2015年12月29日火曜日

日韓慰安婦問題合意

師走のこの忙しい時期に、大きなニュースとなりましたね。
来年早々の国会開会を前に、外交的問題を片付けておくという面もあるんでしょう。
ま、日本の立場で言えば、法的には日韓基本条約と日韓請求権協定で解決している話ですし、人道的にもアジア女性基金で対処してきた話で、本質的には韓国国内の問題なんですがね。
なので、拠出するお金はクレーマーに追い銭をあげるような印象はありますが、不可逆的な解決の為には必要な迷惑料だったのかもしれません。
ただ、日本の法的責任は解決済みであることは譲ってませんし、それを世界に発信していく必要もあるかと思われます。
法的責任は50年も前に解決してるが今回は人道的見地からより厚く支援した、となれば、日本の評価にも繋がりますし。

今回の支援は、前回のアジア女性基金と違い、運営主体が韓国であることもポイントですね。
金は出すけど、後々のクレームは運営してる韓国に言ってね、という意図が見えます。
それプラス、アメリカが合意の裏書的な立場にある事。
合意文書の作成は、3月にアメリカで、と伝えられています。
文書なし質問なしの共同会見というのがかなり異例で、それだけ両国の世論を睨みながらという所なんでしょうけど、アメリカの仲介と後押しもあったんでしょう。
対中国に本腰を入れ始めたアメリカにとっては、中国の隣国たる2つの同盟国が対立していることは、戦略的に非常にまずい状況ですし。
ただ、日本にとってもこのアメリカ仲介というのは大事な要素で、前回は2国間の協定であった為にちゃぶ台返しも可能でしたが、次にこれを覆すと、アメリカの顔に泥を塗ることになる。
日本には何をしても許されるというような空気を持つ韓国にとっては、これは大きな足枷になるでしょう。
また、韓国側が自ら不可逆的、最終的という言葉を使ってますから、「前の時はこう言うたやん」という主張を世界に向けて発信できます。
言わば保険ですな。
日本国内にややヒステリックな反応があり、個人的にも非常に共感や理解もできるのですが、それは「どうせまたクレームを付けてくる」という韓国の信用の無さも大きいかと思われます。
そういう意味では、保険は説明材料になるでしょうね。

もう戦後70年です。
当時の現役世代だった人も少なくなり、更に社会で主導的立場だったはずの30代以上の人は、もうほとんどいません。
上の世代が起こした問題は、すでに50年前には法的に片付いますし、今回の合意でより過去のものにするべきですね。
今の世代は政策決定には関係無かったわけですから、過去を反省するのではなく教訓とし、前を向かなくてはなりません。
 

2015年12月28日月曜日

伊勢湾周遊 その7

前回のあらすじ
 
夕闇迫りつつも、無事予定を完了!
うむ上出来じゃ。
 
今回の宿泊地は、半田市の駅前のビジネスホテル。
この辺りは臨海部だけあって、ビジネス需要が多いみたいですね。
ただ、ビジネスホテルの数は充実してても、大浴場を備えている所が少ない。
バイクで膝を曲げてる時間が多いし、山も歩くしで、
足伸ばしてぐったりしたいんや~
というのがおっさんには切実な願いなんです!
いつも、ここまで行きたいという所とここまでは確実に回れるだろうという所の間ぐらいに宿を取って、確実に回れるところがもし行けなくても次の日にカバーできるようにしてるんですが、今回はこの辺りで取りたいという地域で大浴場を加味すると、ほぼ一択。
もっさいおっさん単独で泊まるにはちょっと小洒落た感じのホテルかなとも思ってたんですが、着いてみると、大量の中国人が食堂に溢れて騒がしかったので、心配は杞憂に終わりました(笑)
しかし、中国の人ってエレベーターでも平気で喋るんですね。
しかも、乗ってる人同士が大声で会話してた時はそんなもんやろと思いましたが、エレベーターで携帯のハンズフリーで話してる時は、さすがに、えっ!?ここで?と思いましたわ。
会話丸聞こえやん。
ま、中国語分からんけどね。
恐るべし、中国人!
 
