2013年9月25日水曜日

兵庫・ブロガー戦国トリップ 淡路冒険記!? その3

前回のあらすじ

台風に翻弄された私は、その動揺からかブログに載せる料理の写真を撮る前に食してしまうという失態を犯し、失意のまま枕を濡らしつつ眠りに就いたのであった・・・


翌16日(月)の敬老の日。
台風も無事に過ぎ去り、今日は次第に天候が回復してくるとのこと。
ようやくちゃんと城めぐりができますかね

とりあえず、東浦花の湯の外観をパチリ



昨日は雨風で外に出ることすら叶わなかった・・・
少し濁りのあるお湯で、浴感も良かったです(^^)


まず目指すのは喫茶店のモーニング。
昔、泊りがけの仕事で淡路に来たことがあって、その時に食べたモーニングが忘れられません。
パンとコーヒーとサラダ。
メニューはごく普通のモーニング。
でも値段が尋常じゃなかった。
250円!!
えっ?にひゃくごじゅうえん?
思わず聞き返しましたわ(笑)
まだデフレの波が日本を覆う98年の消費税増税の少し前。
淡路って物価安いな!と思ったあの頃。
国道28号線沿いと、ランドマークになる観音様の近くだったという朧気な記憶しかない。
その頃にもうすでに結構年配のご夫婦がやっておられたので、もう廃業しはったんかなぁ
少し走ってみたけど、見つけられませんでした。
というわけで件の観音様の下の喫茶店でモーニングを頂きました



この観音様も色々と曰く付きで、地域の方に迷惑となっている様子。
写真でも十重の塔の屋根が一部飛んでる・・・
天気が良い日には須磨近辺や飛行機からも見えるほどの巨大さで、個人的には淡路のランドマークなんですが、うまく解決の話がまとまることを祈ります。
喫茶店のモーニングは、値段は普通だったけど、ベーコンエッグのソースがテリヤキ風味で美味しかった(^^)
うむ。
良い日になりそうだ。


次に向かったのが、たこせんべいの里。



ここはお土産リクエストにも上がるほどで、結構な人気スポットです。
内部はこんな感じで、各せんべいが試食でき、無料のコーヒーやお茶もあって、買ったその場で食べることができます。



この日は稼動してませんでしたが、平日には工場が稼動する様子も見学できます。



割と開店すぐの時間だったんですが、もうお客さんがたくさん来てました。
買い物に勤しむおばちゃんやお母さんと、コーヒーエリアでぐったりしてるおっちゃんや子供の世話をするお父さん。
ありがちなショッピングの光景がここでも展開されてる(笑)
ここでの戦利品は盛り合わせのこれ。



個別の品ではガーリックマヨネーズとたまねぎせんべい、梅小花がかなり自分好みで美味しかったっす(^^)


次に向かうのは伊弉諾(イザナギ)神宮。



伊弉諾神宮に祀られている伊弉諾尊は、解り易く言えばギリシャ神話でのゼウスで、創造神です。
神を創り、国土を創った伊弉諾尊は、やがてこの淡路の多賀の地に幽宮(カクリノミヤ)を構えて隠退したと古事記や日本書紀に書かれています。
そして、その子、天照大御神が皇室の祖神ということで、天皇家に繋がるわけですな。
伊弉諾神宮は、その幽宮の跡地とされる神陵の上に本殿が建てられています。
古事記や日本書紀といった記紀の記述通りなら2600年以上前、考古学上の史実年代でも1700年は下らないといったところでしょうか。
いや~悠久の時間の流れですな。
天皇家所縁の神宮だけにバーンと菊の紋が目立っとります。

次は、伊弉諾神宮の祭主家の田村氏が本拠地とした郡家城へ。
中世の頃、神社というものは神領という領地を持っておりまして、土地から上がる収入というのがありました。
また、祭祀を行うにも人数が要るわけで、その人数を養うのも神領からの上がりで賄うわけです。
神社によっては、中央権力と繋がりを持つ場合もあり、貴族から土地の寄進を受けたりしました。
その頃の宗教は神仏習合で、神道と仏教が合体してました。
これは実に日本的な融合の考え方です。
今も日本は、外国からの文物を受容してそれまで在ったものと組み合わせ、日本的に変換してしまうクセがありますが、神仏習合もそのような形のひとつだったかと思われます。
まぁ俗に言う魔改造のハシリですかね(笑)
真っ先に出てくるのは、カレー、ラーメン、肉じゃが・・・って食い物ばっかりかい!
仏教の教義自体も、浄土宗や浄土真宗が出る頃には日本独自規格となって魔改造されてしまってますな・・・

