2016年4月28日木曜日

MyTracksサービス終了

4月も押し迫り、世間はいよいよGWへ突入かという空気になって参りましたが、ひとつ大事な事が有りますな。
それは、Google謹製のGPSロガーのアプリであるMyTracksが、4月いっぱいでサービスを終了することです。
これは、自転車やバイクを趣味にする人にとっては、一大事。
一方で、同じくGPSロガーを多用するであろう登山の人々は、色々な山登りに適したロガーが出ているので、あまり関係無いとは思いますけど。
自転車乗りやバイク乗りの人は、走行ルートを記録したり、迷った時に記録して後で反省したりニヤニヤしたりといった使い方が一般的でしょうか。
個人的には、それに加えて、マイナーな城になると地図上に遊歩道の表記が無い事がちょくちょくあり、歩いた時のGPSの軌跡で場所を確定するということがあったりしますし、他にも直登の軌跡や郭の大きさなどが把握できて、非常に重宝してますね。
iphoneの人はあまり関係無いと思いますが、androidスマホを持っている人間にとっては、Google謹製というのはやはり安心感という点では重要で、MyTracksを使ってる人は多かったんじゃないかと思います。
何かあって、せっかくのデータが飛んでしまった、なんて事になったら目も当てられないですからね。
しかししかし、そんな代表的アプリがサービスを終了するわけですから、驚きと困惑ですわ。
 
というわけで、代替アプリをざっとリストアップしないといけないわけですが、そこはGoogle自ら代替アプリを提案してくれてます。
他にこれだけ競合があるからGoogle自らやらんでもええんちゃうの?というのが、開発終了の理由らしく、薄っすらとそういう本音が提案に浮かんでる気もしますが・・・
自分は、この提案リストの中から、アプリの説明を読んだ上で、Geo TrackerとGPS essentialsを試してみました。
ざっと使った感想では、Geo Trackerは非常にシンプルなUIで、単純にログを取る事に関しては凄く楽です。
一方、GPS Essentialsの方は、色々と細かい設定をする事が可能で、スマホの機能を横断的総括的に使うとするなら良いアプリなんでしょう。
ただ、自分が使うのはロガーとして簡単で軽いというのが一番のポイントで、Geo Trackerが使い途として最も適してるかな。
GPS-Trkもなかなか楽しそうではあるけど、またの機会に試してみよう(^^)
 

2016年4月23日土曜日

東九州縦走 その6

前回のあらすじ
 
鬼の洗濯板とはよく言ったもんですな。
なかなか見られない奇勝で想像以上に良かった。
 
清武城から、また細い山道を戻るわけですが、今度は宮崎道を越えず、そのまま側道を下って行くと、やがて県道13号線へと出ます。
この道をそのまま北西方向へ走っていくと、高岡町の穆佐という所へ出るのですが、ここにはかつて、南日向で重要な役割を果たした城がありました。
日向三高城のひとつ、穆佐高城です。
名前としては、単に穆佐城とも、穆佐院高城とも呼ばれますね。
南北朝時代には畠山直顕が本拠としてその活動の中心とし、南北朝時代終結後には島津家と伊東家の間で取り合いとなり、後に島津宗家を強引に継いだ久豊も一時期は城主として在城しています。
久豊の子忠国も、この城の生まれでした。
城跡は、旧穆佐小学校の東側にあり、現在の穆佐小学校から国道28号線を挟んだ反対側にあります。
当初、下調べの情報が古いままランドマークとして穆佐小学校を見ていたので、どこに城があるのかちょっと混乱しましたが、現地に行くと新小学校は遠目でもとても新しく、ああ移転したんやね、ということがすぐに解りました。
旧小学校は体育館だけが地域の体育館として残されており、そのすぐ横が城です。
ちなみに、旧小学校は水害があって移転したそうなんですが、確かにここは麓川と瓜田川の合流点となっており、標高も高くないですね。
城の南と東を麓川が、北を瓜田川が洗うというのは、防衛上はすごく有利なんですが、ひとたび大水が出たとなると、合流点の麓は水浸しになりやすそうです。
城の健在だった昔は、周囲は深田や沼田だったのかもしれません。
 
