースは半分屋内みたいなもんやから、めちゃめちゃうるさい。
バイクは自己満足のものやからいかようにカスタムしてくれてもいいけど、アレだけはほんま迷惑やわ・・・
逆に車検対応マフラーのほどほどの音でハーレー乗ってる人は、分かる大人って感じで凄く好印象になってますね。
その大人な人は普通に走ってるだけでしょうけど(^^;)
 
三崎港を出ると、ルートは決まっています。
ほっそい半島ですからね。
国道197号線のメロディーラインしかありません。
佐田岬帰りのバイクや車の車列に混じって淡々と八幡浜まで走り、山を越えて大洲、大洲I.C.から松山道です。
途中、松山を過ぎて休憩していると、ライダーの人に「何処に行ってきたん?(神戸弁脳内自動変換)」と話しかけられましたが、最後に「今から神戸まで帰るんですよ」と言うと、「神戸は遠い・・・遠いわ・・・」と遠い目で独りごちながら去っていきました。
わかってる・・・わかってるんすよ・・・
できるならもう泊まりたい。
しかし、仕事は待ってくれぬ。
 
ここから先は、海を渡るのに2ルートあります。
瀬戸大橋経由で帰るか、大鳴門橋と明石海峡大橋経由で帰るか少し迷いましたが、松山道から徳島道はほぼ直線。
最短距離で走れる淡路島経由に決め、あとは順調に距離を消化していきます。
徳島県に入る辺りでどっぷりと暮れましたが、徳島道は結構な交通量でした。
帰る車が多いんでしょうね。
ペースは上がりませんが、淡々と走れて渋滞にもならない。
対面通行ながら、そんなペースです。
こうして徳島から淡路島へ渡り、帰宅・・・では無しに淡路I.C.で出て松帆の郷へ。
前回のツーリングで、温泉締めがどれだけ快適か知ってしまった・・・
もうやめられへん・・・
ツーリングの締めの淡路島牛丼、旨かったっす!
 
1日目:75.8km
2日目:274.9km
3日目:578.3km  合計:928.1km
 
参考:
戸次川古戦場
長宗我部信親墓
鶴賀城
岩屋松帆温泉
地図付きはこちら 大分県兵庫県
 






2016年5月9日月曜日

東日本縦走 その8

前回のあらすじ
 
松尾城は巨大な城ですわ。
門川城では種を収穫!
 
門川城は、伊東家中では他の城とまとめて三城と呼ばれていたそうですが、他の2城は塩見城と日知屋城です。
この2城は塩見川の流れの周辺にあり、川筋や街道筋、細島の海運を押さえる城だったのでしょう。
三城の位置は、1辺が大体5km前後とする三角形の関係で、連携するにはちょうど良い距離です。
五十鈴川、塩見川、細島と、水運で人間や物資のやり取りも簡単ですし。
康正3年(1457)までは門川、日向の辺りは財部土持氏の領地で、伊東家の領地となるのは、その年の小浪川の合戦で財部土持氏が伊東氏に降伏してからです。
この戦いで、三城を含む北日向の大きな部分が伊東領となり、北辺にあたる三城は、伊東氏にとって県土持氏に対する最前線となりました。
 
門川城の次に向かったのは、三城が形作る三角形の西南の頂点にあたる塩見城ですが、この城は財部土持氏も本拠とした事があり、九州征伐の直前には後詰として島津義久も滞在したということで、三城の中では最も中心的な城だったと思われます。
城跡へは、国道10号線から国道327号線に入り、塩見川沿いを北上していくと城山墓薗の案内が見えますが、それに従って墓薗に向かって坂道を上り、駐車場を過ぎてそのまま真っ直ぐ行くと、城への道があります。
この城への道は舗装されており、車やバイクで乗り入れる事も可能ですが、城の部分の駐車スペースが少ない為、注意が必要かもしれません。
自分は、道が急だったので、急坂でのUターンに追い込まれる立ちゴケトラップの危険性を考えて徒歩で登りましたが、徒歩でも5分掛からない程度の道のりでした。
城跡は綺麗に公園として整備されており、散策は非常に楽です。
 
