2015年7月30日木曜日

安保法制のついでに徒然と その1

安保法制に関連してですが、なんとなく外交や戦争に関して思っていることを徒然に。
 
歴史をある程度知っている自分が戦争を考えると、よく言われるように、戦争は外交の延長である、ということを強く思います。
それぞれの国を個別に見ていくと、特徴ある外交の仕方や判断、利害など様々で、人間の人格や性格に似たものがありますね。
民族的な価値観に根ざした考え方というのもあるでしょう。
逆に民族的なバッグボーンが無いアメリカは、しがらみも無いからなのか、至極合理的に感じます。
ただ、これらは人間個人よりももっと利に聡く、強欲なようですね。
普通の人が、関西弁で言う所の、それはちょっとえげつないんちゃう?という判断も、国益と言う言葉でもって正当化され、押し通されることがあります。
おまけに、大抵の国は武力を持っていますから、酷い言い方をすれば、ヤクザ同士の抗争に近いのかもしれません。

そんな中、日本の憲法9条が平和を守ってきた、というような論調があるのは、ちょっと現実認識が足りなさ過ぎるのではないか?と思わずにはおれません。
言いたいのは、憲法9条がダメなのではなく、その現実認識が甘すぎる、ということなんです。
言うまでも無く、現憲法は昭和21年に公布され、翌年に施行されました。
ですが、昭和27年に竹島が韓国に実効支配されています。
尖閣諸島の領有を中国政府が言い出したのは、昭和46年です。
憲法9条で守れてますか?
戦後の大半の期間は平和だったという反論があるかもしれませんが、それは米軍のおかげ、もっと言えば日本に米軍基地があって米軍が駐屯していた、という現実からです。
日本を攻撃すれば、そこに駐屯する米軍が即応する。
これは、冷戦構造下では日本だけの話ではありませんが、そういうのが目に見えるからこそ抑止力になったのです。
もっと言えば、日本が米軍の軍事的影響下にあったとしても、もし日本国内に米軍が存在していなければ、後に米軍が収拾するとしても、一時的に紛争に巻き込まれていたかもしれません。

憲法9条と共に、セットで語られる事もあるのは、非武装中立です。
海外に目を向けると、そういう政策を採る国はあります。
しかし、ルクセンブルクなどは過去、そうでしたが、第1次、第2次世界大戦では、中立を宣言していたベルギーと共にあっさりドイツに占領されてしまいました。
要は、非武装中立を掲げていても、相手のやる気次第でどうとでもなってしまうわけですね。
なんと言ってもヤクザ同士の利害争いですから。
外交という交渉で要求が通らなければ、次は実力行使です。
他には、非武装ゆえに内乱を鎮圧できないなんて事態に見舞われた国もあります。
この場合は、結局は他の国の軍や国連軍を入れることになります。
なんだか本末転倒ではありますわな。
また、非武装は圧倒的に小国が多いのが現状です。
なぜ小国が多いのか。
まず金が無い。
軍隊の運営にはお金がかなりかかります。
次に、冷たい言い方ですが、占領する価値が無いからです。
占領のメリットに対し、それに対する批判や国際的立場の悪化というデメリットを比べた場合、圧倒的にデメリットの方が大きいという現実的打算の結果です。
日本の場合は、資源はあまりありませんが、技術力や人的資源などを考えると、とてもとてもこういうわけにはいかないでしょう。
子供を戦争に行かせないと叫んで非武装を掲げても、相手次第で戦争に巻き込まれるし、巻き込まれたら否が応でも人的損害は出るわけです。
一面では交通事故と同じですな。
バイク乗りだけに特に気をつけていますが、こっちが安全運転でも相手次第では事故になることもある。
9条や非武装を叫ぶ人達は、そこまで想像ができているのでしょうか。
どうも現実や歴史がきちんと認識できていないように思います。
ただ、個人的には、もう戦争というのは商売にならなくなっていて、戦争勃発というのが既に極論になっているとは思います。
ヤクザ同士の利害衝突ですからね。
双方が儲かりもしないなら、それはそれで抑止力になります。
対ゲリラ戦争は別ですが。

