2015年12月29日火曜日

日韓慰安婦問題合意

師走のこの忙しい時期に、大きなニュースとなりましたね。
来年早々の国会開会を前に、外交的問題を片付けておくという面もあるんでしょう。
ま、日本の立場で言えば、法的には日韓基本条約と日韓請求権協定で解決している話ですし、人道的にもアジア女性基金で対処してきた話で、本質的には韓国国内の問題なんですがね。
なので、拠出するお金はクレーマーに追い銭をあげるような印象はありますが、不可逆的な解決の為には必要な迷惑料だったのかもしれません。
ただ、日本の法的責任は解決済みであることは譲ってませんし、それを世界に発信していく必要もあるかと思われます。
法的責任は50年も前に解決してるが今回は人道的見地からより厚く支援した、となれば、日本の評価にも繋がりますし。

今回の支援は、前回のアジア女性基金と違い、運営主体が韓国であることもポイントですね。
金は出すけど、後々のクレームは運営してる韓国に言ってね、という意図が見えます。
それプラス、アメリカが合意の裏書的な立場にある事。
合意文書の作成は、3月にアメリカで、と伝えられています。
文書なし質問なしの共同会見というのがかなり異例で、それだけ両国の世論を睨みながらという所なんでしょうけど、アメリカの仲介と後押しもあったんでしょう。
対中国に本腰を入れ始めたアメリカにとっては、中国の隣国たる2つの同盟国が対立していることは、戦略的に非常にまずい状況ですし。
ただ、日本にとってもこのアメリカ仲介というのは大事な要素で、前回は2国間の協定であった為にちゃぶ台返しも可能でしたが、次にこれを覆すと、アメリカの顔に泥を塗ることになる。
日本には何をしても許されるというような空気を持つ韓国にとっては、これは大きな足枷になるでしょう。
また、韓国側が自ら不可逆的、最終的という言葉を使ってますから、「前の時はこう言うたやん」という主張を世界に向けて発信できます。
言わば保険ですな。
日本国内にややヒステリックな反応があり、個人的にも非常に共感や理解もできるのですが、それは「どうせまたクレームを付けてくる」という韓国の信用の無さも大きいかと思われます。
そういう意味では、保険は説明材料になるでしょうね。

もう戦後70年です。
当時の現役世代だった人も少なくなり、更に社会で主導的立場だったはずの30代以上の人は、もうほとんどいません。
上の世代が起こした問題は、すでに50年前には法的に片付いますし、今回の合意でより過去のものにするべきですね。
今の世代は政策決定には関係無かったわけですから、過去を反省するのではなく教訓とし、前を向かなくてはなりません。
 

2015年12月28日月曜日

伊勢湾周遊 その7

前回のあらすじ
 
夕闇迫りつつも、無事予定を完了!
うむ上出来じゃ。
 
今回の宿泊地は、半田市の駅前のビジネスホテル。
この辺りは臨海部だけあって、ビジネス需要が多いみたいですね。
ただ、ビジネスホテルの数は充実してても、大浴場を備えている所が少ない。
バイクで膝を曲げてる時間が多いし、山も歩くしで、
足伸ばしてぐったりしたいんや~
というのがおっさんには切実な願いなんです!
いつも、ここまで行きたいという所とここまでは確実に回れるだろうという所の間ぐらいに宿を取って、確実に回れるところがもし行けなくても次の日にカバーできるようにしてるんですが、今回はこの辺りで取りたいという地域で大浴場を加味すると、ほぼ一択。
もっさいおっさん単独で泊まるにはちょっと小洒落た感じのホテルかなとも思ってたんですが、着いてみると、大量の中国人が食堂に溢れて騒がしかったので、心配は杞憂に終わりました(笑)
しかし、中国の人ってエレベーターでも平気で喋るんですね。
しかも、乗ってる人同士が大声で会話してた時はそんなもんやろと思いましたが、エレベーターで携帯のハンズフリーで話してる時は、さすがに、えっ!?ここで?と思いましたわ。
会話丸聞こえやん。
ま、中国語分からんけどね。
恐るべし、中国人!
 
