2016年2月25日木曜日

支配者階級比率

前から気になっていたいた事がありまして、それについて調べてみました。
それは、支配階級の人口比率。
世界的に見ると、大規模に封建制というのが成立したのはヨーロッパと日本だけとされ、先進国への脱皮は封建制を経ないと成立しなかったという論もあるようですね。
厳密に言えば、中国でも封建制の時代がありましたが、と言うか封建制自体が元々は中国の言葉なんですが、ヨーロッパや日本と同じ程度まで領主権が確保されていたかには議論があるようです。
具体的に言うと殷や周の時代ですからね。
江戸時代や中世ヨーロッパと比べるには時代に隔たりがありすぎるのと、はっきりさせるには昔過ぎて史料的な制約も多いのでしょう。
 
本題の支配者階級比率ですが、日本の場合を直球で言うと、明治最初期の調査で6%と少しでした。
江戸時代中期以前は人口調査もされていないので、そもそも比率を追うことはほぼ不可能なんですが、江戸時代の中期以降も武士の数については不明で、明確に数字が出るのは明治時代が初めてとなります。
戊辰戦争での敗戦藩における武士の大量解雇も考慮すると、江戸時代末期で大体7%といったところでしょうか。
これに臨時雇いの武士や中間などの武家奉公人を加えると、最大で10%程度と考える事ができるようです。
一般に、日本の江戸時代は、戦国時代の動員システムのまま行政組織化した為に支配者階級が高かったと言われていますが、どうだったのでしょうか。
日本と同様に封建制が成立していたヨーロッパでは、といっても、明確なソースがWikipediaにしか見つけられなかったんですが、
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%97%8F
 
にあるように、高くて2%だった模様。
ただし、辺境部は比率が高く、10%を占めるとのこと。
おぉ、10%!
なんかひとつの真理を見つけた気がしますね(^^)
辺境部がなぜ高かったかと言うと、本文にも書いていますが、辺境であるが故に軍事階級に対する需要が多く、域外から獲得できる褒賞も多かった為のようです。
日本の戦国時代も条件は同じで、そのままの体制であったことからの江戸時代の数字でした。
つまり、
 ・江戸時代の支配者階級比率は、やはり世界的に見て大きかった
と言うことができ、さらに、
 ・封健制度における軍事的な動員体制というのは、洋の東西を問わず10%程度が標準
と読み取る事ができそうです。
うむ。
ひとつ勉強になったわ~
 



2016年2月19日金曜日

GL05Pのその後

勝手に通信量が増えていくという、なんかよく分からないSIMの不具合があったGL05Pですが、その後は特に問題なく稼動しています。
で、このGL05P、SIMフリーの機種なんですね。
というわけで、かれこれ6年ぐらい使ったEMobile改めY-Mobileを解約し、OCNに移りました。
主に仕事用に使ってるんですが、通信量を見ると、大体多い時で200MB/日、少ない時で40MB/日という状況です。
動画とかを見ないとこんなもんでしょう。
MVNOをいくつか比較しましたが、OCNモバイルONEなら、最小プランで日ごとの割当てが110MB/日。
しかも翌日まで繰り可能。
これが一番使い方に合っているようです。
それで、税込み972円。
初期費用等はありますが、Y-Mobileの契約が機種代込みで3900円弱だったことを考えると、かなり安くなりますな。
端末もまだまだ普通に使えるし。
 
というわけで、早速アマゾンでSIMを購入し、設定。
設定は簡単で、SIMに同封された紙に書いてあるのをそのまま入れるだけ。
 
 
これは一度保存した後の画面なのでプロファイルリストにOCNの名がありますが、最初はありません。
任意に設定したプロファイル名で保存すると、リストに出てきます。
あとはトップ画面のプロファイルリストでOCNを選択すればOK。
 