週末のせいなのか、ホテルの駐車場は満車で、バイクはフロントに許可を貰ってホテルの前に止めたんですが、荷下ろし作業中に、ボボボ・・・という、「らしい」音でフェラーリがホテルのエントランス前に止まりました。
おーフェラーリやん!と思いつつ、荷下ろしを続けていると、ドライバーが車を降りて何故かこちらに。
恐らく、駐車場が一杯で代替の駐車場を聞きに来た宿泊者だと思うんですが、
「長距離だとそういうバイクがやっぱり楽ですか?」
と聞かれました。
すでに神戸ナンバーを確認されとるな、と思いつつ、
「やー楽ですねー」
と答えると、
「やっぱりそうですかー。私もねドゥカティに乗ってるんですけど、故障しちゃって、車で来たんですよねー」
と言わはりました。
いや、それは聞いてへんけど。
「そうなんですかー。ドゥカティも故障が多いって聞きますもんね。」
「そうなんですよー・・・」
流れる微妙な空気・・・
え?何?イタ車好きですね、とでも喰いつけばよかったん?
文章で書くとそうでもないですが、結構食いついて来いよオーラが出てる喋り方だったんで、ちょっとしんどい。
旅の話ならもっと喰いつくんやけどねぇ
フェラーリもドゥカティも高いから凄いとは思うんですが、興味が無いんですよねぇ
特に海外製バイクは、長距離を乗る人間からすると、出先で止まる確率的に食指が動かない。
国産でも止まる時は止まるけど、まだ対応ショップ数的に修理できる可能性が高いですし。
ツーリングが使用のほとんどですから、その大きな荷物を抱えて電車で帰るという空しさだけは避けたいんです。
そんなこんなで、ドライバーはホテルに入っていきました。
微妙な空気を残して・・・
しかし、今思い出すと、ドライバーが話してたのは標準語的イントネーションだったはずなのに、再生は関西弁になってる。
かつて東北を放浪していた時、石巻の交番で道を教えてもらった婦警さんは一生懸命かわいい東北弁で教えてくれたけど、それも今再生するとなぜか関西弁。
これは何という現象なんでしょうか?
それぞれの人のイメージだけ残ってて、言葉は勝手に翻訳されている・・・
人の記憶ってのは勝手に書き換わるもんなんですねぇ
 
チェックイン後、待望の大浴場に入り、コンビニへ朝飯の買い出しへ。
明日の朝は雨ということなので、大目のブランチにしてギリギリまでチェックインを遅くし、昼飯無しで走る作戦です。
おにぎり、サンドイッチ、豚汁等々。
コンビニで1000円オーバーは買い過ぎな気もしますが、2食分やし、と我が腹を見ないことにする。
どうせ朝も遅いと、日付が変わるまでダラダラとテレビを見て、寝る前に天気予報を確認すると、テレビは朝が雨でのち曇り、Yahoo天気も同じ、スマホにバンドルされてたAccuWeatherという使った事ない予測サイトは朝一時曇りのみ。
ほう。
雨じゃないという予報もあるのか。
おやすみ。
そして、朝。
ふと7時半頃に目が醒めて外を確認すると、
晴れ・・・とる・・・
ええぇぇぇぇー
曇りですらなくて、晴れてますやん!
そこからは、慌しいこと。
朝風呂は譲れないので、寝ぼけ眼そのまま朝風呂を頂き、1000円分の朝飯を掻き込み、知多半島のみだった予定ルートを早急に西三河を含むルートへ変更。
出発は8:30を過ぎてました。
AccuWeather、次からお前を信じるぜ!
 