週末のせいなのか、ホテルの駐車場は満車で、バイクはフロントに許可を貰ってホテルの前に止めたんですが、荷下ろし作業中に、ボボボ・・・という、「らしい」音でフェラーリがホテルのエントランス前に止まりました。
おーフェラーリやん!と思いつつ、荷下ろしを続けていると、ドライバーが車を降りて何故かこちらに。
恐らく、駐車場が一杯で代替の駐車場を聞きに来た宿泊者だと思うんですが、
「長距離だとそういうバイクがやっぱり楽ですか?」
と聞かれました。
すでに神戸ナンバーを確認されとるな、と思いつつ、
「やー楽ですねー」
と答えると、
「やっぱりそうですかー。私もねドゥカティに乗ってるんですけど、故障しちゃって、車で来たんですよねー」
と言わはりました。
いや、それは聞いてへんけど。
「そうなんですかー。ドゥカティも故障が多いって聞きますもんね。」
「そうなんですよー・・・」
流れる微妙な空気・・・
え?何?イタ車好きですね、とでも喰いつけばよかったん?
文章で書くとそうでもないですが、結構食いついて来いよオーラが出てる喋り方だったんで、ちょっとしんどい。
旅の話ならもっと喰いつくんやけどねぇ
フェラーリもドゥカティも高いから凄いとは思うんですが、興味が無いんですよねぇ
特に海外製バイクは、長距離を乗る人間からすると、出先で止まる確率的に食指が動かない。
国産でも止まる時は止まるけど、まだ対応ショップ数的に修理できる可能性が高いですし。
ツーリングが使用のほとんどですから、その大きな荷物を抱えて電車で帰るという空しさだけは避けたいんです。
そんなこんなで、ドライバーはホテルに入っていきました。
微妙な空気を残して・・・
しかし、今思い出すと、ドライバーが話してたのは標準語的イントネーションだったはずなのに、再生は関西弁になってる。
かつて東北を放浪していた時、石巻の交番で道を教えてもらった婦警さんは一生懸命かわいい東北弁で教えてくれたけど、それも今再生するとなぜか関西弁。
これは何という現象なんでしょうか?
それぞれの人のイメージだけ残ってて、言葉は勝手に翻訳されている・・・
人の記憶ってのは勝手に書き換わるもんなんですねぇ
 
チェックイン後、待望の大浴場に入り、コンビニへ朝飯の買い出しへ。
明日の朝は雨ということなので、大目のブランチにしてギリギリまでチェックインを遅くし、昼飯無しで走る作戦です。
おにぎり、サンドイッチ、豚汁等々。
コンビニで1000円オーバーは買い過ぎな気もしますが、2食分やし、と我が腹を見ないことにする。
どうせ朝も遅いと、日付が変わるまでダラダラとテレビを見て、寝る前に天気予報を確認すると、テレビは朝が雨でのち曇り、Yahoo天気も同じ、スマホにバンドルされてたAccuWeatherという使った事ない予測サイトは朝一時曇りのみ。
ほう。
雨じゃないという予報もあるのか。
おやすみ。
そして、朝。
ふと7時半頃に目が醒めて外を確認すると、
晴れ・・・とる・・・
ええぇぇぇぇー
曇りですらなくて、晴れてますやん!
そこからは、慌しいこと。
朝風呂は譲れないので、寝ぼけ眼そのまま朝風呂を頂き、1000円分の朝飯を掻き込み、知多半島のみだった予定ルートを早急に西三河を含むルートへ変更。
出発は8:30を過ぎてました。
AccuWeather、次からお前を信じるぜ!
 