体育館横の駐車スペースにバイクを止め、護国神社経由で城へと入って行きます。
城内でまず目に入るのが、忠国が誕生した際に植えられたという誕生杉の案内。
 
 
明治7年に焼失してしまったらしく、今は2代目のようです。
この誕生杉がある所一帯が坪ノ城という二ノ丸ですね。
平坦かつ広い場所で、その当時からすでにここは居住区だったということになりますか。
 
 
その先には、現地の縄張図でいうところのA地区とB地区を区画する巨大な空堀がありました。
 
 
空堀左手のB地区が主郭なんですが、右手のA地区が城内最高地かつ小さな郭が配置された技巧的な区画であり、瓜田川に迫るように築かれた最も初期の城域だったのかもしれません。
詰城的な性格のA地区だけが初期にあったのか、居館と詰城という形式でA地区と居住区としてのB地区が同時に整備されたのかはわかりませんが、A地区を見て回ると、郭群からやや下がった場所に切岸に囲まれた稲荷神社の削平地があり、居住区域としてはちょうどいい場所にあるんですよね。
つまり、A地区だけで居館と詰城という関係性を持つ部分があり、単独で完結してると言えばしてるんですな。
となれば、A地区だけが本当の初期の城という可能性が高かったように思えます。
穆佐院という地方荘園の政所としては、ほど良い大きさかなとは思うんですが、実際はどうだったんでしょうか。
全体としては、A地区及びB地区から、C地区、さらにはD地区と、時代を経るに従って拡張されて行ったのは間違いありません。
写真で見ると、A地区はこんな感じです。
 
 
 
上がA地区東側の例の稲荷社の上にある郭で、下がA地区西側の郭です。
この郭は、広さ的に恐らくA地区の最も大事な郭でしょう。
対してB地区。
 
 
 
上が、主郭と呼ばれた城の中心へ向かう通路ですが、往時は手前も奥も郭でした。
そして下が2段構成の主郭。
ただっ広いですね。
発掘調査から、主郭には建物類も沢山あったことが判っています。
正に城の中枢。
B地区の先には家臣の居住区域だったC地区と区画する大堀切があります。
 
 
ただ、主郭の先の遊歩道は立入禁止になっていて、こちらからは行けませんでした。
自分が城へ入った方向とは反対側の道から山に入れば、C地区、D地区へ行く事ができるようですね。
この日は陽も落ちてしまったので、これ以上の散策はできませんでしたが。
 
穆佐城の散策を終えると、もう薄暮の時間となっていました。
やっぱり、秋はつるべ落としと呼ばれるほど早いなぁ
予定が押すと、もう少し散策したいと思っても、延長戦ができない・・・
ちなみに、この日の宿泊予定地は延岡。
おかしい。
佐土原城にも寄れるなら寄って、延岡へ日暮れ過ぎに到着かな、という予定だったのに、こんな暗さでまだ宮崎。
おかしい。
志布志と日南で時間を取られすぎた・・・
海岸線のうねうね国道は舐めたらあきませんな。
予想以上に距離が長く流れるスピードも上がらない。
そんなこんなで、もう暮れてしまったものはしょうがないとして、宮崎西I.C.からさくっと高速で延岡を目指します。
その距離、約85kmほど。
暮れてから動く距離じゃないな(^^;)
延岡の宿に着いて荷物を下ろし、フロントの方に夕食が摂れる適当な所はないかと聞くと、歩いて行ける距離にチキン南蛮発祥の店があるとのこと。
なぬ?
チキン南蛮と聞けば、迎え討たないわけにはいかぬ!
というわけで、チキン南蛮とチャンポンが売りというおぐらへ。
 
 
中はファミレス形式となっています。
頼んだのは、チキン南蛮とチャンポンのセット。
 
 
出た!
また食べかけや!
野菜から食べてたんで、元はもっとキャベツがありましたな(^^;)
なんというかね、ご飯を写真に撮る習慣なんて無いもんやから、運ばれて来たらすぐ食べるという一連の動作は止められないんよな・・・
ちなみに、量は結構ボリューミーで、もっと多いセットもありました。
今でも割とヤセの大食いやけど、学生の頃やったらたらふく食ってたやろな(笑)
チキンも柔らかくてジューシー。
なんか特別な下拵えでもしてるんかな?
とにかく旨し!
あと、ファミレス形式ですが、店員さんがよく気が付いて、箸を落としたらすぐに届けてくれるし、地図を開いてルート整理していたら水を足しながらどこに行ってきたんですかと声を掛けられたりで、とってもアットホームな店でした。
居心地が良くて、延岡のいい思い出になりましたわ(^^)
 