 
城は、全体的には中世的な性格が濃いですね。
あまり大掛かりな防御構造というのも無さそう。
頂上部を本丸とし、東側と南西側に次段と言うべき郭がありますが、他は段郭程度でしょうか。
下は本丸の中心部分。
この向こう側はやたら細長く、東から北へと武者走りのような細さの部分もありながら続いています。
 
 
次に本丸南西側の段。
東屋が建てられています。
お弁当を食べるのにちょうど良さそう(^^)
 
 
本丸の中心部分かと思われる場所には、慰霊碑が建っていました。
 
 
碑文によると、耳川の合戦において高城川で討死した旧塩見城主綾恒長の弟義政と塩見城主右松祐春、及び戦後に島津軍の掃討に抗して討死した一門郎党を慰霊する碑のようですね。
建立は細川義則氏で、細川氏の22代とあります。
碑文に登場する綾氏は、細川氏のどの系統かはわかりませんが、南北朝時代に綾に入部した細川義門から始まっていますから、現在は細川に姓を戻しておられるんでしょうね。
各城、攻防があった場所には、それぞれこのような物語があるわけです。
そういう細かな歴史を知ることができるのも、城巡りの楽しみのひとつですな。
 
塩見城の次は、そのまま塩見川沿いを下って直進し、曽根町付近で右折してズドーンと伊勢ヶ浜海浜公園まで突き抜けます。
この海浜公園一帯が日知屋城。
この城は、伊東家にとっては不思議と転機になる城だったようです。
文明16年(1484)に飫肥を巡る島津家の内紛に介入する形で、伊東家と島津家の約100年に渡る争奪戦が始まるわけですが、翌年の再出陣の際に祐堯が病没し、家督を継いだ祐国もしばらく後に飫肥での乱戦の中、討死してしまいました。
父の討死によって若年ながら祐国の嫡子尹祐が継ぐわけですが、祐国の弟で当主の叔父にあたる祐邑は、危急の時と土持氏への対抗としてこの城に入城します。
しかし、これが尹祐に猜疑心を起こさせたようで、文明18年(1486)に謀殺されてしまいました。
本当に家督を狙う気持ちがあったのか、祐邑の真意は分かりませんが、祐邑は祐国と共に父の下、伊東家の勢力拡大に貢献していましたから、戦国の宿命とは言え、名のある親族というのは難しいものですね。
城は、この後、尹祐の子祐充が早世した後にも歴史の舞台となります。
祐充の早世により、家中に混乱が広がる中、尹祐の弟祐武が家督を実力で継ごうと家中を一時掌握した際、祐充の弟である祐清と祐吉は難を逃れてこの城に入り、他国への落去を図りました。
この時、この城に集結したのが反祐武派。
反祐武派の重臣が兄弟を説得し、兄弟を大将として担ぎ上げ、ここから反攻に転じました。
そして、兄弟は祐武の討伐に成功し、祐吉がまず家督を継ぎましたが、その早世によって祐清が改めて伊東家を率いることになります。
この祐清が、伊東家の全盛期を現出させた義祐なんですから、運命と言うのは本当に紙一重ですよね。
 
日知屋城自体は、現在は公園化されており、各所各所に説明板があって、非常に快適に散策できます。
駐車場には、まず全体図が設置してありました。
 
 
その脇に城址碑。
 
 
この駐車場から、全体図を頼りに城を散策して行きます。
遊歩道を進むと、石垣などが豊富に見えますね。
 
 
古さは往時のものっぽい。
堀切もありました。
 
 
石の散乱具合から見ると、往時はここにも石垣があったのかもしれません。
ここから少し登ると、西ノ郭です。
 
 
ここの先には鵜戸神社がありました。
西ノ郭から階段を登ると、虎口の木戸のある削平地。
虎口しか書いておらず、本当の郭の名前は不明。
 
 
虎口を抜けると、舟付ノ郭と思われる削平地。
ただ、全体図からはちょっと位置が不明確で、もしかするとこの下が本当の舟付ノ郭かもしれません。
海城なので、船溜はあって当然ですな。
伊勢ヶ浜周辺は丘陵が張り出した風除けもあり、船を置くには絶好の場所です。
 