ホテルを出て、最初に寄ったのは東端城。
衣浦大橋を渡って県道46号線を辿っていけば、すぐ近くまで迷う事無く行けました。
この城の築城年代には、松平氏が大浜を掌握していた文亀3年(1503)の頃と天正8年(1580)の2つの説がありますが、戦国時代末期には長田尚勝がおり、後に小牧長久手の合戦で池田恒興を討つという大功を挙げた弟の永井直勝の城となっています。
直勝は永井に改姓したことで永井氏の祖となり、子孫は藩主として維新まで続きました。
城自体は、家康の関東転封時にどうだったか諸説があるものの、直勝が大坂の陣の功で元和2年(1616)に上野国小幡で大名に列するまで存続したようです。
現在の城跡は、城山稲荷の境内となっていますが、細かい所を見ていくと、遺構が所々に残っていました。
まずは城山稲荷社の前景。
やたらと駐車場が広かったです。
 
 
次は、北隣の念空寺との間。
念空寺の敷地も城域だった微高地で、間の掘り込みは確実に空堀跡ですな。
 
 
この写真で見ると分かりますが、城があるのは比高数mの微高地です。
標高だと10m弱といったところでしょうか。
周囲の現況が割と平坦なだけに、現地では防御面で不安がある城のように感じましたが、すぐ南の油ヶ淵は当時は北浦という海の入江で、干拓も進んでおらず、もっと城に近い所に海岸線がありました。
地図を見ると判り易いですね。
下の地図の中央一番上の城跡の両サイドに細流がありますが、当時は堀の代わりの汽水域だったかと思われます。
地図の南側は規則正しく造られた干拓地で、当時の北浦。
今の現地からは想像しにくいですが、海とは密接な城だったんですね。
大浜の代官だった長田氏が城主だったのも、海経由での接続が良かったからでしょう。
 
 
城山稲荷社の隣には農地があり、そこには浅くなった空堀と低い土塁も確認できました。
 

 
痕跡が残っている城は、当時の姿を想像しながら散策するのが楽しいですね(^^)
 
つづく
 
東端城
地図付きはこちら
 

2015年12月21日月曜日

伊勢湾周遊 その6

前回のあらすじ

吉田城は都市型のいいお城跡。
明石城に通じるものがあった。
三河湾スカイラインは勿体無し!
 
三河湾スカイラインを抜ける頃、陽は完全に夕日の状態に。
ぼちぼち、今日はもう城は巡り納めか・・・なんて思いつつ、坂野峠から東へ真っ直ぐ向かい、上ノ郷城へ。
まだこの明るさなら行ける!

上ノ郷城は、鵜殿氏の居城でした。
鵜殿と言えば、日本一面積の小さい村というので、和歌山県の鵜殿村が有名でしたが、今は市町村合併で残念ながら無くなっています。
日本一小さい村というでっかい看板があったのは、今でも覚えていますね。
ああいう日本一の○○というのは、なぜかそそるものがありますな(笑)
それは置くとして、その鵜殿村を本貫とする鵜殿氏は、もともとは熊野別当の家系という伝承がある豪族ですが、三河国には熊野大社の神領や荘園がいくつかあったようで、家系云々はともかく、その現地管理者から出発したのでしょう。
三河湾と伊勢湾、熊野の地理的な近さというものを感じますね。
熊野の辺りは険阻ですが、陸路ではなく海路であれば、伊勢湾に入ってしまうと交通はかなり容易で、人的物的交流も盛んだったようです。
いつ頃にこの地に来たのかは不明ですが、南北朝時代には豪族として頭角を現し、戦国時代には三河に進出した今川家に従って重用されました。
当主が長持の時には、あの今川義元の妹婿となっていますが、これは東三河の今川与党として重要視された結果でしょう。
ちなみに、某歴史シミュレーションゲームのN長のY望にも、今川家臣として登場してきます。
あのゲームに登場するということは、かなり重臣と言えるでしょうな。
七条兼仲みたいに、事跡がはっきりしないローカル武将なのにポンっと出る場合もありますがね(笑)
話を鵜殿氏に戻すと、今川家の姻戚となった長持の子長照も同様に重用され、というか、つまりは義元の甥なのでそれは当然の事なんですが、三河においての活動が史料に見えます。
また、後の桶狭間の合戦直前には、今川家にとって対織田戦線の最重要拠点である大高城将でもありました。
後の家康である松平元康が、兵糧運び入れで賞されたのもこの時。
しかし、皮肉にも、大高城で出迎えた長照と、運び入れた若き日の家康は、直後の義元の討死によって、やがて激突する運命となります。
戦後、今川家から独立を志した家康と、親族の立場から今川家に留まった長照。
やがて、岡崎城を拠点に自立した家康は、西三河を席巻し、今川家の勢力圏にあった東三河へと侵攻します。
この上ノ郷城もその矢面に立ち、長照が迎え討ちますが、その頃は今川家の後ろ盾も弱く、上ノ郷城は落城し、長照は討たれました。

