2013年10月31日木曜日

江戸時代と米 その1

今回は江戸時代の米について、少し思い付いたことを徒然に。


江戸時代の武士というのは、給料が米でした。
大名の家格も米。
米以外では、国持ち大名とか血筋の良い高家なんていう家格もありましたが、加賀100万石と言われたように基本は米。
まだ歴史に無知だった昔は、何万石というのは面積だと思ってたっけ。
小学生か中学生ぐらいの頃は。
しかし、石高というのは収穫高で、要は経済力の指標ですな。
俺んちは年間これだけの米が入ってくるんだぜ!という数字。
今で言う、年商何億円とか何十億円というのが感覚的に近いかもしれません。
なので、「三日月のまるくなるまで南部領」といわれた南部藩が10万石だったりします。
1800万石とも2000万石とも言われる全国の総石高の中で、岩手県程度の大きさがあったのにたった10万石。
さらに北海道松前の松前藩は無高!
石高無しです。
無高で1万石格とか3万石格として大名待遇でした。
北の地は寒冷地で、米の品種改良が進んでいたとは言え、石高ではやっぱり厳しい(^^;)
稲ってのは、もともと中国江南からベトナムにかけての暑い地方が原産やからねぇ

このように江戸時代の武士社会は米が中心、いわば米本位制だったわけです。
そんなわけで江戸時代初期の石高が、その後の身分社会の基準でした。
そしてこれは世襲されるわけです。
各藩はいわば会社で、社長も専務も常務も平社員もみな世襲。
そしてその社員の格が何石とか何俵とかの禄でした。
日本全体で見れば、いわば各藩は江戸幕府HDのグループ会社という感じで、江戸幕府はある程度の指針を示しますが、各会社の経営は各会社の社長や取締役会に完全に任されていました。
あまりに借金が膨らんだ場合や、取締役会のゴタゴタ、一揆を起こされるなど経営がうまく行ってない会社は、親会社の命令で取り潰されたりもしましたがね。
そして、有能、もしくは政治道楽が好きな子会社の社長は、藩主という立場を持ちながら、江戸幕府HDの取締役会に大老や老中などという立場で参画していました。
この辺りは珍しく世襲でない実力部分ですかね。
世襲ばっかりじゃ低位安定はしますが、やっぱり全体の指針を決める根幹部分は実力主義でないと回らないようです。
ぶっちゃけて言えば、大組織の幹部が自分の持つ組の組長でもあるという、ヤクザの組織がもっと近いかも・・・

まぁそんなこんなで石高というのが大事な身分社会だったわけです。
と言っても身分社会が厳密だったかと言えばそうではなく、農家の次男三男が丁稚奉公で商家に入り、商人になるという例もあったし、職人になる例もありました。
幕臣の勝海舟の先祖はもともと農家で、御家人の株を買って幕臣になったという家です。
意外と緩やかなんですな(笑)


なんか米の話が社会制度の話になってしまった(笑)
では改めて米の話は次回に。

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