現状について言えば、米軍は、冷戦構造下で拡げすぎた風呂敷を少し畳もうとしているようです。
それによって、日本の周辺各国は、攻撃すれば米軍が即応する!という認識から、即応する?という認識に徐々に変わりつつあるように思います。
日本も同様で、それを肌で感じているからこそ、今の安保法制制定へと繋がっている訳です。
誰かが、自衛隊の人もアメリカの為に死にたくないと思ってると思いますよ、と言ってましたが、アメリカの兵士こそ、それを思ってるでしょう。
自軍のピンチに救援すらしてくれない日本を何故助けないといけないのか、と。
政府は、中国の台頭を受け、そのような忌避的な状態から少しでもちゃんとした同盟体制に近付けたいんだと思います。
集団安保体制というのは、自治会みたいなもんですからね。
自治会みんなで危険物の清掃や防犯活動をしましょうと言ってる。
でも、強盗に入られた時には自治会を頼るくせに、他の家に強盗が入ったりしても知らん振りで、普段の活動も本腰を入れてできない家がある。
そんな家に積極的に手を貸そうと思いますか?
自治会長が東の自治会と競い合ってた頃はお目こぼしされてたけど、その自治会長もちょっと勢いが無い。
じゃあとうするの?というのが今の状態です。
ちゃんとした自治会員としてやっていくのか、今の不完全な自治会員を続けるのか。
不完全なまま続けるなら、情勢が冷戦の頃とは全く変わってきてますから、他に危機を防ぐ手立てが必要でしょう。
それは、独立独歩でやるのか、それとも違う枠組みなのか。 
奇手として、赤い自治会に新たに加盟するなんて手もありますがね(笑)
安保法制の反対派にはこの視点が全く欠けています。
だから論じるにも値しない。
どんな方策を取るにしても、いい加減、先延ばしが限界で、何らかの手が必要な時期でしょう。
自治会活動をきちんとするのも、独立独歩でやるのも、新たな枠組みを考えるにも、何にしても新たなコストやリスクのある話で、きちんと説明が必要です。
軽武装、重商主義で甘い汁を吸えた時代は帰ってこないでしょう。
 
なんかちょっと長くなってしまいましたね。
だらだらと書き殴りたい事はまだあるので、次回へつづきます。
 

2015年7月23日木曜日

安保法制

話題の絶えない安保法制。
人それぞれ、賛成反対の立場はあるんでしょうけど、相変わらず野党が全く機能していない。
与党が法案を出し、野党が反対するならば、しかるべき対案を用意するのが筋だと思うんですがね。
そういう意味で、維新の党しか機能していない。
健全な民主主義は賛否どちらの意見も大事で、議論を戦わせないと意味が無い。
何でも反対じゃ、かつての社会党と同じ。
そんな仕事なら評論家にでもやらせておけばいい。
有効な対案を出さず、審議拒否、採決反対なんかをやってるようじゃ、ちょっとね・・・

