2016年2月6日土曜日

尼崎城跡の整備 その2

前回のあらすじ
 



尼崎城は応仁の乱の頃からあった
16世紀前半の頃は大物城と呼ばれた。

 
前回は大物崩れの所まででした。
この大物崩れは、畿内の戦国史においては非常に大きな事件で、以後、細川晴元が政権を打ち立てるわけなんですが、この晴元という人、短絡的な行動が多く、どうも政策に一貫性が無かったようです。
父の政敵であった高国に勝利すると、高国側であった現将軍足利義晴に対抗してその弟義維を擁した身でありながら、あっさりと義晴と和解し、軍事的中心で功績の高かった三好元長と対立すると、一向一揆を煽って元長を敗死させ、さらに一向衆が危険だと察すると、一向衆と対立する法華宗と協力して山科本願寺を焼き討ちしました。
更に更に、法華宗が洛中で勢力を拡げると、今度は比叡山延暦寺や六角定頼と協力して洛中の日蓮宗本山21ヶ寺を焼き払っています。
出る杭で次の出る杭を打つような、なんとも壮絶な手法ですな。
有力守護大名の家中の政敵に肩入れして守護大名潰しをやった6代将軍足利義教の手法に近いものを感じますが、時は戦国時代、ある勢力の敵対勢力なんていくらでも誕生する時代ですし、肩入れして敵対勢力を育てる必要が無い分、より節操が無いように感じられますね。
このほか、高国の養子氏綱や、元長の子長慶、これまた稀代の謀略師だった木沢長政などの叛乱にも遭っており、晴元時代は政治が乱れに乱れました。
ただ、これはこれで複雑且つ面白い話なのですが、残念ながら肝心の尼崎城が出てきません。
伊丹城や池田城は要所要所で出てくるんですがね・・・

というわけで、次に尼崎城がはっきりとした形で登場してくるのは織田政権時代です。
そう、摂津で成り上がった荒木村重の属城として。
これが、3つ目の城ですね。
荒木村重は、前にもこちらで書きましたが、摂津の山向こう、丹波荒木氏の一流と言われ、父の時代に池田氏に仕官し、中川清秀と共に池田氏を下克上してのし上がりました。
最初は三好方として信長に対抗していたのですが、信長と足利義昭の関係が破綻すると信長に臣従し、摂津を任されています。
本拠としたのは伊丹城で、尼崎城はその海沿いの支城として活用しました。
大物崩れから40年程度は尼崎城の動向が不明で、信長上洛以降は少し争奪があったことが朧気ながら見える事以外は存続してたのか廃城になっていたのかもよく分かりませんが、村重が重要な支城として取り立て、機能強化したのは間違いないでしょう。
そして、この城を嫡子村次に任せました。
嫡子に任せたということで、かなり重要視していた事が窺えますね。
荒木村重は信長に叛いた事で有名ですが、その時に籠城したのは伊丹城でした。
叛乱は天正6年(1578)。
しかし、後ろ盾に期待した毛利家の支援が鈍重で、次第に追い詰められていきます。
やがて、翌年には人知れず伊丹城を脱出し、この尼崎城へと移りました。
この事は、どの歴史関係の本にもサラっと簡単に書いてありますが、
厳重に包囲しとったんちゃうんかい!
というツッコミを毎回入れたくなります(笑)
ただ、信長公記では数人としていますが、村重自身が毛利家の乃美宗勝に送った書状では、数百の数で尼崎に移ったようで、敵中突破すら辞さないという状況だったのではないでしょうか。
その決意の元になったのは何かというと、尼崎城からの毛利軍の撤兵だったようです。
一般的に流布されているイメージでは、敵前逃亡したというのが強いようですが、随分と様相が違いますね。
前述の宗勝に送った書状には、窮状を訴えると共に援兵も求めており、また、雑賀衆に対しても援軍を依頼する内容の書状が残っています。
逃亡どころか、現状をなんとか打開しようという村重の足掻きが読み取れますね。
伊丹城はやや内陸の城ですから、毛利氏や本願寺、雑賀衆との連携拠点である尼崎の失陥は致命的な孤立を招く事く為、自ら確保に動いたという所でしょうか。
しかし、伊丹城は主がいなくなった事から士気が低下し、内側から崩れるように落城してしまいます。
この後、村重や家臣の女房衆が処刑されるのですが、その後も尼崎城は籠城戦を続けました。
身内が処刑されてなお籠城し続けたところに、従来のイメージとは決定的に違ったものが感じられます。
 
村重の没落後、尼崎城は新たに摂津を任された池田氏の城となり、豊臣政権下では、大坂の至近である事から直轄化され、代官が入城していました。
時代が徳川氏のものとなった後、摂津を治めていた豊臣氏が滅ぼされ、元和3年(1617)に戸田氏鉄が尼崎藩主として入部します。
この氏鉄によって築かれたのが、今の尼崎城ですね。
これが4つめの尼崎城。
場所はというと、旧城の西に新たに縄張をして築かれたようで、尼崎城の絵図には、古城の文字があります。
天守再興の話は、もちろんこの近世尼崎城の天守で、往時は四層四階でした。
ちなみに、この氏鉄の入部は、西国将軍とまで呼ばれた姫路の池田輝政の孫光政が幼少の為に鳥取に移された事に伴う領地再編によるものです。
当時の陣容を見ると、


 尼崎城(新城築城) 戸田氏鉄 5万石
 明石城(新城築城) 小笠原忠真 10万石
 姫路城(一部改修) 本多忠政 15万石


秀吉の造った大坂城を破却して埋め立て、新たに徳川氏の白亜の大阪城を築いたのと同時に、山陽道には譜代をガッツリ配置した事がよく分かりますね。
江戸幕府の治世は長く続いた秘訣が、こういうところもその一因なのでしょう。
綿密ですわ。
 
長くなりましたけど、尼崎城天守の復元は楽しみですな。
希望を言うなら木造復元ですけど、それはまたとんでもないお金が掛かるので、現状の城の痕跡危ういという状態から見れば、鉄筋コンクリートでも御の字。
完成して暁には、またぶらりと行きますか(^^)
 
参考:
尼崎城
地図付きはこちら
 





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