ホテルを出て、最初に寄ったのは東端城。
衣浦大橋を渡って県道46号線を辿っていけば、すぐ近くまで迷う事無く行けました。
この城の築城年代には、松平氏が大浜を掌握していた文亀3年(1503)の頃と天正8年(1580)の2つの説がありますが、戦国時代末期には長田尚勝がおり、後に小牧長久手の合戦で池田恒興を討つという大功を挙げた弟の永井直勝の城となっています。
直勝は永井に改姓したことで永井氏の祖となり、子孫は藩主として維新まで続きました。
城自体は、家康の関東転封時にどうだったか諸説があるものの、直勝が大坂の陣の功で元和2年(1616)に上野国小幡で大名に列するまで存続したようです。
現在の城跡は、城山稲荷の境内となっていますが、細かい所を見ていくと、遺構が所々に残っていました。
まずは城山稲荷社の前景。
やたらと駐車場が広かったです。
 
 
次は、北隣の念空寺との間。
念空寺の敷地も城域だった微高地で、間の掘り込みは確実に空堀跡ですな。
 
 
この写真で見ると分かりますが、城があるのは比高数mの微高地です。
標高だと10m弱といったところでしょうか。
周囲の現況が割と平坦なだけに、現地では防御面で不安がある城のように感じましたが、すぐ南の油ヶ淵は当時は北浦という海の入江で、干拓も進んでおらず、もっと城に近い所に海岸線がありました。
地図を見ると判り易いですね。
下の地図の中央一番上の城跡の両サイドに細流がありますが、当時は堀の代わりの汽水域だったかと思われます。
地図の南側は規則正しく造られた干拓地で、当時の北浦。
今の現地からは想像しにくいですが、海とは密接な城だったんですね。
大浜の代官だった長田氏が城主だったのも、海経由での接続が良かったからでしょう。
 
 
城山稲荷社の隣には農地があり、そこには浅くなった空堀と低い土塁も確認できました。
 

 
痕跡が残っている城は、当時の姿を想像しながら散策するのが楽しいですね(^^)
 
つづく
 
東端城
地図付きはこちら
 

2015年12月21日月曜日

伊勢湾周遊 その6

前回のあらすじ

吉田城は都市型のいいお城跡。
明石城に通じるものがあった。
三河湾スカイラインは勿体無し!
 
三河湾スカイラインを抜ける頃、陽は完全に夕日の状態に。
ぼちぼち、今日はもう城は巡り納めか・・・なんて思いつつ、坂野峠から東へ真っ直ぐ向かい、上ノ郷城へ。
まだこの明るさなら行ける!

上ノ郷城は、鵜殿氏の居城でした。
鵜殿と言えば、日本一面積の小さい村というので、和歌山県の鵜殿村が有名でしたが、今は市町村合併で残念ながら無くなっています。
日本一小さい村というでっかい看板があったのは、今でも覚えていますね。
ああいう日本一の○○というのは、なぜかそそるものがありますな(笑)
それは置くとして、その鵜殿村を本貫とする鵜殿氏は、もともとは熊野別当の家系という伝承がある豪族ですが、三河国には熊野大社の神領や荘園がいくつかあったようで、家系云々はともかく、その現地管理者から出発したのでしょう。
三河湾と伊勢湾、熊野の地理的な近さというものを感じますね。
熊野の辺りは険阻ですが、陸路ではなく海路であれば、伊勢湾に入ってしまうと交通はかなり容易で、人的物的交流も盛んだったようです。
いつ頃にこの地に来たのかは不明ですが、南北朝時代には豪族として頭角を現し、戦国時代には三河に進出した今川家に従って重用されました。
当主が長持の時には、あの今川義元の妹婿となっていますが、これは東三河の今川与党として重要視された結果でしょう。
ちなみに、某歴史シミュレーションゲームのN長のY望にも、今川家臣として登場してきます。
あのゲームに登場するということは、かなり重臣と言えるでしょうな。
七条兼仲みたいに、事跡がはっきりしないローカル武将なのにポンっと出る場合もありますがね(笑)
話を鵜殿氏に戻すと、今川家の姻戚となった長持の子長照も同様に重用され、というか、つまりは義元の甥なのでそれは当然の事なんですが、三河においての活動が史料に見えます。
また、後の桶狭間の合戦直前には、今川家にとって対織田戦線の最重要拠点である大高城将でもありました。
後の家康である松平元康が、兵糧運び入れで賞されたのもこの時。
しかし、皮肉にも、大高城で出迎えた長照と、運び入れた若き日の家康は、直後の義元の討死によって、やがて激突する運命となります。
戦後、今川家から独立を志した家康と、親族の立場から今川家に留まった長照。
やがて、岡崎城を拠点に自立した家康は、西三河を席巻し、今川家の勢力圏にあった東三河へと侵攻します。
この上ノ郷城もその矢面に立ち、長照が迎え討ちますが、その頃は今川家の後ろ盾も弱く、上ノ郷城は落城し、長照は討たれました。