 
OCNでの利用登録をお忘れなく。
 
しかし、OCNの登録はちょっとめんどくさいですな。
送られてくる紙に認証IDと認証パスワードが書かれているんですが、それとは別にメールアドレスとメールパスワードがあり、OCNのマイページにアクセスするとログインパスワードとセキュリティパスワードを設定しろと言われる。
ログインはメールアドレスで行けるからいいとしても、
パスワード何個設定せなあかんねん!
たださえ年齢的に鳥頭になってきてるというのに・・・
普段使うアクセス用のパスワードは覚えているはずなので、それ以外は書き残しておくってのが確実ですが、パスワードを紙に残すってセキュリティ的に本末転倒過ぎやしません?
それなら最初に送られた紙で事足りるわけで。
かと言って書き残さないと、めったに使わないセキュリティパスワードなんてきっと忘れるだろうし。
同じNTT系列のぷららも最初はこんな感じでしたけど、パスワードは後でひとつに統合されたよなぁ
多重パスワードはセキュリティ上は有効ですけど、パスワードが分からんけどどうしようという相談も多いので、せめてひとつに統一して欲しいものですな。
慎重にし過ぎて余事が増えるという典型的なパターンの気がします。
 

2016年2月12日金曜日

マイナス金利と円高

昨日、ロンドン市場で一時、1ドル110円台に突入したようですね。
ついこの前まで120円台だったことを考えれば、かなり動きが荒いですな。
テレビのニュースでは、日銀のマイナス金利導入がトリガとなって円高が進んでいるというような印象の報道をしています。
確かに、マイナス金利というのはかなりのインパクトで、それに理由を求めるのも分からないではないですが、マイナス金利はあくまで金融緩和方向の施策です。
先立って導入された欧州では、導入以降、確か年末までは5%を超える通貨安の方向だったはず。
緩和ですからね。
通貨安へ動くのは当たり前。
つまり、今回の円高は、緩和策による通貨安方向のベクトルを打ち消すだけの何かがあったということで、マイナス金利が引き金ではないでしょう。
更に言えば、金融が不安定な流れに抗う為に打たれた対策だったとも言えます。
ま、日銀のマイナス金利自体は、今まで積み上げられた預金には適用されず、今後積み上げられた分にはマイナス分を適用するよ、という影響の少ないやり方で、マイナス金利という言葉のインパクトを最大限に利用しようとするやり方でした。
テレビでは、この辺りの影響の少なさをあまり説明しませんが。
逆に言えば、影響が少なかったが故に、これほど円高に動いたのかなという気もしますね。
それはともかく、よく言われるような中国の経済不振だけでは説明がつかないほどの動きなので、何が原因なのか色々とニュースを見ていたところ、ユーロ圏の中では例外的に堅調だったドイツで金融不安が持ち上がっているようです。
具体的には、ドイツ銀行の発行するCoCo債が売られているとのこと。
CoCo債というのは初耳だったんですが、ノックイン条件が付いた転換社債の一種のようですね。
欧州危機で財政が傷んだユーロ圏の銀行は、何もなければ社債にしか過ぎないCoCo債を、自己資本増強の為に1000億ドルほど発行していますが、これは何かあれば株式転換や債券の減額などが発動する債券です。
ん?株が希薄化するからまずくね?と、金融不安の空気から投資家が疑ったようで、希薄化は株価下落を意味しますから、発動に先駆けて売ろうと株価が下落しました。
当然ながら、人気の無い債券も売られており、ドイツ銀行自身が買い戻すことに言及する状況にもなっています。
ドイツ銀行と言えば、サブプライム問題から欧州危機の頃にかけて、好調なドイツ経済を象徴するように割と攻めの戦略を採ってデリバティブの取引を増やしていたんですが、今は裏目に出ていますね。
欧州の銀行は、危機を受けて、傷んだ債権を満期目的で保有すると時価評価しなくて良いというルールにしましたから、本質的には先送りしただけで、あまり解決していません。
日本のバブル崩壊の際には、あれだけ時価評価を求めたにもかかわらず、今回はサクっとルールを変えたって点は、日本人としては腹立たしいですが、誰しも我が身はかわいいということなんでしょう。
それはともかく、満期になれば、発行元は債券を償還しなければなりませんが、景気後退で実業で稼げていないと当然払えず、デフォルトもあるわけです。
デフォルトになれば再び銀行の自己資本が傷付く。
ただ、この潜在的な問題を浮き上がらせたのは、巡り巡って、正月早々荒れ模様となった中国の株価を受けた空気なんかに行き着くんでしょうね。
結局、中国かいな(笑)
とりあえず、もう少し落ち着いて欲しいものです。
 