この安保法制に関連し、国会前でのデモがクローズアップされているけど、自民党はここ何回かの選挙で公約にし、そして支持を受けて議席を得てきた。
しっかりと手順は踏んでるわけです。
それに対して、デモでこれだけの人が集まるんだから配慮しろというような報道がなされるのは、ちょっと有権者に対して横暴過ぎやしませんか?
間接民主主義として、代議制民主主義として、各地の有権者は候補者の公約を吟味し、支持することによって議員として送り出したわけです。
なので、議員の一義的な責任は選挙区の有権者に対して存在し、自らが有権者に約束した公約を果たさなきゃならない。
それなのに、デモで何人集まったからとか、選挙区の有権者とは関係無い所での批判は、ちょっと違うんじゃないですかね。
逆に言えば、公約されてて、安保法制をやると分かってて、なぜ選挙の時に論戦を盛り上げていくということができなかったのか、という感じです。
デモをやるなら選挙の時にやって、共感する有権者を増やすべき。
そして、選挙の結果に影響を与えるべきなんです。
それを考えると、今の報道の論調の厳しさと、一番大事な選挙の時の論調と、やたら温度差を感じてしまうんですよ。
庶民が意見を反映できる選挙の時にさらりと触れるぐらいしかしてなかったのに、今になってどうのこうの言いすぎなんじゃないか?とね。
もし、選挙の時にその話題では注目を得られないというのであれば、有権者の興味はその程度ということなんですけど。
野球をやってただけに、バントの構えをしたミエミエの打者がいるのに投手が投げる前はたいして注目もせず、投げてからバント!バント!と言ってる図が思い浮かびます。
いや、投げる前に言えよ
と。
ま、今は誰でも写真がすぐ撮れる世の中で、中核派や革マル、各労働組合の旗なんかが見えてるデモなんかは論外ですがね。
自分的には、彼らが猛ってた時代を自ら総括してないと思うんで。
自己反省の無い組織や人間に対しては、聞く耳を持つ必要がない。
 
報道に関して言えば、強行採決があったことから、多数決が民主主義をゆがめてしまうなんて論調もありましたね。
え?
という感想しかないですが(笑)
民主主義の大原則たる多数決がダメだったら、よりよい方法を提案すればいいんじゃないの?
多数決を原則にしてる民主主義国家がこぞって採用してくれるよ!
・・・
・・・
なんかね、多数決を誤解してるんじゃないですかね。
多数決の本質は、最も多い人間が支持する意見がもっとも良いだろうではなく、最も文句が出にくいであろう、というシステムです。
たとえ多数が支持する案が良くなくても、支持したんだから納得はするだろうというのも含まれていますね。
安保法制が、今後の日本にとって良いものになるか悪いものになるかは非常に議論の多いところですが、選挙公約でもあったんだから、選挙で多数を得た与党の案が支持されたことは間違いのない事実。
良かろうが悪かろうが、多数に支持されたものが選択される、それが多数の民が決める、納得する、という民主主義です。
もちろん、行き過ぎた少数派無視は斟酌されるべきですが、基本は多数の支持した案が選択されるべきですよね。
でないと選挙の意味が無い。

しかし、政権批判をしたくてメディアは色々と言葉を弄し過ぎなんじゃなかろうか。
政治家がアホ、政治家が信用できない、というのと同じですな。
質の悪い議員がいるのも否定しませんが、選挙で選んでいる以上、有権者がアホ、有権者が信用できないと言ってるに等しい。
そして、それを有権者目線で語ってるマスコミや評論家の多い事。
庶民の有権者の味方の振りをして庶民を馬鹿にしている。
言葉が軽いですわ。
耳障りがいいだけ。
ま、もっと有権者は意識を高めて欲しいという自己批判目線なら、そういう表現もアリなんですがね。
政治家はアホとか信用できないとかではなく、もっと働け、もっと現実的な案を出せ、という前向きな報道になるようメディアも頑張って欲しいですな。
いつの日か、与党案は現実的やけど野党案のこの部分も一理ある、というような現実的な政策論争が行われるようになってほしいものです。
 

2015年7月17日金曜日

阿蘇・佐賀ツーリング その13

前回のあらすじ

直鳥城、これぞ佐賀平野の城の姿!
 
直鳥城を出発し、次に向かうのは下高橋城。
下高橋城は福岡県大刀洗の城です。
というわけで、佐賀県とはここでお別れ。
名残惜しくはあるけど、目標の城々に行けたから満足ですわ(^^)
秋の佐賀平野。
秋の黄色い色模様の景色がひたすら遠くまで続く本当に起伏の無い平地。
そして、急に盛られたような脊振の山塊で区切られるコントラスト。
佐賀って感じですね(^^)
前回はそれに加えて気球も浮かんでました。
気球もただっ広い平野にはよく似合う。
平野の景色は、琵琶湖の湖東と佐賀平野が自分の中ではトップ2。
ただただ広くて心が穏やかになりますな(^^)