その上ノ郷城は、三河湾スカイラインの描く弧の中心辺りにあります。
蒲郡駅から真北、赤日子神社に駐車スペースがあるのですが、周辺は農村特有の道の細さで、大きな車では行きにくいかもしれません。
その駐車スペースには、案内図がありました。

 
そこから狭い道を歩くと、堀跡といわれる熊ヶ池があります。

 
更に、そこから北へ進んだ所が主郭部。
この熊ヶ池から主郭部の間には、居館があったともいわれています。
主郭部へ足を踏み入れると、まず目に入ってくるのが大きな土塁と空堀で、その土塁上に城址碑がありました。
下の写真中央部にある木の幹のような真っ直ぐのものが城址碑です。
土塁と空堀がはっきりしているのもいいですね(^^)

 
城址碑のある場所から堀を越えて一段上の場所に本丸があります。
その本丸の入口には腰郭のような4m四方程度の郭があり、かつては大手門があったんでしょうか、左手に石垣も見えますね。

 
最後は本丸。
2段構成になっていたことがよく判ります。

 
最後、と書いたけどもう1枚、こっちの方が土塁と空堀のコントラストがはっきりしてていいかな?

 
現地の縄張図を見ると、空堀ではなく郭跡だった可能性もあるようです。
ただ、建物跡なのか掘り込まれていたのか、発掘してみないと分からないんでしょうね。
 
上ノ郷城の後は、もう1城寄る予定だったんですが、出発する頃には陽が落ちてしまってました。
やばい・・・
急いで蒲郡西I.C.付近に戻って県道を南下し、国道247号線へ。
おぉこんな所にボートレース場が!なんて思いつつ、左折して臨海部へ走り、形原漁港へと到着。
この漁港の南の山が形原城です。
まだ明るさが残ってた!
現在の形原城は、古城稲荷の境内地となっていますが、それは城跡のごく一部に過ぎないようです。
実際、残っている部分は、城としてはかなり狭いですしね。
地図を見ると、稲荷社の辺りが東古城ですが、その北西に北古城、南西に南古城という地名が残っており、これらも城域だったと思われます。
更に南西の馬場も、城内と言うには遠いですが、外郭だったのかもしれませんね。
とりあえず、
この辺、東西南北多いな!
というのが地図を見た印象ですが(笑)
ざっと見ただけで、古城、稲生、戸甫井、馬場、馬相、上野、上松、根崎、御屋敷、名田、欠ノ上、湿見、中畑、鞍掛・・・
これらに東西だったり南北だったりが付いています。
そんなに細分化せんでもよかろう、と思うぐらい。
これも地域の特色なんでしょうね。
話を形原城に戻すと、この城は、十八松平のひとつとして江戸時代の大名として生き残った形原松平氏発祥の地。
形原松平氏と言えば、高槻藩、丹波篠山藩、丹波亀山藩といったように関西で藩主を務めており、意外と自分にとっても近しく感じる家だったりします。
大元を辿れば、松平氏3代信光の子与副から始まっており、割と古い時代に分かれた松平一門ですね。
ちなみに、この松平氏を調べて行くと面白いのですが、2代ごとに英主が出ています。
初代親氏が、土豪である松平氏の養子となって源姓松平氏の歴史が始まるわけですが、流浪の身分であった親氏に松平信重が松平郷を譲ろうと思えるぐらいですので、ひとかどの人物だったのでしょう。
親氏の子親泰は、親氏を手伝った事や岩津進出を果たしたことから、ぼちぼち活躍したと思われます。
ま、この初代と2代は存在が疑われてたりもするので、どちらもはっきりしていないと言えばはっきりしていないんですがね。
次が、上にも出てきた3代目の信光で、親氏の子という説もあるのですが、この信光の時代に大きく松平氏が発展しました。
松平郷は兄信広が継いでいることから、信光自体は分家だったと思われるんですが、岩津を継ぎ、やがて平野部の安祥にまで勢力を拡げています。
これが分家発展の1回目。
信光の跡を継いだのは親忠だったのですが、この人もぼちぼちの活躍をしたようですね。
ただ、惣領は信光の長男に譲られたと三河物語には記されており、分家だったと思われます。
これが正しければ、分家発展の2回目ですな。
この親忠の子が5代の長親で、この人物は今川軍を率いた北条早雲と戦って撃退するなど、やはり英主でした。
彼は三男だったのですが、兄達は在京していた、つまり惣領の役割は兄達が担っていたようで、地元の有力者として力を蓄えたのでしょう。
分家発展3回目。
しかし、この長親の子信忠は暗愚で、家臣から、頼むから隠退して!と言われるほど。
その為、信忠の隠退で7代目の清康が登場してきます。
松平清康と言えば、知る人ぞ知る三河の英雄。
13歳にして家督を継ぎ、岡崎へ進出して西三河を平らげ、更には東三河にも侵攻して僅か6年にして三河統一を成し遂げました。
そして、尾張にも進出し、織田信秀の弟信光の守山城を攻めたのですが、その最中、家臣に斬られてしまいます。
享年25。
これが森山崩れです。
ここで死ななければ、数ヶ国の主になったかもしれないというほどの武将でした。
非常に惜しい。
この後、松平家は苦難の時を迎えます。
清康の子広忠はまだ幼く、叔父信定が岡崎城を押領し、広忠は流浪の挙句に今川義元の後ろ盾を得て復帰しますが、後の家康である嫡男竹千代を人質に取られ、やがて自分も家臣に討たれてしまいました。
この人が8代目。
そして、9代目の家康の登場となるのです。
簡単に整理すると、