つづく
 
参考:
穆佐城
地図付きはこちら
 





2016年4月19日火曜日

フェリーでの被災者受け入れ

昨日の読売新聞に、こんなニュースが載っていました。
 
http://www.yomiuri.co.jp/economy/20160418-OYT1T50108.html
 
公式のリリースはこちら。
 
http://www.sunflower.co.jp/ferry/information/log/20160418.html
 
大洗~苫小牧の便は夕方便と深夜便とあり、船内設備が充実した夕方便を1隻持って来るようですね。
お風呂やベッドがあり、レストランもあるフェリーというのは、地震の際の避難所としては病院船の次ぐらいに最適なんではないでしょうか。
海に浮かんでて、余震の影響が無いのが何よりいい。
地震で眠れない人も、精神的にちょっと落ち着けると思います。
また、補給は現地で受けると思いますが、最悪の場合は自走して補給可能な港に移動できますしね。
4/19の大洗発の夕方便は欠航とのことなので、しばらくは1日1.5往復での運行となるのかな?
その辺りはちょっと気になる所ではありますが、1日1往復というのではないので、運航に対するインパクトは少なそうですね。
 

2016年4月15日金曜日

東九州縦走 その5

前回のあらすじ
 
飫肥で祭りに遭遇!
白浜の奇勝や良し。
 
紫波洲崎城を出て向かったのは、すぐ北の青島。
向かったと言っても、青島まで1kmほどしかないんで、大袈裟なんですけども(笑)
青島の辺りは観光地化されていて、どことは無しに天橋立に雰囲気が似ています。
あと、現地に来て初めて知ったんですが、ジャイアンツの日南キャンプの宿泊地は青島だったんですね。
知りませんでしたわ。
ということは、すぐ北の運動公園が会場なのか。
地図で見ると、立派な球場が2つもあるし、さすがにキャンプ地として環境が整っていますね。
というか、軟式球場と合わせて4つの球場、3つの陸上競技場、屋外屋内プール、武道館に自転車競技場まで、ちょっと半端ない規模ですわ。
この青島付近から見ても、なんか近未来都市というか遊園地というか、そんな林立感がありますな。
ま、今回はそこには行かないので、おとなしく青島の散策へ。
青島というのは、宮崎層群の内の青島層という地層が海底から隆起し、波で削られた後、更に少し隆起して、その海上に出た部分に堆積物が集まってできた島です。
青島層は、海底にあった頃に砂と泥が交互に堆積して固まった砂岩泥岩互層という地層が主で、もともと砂だった層と泥だった層で侵食の耐性に差があり、それが鬼の洗濯板と呼ばれる凸凹の岩を作りました。
波で削られた波蝕岸が隆起し、台状になると波蝕台と呼ばれるそうですが、遠くから青島を見ると、なんとなくお供え台に載せられた和菓子が連想されますね。
薄暗い色の岩がお供え台で、明るい砂浜が和紙、森が抹茶の菓子のよう。
まさにお供え物。
巨大な海神への捧げ物といった感じでしょうか。
そんなのもあってか(いや、無いやろ)、江戸時代までの青島は禁足地で、神聖なる場所でした。
なにか尋常ならざる自然物を畏怖して祀るという、神道の原風景がそこにありますね。
そんなことを思いながら、歩いて青島に上陸してみると、鬼の洗濯板の実際が見えてきます。
 
 
写真と見ると分かるように、当たり前なんですが非常に荒々しい岩場で、遠くから見た時の整然としたイメージとは打って変わり、地層としてのリアルがそこにありました。
砂岩泥岩互層の境目は素人目にもはっきりしており、また、侵食の形が似た格好で、恐ろしいほど淡々と繰り返された自然の営みが垣間見えます。
反対側から見た岩場の背の部分はこんな感じ。
 
 
侵食で妙な滑らかさを持ってるのが、虫っぽいというか爬虫類っぽいというか、ちょっと気持ち悪いですかね(笑)
上の写真の所では、長閑な感じで磯遊びに興じる孫と祖母の姿がありました。
下の写真のすぐ近くでも、父親と男の子が蟹か何かを探していた様子。
悠久の自然の営みと、遥かに短い時間を生きる人間の営み。
いいコントラストですね(^^)
青島神社も、南国の植生の杜の中に和の社があり、なんとも言えずコントラストが効いていました。
 