直鳥城から国道264号線、国道385号線と分かりやすい道を辿って長崎道の東脊振I.C.へ・・・向かう前に腹拵え。
区切りのいい時に食べておかないと、
また昼飯が午後3時にコンビニで
という状況にしてしまう悪癖があります。
ついでにI.C.手前でバイクも腹拵え。
これで最後の出陣準備完了!
東脊振I.C.からは、長崎道を東進し、大宰府-鳥栖-久留米という大動脈をサクッと通過して筑後小郡I.C.へ。
ここから南に数km進んで行けば、道沿いに城はあります。
ただ、中央分離帯のある道なので、下高橋の交差点で一旦右折し、更にすぐに右折して集落へ入り、元の中央分離帯の道に戻る感じで城へ。

 
下高橋城の城跡は神社になっているので、場所はすごく分かり易いですね。
この城は、筑前などで繁栄した大蔵一族のひとつ、高橋氏の居城ですが、その事跡はあまりはっきりとしていません。
築城時期も、南北朝時代の説があったり、現地では戦国時代に築かれたとあったり、諸説があるようです。

 
大まかには、元々の高橋氏の居城は上高橋城で、この下高橋城に移り、後に宝満山の城へ移るという変遷をしました。
そして、当主としては、大蔵氏系の長種が嗣子無く没し、大友氏の一族である一萬田氏から鑑種を迎えたことははっきりとしていますが、その年代には幅があり、天文年間(1532-55)の末か永禄2年(1559)とされています。
で、下高橋城から宝満山への本拠地移転が鑑種の時代とされているので、天文末年、もしくは永禄2年以降となるわけですが、現地の説明板には弘治年間(1555-58)の移転となっていました。
つまり、永禄2年家督相続説だと、矛盾ができてしまうわけです。
ん~この辺りは年代がちょっと曖昧なんやろねぇ
また、色々史料を当たってみると、下高橋城へ移ったのは室町時代の教種の時だったとか、上に出てくる長種が宝満屋形と呼ばれた、つまり宝満山に本拠を置いていたというのも出てきて、正に諸説紛々。
鑑種の家督相続によって家の地位や役割が変わり、それに応じるのと人心一新も兼ねて下高橋城、そして宝満山へと本拠を移したと見るのが一番解り易いけど、実際はどうだったんでしょうね。

話が長くなりましたが、城自体は、神社を囲う溝が堀だったのかなという程度で、目ぼしい遺構はありませんでした。
ただ、神社すぐ横の集落の道が、バイクで良かったわ~と思うほど軽自動車でもギリギリという細さなのに対し、神社西側の道が異常に広く、それでいてどこにも繋がっていないというのが、堀跡ちゃうん?堀跡ちゃうん?という想像力が掻き立てられて楽しかったです(笑)
これがその道。

 
立派な道なんですが、この先は集落の道に繋がっててかなり細く、この後ろ側は田んぼでブチッと途切れてるんですよねぇ
 
下高橋城の次は、やや北にある山隈城へ向かいます。
神社からそのまま中央分離帯のある県道53号線に戻って北上し、筑後小郡I.C.をそのまま過ぎて北へ。
2kmほど進めば城山公園の案内が見えてきます。
この公園の後背の山にあるのが山隈城。
標高は131m。
この公園には、13年前にも立ち寄っていますが、城には登りませんでした。
走ってたら偶然に城山公園というのを見つけて寄ってみた、という状態で、完全に麓からの登山になるということを知り、陽が沈む前に秋月城と益富城に寄ろうと思っていたので諦めた城です。
あの時も天気が良かったですね。
城山は花立山とも呼ばれるようで、当時のツーリングマップルには花立山の方が載っていたと記憶しています。
花を立てた山。
風流な名前ですね。
何か由来がありそうです。
ちなみに、城の名である山隈は、山の東側の地名で、城が健在だった頃はこちらに城に付随する城下町的な集落があったんでしょうな。
また、大刀洗川の源流もその辺りとなっています。