・初代親氏-流浪の身から松平郷を譲られる。
・2代親泰-初代のお手伝い。岩津進出。
       ~ 伝説の境目 ~
・3代信光-惣領は松平郷松平氏の信広。岩津松平氏。念願の平野部安祥へ進出して戦国大名の礎を築く。
・4代親忠-惣領は長兄?安祥松平家として惣領名代か。
・5代長親-戦国大名化。三男の分家ながら実力的惣領。北条早雲と対決し撃退。
・6代信忠-ボンクラさん。さっさと隠退させられる。
・7代清康-三河統一の英雄。遠征中に凶刃に斃れる。
・8代広忠-岡崎を追われ流浪。後に復活するも今川配下。
・9代家康-江戸幕府創設。

こんな感じですか。
1代目は伝承に近いので何とも言えませんが、2代ごとの3・5・7・9代目はガッツリ英主ですね。
そして、江戸時幕府創設後も、3代家光、5綱吉が目立つ存在となっています。
こちらは功罪共に深しといった感じですが・・・
それと、本宗家筋の松平郷松平氏から見ると、家康は分家の分家の分家にあたるんですが、ここは織田家と相通じるものがありますな。
織田家も、本家筋たる岩倉織田家の分家の清須織田家の更に分家の清須三奉行の家ですしね。
その岩倉織田家も、越前の総本家から分かれて尾張に来たっぽいので、嫡流から見た信長は、分家の分家の分家ということになるわけです。
長子相続が建前の武士の世ですが、世が乱れると、実力のある分家がのし上がってくるということがよく解りますな。

話が恐ろしいほど逸れましたが、現在の形原城は、古城という趣はあるものの、城跡として残っているのは非常に小さい範囲にとどまっています。
城跡の全景はこんな感じで、比高は10mほど。
この場所が既に10mほど上った場所なので、海からは20mほどの高さでしょうか。

 
2段の削平地が残っており、下段は広場、上段には社殿があります。

 
その一角に城址碑。

 
遺構と呼べる物は少ないですが、古城の趣はある城でした。
とりあえずは、ここまで明るさが残ってて良かった(^^)
午前4城、午後4城の予定は無事終了。
天気も崩れなくて何よりですわ。
明日は朝から雨の予定やし、ホテルでゆっくりやねぇ
 
つづく
 
参考:
上ノ郷城
形原城
地図付きはこちら
 

2015年12月14日月曜日

伊勢湾周遊 その5

前回のあらすじ

フェリーで昼寝、最高!
 