2016年2月9日火曜日

放送について時事ネタ

自分はかつて、郵政省が管轄する許認可業界で働いていた事があるので、それを引き継いだ今の総務省の許認可業界関連にも少し興味があったりします。
ただ、郵便事業はもう時代の趨勢からは遠い事業になってしまったので、具体的には放送と通信ですかね。
ここ数日、放送関係の記事が出ていたので、ちょっと気になりました。
まず7日に上がってた記事、というか炎上ネタですが。
 
NHK経営委員「最近の若者は本当にダメだから法律でNHKの番組を強制的に見せる時間をつくるべき」
http://netgeek.biz/archives/65874
 
NHKの経営委員の安田喜憲氏が、最近の若者はダメだから強制的にNHKを見る時間を決めてもいいぐらいだ、という発言をしたという記事ですね。
これを見て、そもそも疑問に思ったのが、ダメな若者を矯正させるほどの良質なコンテンツをNHKは創っているのか?という素直な疑問。
自分は大河ドラマやニュースなんかを割とよく見てるクチなので、NHKのコンテンツを比較的多く視聴している部類かと思われます。
その上で、各々の番組が良質かどうかは主観的なものなのでなんとも言えないですが、番組表を見る限り、良質なラインナップとは言えないと感じますね。
視聴率に左右されず良質なものを創る為、というのが受信料を徴収するひとつの建前だったはずですが、ドラマやバラエティなど、民放で補完できる番組が多いように思われます。
そして番組中に入ってくる番宣。
民放と同じやん・・・
なんかね、
いや、それは違うやろ。
視聴率と予算とのバランスが難しいドキュメンタリーを相当重視してるなら、その建前とかも解ります。
しかし、現状では量として全然物足りない。
BSで流してるMLBやプレミアリーグなんかも、高い放映権料を払ってまで取ってくるほど国民に潜在的需要があるのかというと、相当疑問ですしね。
自分は野球部でしたし、サッカーやフットサルもするので、たまに見てたりはするんですけど、こういう専門的な需要はケーブルテレビやCSに任せるべきで、受信料を原資にやることではないでしょう。
そのほか、問題になった新国立競技場よりも遥かに高額な新社屋建設とか、テレビ離れが進んでるのに時代に合わなくなった受信料制度とか、利権にもメスを入れつつこういう議論ならまだ解るんですがねぇ
あと、話はそ逸れますが、安田氏に限らず、若者ダメだ論を振りかざす人は、経験上、老害と化すことも多いので、信用なりませんね。
高年層には高年層の、若年層には若年層の育った環境と成功体験があるわけで、もちろん人によりますが、高年層の成功体験と価値観が今の世の中に合ってるかどうかというのには、かなり疑問があります。
それを理解しないと、若者の○○離れという言葉も無くならないでしょうね。
「最近の若い奴は」と「若者の○○離れ」。
便利な言葉ではありますが、根本には、自分が理解できない事に対してレッテルを貼って片付けてしまうという心情が見え隠れしているように思います。
でも、それでは本質を見誤りかねない。
若い人がダメなのではなく、若者が離れたんではなく、考え方やモノが若い人の価値観に合わなくなった。
ただ、それだけの事です。
新しい物や考え方が絶えず登場し、流動していくのが世の中というものなのだから。
これは誰しも何となく感覚で理解している事だとは思いますが、明確に主語を意識するだけで、ぐっと鮮明になりますね。
些細な事ですが、意外と大事な事だと思います。
人間は表面的な言葉に案外縛られますから。
それに、若者ダメだ論で思うのは、個人的には若者のマナーだなんだと言われる割に、体感的に60前後の人のマナーもかなり悪いです。
電車内とか駅とか。
年を取ると厚かましくなるのか、それとも年齢的なホルモン等の変化で我慢が難しくなるのか。
それとも、戦後すぐで戦中からの揺り戻しによって導入した欧米風の個人主義教育が悪い方向に出てるのか。
そこには少し興味ありますがね。
 