前回登れなかったこの城、今回は失敗を防ぐべく、念入りに予習してきました。
城山公園という名前なので、ついつい公園から登るものと思いがちですが、よくよく調べてみると、山の北西側からほぼ山頂まで通じる車道があったのです。
これはラッキー!
日程的に帰りが気になる時間でもあり、本気登山を回避できるというのはありがたい。
というわけで、城山公園の北の工業団地の脇を通り、北西側から登山道へ。
ちなみに、城への案内は全く無かったので、この道を使いたい人はスマホの地図を頼りにするのが一番確かかと思われます。

湧水が路面を濡らす急峻な坂を駆け上がり、駐車場に着くと、そこはもう頂上のすぐ下で、城の三ノ丸でした。
バイクを止め、さて散策するかと思った瞬間、突然、ゴーーーという音が鳴り出しました。
何?何の音?と周りを探ると、どうやら山頂付近が貯水施設になっているようで、この日は断続的に放水を行っている様子。
湧水が濡らしたと思っていた濡れた路面は、溜められた水が放出され、溝から溢れた為だったようです。
なんのこっちゃ。
さて、山隈城の方ですが、城が最初に活用されたのは南北朝時代で、延文4年(1359)に少弐頼尚が筑後川での戦いの際に本陣を置いた事に始まります。
そして、頼尚はここから更に味坂の陣へと移り、城から南西に宝満川を越えた先の大保原で南朝方と大激戦に及びました。
10万の兵が戦ったという筑後川の戦いです。
しかし、頼尚は戦いに敗れてしまい、一旦この城に退却し、兵をまとめて大宰府に退くました。
この後、大宰府も南朝方の攻撃によって陥落していることから、その頃には山隈城も南朝方が掌握したと思われます。
時代が下った戦国時代には、山隈城は大友氏が支配し、大友氏が衰退すると秋月氏の支配へと変わったようですが、いずれも戦時の軍事的拠点としては使われたものの、平時の拠点ではなかった様子。
秀吉の九州征伐後には、筑前に入部した小早川氏も支城として整備していますが、縄張自体は頂上部の本丸と北西の峰筋に張り出した二ノ丸、やや広い北東側の三ノ丸という構成で、小規模かつ中世的なままです。
恐らく、小早川氏は領境の監視場所として再利用するだけで、それほど手を入れなかったんではないでしょうか。
頂上部の山隈城本丸はこんな感じです。

 
上の写真中央左寄りに、立派な城址碑も見えます。
下はそのアップ。
後ろにある説明板は、小郡市のものでした。
この山は市境となっているので、本丸の下には筑前町の説明板もあります。
共同で建てないところは、縦割り行政の弊害か!?(笑)

 
頂上から城山公園方向の眺め。
秋晴れで心地よいですな。

 
本丸の北西方向に伸びる二ノ丸は、いかにも城跡という感じ。

 
同じく北東方向の三ノ丸。
三ノ丸は駐車場もあるので、全体としてはこの倍くらいあります。
この愛宕社の向こう側にも小さな2条の堀切を挟んで段郭がありました。

 
城自体は小規模だったけど、いかにも山城らしい縄張で、リベンジもできたので満足満足(^^)
これで心置きなく帰れますな。
 
帰りは、大宰府から九州道で帰ってもよかったんですが、その辺りは通った事もあるので、少しでも違う道をと、冷水トンネルを抜けて飯塚直方経由で九州道へ向かいました。
時間があれば冷水峠の峠道のほうも行ってやろうかと思ってましたが、寝坊もあって時間が押したのでスルー。
九州道に入ってからは、そのまま関門橋、中国道、山陽道と乗り継いで約500kmの旅路。
距離だけ見たら遠いな~
でも御殿場まで行くのと変わらないと思ったら、どうということはないという感覚。
この春には、昼からもっと長い距離を帰ってもいるし。
しかし、経験しているってのは大きいですね。
見通しがつくというのは色々決める上でかなり大きい。
ただ、今回は相棒のような、同じペースの車には出会いませんでした。
岡山県下だけは、京都ナンバーのSUVについていったけど。
同じペースの車ってのは、退屈な長距離では密かに励みになるんやけどねぇ
最後におまけの写真。
快晴なる関門橋。