 
この向こうには、東ノ郭。
 
 
ここと本丸は、石垣も残っており、郭らしい郭でした。
ここからぐるりと海沿いを回って本丸と最高部。
最高部は平たくなっており、往時には櫓の類があったのかもしれません。
 
 
最後に海の景色。
 
 
 
城に興味が無くても、波の音に包まれる中、荒々しい景色が見え、散策や軽い運動には良い場所ですな。
そして、城好きには2度美味しい。
早朝から4城完走で、凄い達成感ですわ(^^)




 
つづく
 
塩見城
日知屋城
地図付きはこちら
 

2016年5月3日火曜日

東九州縦走 その7

前回のあらすじ
 
穆佐城はなかなか見事じゃった。
チキン南蛮も旨し!
 
前日は宮崎市の穆佐で時間切れとなりましたが、ツーリングに出かける前は、佐土原辺りまで寄れるなら寄って、門川辺りで宿を、なんて最初は考えてました。
結局、適当な宿が無かったので延岡になったのですが、まぁ最初の見通しの甘いこと(笑)
その結果、陽が落ちてからめっちゃ走らなあかんことになったんですが(^^;)
しかし、神戸から宮崎にはフェリーもあるし、都城やえびのへも行きたいしで、宮崎市近辺はまたいつか行くはず。
ところが、門川や日向市街の辺りになると、高千穂辺りに行く時もちょっとルートから外れるんですよね。
なので、せっかく近くまで来てるし、今回で行ける所はきっちりと行っておきたい。
というわけで、延岡から一旦日向まで戻って行きたい所に寄り、それから帰路に就く事にしました。
その前に、まず寄るのは宿泊地延岡の松尾城。
延岡がまだ県(アガタ)と呼ばれていた時代に、一帯を支配した県土持氏の居城です。
耳川の合戦の前哨戦で大友軍によって一旦落城しますが、その後は大友軍を破った島津家の部将として再び土持氏の城となりました。
九州征伐後も、県の新たな領主となった高橋氏の居城として機能しています。
城の場所は、松山町のすぐ西の丘。
延岡市街から高速道路へと真っ直ぐ延びる土手道から松山橋を渡り、正面に見えてくる本東寺の脇から城へ道が延びています。
松山橋は、県道16号線の五ヶ瀬大橋の1つ西の橋になりますね。
バイクか軽なら行けるだろうという程度の細さではありますが、城までは舗装路が続いており、楽に到達することができます。
ただ、自分は前日の清武城のように途方に暮れかねないような状況を恐れて、歩いて城に入りましたが(^^;)
 
この城へと延びている道の両サイドに、明らかに城と見られる地形が続いており、なかなか大きな城ですね。
本丸とそれに付随する段や二ノ丸はかなり明確ですが、二ノ丸の先に堀切を介して続く地形も明らかに郭で、本丸から折れつつ4郭ほどありました。
下の本丸と二ノ丸の間の堀切を始め、各郭の間の堀切はかなり明確です。
 
 
二ノ丸に入ってみると、結構広く、奥には土塁も残っていました。
そして、中央に小さな社。
 
 
二ノ丸の次は本丸へ。
やや雑草は生えていますが、散策は快適です。
まず、本丸全景。
右の碑の奥にも削平地は広がっています。
 
 
その碑の奥側から撮ったもの。
本丸は結構広い。
 
 
本丸から川側には2段の段郭があり、その上段には遊具がありました。
三角形の典型的な段郭ですね。
更にこの下の段は、城を貫通していた舗装道の終着点になっていました。
 