2つ目の記事はこちら。
 
総務相、電波停止の可能性に言及 - 政治的公平性で
http://news.mynavi.jp/news/2016/02/08/415/
 
不偏不党、政治的に公平であることという部分において、放送法違反を繰り返した場合は、停波もあり得るという答弁の記事ですね。
まず、放送法を見ると、第1条に不偏不党、第4条に政治的に公平であることというのが明記されています。
そして、第174条には、違反した際には総務大臣の判断として業務停止を命じることができる、とあります。
さて、何が問題なのでしょうか。
放送法で明記されている以上、総務大臣としては、停波を命じることがあるのか?と聞かれれば、可能性としてはある、と答えるしかありません。
法律で縛られる法治国家の行政を担当する一大臣としては。
しかも、私の時には無いだろうが、という注釈付きでの発言です。
何が問題なのか。
これは、民主党が政権を握っていた場合でもそうだったでしょう。
法律に明記されていない処分を言えば問題ですが、明記されている以上、勝手に法の運用を変えることはできないし、してはいけない。
もちろん、運用上の弾力性というのはありますが、可能性は法治国家としては否定してはいけないのです。
ただ、これを受けたメディアの報道は、政治的な圧力をかけるのではないか、という含みを持たせた報道でした。
いや、それは違うやろ。
政府内の総務大臣が停波云々の権限を持つのは危険だから第三者機関を作るべき、というのなら解ります。
現状では、どの党も政権を取れば同じ指摘をされても文句は言えないわけで、ことさら現政権に対して批判的に報道する事柄ではありません。
自分らがこういうちょっと偏った見方をしているという自覚があるから、こんな報道の仕方になるのかな?なんて勘繰ってしまいますね。
個人的な意見としては、そもそも放送に明記されている不偏不党や政治的公平なんて幻想だと思います。
かつての椿事件が象徴的ですが、日本のマスメディアは、どうも政権批判の方向にしか耳目が向いていないなと感じるのは気のせいではないでしょう。
現状でも、政権批判、自民党批判が多い。
そして、どうも映像などで印象操作をしている可能性も疑われる。
ドイツでは、年末年始の移民系難民系住民による強盗や暴行がようやく4日になって報道されたというニュースがあり、これは移民推進派のメルケル首相に迎合したんではないかというぐらいの遅報っぷりで、メディアの報道しない自由としてこれはこれで問題なんですが、日本ではこういう政権寄りの姿勢というのはちょっと想像できないですよね。
公平を期すなら、称賛するところは称賛し、批判するところは批判する、というのが正しい放送メディアの在り方、監視のはずですが、現状は遥かに遠い。
今回の事も、本来なら政権に批判的に捉える案件ではなく、システムとしての不健全さに目を向けるべき案件なんですが、この報道の仕方では偏ってると見られてもしょうがないわ、という感想しか出てきません。
商業的には、批判のほうが視聴率が取れるという理由もあるんでしょうけども。
しかし、自民党なんて、世界的に見れば穏健左派なんですが、基本的にリベラルが多いはずのメディアはよく批判しますよね。
なんでだろう。
もちろん批判するなというのではありませんが、建設的な議論を吹っかけられない野党の尻も与党と同じぐらいしっかり叩けよ、とはよく思います。
現状、現実的な政策論で考えると、選挙では一択になってしまいますから。
こういうのは、投票する側としても良いとは思えません。
もう、放送メディアも、どうせなら思い切ってアメリカのように、政権に近しいのか、遠い立場なのか、はっきりしてくれたほうが分かりやすいかもしれませんね。
一方、新聞については、政権寄りが産経、中立やや政権寄りぐらいに読売、批判側に朝日と毎日で、割とバランスが取れています。
本来、こうあるべきで、賞賛も批判もあって初めてバランスし、比較もできるようになるんですが、現政権の支持率が発足後から概ね50%前後を維持しているというのに、テレビでは批判がやたら多い。
もう少し、国民意識に近い形でバラけてくれることを願います。
 