 
そして、布刈から門司港方向。

 
天気が良くて眺めが素晴らしかった(^^)
 
1日目:40.2km
2日目:368.7km
3日目:656.1km  合計:1065.0km
 
参考:
下高橋城
山隈城
関門橋

地図付きはこちら
 

2015年7月10日金曜日

阿蘇・佐賀ツーリング その12

前回のあらすじ

13年越しの佐賀の野望、ここに完結!
 
佐賀城を後にして、次に向かうのは蓮池城。
本当なら早朝に行けてたはずなのに・・・
という自分への失望は、取り合えず横に置くとすっか(^^;)
この城は、佐賀藩の藩祖たる鍋島直茂所縁の城ですな。
佐賀市街からは距離にして5kmほど、道も長閑な快走路である県道20号線をずっと東に行けば到着します。
しかし、城跡は蓮池公園になっているとは言え、あまり城跡らしさはありませんでした。
蓮池城は、かつては関東の名族小田氏の分かれである肥前小田氏の居城で、小田氏が龍造寺隆信に滅ぼされた後は龍造寺一門が城主を務め、後には鍋島直茂が城主に就いたという城です。
一癖も二癖もある武将ばかりで、ここの城は城主の年表を辿っていくだけで面白いですね(^^)
また、龍造寺時代には一門が勢揃いで、相当重要視されていたというのも解り易い。
城自体も、鍋島時代に建てられた天守が、1度目は名護屋城に、2度目は佐賀城に移築されたといわれ、城郭史においても外せない城でしょう。
ただ、元和元年(1615)の一国一城令で廃城になった後、佐賀藩の支藩が陣屋を置いた為、そちらの色が濃い城跡となっています。
ま、公園自体は明治9年の開園と早かったものの、後に佐賀江川の改修で真っ二つにされており、陣屋自体の色も薄いんですがね・・・

現地にあった城についての図はこれだけでした。

 
この近くには、往時のものと見られる石垣も。

 
佐賀江川を渡った南側には、旧佐賀江川だった水路がありました。
戦国時代にはこの川筋が城の堀代わりだったわけです。

 
城の周辺は色々と形を変えやすい平野部ですから、佐賀江川改修後に旧流路は大半が辿れなくなってしまってますが、地図を見れば痕跡は確認できます。
ちょっと雑ですが、足りない部分を補足してみました。

 
大体こんな感じかな?
割と南の方は適当ですが(笑)
蓮池城の別名は小曲城なんですが、地図を見るとすごく納得。
戦国時代はこの湾曲部分の内側が中核だったようです。
それに対して、江戸時代は蓮池神社辺りが中心だった模様。
時代によって城の用途が異なれば、立地が同じでも随分と傾向が違うものですな。
ちなみに、改修前は中津江川の合流地点からも南に大きく湾流しており、こちらは大曲と呼ばれていたそうな。
大歩危小歩危みたいなものか(笑)
地名にも歴史ありです。
 
一応、蓮池城で佐賀の予定は終わり。
本日の予定は福岡県であと2城。
東脊振I.C.から高速やな、と北上して国道264号線に出た所、すぐに直鳥城跡という文字が。
なぬ!?
案内が出てきたのが急すぎて案内の方向に右折できず、しかも一瞬見間違いかとも思ったけど、一旦城原川を越えてからUターンして戻ってくると、やっぱり直鳥城の文字。
これは、寄らねばなるまい、と昨日も言った気がするが、やっぱり寄ら(ry