青島を出て、目指す次の目的地は清武。
清武にあるのは、地名まんまの清武城で、この城は時々歴史上に登場する伊東氏所縁の城です。
城の歴史はそれほど明らかでは無いんですが、節目節目で登場する不思議な城と言えるでしょうか。
例えば、約100年に渡る飫肥を巡る伊東氏と島津氏の戦いの最序盤に当主祐堯が急死したのもこの城で、九州征伐後に伊東家が再興された際に重臣中の重臣である川崎祐長が城主を務めたのもこの城、関ヶ原の合戦後に島津氏や高橋氏に対して盛んに軍を動かした稲津重政もこの城の城主でした。
重政はこの行軍が元で家中で浮き、やがて清武城を攻められて自刃しています。
色々と、伊東氏の歴史の中では重要な役回りの城ですな。
そういうのがあったので、清武城には行っておきたかった。
青島を出て、高速道路のような国道220号線へ入ると、冒頭で出た運動公園を右手に見つつ北上し、大きく西へと旋回して行きます。
その旋回した先で宮崎道と交差しますが、宮崎道をくぐってその先へ。
宮崎道には清武P.A.というのがあり、城はその少し西側ですね。
城へ向かうには、国道269号線に入る必要があるんですが、国道220号線から直接入るとなるとかなり北回りになる為、適当な交差点で加納駅方向へ左折します。
「地図やったらサクッと行けそうやのに鉄路を越えられへんやん!」なんて思いつつ、多少迷いながら住宅地を抜け、なんとか国道269号線に入って西へ。
宮崎道を南へくぐり直してすぐ右へ折れ、山へ入ってやたら細くうねった道を辿っていくと、宮崎道を今度は北に跨ぎます。
この辺りまで来ると、ようやく清武城の案内が見え始め、迷う心配が無くなってきました。
途中、完全な180°左折の交差点かつ上下差ありという場所があって、車でこんな所に来たら頭抱えるやろなと思いましたが、その先の道は軽トラでもギリギリの車幅しかなく、車なら曲がるどころか交差点に置いて歩きにせざるを得ないでしょうね。
バイクでも、この先行き止まりでUターンできないんじゃないかという恐怖との戦いでした。
スマホが無かったら絶対辿り着けてないわ(^^;)
180°交差点から軽トラぎりぎりの道をしばし行き、更に細くなった道の先に清武城の登山道があるのですが、その登山道の手前の民家に、明らかに土塁と判る土盛が立派に残っており、この一帯はすでに城内のようです。
 
 
登山道から本丸までは数分程度で到着し、一角に城址碑がありました。
 
 
しかし、城址碑のある一帯の裏手が完全に藪で立ち入れず、農地として利用されていたであろうその周辺の削平地も荒れ放題で、なんとなくの高低差とある程度の大きさぐらいしか把握できませんでした。
調べたところによると、宮崎道の際まで城地であったらしく、幾段も重なった大きな城だったようです。
削平地にそれほど手が入ってないようなので、旧状も残っているでしょうし、城跡としてはちょっともったいないですね。
 
清武城から登山道を下りてくると、出口には自分のバイクが見えます。
そう、どこにも止める所が無かったので、道に置いたんですね。
でも、道幅が1mちょいしか無かったので、いくら端に寄せても、半分ぐらい占拠するわけですが・・・
しかも、一番平衡が取れたのは凸になってる部分のてっぺんだったので、バイクの前も後ろも下がっている状況。
更に左右も、登山道方向が上がってるという傾斜付き。
さて、城は行けたけど、どうやってターンしたものか・・・
ま、やるしかないかと腹を決め、登山道入口の未舗装部分と反対側の畦部分も駆使してえっちらおっちらと汗をかきながら切り返しをしていると、聞き慣れない音がしたのかすぐ下の民家の人が出てきて、うわっ人がいる!みたいな感じですぐに家に入っていきました。
そら、こんな夕暮れの時間にこんな山奥でおっさんが必死こいてバイクを押したり引いたりしてたら怪しいよな・・・
そんなこんなで、苦闘3分、無事ターンに成功し、窮地を脱出しました(^^;)
 