2016年2月6日土曜日

尼崎城跡の整備 その2

前回のあらすじ
 



尼崎城は応仁の乱の頃からあった
16世紀前半の頃は大物城と呼ばれた。

 
前回は大物崩れの所まででした。
この大物崩れは、畿内の戦国史においては非常に大きな事件で、以後、細川晴元が政権を打ち立てるわけなんですが、この晴元という人、短絡的な行動が多く、どうも政策に一貫性が無かったようです。
父の政敵であった高国に勝利すると、高国側であった現将軍足利義晴に対抗してその弟義維を擁した身でありながら、あっさりと義晴と和解し、軍事的中心で功績の高かった三好元長と対立すると、一向一揆を煽って元長を敗死させ、さらに一向衆が危険だと察すると、一向衆と対立する法華宗と協力して山科本願寺を焼き討ちしました。
更に更に、法華宗が洛中で勢力を拡げると、今度は比叡山延暦寺や六角定頼と協力して洛中の日蓮宗本山21ヶ寺を焼き払っています。
出る杭で次の出る杭を打つような、なんとも壮絶な手法ですな。
有力守護大名の家中の政敵に肩入れして守護大名潰しをやった6代将軍足利義教の手法に近いものを感じますが、時は戦国時代、ある勢力の敵対勢力なんていくらでも誕生する時代ですし、肩入れして敵対勢力を育てる必要が無い分、より節操が無いように感じられますね。
このほか、高国の養子氏綱や、元長の子長慶、これまた稀代の謀略師だった木沢長政などの叛乱にも遭っており、晴元時代は政治が乱れに乱れました。
ただ、これはこれで複雑且つ面白い話なのですが、残念ながら肝心の尼崎城が出てきません。
伊丹城や池田城は要所要所で出てくるんですがね・・・

というわけで、次に尼崎城がはっきりとした形で登場してくるのは織田政権時代です。
そう、摂津で成り上がった荒木村重の属城として。
これが、3つ目の城ですね。
荒木村重は、前にもこちらで書きましたが、摂津の山向こう、丹波荒木氏の一流と言われ、父の時代に池田氏に仕官し、中川清秀と共に池田氏を下克上してのし上がりました。
最初は三好方として信長に対抗していたのですが、信長と足利義昭の関係が破綻すると信長に臣従し、摂津を任されています。
本拠としたのは伊丹城で、尼崎城はその海沿いの支城として活用しました。
大物崩れから40年程度は尼崎城の動向が不明で、信長上洛以降は少し争奪があったことが朧気ながら見える事以外は存続してたのか廃城になっていたのかもよく分かりませんが、村重が重要な支城として取り立て、機能強化したのは間違いないでしょう。
そして、この城を嫡子村次に任せました。
嫡子に任せたということで、かなり重要視していた事が窺えますね。
荒木村重は信長に叛いた事で有名ですが、その時に籠城したのは伊丹城でした。
叛乱は天正6年(1578)。
しかし、後ろ盾に期待した毛利家の支援が鈍重で、次第に追い詰められていきます。
やがて、翌年には人知れず伊丹城を脱出し、この尼崎城へと移りました。
この事は、どの歴史関係の本にもサラっと簡単に書いてありますが、
厳重に包囲しとったんちゃうんかい!
というツッコミを毎回入れたくなります(笑)
ただ、信長公記では数人としていますが、村重自身が毛利家の乃美宗勝に送った書状では、数百の数で尼崎に移ったようで、敵中突破すら辞さないという状況だったのではないでしょうか。
その決意の元になったのは何かというと、尼崎城からの毛利軍の撤兵だったようです。
一般的に流布されているイメージでは、敵前逃亡したというのが強いようですが、随分と様相が違いますね。
前述の宗勝に送った書状には、窮状を訴えると共に援兵も求めており、また、雑賀衆に対しても援軍を依頼する内容の書状が残っています。
逃亡どころか、現状をなんとか打開しようという村重の足掻きが読み取れますね。
伊丹城はやや内陸の城ですから、毛利氏や本願寺、雑賀衆との連携拠点である尼崎の失陥は致命的な孤立を招く事く為、自ら確保に動いたという所でしょうか。
しかし、伊丹城は主がいなくなった事から士気が低下し、内側から崩れるように落城してしまいます。
この後、村重や家臣の女房衆が処刑されるのですが、その後も尼崎城は籠城戦を続けました。
身内が処刑されてなお籠城し続けたところに、従来のイメージとは決定的に違ったものが感じられます。
 