国道を曲がって民家の傍を抜けると、すぐそこはもう城跡でした。
直鳥城は、昨日寄った蒲池城や柳川城所縁の蒲池氏の分家、犬塚氏の居城です。
犬塚氏は、分家した後、いくつかに分かれていますが、力のあった西、東、直鳥の三家を三犬塚と呼びました。
当然ながら、直鳥城は直鳥犬塚氏の居城です。
犬塚氏は肥前ということもあって、宗家と違い少弐氏の家臣だったようですが、戦国時代中期頃になると少弐氏の没落と龍造寺氏の台頭、大内氏没落後の大友氏の肥前進出によって各家で対応が分かれたようです。
この大友氏と龍造寺氏の対立の中、代理戦争的に東と西の犬塚氏が対立し、混乱の中、両家の当主が斬り死にするという事態となります。
互いに斬り合ったのか、片方が斬った後に自刃したのか、真相は藪の中ですが、犬塚一族が混乱に陥る中、事態を収拾したのは、この直鳥城主だった犬塚鎮家でした。
鎮家は、その名を見ると大友宗麟の諱である義鎮から偏諱を受けているのが判るように、この頃は大友方で、直鳥城から西犬塚家の蒲田江城に入って龍造寺軍と対峙しました。
しかし、元亀2年(1571)には龍造寺軍に敗れ、筑後へ落ち延びています。
直鳥城も、この時に放棄されたと思われ、そのまま廃城になったんでしょうね。
その後、鎮家は龍造寺氏に帰順し、南肥前攻略戦で活躍して大村弾正、百武志摩守、上瀧志摩守と共に、両弾二島のひとりに数えられる猛将となりました。

直鳥城の概要はこんな感じですが、この城、佐賀平野のクリークを利用した城として、そのままの形を残しているのが何よりいいですね。
あちこちにこんな水路が入り組んでいます。

 
しかし、本丸は結構な広さ。

 
全体の鳥瞰図はこんな感じです。
廃城後もそのまま集落の農地として使われ、地形が保存されたのが良かったですね。

 
あの立派な佐賀城も、龍造寺氏草創期の村中城の時は、こんなクリークの城だったと推測されています。
多分、佐賀平野の城はこんな形がスタンダードだったんでしょう。
そういう意味で、直鳥城は色々と想像しながらの散策が楽しい城でした。
 
つづく
 
参考:
蓮池城
直鳥城
地図付きはこちら
 

2015年7月3日金曜日

阿蘇・佐賀ツーリング その11

前回のあらすじ

ね、ね、寝坊だってぇ~!?
おっさんになっても寝坊癖が直りゃしねぇ。
 
水ヶ江城の次は佐賀城ですが、水ヶ江城自体が江戸時代の佐賀城の内堀のすぐ外側にあり、城下町を含めた城全体という意味では、もう佐賀城内と言えるかも知れません。
惣構がはっきりしていれば、間違いなく城内と言えるんでしょうけどもね。
佐賀城の惣構に関しては、ちょっと探してみても詳しい史料が見当たらないのですが、どうも一部にはあったらしいです。
城の東に構口という地名があり、往時はそこに番所がありました。
この構口あたりに流れる大溝川やその南の八田江川は直角に曲がっている場所が何ヶ所もあり、どうも惣構っぽいんですが、どうなんでしょうか。

それはともかくとして、水ヶ江城から佐賀城は目と鼻の先。
徒歩でも行ける距離ですが、バイクでササッと移動です。
そう、50人ぐらいのブラスバンド部が見守る中を。
エンストしてカッコ悪い姿を晒さないよう慎重に、且つ大胆に。
無意味に緊張するわ!