参考:
鬼の洗濯板
青島
清武城
地図付きはこちら
 

2016年4月9日土曜日

パナマ文書

最近、パナマ文書というのが話題になっています。
パナマの法律事務所の機密文書で、4月3日に発表されて以降、各国の政治家や企業、資産家などが槍玉に挙がってますね。
詳しくは、wikipediaを見てもらえれば解り易いですが、ウクライナ大統領やアイスランド首相などの名が見付かり、アイスランド首相は辞任を表明しました。
その他、本人ではないですが、ロシアのプーチン大統領の友人や、イギリスのキャメロン首相の亡父、中国の習近平総書記の親族などが記載されており、しばらくは政治的混乱が予想されます。
ほかに、サッカー選手の名前が挙がったりしていますが、個人的には、倫理的問題がある政治家以外の個人の節税は、それほど問題ではないんじゃないかという感想ですね。
合法的かつ反社会的勢力と関わってなければ、ですが。
ただ、FIFAや各大陸のサッカー協会の幹部とかはまずいでしょうね。
散々汚職まみれと指摘されるFIFAですし、ああやっぱりか、という印象は拭えません。
 
この他には、国際的な大企業の子会社もあるようで、5月に全容が公表されるようですから、続報に注目したいですね。
何と言っても、2.6TBという正に字の通り今までと桁違いに多い流出伝書ですので、かなり詳細に色んなことが分かってくるのではないかと思われます。
国際的な大企業の過剰な節税、納税回避は以前にこちらの記事で触れましたが、その辺りの手法やルートが解明され、対策が進むといいですね。
大企業は市場の大きい所で商売をして儲ける訳ですから、その市場のある国に還元をしないとフリーライダーと同じ。
節税によって回避される税金は世界で20兆円以上とも言われており、一般庶民との公平性の為にも是正しないといけません。
全く節税をするなというわけではありませんが、最近のオフショアを利用した節税は行き過ぎの感が強いので、その是正に役立ててほしいですね。
 
今回は流出は、英系の法律事務所ということで、ヨーロッパ関係や香港系の人物の名が多く挙がっています。
なので、全世界的な流出というわけではありません。
サッカー選手が挙がっているのもそういう理由によります。
これが米系だと、メジャーリーガーやプロフットボーラーの名が挙がってくるのでしょう。
何にしろ、スポーツ系の長者番付にはズラッと並んでいますからね。
アメリカは、金融が最も充実している国のひとつでもありますし。
ただ、個人的に注目しているのは中国系ですね。
格差の無い世界を理想とする共産主義でありながら、世界で最も過酷な資本主義となっている国が中国です。
その富裕層が、香港系ルートを通じて利用しているはず。
習近平総書記の親族が絡んでいるとは言え、パナマ文書に触れたNHKの外国向け放送をカットしたのは、それだけが理由ではないでしょう。
政権に近い政商や共産党の幹部の名がこぞって出てくると思います。
政治的にも、経済的にも、次回の分析公表が楽しみですね。
 




2016年4月5日火曜日

東九州縦走 その4

前回のあらすじ
 
都井岬で無事至近距離で馬に遭遇!
産み落とされた存在証明だけじゃくなくて良かったわ~
 
都井岬からは再び国道448号線を海岸に沿って進みます。
14年前に来た時は、国道220号線で串間から北東方向へ真っ直ぐ抜けたような形になっているので、今回は海岸線を塗りつぶしていくような感覚ですかね。
都井岬から少し行くと、恋ヶ浦という素敵な名前の場所がありまして、山間に開けた凄く遠浅の海岸で、サーファーがめっちゃいました。
そういえば、サーフィンのメッカとして恋ヶ浦の名前は聞いたことがありますな。
ここだったのか。
外洋なので波があり、砂も綺麗で、少し海外っぽい雰囲気があります。
鉄道も無ければ高速からも遠いので、ちょっとアクセスが大変な場所ですが、サーファーなら来るだけの価値はありそうな風景でした。
バイクに乗ってると海岸線を走る事も多いので、サーファーの群れに遭遇する事もちょくちょくあるんですが、見てるだけでちょっと楽しくなりますね。
なんというか、わたせせいぞうの世界を味わうような、そんな感覚があります。
ま、青春時代にわたせせいぞうが流行ってたなんて言うと、モロに歳がバレますが(笑)
 