その上ノ郷城は、三河湾スカイラインの描く弧の中心辺りにあります。
蒲郡駅から真北、赤日子神社に駐車スペースがあるのですが、周辺は農村特有の道の細さで、大きな車では行きにくいかもしれません。
その駐車スペースには、案内図がありました。

 
そこから狭い道を歩くと、堀跡といわれる熊ヶ池があります。

 
更に、そこから北へ進んだ所が主郭部。
この熊ヶ池から主郭部の間には、居館があったともいわれています。
主郭部へ足を踏み入れると、まず目に入ってくるのが大きな土塁と空堀で、その土塁上に城址碑がありました。
下の写真中央部にある木の幹のような真っ直ぐのものが城址碑です。
土塁と空堀がはっきりしているのもいいですね(^^)

 
城址碑のある場所から堀を越えて一段上の場所に本丸があります。
その本丸の入口には腰郭のような4m四方程度の郭があり、かつては大手門があったんでしょうか、左手に石垣も見えますね。

 
最後は本丸。
2段構成になっていたことがよく判ります。

 
最後、と書いたけどもう1枚、こっちの方が土塁と空堀のコントラストがはっきりしてていいかな?

 
現地の縄張図を見ると、空堀ではなく郭跡だった可能性もあるようです。
ただ、建物跡なのか掘り込まれていたのか、発掘してみないと分からないんでしょうね。
 
上ノ郷城の後は、もう1城寄る予定だったんですが、出発する頃には陽が落ちてしまってました。
やばい・・・
急いで蒲郡西I.C.付近に戻って県道を南下し、国道247号線へ。
おぉこんな所にボートレース場が!なんて思いつつ、左折して臨海部へ走り、形原漁港へと到着。
この漁港の南の山が形原城です。
まだ明るさが残ってた!
現在の形原城は、古城稲荷の境内地となっていますが、それは城跡のごく一部に過ぎないようです。
実際、残っている部分は、城としてはかなり狭いですしね。
地図を見ると、稲荷社の辺りが東古城ですが、その北西に北古城、南西に南古城という地名が残っており、これらも城域だったと思われます。
更に南西の馬場も、城内と言うには遠いですが、外郭だったのかもしれませんね。
とりあえず、
この辺、東西南北多いな!
というのが地図を見た印象ですが(笑)
ざっと見ただけで、古城、稲生、戸甫井、馬場、馬相、上野、上松、根崎、御屋敷、名田、欠ノ上、湿見、中畑、鞍掛・・・
これらに東西だったり南北だったりが付いています。
そんなに細分化せんでもよかろう、と思うぐらい。
これも地域の特色なんでしょうね。
話を形原城に戻すと、この城は、十八松平のひとつとして江戸時代の大名として生き残った形原松平氏発祥の地。
形原松平氏と言えば、高槻藩、丹波篠山藩、丹波亀山藩といったように関西で藩主を務めており、意外と自分にとっても近しく感じる家だったりします。
大元を辿れば、松平氏3代信光の子与副から始まっており、割と古い時代に分かれた松平一門ですね。
ちなみに、この松平氏を調べて行くと面白いのですが、2代ごとに英主が出ています。
初代親氏が、土豪である松平氏の養子となって源姓松平氏の歴史が始まるわけですが、流浪の身分であった親氏に松平信重が松平郷を譲ろうと思えるぐらいですので、ひとかどの人物だったのでしょう。
親氏の子親泰は、親氏を手伝った事や岩津進出を果たしたことから、ぼちぼち活躍したと思われます。
ま、この初代と2代は存在が疑われてたりもするので、どちらもはっきりしていないと言えばはっきりしていないんですがね。
次が、上にも出てきた3代目の信光で、親氏の子という説もあるのですが、この信光の時代に大きく松平氏が発展しました。
松平郷は兄信広が継いでいることから、信光自体は分家だったと思われるんですが、岩津を継ぎ、やがて平野部の安祥にまで勢力を拡げています。
これが分家発展の1回目。
