2016年5月15日日曜日

東九州縦走 その9

前回のあらすじ
 
朝の内に4城完走。
うむ。満足じゃ。
 
日知屋城を下りて来たのは9:15頃。
まだまだ早い時間ですが、ここから帰路に入ります。
なんたって神戸は遠い!
まずは、日知屋城跡の伊勢ヶ浜公園からすぐ近くの大きな県道15号線に入り、あとは道なりに進行。
すると日向I.C.が見えるので、そのまま高速でビューンと戻り、更に延岡も越えて北へ。
高速で大分まで抜けてしまってもいいんですが、さすがそれは面白くないので、延岡の北の外れの北川I.C.を降り、国道10号線へと入ります。
14年前は、このまま10号線で佐伯に向かいましたが、今回は直線的に北上する為と、前回と違う道を走りたいということで、国道326号線を選びました。
この道、凄く快走路ですね。
走っててとても心地よかった(^^)
交通量も少なくて、ほぼ全線2車線。
2車線快走路の分、Rが浅くて攻める感じはあまりありませんが。
地元ライダーに知られた道なのか、バイクも多く走っていました。
晴れてるけど少し寒いやん!と思いつつ山を越え、豊後大野に入り、犬飼で国道57号線、そのすぐ先で国道10号線に合流します。
この辺りは14年前も走ったはず。
当時は夕闇迫る中で、景色は全然違いましたけど。
この国道10号線の横を流れるのは大野川。
少し走って戸次の辺りに来ると、当時は戸次川と呼ばれていました。
そう、戸次川の合戦の舞台となった川です。
必然的に、戸次川で討死した長宗我部信親の墓や、合戦の端緒となる攻防が行われた鶴賀城が近くにあるわけですな。
今回の目標はその鶴賀城。
これまたアクセスがかなりややこしく、予習必至の城ですわ。
 
城へ行く前に、まずは通り道にある長宗我部信親の墓へ。
川筋を見つつ、国道10号線を北上し、大南大橋先の交差点で右折すると、道は丘陵へと入っていきます。
大きく曲がりながら丘陵を上って行くと、その途中に墓の案内表示が見えてきました。
長宗我部信親が討死した戸次川の合戦は、天正15年(1587)の九州征伐の前哨戦となった戦いで、前年の12月12日に行われています。
ただし、西暦で言えば1587年ではありますが。
動員されたのは四国勢で、長宗我部家と共にその宿敵であった十河家の軍勢も参加していました。
軍監は、四国征伐後に讃岐の領主となっていた仙石秀久。
秀久は、秀吉からは守備に徹して本軍を待てとの命を受けていたようですが、後に鈴鳴り武者と異名を取ったほどの自己主張の激しい男。
持久戦なんてやってられるかとばかりに功に焦ります。
そして、戸次川を見下ろす鶴賀城が攻められた事を知ると、後詰作戦を採りました。
結果論から言うと、後詰作戦は失敗だったわけですが、とは言え、府内の大友館は防御に適した城ではなく、川筋、街道筋の鶴賀城が落とされると防備に重大な懸念が生じるのも確かで、判断の難しい場面でしょうかね。
適当に陣城でも築いて対陣し、島津本隊を釘付けにすれば良かったのかも知れません。
士気は低いとは言え、府内にいる大友軍を合わせれば島津軍と同等以上の兵力は確保できたわけですから。
しかし、血気に逸る秀久は、勢いをつけようと渡航作戦を提案しました。
これに同調したのが十河存保で、反対したのは長宗我部元親・信親父子といわれます。
ただ、諸説あって、存保も同じく反対したという話もあり、実際はどうだったかわかりません。
いずれにしろ、秀久が逸っていたというのは間違いないでしょう。
これを迎え討った島津軍は、得意の釣り野伏という戦法を用いました。
釣り野伏は、陽動伏兵戦術とも言うべきもので、敗走の振りをして誘い込み、伏兵で包囲殲滅するという作戦です。
まぁ、戦史上よくある戦法ではあるんですが、得意ということからわかるように、島津軍は特に連携がうまかったんでしょうね。
釣り野伏でこの戦い以前から数々の大将首を挙げていますが、部隊同士の連携がうまくいかないと、なかなかそこまでの戦果は得られないはずです。
こうして、島津軍の左翼に誘い込まれた先陣の秀久隊には、島津軍の主力と右翼が殺到し、秀久隊は瞬く間に壊滅。
勢いに乗った島津軍は第二陣の長宗我部信親、十河存保隊にも襲い掛かり、両将は奮戦するも、敢え無く討死しました。
第三陣だった長宗我部元親は、前方の友軍が壊滅したことで負け戦を悟り、自慢の嫡子を失った事も知って自刃しようとしたといいます。
それでも家臣に説得され、伊予へと敗走しました。
しかし、嫡子を失った精神的打撃は大きかったようで、この後の長宗我部家には暗い影が漂うようになって行き、関ヶ原の合戦後の改易の遠因となってしまいます。
もっと悲惨だったのが十河家で、存保には千松丸という子がいましたが、遺領相続はされず、やがて病死したことで大名家としては潰れてしまいました。
この病死には、養育していた生駒親正による毒殺の説もあるなど、政治のきな臭い部分が影として残っています。
また、これにより、三好氏の直系は完全に没落しました。
この頃には、三好康長の養子になっていた後の豊臣秀次も三好姓を名乗らなくなっており、一時は三好政権を打ち立てるほど隆盛した三好氏も、すっかり歴史の表舞台から姿を消すこととなります。
一方、真っ先に潰走した秀久はと言うと、敗軍をまとめるという軍監の任務を放棄して小倉城に落ち、更には四国へと帰ってしまいました。
指揮権を預けられた武将としては、失態以外の何者でもありません。
この後、秀久は怒った秀吉によって高野山に追放されていますが、小田原の役では徳川家康の仲介によって参戦し、なんと功を挙げて大名として復活しています。
面白い事に、この大名として復活した地である小諸では、秀久のこの失態はうっすら触れるだけで、基本的には地元発展に貢献した勇将という姿で小冊子などに描かれていました。
吉良上野介なんかもそうですが、地方地方で描かれる武将の姿が違うのは面白いですね。
話が逸れました。
その長宗我部信親の墓。
前回来た時は、すでに陽が落ちた時間でかなり暗かったんですが、今回は真昼間。
写真撮影には最適な時間です。
 
