都井岬で無事至近距離で馬に遭遇!
産み落とされた存在証明だけじゃくなくて良かったわ~
都井岬からは再び国道448号線を海岸に沿って進みます。
14年前に来た時は、国道220号線で串間から北東方向へ真っ直ぐ抜けたような形になっているので、今回は海岸線を塗りつぶしていくような感覚ですかね。
都井岬から少し行くと、恋ヶ浦という素敵な名前の場所がありまして、山間に開けた凄く遠浅の海岸で、サーファーがめっちゃいました。
そういえば、サーフィンのメッカとして恋ヶ浦の名前は聞いたことがありますな。
ここだったのか。
外洋なので波があり、砂も綺麗で、少し海外っぽい雰囲気があります。
鉄道も無ければ高速からも遠いので、ちょっとアクセスが大変な場所ですが、サーファーなら来るだけの価値はありそうな風景でした。
バイクに乗ってると海岸線を走る事も多いので、サーファーの群れに遭遇する事もちょくちょくあるんですが、見てるだけでちょっと楽しくなりますね。
なんというか、わたせせいぞうの世界を味わうような、そんな感覚があります。
ま、青春時代にわたせせいぞうが流行ってたなんて言うと、モロに歳がバレますが(笑)
そんな感じで風景を楽しみながら走っていると、幸島を過ぎた所で工事による迂回路の案内が。
脇道に逸れたら土地勘が無いから迷いかねんな~と思いつつ、前の車列に続いて迂回路に入って行くと、途中で車列がバラけて行き、気が付けば1台に。
そして道は山の方向へ。
予想通りサクっと迷っとるやないかい!
なんという的確な自己分析・・・
という自虐はともかく、山道でUターンして戻ってみると、途中の分岐箇所で分かれてたやや細い方の道が正解の迂回路だったようです。
道の広さと、間違った道の方向にたまたま車が何台か集中してた為、その流れに騙されました。
しかし、傷は浅い!
Uターンが早かったので、5分ほどのロスで済んだはず。
その後は快調で、川沿いを進み、山を越えると国道に戻ってきました。
そこはもう南郷の近く。
串間で分かれた国道220号線と再び合流です。
そして、しばらく行くと油津の港。
この港は、遣唐使の時代から使われていたという古い港で、戦国時代には南蛮貿易も行われていました。
油津から少し川を遡った場所にある飫肥を巡って、戦国時代に島津氏と伊東氏の間で約100年に渡って争奪戦が繰り広げられたんですが、当然、その権益の中には油津の交易権、支配権というのも入っていたのでしょう。
争奪の期間の長さを考えると、後から南蛮貿易が始まった事によって、飫肥の重要性がより増したという話になりますかね。
ただ、今の油津港は、それほど殷賑というわけではないようです。
木材の集積港の役割は有りますが、やはり後背地が少ないというのが発展の妨げになっているんでしょうか。
そういう意味では、宮崎平野には敵わないですからね。
油津から、北西方向に延びる国道222号線に入り、平坦な道をしばらく行くと飫肥城があります。
その途中、地図を見ると広渡川の左岸に高砂城山、鬼ヶ城山、犬ヶ城山という3つの山が並んでいました。
まぁ、名前を見ると、そのままかつては城があった城山なんだろうなというのは容易に推測でき、実際に伊東氏と島津氏の飫肥攻防で使われた城なんですが、3つ並んでいると、広渡川と酒谷川が攻防ラインだったんだなというのがよく解っていいですね。
そのまま、3つの山を右手に見つつ日南市の市街地を抜けて進んでいくと、道はやがて飫肥の城下町へと入って行くんですが、その道すがら、どうも沿道に幟が多いなと思って見ていると、どうもこの日は飫肥城まつりというのをやっているらしいということが分かりました。
これ、確実に城のすぐ近くの駐車場は無理やん・・・
というか、もしや城にすら入れないんでは?