信光の跡を継いだのは親忠だったのですが、この人もぼちぼちの活躍をしたようですね。
ただ、惣領は信光の長男に譲られたと三河物語には記されており、分家だったと思われます。
これが正しければ、分家発展の2回目ですな。
この親忠の子が5代の長親で、この人物は今川軍を率いた北条早雲と戦って撃退するなど、やはり英主でした。
彼は三男だったのですが、兄達は在京していた、つまり惣領の役割は兄達が担っていたようで、地元の有力者として力を蓄えたのでしょう。
分家発展3回目。
しかし、この長親の子信忠は暗愚で、家臣から、頼むから隠退して!と言われるほど。
その為、信忠の隠退で7代目の清康が登場してきます。
松平清康と言えば、知る人ぞ知る三河の英雄。
13歳にして家督を継ぎ、岡崎へ進出して西三河を平らげ、更には東三河にも侵攻して僅か6年にして三河統一を成し遂げました。
そして、尾張にも進出し、織田信秀の弟信光の守山城を攻めたのですが、その最中、家臣に斬られてしまいます。
享年25。
これが森山崩れです。
ここで死ななければ、数ヶ国の主になったかもしれないというほどの武将でした。
非常に惜しい。
この後、松平家は苦難の時を迎えます。
清康の子広忠はまだ幼く、叔父信定が岡崎城を押領し、広忠は流浪の挙句に今川義元の後ろ盾を得て復帰しますが、後の家康である嫡男竹千代を人質に取られ、やがて自分も家臣に討たれてしまいました。
この人が8代目。
そして、9代目の家康の登場となるのです。
簡単に整理すると、

・初代親氏-流浪の身から松平郷を譲られる。
・2代親泰-初代のお手伝い。岩津進出。
       ~ 伝説の境目 ~
・3代信光-惣領は松平郷松平氏の信広。岩津松平氏。念願の平野部安祥へ進出して戦国大名の礎を築く。
・4代親忠-惣領は長兄?安祥松平家として惣領名代か。
・5代長親-戦国大名化。三男の分家ながら実力的惣領。北条早雲と対決し撃退。
・6代信忠-ボンクラさん。さっさと隠退させられる。
・7代清康-三河統一の英雄。遠征中に凶刃に斃れる。
・8代広忠-岡崎を追われ流浪。後に復活するも今川配下。
・9代家康-江戸幕府創設。

こんな感じですか。
1代目は伝承に近いので何とも言えませんが、2代ごとの3・5・7・9代目はガッツリ英主ですね。
そして、江戸時幕府創設後も、3代家光、5綱吉が目立つ存在となっています。
こちらは功罪共に深しといった感じですが・・・
それと、本宗家筋の松平郷松平氏から見ると、家康は分家の分家の分家にあたるんですが、ここは織田家と相通じるものがありますな。
織田家も、本家筋たる岩倉織田家の分家の清須織田家の更に分家の清須三奉行の家ですしね。
その岩倉織田家も、越前の総本家から分かれて尾張に来たっぽいので、嫡流から見た信長は、分家の分家の分家ということになるわけです。
長子相続が建前の武士の世ですが、世が乱れると、実力のある分家がのし上がってくるということがよく解りますな。

話が恐ろしいほど逸れましたが、現在の形原城は、古城という趣はあるものの、城跡として残っているのは非常に小さい範囲にとどまっています。
城跡の全景はこんな感じで、比高は10mほど。
この場所が既に10mほど上った場所なので、海からは20mほどの高さでしょうか。

 
2段の削平地が残っており、下段は広場、上段には社殿があります。

 
その一角に城址碑。

 
遺構と呼べる物は少ないですが、古城の趣はある城でした。
とりあえずは、ここまで明るさが残ってて良かった(^^)
午前4城、午後4城の予定は無事終了。
天気も崩れなくて何よりですわ。
明日は朝から雨の予定やし、ホテルでゆっくりやねぇ
 
つづく
 
参考:
上ノ郷城
形原城
地図付きはこちら
 

2015年12月14日月曜日

伊勢湾周遊 その5

前回のあらすじ

フェリーで昼寝、最高!
 