 
傍らには、没落した十河一族の慰霊碑も。
 
 
この一帯には、墓だの慰霊碑だのが密集しており、全体的に鎮魂の空間となっているのはやたら印象的でしたね。
 
墓と慰霊碑を後にし、本当の目的地である鶴賀城へ。
墓の駐車場からそのまま県道を上って行くのですが、この城への入口は、かなり分かり辛いところにあります。
約1km弱ほど走ったところで、側道が分岐するように下る道が出てくるのですが、そこへ入り、未舗装路を道なりにどんどんと進んで行くとひたすら上り道となるので、一抹の不安を抱えながら終着点まで行くと、城の表示が出てきました。
この部分は二ノ丸のすぐ直下のようですね。
県道からの分岐はこんな感じでした。
 
 
ほんま細道やで・・・
鶴賀城は、歴史上は有名な城ですが、城の規模自体はそれほど大きくありません。
ここの城主であった利光氏も、一般に大友支族とされていますが、あくまで伝承の範囲を出るものではなく、戸次川の合戦で初めて名前が出て来る程度の、つまり大友家中でもそれほど重要な勢力を占めていない家でした。
城を散策してみると、全体的にはかなり中世的で、最高部の峰筋上に東から本丸、二ノ丸、三ノ丸と郭を設けていますが、ある程度の居住空間が取れそうなのは本丸だけ。
二ノ丸、三ノ丸は防衛拠点という感じですね。
ただ、土塁や堀切、それと連続する畝状竪堀などの遺構は明確で、土の城としてはかなり良い城でした。
立派な城址碑は、なぜか二ノ丸にあります。
 
 
二ノ丸は楕円形の空間ですが、あまり平坦ではありません。
この城址碑の部分がちょっと盛り上がってるので、櫓台か何かだったのかもしれませんね。
この下には土塁もありました。
ここから東にある三ノ丸は出丸という感じ。
 