 
三ノ丸以下の郭は、どうやら私有地になっているようで、入るのは遠慮しましたが、脇から見ても地形が明確です。
また、反対側は完全に杉林となっているのですが、かなり平坦で、こちらは居住区といったところでしょうか。
とても道の周辺だけでは収まらない大きさがありました。
帰ってから色々な調査報告なんかを調べてみると、主郭部だけではなく、本東寺や松山神社辺りや、谷筋1本越えた北側にまで城域が広がっているとか。
確かに本東寺の辺りは、境内や畑地が平坦で、且つ主郭部と標高があまり変わらないですから、城域に取り込んでおかないと防備上かなりの欠点になるというのは、現地を歩けば一目瞭然ですが、谷を挟んだ北側にまで広がっているのはびっくりでした。
城の規模から考えると、土持氏の勢力は想像以上に大きかったのかもしれませんね。
 
松尾城の次は、門川に戻って門川城を目指します。
松尾城から高速はすぐなので、時間短縮の為に延岡I.C.から門川I.C.までビューンとひとっ走り。
下り口から目的の県道に入れるはずでしたが、間違って一端国道10号線に入り、少し戻って県道へ。
この道をそのまま南下すれば、ちょうど門川城へ到着という寸法です。
ま、門川城への登城口が分からず、寸法通りというわけには行かなかったんですがね。
どうもこまごまとしたルート選択ミスが多いですわ(^^;)
地図で見ると、ちょうど五十鈴小学校の南側の丘陵が城跡ですね。
登城口は東側にあり、入口にはドドンと立派な案内板がありました。
 
 
古くは門川伊東氏が一帯を支配し、後に財部土持氏、そして伊東氏の北の境の城となったのが門川城ですが、城がいつ頃築城されたのかは、諸説があるようですな。
財部土持氏が敗れて伊東氏に降伏した際、伊東氏に渡った地名として門川が出てくることから、その頃には城は存在したと思われるのですが、伊東氏による築城という説も有るようです。
この辺り、北日向は史料の散逸が多くて、どうも史実の不明確な城が多いのが残念なところ。
こればっかりは、仕方の無い所ですが。
城へは、上の案内板の脇の道を進むと、二ノ丸と三ノ丸の間に出ます。
ここには、堀と土橋の痕跡がくっきりと。
 
 
三ノ丸は果樹園として使われていたようですが、放棄されたのか、入口数mより奥は凄い藪になっていました。
上の写真の土橋より続く二ノ丸への登り道もやや藪っている感じで、嫌な予感。
到着した二ノ丸はこんな感じでした。
 
 
写真に見える範囲の散策は可能なんですが、その先や左手は藪ってて散策がかなり難しい。
二ノ丸は2段構成のようなんですが、視界が開けず、上段に入ったのか下段に入ったのか不明でした。
この後、写真の右手から上へ行ける登り土塁のような地形があったので、なんとか藪漕ぎしながら上側の郭に突入。
 
 
これ、無理!
進めなかったので、二ノ丸の上段だったのか本丸だったのか判別できず!
予習で見た限りでは、結構快適なお城っぽかったんですがねぇ(^^;)
畑も放棄されてるし、もう手を入れる人がいないのかもしれません。
一時、リアルを追及するとか何とかで、やたらと埃っぽい乾燥した画が歴史ドラマなんかで使われていましたが、湿潤な日本の
「荒廃した景色」というのはこうでしょう。
何処も彼処も草茫々。
幕末から維新に掛けて来日した西洋人は、この湿潤さを見て、日本人にこんな豊かな土地は勿体無いと恨み言を吐いたそうですが(^^;)
下は藪漕ぎでの収穫。
 
 
うわっ!キモっ!
 
つづく
 
参考:
松尾城
門川城
地図付きはこちら