田原城からは、この辺りは昔は海やったんやろな~と景色を見つつ汐川を渡り、国道259号線へ。
このまま国道を進んで行けば、自動的に次の目的地、三河吉田こと豊橋の市街へと行けます。
国道やと渋滞したりするんかな~なんて思ってましたが、高師緑地辺りの合流で少し渋滞してた以外は、想定よりも車は流れていました。
土地勘が無いので主要国道を行かないというのは難しいですし、渋滞があまり無いというのはありがたいですね。
三河吉田城があるのは、国道259号線が国道1号線と交わる交差点のすぐ東。
久しぶりに見た路面電車に、乗って見たいなとちょっと誘われつつ、国道1号線から適当に左折して城跡の駐車場へ。
休日だからなのか、駐車場はほぼ満車でした。
なかなか市民の憩いの場として活用されているようですね。

三河吉田城は、永正2年(1505)に牧野成時ら今川配下の三河国人衆によって築かれた城とされ、当時は今橋城と呼ばれたようです。
築城後まもなく、城は争奪の的になるのですが、出てくるのが戸田氏、松平氏、今川氏。
宝飯郡まで進出してきた松平氏と、渥美郡に本拠を置く戸田氏、三河を領国化したい今川氏の、ちょうど間にある城でした。
戸田氏、牧野氏なんかがそうですが、この辺りの歴史を辿ると江戸時代の徳川大名が多く登場してて面白いですね。
後に大名となった譜代の家でも、戦国時代はちゃんと国人土豪として面従腹背の行動をしていたりします。
忠誠を賞された三河武士といっても、他の地方と変わりない。
ま、それは置くとして、松平清康が猛烈な勢いで東三河に進出してきた頃に吉田城も攻略され、清康に属した牧田成敏が入り、松平家の支配下に置かれました。
天文4年(1535)の清康の横死後は、しばらくして戸田氏が奪い、同15年(1546)には更に今川氏が奪って三河経営の拠点としています。
更に、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦後は、家康の今川家からの独立によって今川方の最前線となり、同8年(1565)に家康が攻略して酒井忠次を置きました。
当時は、西三河の石川数正と、この東三河の酒井忠次が、松平軍の旗頭であったわけです。
今で言えば、東西の地区司令官といったところでしょうか。
吉田城がどれだけ重要視されていたかが解りますね。
以降、徳川氏の領地である期間が続くのですが、家康の関東入封によって池田輝政が城主となり、近世城に改修されて現在の形となりました。

吉田城のテニスコート横の駐車場にバイクを止めると、ここが既にもう惣堀の内側なんですが、そこから徒歩で中心部へ向かえば、三ノ丸、金柑丸と空堀で区切った郭がすぐ登場してきます。
金柑丸の虎口の土塁は綺麗な形で残っていますね。

 
下の金柑丸は細長い郭なんですが、この辺りが戦国時代の本丸であったと言われています。
地図を見ると、ちょうど豊川と朝倉川の合流点。
当時は、より川筋に防御力を依存した形だったのでしょう。

 
そこから少し西に行けば、近世の本丸です。
右奥に見えるのが、天守の代わりをしていたという復興鉄櫓。
中は資料館になっているそうですが、この日は開いてませんでした。
ん~残念。

 
本丸から川沿いへも通路があります。
吉田城は豊川を背面に背負っていますが、本丸からこうやって川面が見られるというのもいいものですね(^^)