 
西へ向かうと、二ノ丸を過ぎて本丸が見えてきます。
堀切や竪堀などの土の城としての遺構は、本丸と二ノ丸の間が一番充実していました。
いつものように写真ではよく判らない感じになってるので、載せませんが・・・
なんか記憶と照合して判るレベル(^^;)
竪堀の写真はほんま難しい。
それらを越え、本丸に入ってみると、本丸は上下段に分かれており、櫓台のような地形もありました。
これは本丸上段。
 
 
この下にも土塁で囲まれた下段があります。
ただ、雑木林状態でしたが・・・
上の写真の先は視界が開けており、本丸から戸次川古戦場を眺める事ができます。
 
 
籠城していた城兵は、固唾を呑んで合戦の成り行きを見守っていたことでしょう。
 
鶴賀城から、例の未舗装の道をしずしずと下り、無事コケずにオンロードに生還。
国道10号線に戻り、県道38号線、国道197号線と斜めにショートカットして佐賀関港へ。
13:00の便に間に合わせるべく走り、なんとか12:20頃に到着しました。
よし、計画通り!!と駐車場へ入ると、
「満車なので次の次の便の枠に止めて下さい」
なぬ?
もう満車??
積み残し???
うそ゛ーん!
フェリーの便はほぼ1時間ごとなんですが、13時だけ手前に2時間空くんですよね・・・
前日に門川周辺まで回れてれば11時の便が狙えたのに・・・
どうせなら転んでもタダでは起きまいと、佐賀関の先端である関崎に寄ってみようとも思いましたが、枠を数えると8台分しかない。
自分は次々便の3台目。
あと5台じゃ、マスツーリングの団体が来たら一発アウトで3便後。
素直にやめときました。
しかし、結構大きな船なのに8台なんやね。
予約もできひんし、今後、九四フェリーはちょっとロングツーリングに組み込むのは怖いな・・・
 
そんなこんなで、佐賀関で手持ち無沙汰に1時間半を過ごし、フェリーで更に1時間。
三崎港に着いたのは15:10でした。
時間的に考えて、佐田岬も寄ってやろうという野望も敢え無く潰え、帰路に就くしかありませんな。
しかし、ハーレー乗りの爆音好きはなんとかならんもんか。
ハーレーの団体と一緒になったけど、フェリーの駐車スペースは半分屋内みたいなもんやから、めちゃめちゃうるさい。
バイクは自己満足のものやからいかようにカスタムしてくれてもいいけど、アレだけはほんま迷惑やわ・・・
逆に車検対応マフラーのほどほどの音でハーレー乗ってる人は、分かる大人って感じで凄く好印象になってますね。
その大人な人は普通に走ってるだけでしょうけど(^^;)
 
三崎港を出ると、ルートは決まっています。
ほっそい半島ですからね。
国道197号線のメロディーラインしかありません。
佐田岬帰りのバイクや車の車列に混じって淡々と八幡浜まで走り、山を越えて大洲、大洲I.C.から松山道です。
途中、松山を過ぎて休憩していると、ライダーの人に「何処に行ってきたん?(神戸弁脳内自動変換)」と話しかけられましたが、最後に「今から神戸まで帰るんですよ」と言うと、「神戸は遠い・・・遠いわ・・・」と遠い目で独りごちながら去っていきました。
わかってる・・・わかってるんすよ・・・
できるならもう泊まりたい。
しかし、仕事は待ってくれぬ。
 
ここから先は、海を渡るのに2ルートあります。
瀬戸大橋経由で帰るか、大鳴門橋と明石海峡大橋経由で帰るか少し迷いましたが、松山道から徳島道はほぼ直線。
最短距離で走れる淡路島経由に決め、あとは順調に距離を消化していきます。
徳島県に入る辺りでどっぷりと暮れましたが、徳島道は結構な交通量でした。
帰る車が多いんでしょうね。
ペースは上がりませんが、淡々と走れて渋滞にもならない。
対面通行ながら、そんなペースです。
こうして徳島から淡路島へ渡り、帰宅・・・では無しに淡路I.C.で出て松帆の郷へ。
前回のツーリングで、温泉締めがどれだけ快適か知ってしまった・・・
もうやめられへん・・・
ツーリングの締めの淡路島牛丼、旨かったっす!
 
1日目:75.8km
2日目:274.9km
3日目:578.3km  合計:928.1km
 
参考:
戸次川古戦場
長宗我部信親墓
鶴賀城
岩屋松帆温泉
地図付きはこちら 大分県兵庫県
 






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