昨年11月頃の神戸新聞に記事が出ていたんですが、本格的に尼崎城の天守復興の話が進んでいるようです。
尼崎に第1号店を開店した旧ミドリ電化の創業者である安保さんが、私費を投じて復元されるとのこと。
惜しむらくは、鉄筋コンクリートであることと、本来の位置から数100mずれている事ですが、本来の位置は小学校や文化財収蔵庫などの既存の施設があり、財政的にも調整が難しいんでしょうね。
尼崎という場所は、中世には大物浦という港がありまして、水運の要所でした。
戦乱の世の中になると、必然的に戦略的要地となり、城が造られています。
ざっと挙げると、応仁の乱の頃の大物城、細川高国が築かせた尼崎城、荒木村重の尼崎城、戸田氏鉄の築いた尼崎城の4つの城が史上には登場するわけですが、戦国期の城と江戸時代の城は別の位置にありました。
で、戦国期の城はというと、先に挙げたように、遡れば文明5年(1473)の大内政弘の感状の写しに大物城の名で登場するのが最初です。
文明5年と言えば、応仁の乱の真っ最中。
周防、長門、豊前、筑前の4ヶ国の守護であった大内政弘は、西軍として上洛し、ほぼ全期間に渡って畿内にいました。
政弘がなぜ西軍に与したかというと、勘合貿易で細川氏と利害衝突していたからのようですね。
で、この年、山名宗全と細川勝元という東西両軍の首魁が病没し、翌年には両家は和解するのですが、それでも政弘は撤兵せず、戦い続けました。
この辺りは、もう意地のようなものなのかもしれません。
当時はメンツが大事な時代ですから。
まして大大名クラスとなるとそれはもう・・・
兎にも角にも、これが最初。
ただ、どのような城であったのか、その後どうなったかなどは史料史料に顕れて来ません。
次に城が登場してくるのは、上で登場した勝元の跡を政元が継ぎ、その政元が実子を残さず、養子を3人作って家督争いが起こった後の時代です。
両細川の乱とも永正の錯乱とも言いますが、幕府No.2で将軍の廃退にすら影響力を及ぼした細川家の家督争いの影響は大きく、永正4年(1507)の政元の死で対立が表面化し、以後、20年以上に渡って畿内の豪族を中心に各地の勢力を巻き込みつつ続きました。
政元の3人の養子とは、澄之、澄元、高国です。
この中で、澄之は細川家の血を引かない九条家出身で、他の2人は分家の出身でした。
家督争い表面化の発端は、養嗣子として迎えられていた澄之の廃嫡と澄元の後継指名です。
これにより、澄之派の家臣の権勢が衰えるのは確実となり、結果、澄之派の香西元長らが政元を暗殺し、澄之を擁立したのが発端となります。
やられる前にやる。
それがたとえ半将軍とまで呼ばれた権勢を持つ人であっても。
そういう発想ですね。
この時、澄元と高国はなんとか落ち延びる事に成功し、打倒澄之の兵を挙げました。
こうして、
澄之 V.S. 澄元・高国
の構図となっていきます。
この戦いは、澄之が細川家の血を引いていないというのもあって勢力をまとめられず、僅か40日ほとで敗れた澄之が自刃し、決着しました。
ここで終われば、ただの家督争いですが、ここで終わらないのが権力の怖いところでしょうか。
この細川家の争いに乗じ、政元のクーデターによって将軍職を追われていた足利義尹が大内義興の支援を得て上洛してくるのです。
義尹とは、10代将軍義材のことで、後に名乗った義稙の名の方が有名ですかね。
そして、義興は政弘の子です。
西方の裕福な御曹司が、大内家の旗を京洛に立てんと再び動き出したのでした。
ここで、澄元と共闘関係にあった高国が離反して義興に通じた為、細川家は再び分裂してしまいます。
義澄&澄元 V.S. 義尹&高国
ですね。
細川家の家督争いが、将軍家の家督争いにもなったわけです。
そして、圧倒的な軍事力を持つ義興を前にして、現将軍義澄と澄元は落ち延び、将軍交代と細川家の家督交代が起こりました。
こうして、義尹から改名した義稙のもと、義興-高国政権が確立されるのです。
とても複雑ですね。
この後、幾度も攻守交替を挟みながら攻防は続き、やがて義興の帰国と義澄の病没、義稙の澄元への内通と出奔、澄元の病没という流れによって高国が単独で安定政権を確立していくわけですが、この過程で尼崎城が登場してくるのです。
最初の登場が永正16年(1519)で、高国が尼崎城を築城とあり、大永6年(1526)にも諸将に命じて築造させたとありますね。
両方とも阿波勢が摂津進出を図った時期で、その備えとしての築城でしょう。
恐らく、応仁の乱の頃にあった城の跡地か、現存していたのを再築したものと思われるのですが、裏付ける史料はありません。
その後、翌年に高国は澄元の子晴元の阿波勢に敗れ、情勢は再び混沌としてきます。
やがて、高国は浦上村宗の支援を得て晴元勢を攻撃するのですが、援軍として到着した村宗の主君である赤松政祐(晴政)が裏切って高国勢を攻撃した為、高国勢は総崩れに崩れ、膠着状態にあった戦線は一気に晴元勢勝利へと傾きました。
これが、享禄4年(1531)の大物崩れと呼ばれる戦いです。
摂津中嶋で敗れた高国は、最初は大物城を目指すのですが、城に入れず、尼崎の藍染屋の甕に隠れたものの、三好一秀に発見され、尼崎広徳寺で自害させられました。
これにて両細川の乱と呼ばれる長い長い内訌は幕を閉じるのですが、ややこしい点が1点あります。
大物崩れという名があるのに、築城では尼崎という名で出ていること。
これが原因で、昔は大物城と尼崎城が別にあったんではないか?なんて説がありました。
今は、戦国時代の大物城と尼崎城は同じ城であったという説が有力ですね。
その場所は、江戸時代の尼崎城の北東にあったといわれています。
城の位置は曖昧なんですが、地名の由来となった大物主神社周辺と推測されており、阪神電鉄大物駅や、埋め立てられて公園化した大物川緑地公園などにも大物の名前が残っていますね。
大物周辺は、何度か通りすがりに寄った事はあるんですが、とてもじゃないけど城の痕跡なんて探すのは無理でした。
都市化してしまうと、元の地形すら分からなくなってしまう。
ほんま、都市部の平城は残ってませんわ(> <)
ちょっと長くなってしまったんで、次回につづく。
参考:
尼崎城
地図付きはこちら
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