そんな感じで風景を楽しみながら走っていると、幸島を過ぎた所で工事による迂回路の案内が。
脇道に逸れたら土地勘が無いから迷いかねんな~と思いつつ、前の車列に続いて迂回路に入って行くと、途中で車列がバラけて行き、気が付けば1台に。
そして道は山の方向へ。
予想通りサクっと迷っとるやないかい!
なんという的確な自己分析・・・
という自虐はともかく、山道でUターンして戻ってみると、途中の分岐箇所で分かれてたやや細い方の道が正解の迂回路だったようです。
道の広さと、間違った道の方向にたまたま車が何台か集中してた為、その流れに騙されました。
しかし、傷は浅い!
Uターンが早かったので、5分ほどのロスで済んだはず。
その後は快調で、川沿いを進み、山を越えると国道に戻ってきました。
そこはもう南郷の近く。
串間で分かれた国道220号線と再び合流です。
そして、しばらく行くと油津の港。
この港は、遣唐使の時代から使われていたという古い港で、戦国時代には南蛮貿易も行われていました。
油津から少し川を遡った場所にある飫肥を巡って、戦国時代に島津氏と伊東氏の間で約100年に渡って争奪戦が繰り広げられたんですが、当然、その権益の中には油津の交易権、支配権というのも入っていたのでしょう。
争奪の期間の長さを考えると、後から南蛮貿易が始まった事によって、飫肥の重要性がより増したという話になりますかね。
ただ、今の油津港は、それほど殷賑というわけではないようです。
木材の集積港の役割は有りますが、やはり後背地が少ないというのが発展の妨げになっているんでしょうか。
そういう意味では、宮崎平野には敵わないですからね。
 
油津から、北西方向に延びる国道222号線に入り、平坦な道をしばらく行くと飫肥城があります。
その途中、地図を見ると広渡川の左岸に高砂城山、鬼ヶ城山、犬ヶ城山という3つの山が並んでいました。
まぁ、名前を見ると、そのままかつては城があった城山なんだろうなというのは容易に推測でき、実際に伊東氏と島津氏の飫肥攻防で使われた城なんですが、3つ並んでいると、広渡川と酒谷川が攻防ラインだったんだなというのがよく解っていいですね。
そのまま、3つの山を右手に見つつ日南市の市街地を抜けて進んでいくと、道はやがて飫肥の城下町へと入って行くんですが、その道すがら、どうも沿道に幟が多いなと思って見ていると、どうもこの日は飫肥城まつりというのをやっているらしいということが分かりました。
これ、確実に城のすぐ近くの駐車場は無理やん・・・
というか、もしや城にすら入れないんでは?
能登七尾城での忌まわしき記憶が蘇ります(> <)
10月の半ばって秋祭りが多いですよね。
城跡が会場になっている所も多く、城巡りでは注意が必要です。
恐る恐る飫肥城のすぐ近くまでやってくると、予想通り駐車場には入れず、離れた場所へ誘導されましたが、城内には入れる様子。
良かった(^^)
前回来た時は、平日の朝一ということもあって、城内には観光客はおらず、城を出る頃になって中年女性3人組に出会っただけでしたが、今回は祭りだけあって全く情景が違います。
何より、子供が多いですね。
地元の子供たちにとっては、一大イベントなんでしょう。
もしかしたら、好きなあの子と一緒に祭りに行きたいなんてのもあるのかも。
いや~、自分の子供の頃を思い出して懐かしいですわ(^^)
 
今回、飫肥城に来た目的は、旧本丸などを写真に収める事です。
前回来た時は、ロングツーリングに普及し始めのデジカメは不安だったので、フィルムカメラだったんですが、3週間という期間の長さから、フィルムが溜まるのを恐れてできる限り撮る枚数を抑えてました。
飫肥城では、城門と資料館と小学校辺りの城壁なんかを撮ってたわけですが、やっぱり近くに寄ったからには、撮り損ねた旧本丸も写真として記念に残しておきたいなという所。
というわけで、祭りの出店や子供たちを横目に、一直線に旧本丸へ向かいます。
その道中、まずは復元された大手門。
 