村重の没落後、尼崎城は新たに摂津を任された池田氏の城となり、豊臣政権下では、大坂の至近である事から直轄化され、代官が入城していました。
時代が徳川氏のものとなった後、摂津を治めていた豊臣氏が滅ぼされ、元和3年(1617)に戸田氏鉄が尼崎藩主として入部します。
この氏鉄によって築かれたのが、今の尼崎城ですね。
これが4つめの尼崎城。
場所はというと、旧城の西に新たに縄張をして築かれたようで、尼崎城の絵図には、古城の文字があります。
天守再興の話は、もちろんこの近世尼崎城の天守で、往時は四層四階でした。
ちなみに、この氏鉄の入部は、西国将軍とまで呼ばれた姫路の池田輝政の孫光政が幼少の為に鳥取に移された事に伴う領地再編によるものです。
当時の陣容を見ると、


 尼崎城(新城築城) 戸田氏鉄 5万石
 明石城(新城築城) 小笠原忠真 10万石
 姫路城(一部改修) 本多忠政 15万石


秀吉の造った大坂城を破却して埋め立て、新たに徳川氏の白亜の大阪城を築いたのと同時に、山陽道には譜代をガッツリ配置した事がよく分かりますね。
江戸幕府の治世は長く続いた秘訣が、こういうところもその一因なのでしょう。
綿密ですわ。
 
長くなりましたけど、尼崎城天守の復元は楽しみですな。
希望を言うなら木造復元ですけど、それはまたとんでもないお金が掛かるので、現状の城の痕跡危ういという状態から見れば、鉄筋コンクリートでも御の字。
完成して暁には、またぶらりと行きますか(^^)
 
参考:
尼崎城
地図付きはこちら
 





2016年2月1日月曜日

尼崎城跡の整備 その1

昨年11月頃の神戸新聞に記事が出ていたんですが、本格的に尼崎城の天守復興の話が進んでいるようです。
尼崎に第1号店を開店した旧ミドリ電化の創業者である安保さんが、私費を投じて復元されるとのこと。
惜しむらくは、鉄筋コンクリートであることと、本来の位置から数100mずれている事ですが、本来の位置は小学校や文化財収蔵庫などの既存の施設があり、財政的にも調整が難しいんでしょうね。
 

尼崎という場所は、中世には大物浦という港がありまして、水運の要所でした。
戦乱の世の中になると、必然的に戦略的要地となり、城が造られています。
ざっと挙げると、応仁の乱の頃の大物城、細川高国が築かせた尼崎城、荒木村重の尼崎城、戸田氏鉄の築いた尼崎城の4つの城が史上には登場するわけですが、戦国期の城と江戸時代の城は別の位置にありました。
で、戦国期の城はというと、先に挙げたように、遡れば文明5年(1473)の大内政弘の感状の写しに大物城の名で登場するのが最初です。
文明5年と言えば、応仁の乱の真っ最中。
周防、長門、豊前、筑前の4ヶ国の守護であった大内政弘は、西軍として上洛し、ほぼ全期間に渡って畿内にいました。
政弘がなぜ西軍に与したかというと、勘合貿易で細川氏と利害衝突していたからのようですね。
で、この年、山名宗全と細川勝元という東西両軍の首魁が病没し、翌年には両家は和解するのですが、それでも政弘は撤兵せず、戦い続けました。
この辺りは、もう意地のようなものなのかもしれません。
当時はメンツが大事な時代ですから。
まして大大名クラスとなるとそれはもう・・・
兎にも角にも、これが最初。
ただ、どのような城であったのか、その後どうなったかなどは史料史料に顕れて来ません。
 