 
通路を下りると眼前に豊川が。
戦時は防御の要の川ですが、江戸時代は川の風情を愉しんだことでしょう。 
川岸には川手櫓という櫓もありました。
ここがその川手櫓跡です。

 
豊川の奥側に見えてる橋は豊橋?と思ったんですが、地図を確認するとこれは吉田大橋。
地名の元となった豊橋はその向こう側でした。
本丸へ戻って二ノ丸へと足を向けると、大手虎口があります。
この石垣の上に千貫櫓があり、二ノ丸側に冠木門があったようですね。

 
野面の石垣がいいですな(^^)
吉田城の石垣は、基本は本丸のみで、それ以外は土留めなどの要部のみです。
ただ、この大手虎口の辺りや川沿いは隅部が算木積になっていたりするんですが、北の棗御門の辺りは算木すら曖昧なより古い時代の野面積で、同じ本丸石垣でも時代の差が見受けられました。
川沿いなんかは大水などの影響もあったのか、補修があったんでしょうね。
ここから、更に進むと二ノ丸が公園化されていますが、二ノ丸外側の中堀は無くなっており、平凡な公園という印象です。
二ノ丸の隅櫓だった着到櫓跡がありました。

 
隅櫓ということは、この撮影している場所あたりに堀があったことになります。
流石に今の景色からは、ちょっとイメージが難しいな(^^;)
でも、街中にある城でこれだけ遺構が残っていれば、かなり満足ですわ。
 
吉田城の次の目標は、三河湾スカイライン。
吉田城を出て西へ向かい、国道23号線へ。
そして、豊川を渡らず直進して国道23号線バイパスに入り、再び国道23号線へ、と思ったらバイパス降り口過ぎてた(笑)
やっちまった。
止むを得ず小坂井御津I.C.で降りて、よく分からないまま県道を西へ。
なんか抜け道の需要があるらしく、数台の車列の流れに身を任せて進むと三叉路が出てきたので、南へ折れると国道23号線に復帰できました。
めでたしめでたし。
土地勘が無いだけに、流れがあるというのは助かりますわ。
そのまましばらく西進し、西日を浴びる中、渋滞を抜けて国道247号線へ入り、国坂峠方向へ。
この峠付近から、いよいよ三河湾スカイラインへ突入です。
三河湾スカイラインは、元々は観光開発の為の観光道路として開通したらしいですが、今では遠望峰周辺に施設が少し残っている程度のようですな。
道自体も、今では県道化されています。
そのせいなのか、草木がはみ出し放題で、車線端側1m程度がほぼ使えませんでした。
コーナー途中で草の束に当たるとか怖いしな~
地図上のウネウネしたルートから想像したのとは、ちょっと違いましたわ。
コーナー攻めて、途中で木々の合間から三河湾が・・・なんて想像してたんやけど(^^;)
なんか勿体無いねぇ
 
つづく
 
参考:
吉田城
三河湾スカイライン
地図付きはこちら
 

2015年12月7日月曜日

伊勢湾周遊 その4

前回のあらすじ

なぜか鳥羽城で階段ダッシュ。
20年ぶりの部活・・・
 
出発に無事間に合い、船に乗り込んでみると、廃止云々の話題がちょくちょく出ている伊勢湾フェリーですが、この日は混むとまでは言えないものの、そこそこの入りでした。
やっぱりフェリーは平日の稼働率なんでしょうね。
高速道路が整備されてフェリーを有効利用できる地域が狭まったことと、原油高が主な原因でしょうか。
原油は今は安いですが。
伊勢志摩地域の過疎化や、観光地としての衰退なんかもありそうですね。
土曜日というのに、鳥羽水族館周辺もそれほど人は多くなく、鳥羽城への往復ダッシュの際も歩道にほとんど人はいませんでしたから。
小学校は鳥羽に修学旅行に来たんやけどな~
時代の流れを感じますわ(> <)