能登七尾城での忌まわしき記憶が蘇ります(> <)
10月の半ばって秋祭りが多いですよね。
城跡が会場になっている所も多く、城巡りでは注意が必要です。
恐る恐る飫肥城のすぐ近くまでやってくると、予想通り駐車場には入れず、離れた場所へ誘導されましたが、城内には入れる様子。
良かった(^^)
前回来た時は、平日の朝一ということもあって、城内には観光客はおらず、城を出る頃になって中年女性3人組に出会っただけでしたが、今回は祭りだけあって全く情景が違います。
何より、子供が多いですね。
地元の子供たちにとっては、一大イベントなんでしょう。
もしかしたら、好きなあの子と一緒に祭りに行きたいなんてのもあるのかも。
いや~、自分の子供の頃を思い出して懐かしいですわ(^^)
今回、飫肥城に来た目的は、旧本丸などを写真に収める事です。
前回来た時は、ロングツーリングに普及し始めのデジカメは不安だったので、フィルムカメラだったんですが、3週間という期間の長さから、フィルムが溜まるのを恐れてできる限り撮る枚数を抑えてました。
飫肥城では、城門と資料館と小学校辺りの城壁なんかを撮ってたわけですが、やっぱり近くに寄ったからには、撮り損ねた旧本丸も写真として記念に残しておきたいなという所。
というわけで、祭りの出店や子供たちを横目に、一直線に旧本丸へ向かいます。
その道中、まずは復元された大手門。
次いで松尾ノ丸の下の通路。
出店が出て、いかにも祭りという雰囲気ですね。
旧本丸の桝形。
そして旧本丸の南側全景。
飫肥杉が良い雰囲気を出しています。
北側の縁辺には土盛りがあったんですが、あれは土塁の跡かそれても後世の地形変更なのか。
普通なら、本丸でもあるし城壁だったと思われるのですが。
祭りは、新本丸にあたる小学校の校庭がメインで、ステージなんかも造られたかなり大きなものだったんですが、この旧本丸は人も少なく、重厚な飫肥杉が影を作り、違った雰囲気がありました。
眼下に見える校庭の祭り会場の喧騒が、なんだか別世界の事みたいですね。
同じ城内でも、少し歩いただけでかなり空気が変わり、その変化がなかなか楽しかったです(^^)
帰りに松尾ノ丸へ。
めっちゃ逆光なんですが、なんかコンパニオンの人が中に入って行ってました。
中でイベントみたいなのが有るんですかね。
しかし、コンパニオンが派遣されるってスゲェ!
そんな大きな祭りにここ何年も行ってないですわ(^^;)
帰りに大手門の堀を覗くと、そこには野面積が。
この部分の石垣はかなり古そうです。
また、主要部分は石垣ですが、その先は土塁でした。
ちなみに、飫肥に着いたのが14:00頃。
飫肥城を見学した後に、コンビニによってあんまんを食べました。
本日の昼飯、これにて完了!
んー、毎回ツーリング中は適当な昼飯になるな・・・
飫肥を出発した後は、国道222号線を日南市街まで戻り、再び国道220号線で日南海岸を北上していきます。
前回来たときは、飫肥から都城に抜けたので、この海岸線の道も初ですね。
これで、日南海岸の海沿いの道は制覇。
しかしこの道、流れはそんなに悪くないんですが、海沿いを縫って走る道特有の進みの悪さがあります。
なんかめっちゃ走ってる感があるんですが、次の目的地になかなか着かない。
そもそも予定では昼に飫肥やってんけどな~
初っ端の志布志で時間を使って以降、悉く予定超過ですわ(笑)
鵜戸神宮やいるか岬、巾着島といったちょっと誘われる地名を過ぎ、次の目的地、紫波洲崎城が見えたのは、もう15時を過ぎていました。
紫波洲崎城は、元々は長井氏の城で、伊東氏が圧力を掛けて奪い、島津氏が伊東氏を滅ぼした後には、その家臣上井薫兼が在城した城です。
ちなみに、薫兼の子は覚兼で、日記を残したことで有名ですね。
地図を見ると解るんですが、城下とすべき後背地がほとんど無く、海の監視する役目の城というのが判り易い。
宮崎平野の南の監視所といったところでしょうか。
城へは車道が通っていて、白浜オートキャンプ場から楽々のアクセスが可能です。
この辺りはバッチリ予習済み。
バイクを駐車場に止め、駐車場にあった縄張図を見ると、この城は峰筋に郭を細長く展開した城というのがよく解りますね。
駐車場から主郭部に入ると、出迎えてくれるのが仏舎利塔。
仏舎利塔は結構痛んでおり、かなり年月を感じさせます。
続いて、主郭の中央部。
ここは郭が細くなっていますね。
仏舎利塔がある部分以外は、全体に細かったです。
城には、主郭や物見台らしき場所を結ぶように遊歩道が整備されており、散策は非常に楽でした。
ただ、居住スペースを確保できる広さがあまり無さそうでしたね。
薫兼は麓に屋敷を持っていたのかもしれません。
また、主郭の次に広かったと思われる西南方向の峰に行く道は無かったですね。
上から覗くと、西南方向は完全に藪化しており、郭に到達するのはとても大変そうだったので、散策は断念しました。
ちなみに、紫波洲崎城から青島や白浜を展望できる場所がいくつかあり、俗にいう鬼の洗濯板の眺めが抜群です。
ちょっと見たことが無いような景色で、自然の造形に感動すること請け合い(^^)
最後に、駐車場のすぐ下から白浜をば。
まさに奇勝!
つづく
参考:
飫肥城
紫波洲崎城
地図付きはこちら
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