次に城が登場してくるのは、上で登場した勝元の跡を政元が継ぎ、その政元が実子を残さず、養子を3人作って家督争いが起こった後の時代です。
両細川の乱とも永正の錯乱とも言いますが、幕府No.2で将軍の廃退にすら影響力を及ぼした細川家の家督争いの影響は大きく、永正4年(1507)の政元の死で対立が表面化し、以後、20年以上に渡って畿内の豪族を中心に各地の勢力を巻き込みつつ続きました。
政元の3人の養子とは、澄之、澄元、高国です。
この中で、澄之は細川家の血を引かない九条家出身で、他の2人は分家の出身でした。
家督争い表面化の発端は、養嗣子として迎えられていた澄之の廃嫡と澄元の後継指名です。
これにより、澄之派の家臣の権勢が衰えるのは確実となり、結果、澄之派の香西元長らが政元を暗殺し、澄之を擁立したのが発端となります。
やられる前にやる。
それがたとえ半将軍とまで呼ばれた権勢を持つ人であっても。
そういう発想ですね。
この時、澄元と高国はなんとか落ち延びる事に成功し、打倒澄之の兵を挙げました。
こうして、

澄之 V.S. 澄元・高国

の構図となっていきます。
この戦いは、澄之が細川家の血を引いていないというのもあって勢力をまとめられず、僅か40日ほとで敗れた澄之が自刃し、決着しました。
ここで終われば、ただの家督争いですが、ここで終わらないのが権力の怖いところでしょうか。
この細川家の争いに乗じ、政元のクーデターによって将軍職を追われていた足利義尹が大内義興の支援を得て上洛してくるのです。
義尹とは、10代将軍義材のことで、後に名乗った義稙の名の方が有名ですかね。
そして、義興は政弘の子です。
西方の裕福な御曹司が、大内家の旗を京洛に立てんと再び動き出したのでした。
ここで、澄元と共闘関係にあった高国が離反して義興に通じた為、細川家は再び分裂してしまいます。

義澄&澄元 V.S. 義尹&高国

ですね。
細川家の家督争いが、将軍家の家督争いにもなったわけです。
そして、圧倒的な軍事力を持つ義興を前にして、現将軍義澄と澄元は落ち延び、将軍交代と細川家の家督交代が起こりました。
こうして、義尹から改名した義稙のもと、義興-高国政権が確立されるのです。
とても複雑ですね。
この後、幾度も攻守交替を挟みながら攻防は続き、やがて義興の帰国と義澄の病没、義稙の澄元への内通と出奔、澄元の病没という流れによって高国が単独で安定政権を確立していくわけですが、この過程で尼崎城が登場してくるのです。
最初の登場が永正16年(1519)で、高国が尼崎城を築城とあり、大永6年(1526)にも諸将に命じて築造させたとありますね。
両方とも阿波勢が摂津進出を図った時期で、その備えとしての築城でしょう。
恐らく、応仁の乱の頃にあった城の跡地か、現存していたのを再築したものと思われるのですが、裏付ける史料はありません。

その後、翌年に高国は澄元の子晴元の阿波勢に敗れ、情勢は再び混沌としてきます。
やがて、高国は浦上村宗の支援を得て晴元勢を攻撃するのですが、援軍として到着した村宗の主君である赤松政祐(晴政)が裏切って高国勢を攻撃した為、高国勢は総崩れに崩れ、膠着状態にあった戦線は一気に晴元勢勝利へと傾きました。
これが、享禄4年(1531)の大物崩れと呼ばれる戦いです。
摂津中嶋で敗れた高国は、最初は大物城を目指すのですが、城に入れず、尼崎の藍染屋の甕に隠れたものの、三好一秀に発見され、尼崎広徳寺で自害させられました。
これにて両細川の乱と呼ばれる長い長い内訌は幕を閉じるのですが、ややこしい点が1点あります。
大物崩れという名があるのに、築城では尼崎という名で出ていること。
これが原因で、昔は大物城と尼崎城が別にあったんではないか?なんて説がありました。
今は、戦国時代の大物城と尼崎城は同じ城であったという説が有力ですね。
その場所は、江戸時代の尼崎城の北東にあったといわれています。
城の位置は曖昧なんですが、地名の由来となった大物主神社周辺と推測されており、阪神電鉄大物駅や、埋め立てられて公園化した大物川緑地公園などにも大物の名前が残っていますね。

大物周辺は、何度か通りすがりに寄った事はあるんですが、とてもじゃないけど城の痕跡なんて探すのは無理でした。
都市化してしまうと、元の地形すら分からなくなってしまう。
ほんま、都市部の平城は残ってませんわ(> <)
 
ちょっと長くなってしまったんで、次回につづく。
 
参考:
尼崎城
地図付きはこちら