佐賀城周辺での駐車場は、県立博物館前にあるんですが、前に来た時も恐らくここに止めたはずです。
なんか思い出の中の駐車場の景色と現在の駐車場の景色があまり一致しませんが、博物館は記憶のまま。
懐かしいです(^^)
時間を見ると、まだ9時過ぎ。
ほんまなら蓮池城も見終わってたはずやのになぁなんて考えつつ、開館時間まで佐賀城を散策。
まずは三ノ丸側から本丸。

 
道の両サイドが少し窪んでいますが、これは本丸と二ノ丸の間にあった堀の跡。
今は綺麗に芝生が敷かれています。
ちなみに、往時にこの通路はありませんでした。
奥に見える屋根が御殿の屋根。
木の裏側が天守台です。
石垣を南へ歩いていけば、現存する堀があります。

 
この幅広の堀が佐賀城らしさですかね。
いかにもクリーク地帯の中にある城という感じで、水面が近く、そして広い。
雄大です。
芝生の気持ち良さを踏みしめつつ、今度は北へ戻って天守台へ。
この天守台、ちょいと変わっていて、本丸からは入れず、本丸北側の石塁沿いを通って入るようになっています。
下は天守への桝形。

 
天守台の石垣は、中ほどの打込矧と隅部のきっちりとした算木積という江戸時代前半の特徴をよく残しています。
正確には井楼積というのかな?

 
ちなみに、佐賀城の石垣は何度か補修されており、表面が滑らかな切込矧の石垣もあって、その時代時代によって城内でも各所で石垣の積み方や印象が異なります。
天守台の上はこんな感じで何も無し。

 
前回来た時にあった天守台の上の建物は、本丸歴史館の開館の際に解体されたようですね。
協和館という名前の建物でしたが、明治時代の建築物ということもあって、割に違和感無く天守台に建っていた記憶があります。
この天守台から見た本丸は、当時は発掘調査でブルーシートが所々掛けられたりしていて風情もへったくれも無かったんですが、今は立派な木造御殿が復元され、一面芝生が敷かれた雰囲気のある城となっていました。
本丸と反対側の二ノ丸側の景色はこんな感じ。

 
往時は、この眼下に本丸と二ノ丸を囲う堀があり、三ノ丸や北側の重臣屋敷と区画されていました。
今は残念ながら面影が無いですね。
天守台を下りて本丸へ向かうと、その正門として鯱の門があります。

 
この門は、主要な城郭建造物としては唯一現存する建物で、他の建物の大半が焼失した佐賀の乱の際の弾痕が残っています。
面構えとしてもかなり重厚で、大藩の城門として存在感が抜群。
この鯱の門の先に、佐賀旅行の本丸たる佐賀城本丸歴史館があります。

 
到着した時は、まだ開館時間になっていなかったんですが、周辺に結構大勢いたのが外国人観光客の人でした。
恐らく中国の人か台湾の人なんですが、ここはツアーにも組み込まれているんですね。
こういう地方の博物館の類はツアーに入っていないイメージがあるんですが、そうでもないのかな?
それとも、復元とは言え、二条城のような御殿需要なのか。
なんか不思議な光景でした。

この本丸歴史館は、木造で復元された幕末の本丸御殿で、内部は資料館となっています。
その展示内容は、当然ながら幕末に関する事が主なのですが、ビジュアル的に見やすく工夫されており、解り易かったですね。
幕末から維新に掛けての技術的な解説もあって、理系の人間としては面白かったです。
これも日本随一の西洋工業技術を持っていた佐賀藩に関する展示だからでしょうか。

一通り見て外に出てくると、この日はイベントとして寸劇があるらしく、門の前では簡易劇場的な場所を作って芝居をやっていました。
こういうイベントなんかも積極的にやっているようで、なかなか熱心ですな。
何より感心したのは、県立博物館や美術館でもそうでしたが、入館料が無料なこと。
自分みたいな観光客は、遠くから来てるので興味があったら金額も気にせずに入るし、どっちでもいいんですが、無料なら地元の人や子供達に手軽に興味を持ってもらえていいなと思うんです。
大英博物館も入場無料ですが、文化財と親しむ土壌を育てるという観点では、無料が大正義ですね。
何も無いなんて歌われていた佐賀ですが、ここはかなり誇っていいと思います。
なのでちょっと奮発して寄付してきました(笑)
是非、この無料政策は維持してほしいですね。
 
つづく
 
参考:
佐賀城
佐賀城本丸歴史館

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