 
次いで松尾ノ丸の下の通路。
出店が出て、いかにも祭りという雰囲気ですね。
 
 
旧本丸の桝形。
 
 
そして旧本丸の南側全景。
飫肥杉が良い雰囲気を出しています。
北側の縁辺には土盛りがあったんですが、あれは土塁の跡かそれても後世の地形変更なのか。
普通なら、本丸でもあるし城壁だったと思われるのですが。
 
 
祭りは、新本丸にあたる小学校の校庭がメインで、ステージなんかも造られたかなり大きなものだったんですが、この旧本丸は人も少なく、重厚な飫肥杉が影を作り、違った雰囲気がありました。
眼下に見える校庭の祭り会場の喧騒が、なんだか別世界の事みたいですね。
同じ城内でも、少し歩いただけでかなり空気が変わり、その変化がなかなか楽しかったです(^^)
帰りに松尾ノ丸へ。
 
 
めっちゃ逆光なんですが、なんかコンパニオンの人が中に入って行ってました。
中でイベントみたいなのが有るんですかね。
しかし、コンパニオンが派遣されるってスゲェ!
そんな大きな祭りにここ何年も行ってないですわ(^^;)
帰りに大手門の堀を覗くと、そこには野面積が。
この部分の石垣はかなり古そうです。
また、主要部分は石垣ですが、その先は土塁でした。
 
 
ちなみに、飫肥に着いたのが14:00頃。
飫肥城を見学した後に、コンビニによってあんまんを食べました。
本日の昼飯、これにて完了!
んー、毎回ツーリング中は適当な昼飯になるな・・・
 
飫肥を出発した後は、国道222号線を日南市街まで戻り、再び国道220号線で日南海岸を北上していきます。
前回来たときは、飫肥から都城に抜けたので、この海岸線の道も初ですね。
これで、日南海岸の海沿いの道は制覇。
しかしこの道、流れはそんなに悪くないんですが、海沿いを縫って走る道特有の進みの悪さがあります。
なんかめっちゃ走ってる感があるんですが、次の目的地になかなか着かない。
そもそも予定では昼に飫肥やってんけどな~
初っ端の志布志で時間を使って以降、悉く予定超過ですわ(笑)
鵜戸神宮やいるか岬、巾着島といったちょっと誘われる地名を過ぎ、次の目的地、紫波洲崎城が見えたのは、もう15時を過ぎていました。
紫波洲崎城は、元々は長井氏の城で、伊東氏が圧力を掛けて奪い、島津氏が伊東氏を滅ぼした後には、その家臣上井薫兼が在城した城です。
ちなみに、薫兼の子は覚兼で、日記を残したことで有名ですね。
地図を見ると解るんですが、城下とすべき後背地がほとんど無く、海の監視する役目の城というのが判り易い。
宮崎平野の南の監視所といったところでしょうか。
城へは車道が通っていて、白浜オートキャンプ場から楽々のアクセスが可能です。
この辺りはバッチリ予習済み。
バイクを駐車場に止め、駐車場にあった縄張図を見ると、この城は峰筋に郭を細長く展開した城というのがよく解りますね。
 
 
駐車場から主郭部に入ると、出迎えてくれるのが仏舎利塔。
仏舎利塔は結構痛んでおり、かなり年月を感じさせます。
 
 
続いて、主郭の中央部。
ここは郭が細くなっていますね。
仏舎利塔がある部分以外は、全体に細かったです。
 
 
城には、主郭や物見台らしき場所を結ぶように遊歩道が整備されており、散策は非常に楽でした。
ただ、居住スペースを確保できる広さがあまり無さそうでしたね。
薫兼は麓に屋敷を持っていたのかもしれません。
また、主郭の次に広かったと思われる西南方向の峰に行く道は無かったですね。
上から覗くと、西南方向は完全に藪化しており、郭に到達するのはとても大変そうだったので、散策は断念しました。
ちなみに、紫波洲崎城から青島や白浜を展望できる場所がいくつかあり、俗にいう鬼の洗濯板の眺めが抜群です。
ちょっと見たことが無いような景色で、自然の造形に感動すること請け合い(^^)
最後に、駐車場のすぐ下から白浜をば。
 
 
まさに奇勝!
 
つづく
 
参考:
飫肥城
紫波洲崎城
地図付きはこちら