さて、フェリー内はと言うと、中国本土か台湾かは分かりませんが、中国語を話す人が75%、日本の観光客が10%、釣り人が15%というところだったでしょうか。
中国語を話す人達は甲板船室問わず写真撮りまくり、日本人観光客の人は座席か甲板でまったり、釣り人は来るべき本番の釣りに備えて仮眠といった感じで、色がはっきり分かれてました。
自分は釣りの人達に近い立場なんで、菓子パンで昼飯を摂った後に就寝。
到着のアナウンスまで目が覚めないという爆睡をかましました(笑)
だって朝早かったんやもん。
そら眠いっすわ。
でもこの1時間近くの仮眠はいいですね。
いつもは昼を過ぎると散漫になってダレる時間があるんですが、この日は昼からも元気でした(^^)
うむ。
これは使える!
 
伊良湖港に到着後、まずは伊良湖岬へ。
港を出てすぐ右折というのは事前に調べて知ってたんですが、「すぐ」がすぐ過ぎた・・・
港の出口とほぼ同じ交差点ですやん。
華麗に直進してしまいましたわ。
でも東方向の国道42号線って海沿いでUターンできる所が無いんですよね。
結局、伊良湖ビューホテルのところまで行ってターンしました。
伊良湖岬は、遊歩道が整備されていて良い感じです。
参観灯台ではないので外から見るだけですが、神島なども見えて曇天ながら風景に趣がありました。
下は恋路ヶ浜。
 
遠くに見える建物は、Uターンをかました伊良湖ビューホテルですな。
意外と遠くまで走らされたんやな・・・
恋路ヶ浜には、身分違いの恋に落ちた二人が都を追放されてこの場所で暮らしたという伝説があり、恋愛の聖地になっているようです。
でも、結構家族連れも多かったですね。
こちらは灯台からの風景。

 
写真左の手すりが灯台で、右手に見える船は、乗ってきた伊勢湾フェリーです。
天気が良ければ言う事無かったんですがねぇ
残念!
 
散策をそこそこに、今回は渥美半島の西岸を北東へ。
南岸をズドンと走るのは、また静岡に行くときの楽しみにとっておこう。
ちょっとだけ走ってもたけどな(笑)
渥美を半島を北東に向かうと、最初の街らしい街は田原です。
田原は城下町で、田原城と言えば、幼い徳川家康を今川家へ送らず、織田家へ送った戸田康光の城というのが一番有名かもしれません。
戸田氏は、三河湾から知多半島の一部まで支配した、海に重きを置く大名で、田原城も直下に海が入り込む城であったようです。
しかし、実際に訪れてみると、近世以降の干拓で全く海は見えませんでした。
海際の城にはよくあることですがね。
城の北側の駐車場から城に入ったんですが、その入口にあたる部分が、一番古城の趣がありました。

 
石垣の組み合わせや、古井戸なんかもあって、雰囲気が良いですね。
この右手が二ノ丸で、階段を上って左側に本丸、右斜め方向に三ノ丸があります。
まず、本丸にある巴神社。

 
この神社はすごく綺麗に整えられいて、城跡というのを忘れそうになるほど。
と言っても、縁辺部なんかを細かく見て回ると、本丸の切岸なんかも確認できます。
神社の名前は、巴城や巴江城とも呼ばれた城の別名から来ていますが、その由来は、巴型に海が湾入していたからとのこと。
今の姿からは想像できませんが、特徴のある地形の裏付けでもありますね。
この本丸の西側にあった二ノ丸は、今は博物館の敷地となっています。


白亜の櫓や倉庫風で雰囲気を壊さないように配慮されていますが、建設の際には遺構の破壊があったらしく、やや議論があったようですね。
なかなか城跡の利用というのも難しい。
この二ノ丸から南へ進むと大手門があります。

 
ここはなかなか雰囲気がよろしい(^^)
そして、丘陵ながら水堀も備えてました。

 
ここまでが主郭部ですね。
この西の華山会館にも出曲輪という郭があり、本丸の東側にもいくつかの腰曲輪がありましたが、そちらは住宅地になっているようです。
全体的には、こじんまりと纏まった良い城でした(^^)
 
つづく
 
参考:
伊良湖岬
田原城
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