神仏習合では、神社には神宮寺というお寺が建立され、神社に祀られた神様には本地仏という仏が設定されていました。
そして今考えると奇妙な、神主ではなく僧侶が神社の祭祀を行い、毎日神様にお経を読み聞かせる、ということが行われていました。
有名な神仏習合の例は春日大社と興福寺ですね。
貴族の中の貴族、藤原氏の氏神が春日大社で、その神宮寺が興福寺です。
この興福寺には僧兵がいたように、全国各地の有名寺社にも僧兵がいました。
つまり武力です。
土地の上がりで武力を養う。
これはもう武家そのものですな。
こうして戦国時代には、全国にそのような神職上がりの武家がありました。
信濃の諏訪氏、九州の宗像氏や阿蘇氏がそうで、この郡家城の主であった田村氏も、伊弉諾神宮の祭主から地域領主に転じた武家です。
もちろん諏訪氏などに比べると、規模は小さいものでしたが。

田村氏の事跡を簡単に追うと、戦国時代の最初期に本格的に武家化し、淡路を統治した細川氏や三好氏に従っていたようです。
そんな田村氏も時流に流され、三好氏の衰退と共に織田信長の圧迫を受け、武田征伐の参陣を断ったことから当主の経春が天正9年(1581)に切腹に追い込まれています。
そして、その子村春と康広も、羽柴秀吉の淡路侵攻に敗れ、滅んだとされています。

郡家城の前説が長くなりましたが、郡家城の実物はこんな感じです。



川の合流地点にある丘。
川の流れがそのまま堀として使える、典型的な築城適地ですね。
しかし、城へと入る道が藪化してて散策できませんでした。
山に向かって右手の川沿いから入る道があるのですが、どうも丘の頂上への道が見当たらない。
明らかに人工的な地形改変が見られるのですが、城があった当時のものか、後の開墾によるものかは判断できませんでした。
もう1本、写真には写ってないですが、左手前の小屋の向こう側の麓部分に小さい橋があり、そこから入れそうだったんですが、そのすぐ前の民家が空き家になっているようで、橋に繋がるあぜ道さえ人の手が入っておらず、草が繁茂してどうしようもない。
突っ込めば何とかなりそうではあったんですが、台風の後で草の下がどれだけぬかるんでるか分からず、藪漕ぎする装備も持ってないので、登城は断念しました・・・


郡家城をあとにして、次は白巣城へと向かいます。
空はもう雲が吹き戻しの風で流れ去って、台風一過の快晴になってきてました。
が、しかし、ここでまさかの再冒険を強いられるとは・・・

白巣城へは、五色町鮎原という集落にある神陽台という住宅団地の南東から山へと入る道が出ています。
住宅団地を抜けた先にはもう城の案内表示が。
助かりますな~
昔は城の近くまで辿り着いても、城へと向かう山道が分からず、1時間ぐらいウロウロした挙句に断念なんてことも多々ありましたが、最近の戦国ブーム、お城ブームで案内表示の類が充実してきてるのは非常にありがたいです。
遠くまで来たのなら、それはもう尚更に。

指示通り山へと入っていくと、鳥獣除けのこんな柵がありました。



これはかなり本格的山城の予感。
しかし、この山道が昨日の台風の影響でエラいことになっている!
あちこちに折れた枝は落ちてるわ、20cmぐらいの落石も転がってるわ、水が流れた跡が砂溜まりになってるわ・・・もう大変ですわ。
その都度、車を降りて枝を谷に投げ捨て、石を道の脇に転がし、亀の子にならないか砂溜まりの深さを確かめ・・・って各駅停車かい!!
車なのに異様に行軍速度が遅いんですわ。
が、この頃はまだ楽観してました。
嵐の後の山道ではよくあること。
苔と濡れ落ち葉が敷き詰められた、転倒の罠だらけの道をバイクで行ったことを思えば、なんてことは無い。
酷道たる国道、険道たる県道をツーリングで走破してきた経験もあるし。
そう思っていました・・・
人間は、悲しいかな過去の体験をよりどころにするものなのです。
そうこうしてるうちに次第に視界が明るくなり、いよいよ山道も終わりかと思われたその時!



・・・。
・・・・・・・。
ぅええええええええェェェェェェ~~~~!!!
もう説明など、要りませんな・・・
心が折れちゃったよ・・・

大変だったのはこの後。
当然こんな山道でUターンなぞできるわけもなく、Uターンができる場所まで数100mも山道をバックする羽目に・・・
「酔える・・・酔えるよ、ララァ」
と、どこぞのニュータイプが言ったか言わずか知りませんが、左右のサイドミラーを頻繁に切り替えながら見つつ山道を数100mバックすると、運転しながらでも酔えるという新事実が発見されました。
ここに謹んで皆様へご注意とご報告を申し上げます。


つづく


参考:
東浦温泉
伊弉諾神宮
郡家城
白巣城

上記地図付きはこちら

0 件のコメント:

コメントを投稿