田原城からは、この辺りは昔は海やったんやろな~と景色を見つつ汐川を渡り、国道259号線へ。
このまま国道を進んで行けば、自動的に次の目的地、三河吉田こと豊橋の市街へと行けます。
国道やと渋滞したりするんかな~なんて思ってましたが、高師緑地辺りの合流で少し渋滞してた以外は、想定よりも車は流れていました。
土地勘が無いので主要国道を行かないというのは難しいですし、渋滞があまり無いというのはありがたいですね。
三河吉田城があるのは、国道259号線が国道1号線と交わる交差点のすぐ東。
久しぶりに見た路面電車に、乗って見たいなとちょっと誘われつつ、国道1号線から適当に左折して城跡の駐車場へ。
休日だからなのか、駐車場はほぼ満車でした。
なかなか市民の憩いの場として活用されているようですね。

三河吉田城は、永正2年(1505)に牧野成時ら今川配下の三河国人衆によって築かれた城とされ、当時は今橋城と呼ばれたようです。
築城後まもなく、城は争奪の的になるのですが、出てくるのが戸田氏、松平氏、今川氏。
宝飯郡まで進出してきた松平氏と、渥美郡に本拠を置く戸田氏、三河を領国化したい今川氏の、ちょうど間にある城でした。
戸田氏、牧野氏なんかがそうですが、この辺りの歴史を辿ると江戸時代の徳川大名が多く登場してて面白いですね。
後に大名となった譜代の家でも、戦国時代はちゃんと国人土豪として面従腹背の行動をしていたりします。
忠誠を賞された三河武士といっても、他の地方と変わりない。
ま、それは置くとして、松平清康が猛烈な勢いで東三河に進出してきた頃に吉田城も攻略され、清康に属した牧田成敏が入り、松平家の支配下に置かれました。
天文4年(1535)の清康の横死後は、しばらくして戸田氏が奪い、同15年(1546)には更に今川氏が奪って三河経営の拠点としています。
更に、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦後は、家康の今川家からの独立によって今川方の最前線となり、同8年(1565)に家康が攻略して酒井忠次を置きました。
当時は、西三河の石川数正と、この東三河の酒井忠次が、松平軍の旗頭であったわけです。
今で言えば、東西の地区司令官といったところでしょうか。
吉田城がどれだけ重要視されていたかが解りますね。
以降、徳川氏の領地である期間が続くのですが、家康の関東入封によって池田輝政が城主となり、近世城に改修されて現在の形となりました。

吉田城のテニスコート横の駐車場にバイクを止めると、ここが既にもう惣堀の内側なんですが、そこから徒歩で中心部へ向かえば、三ノ丸、金柑丸と空堀で区切った郭がすぐ登場してきます。
金柑丸の虎口の土塁は綺麗な形で残っていますね。

 
下の金柑丸は細長い郭なんですが、この辺りが戦国時代の本丸であったと言われています。
地図を見ると、ちょうど豊川と朝倉川の合流点。
当時は、より川筋に防御力を依存した形だったのでしょう。

 
そこから少し西に行けば、近世の本丸です。
右奥に見えるのが、天守の代わりをしていたという復興鉄櫓。
中は資料館になっているそうですが、この日は開いてませんでした。
ん~残念。

 
本丸から川沿いへも通路があります。
吉田城は豊川を背面に背負っていますが、本丸からこうやって川面が見られるというのもいいものですね(^^)

 
通路を下りると眼前に豊川が。
戦時は防御の要の川ですが、江戸時代は川の風情を愉しんだことでしょう。 
川岸には川手櫓という櫓もありました。
ここがその川手櫓跡です。

 
豊川の奥側に見えてる橋は豊橋?と思ったんですが、地図を確認するとこれは吉田大橋。
地名の元となった豊橋はその向こう側でした。
本丸へ戻って二ノ丸へと足を向けると、大手虎口があります。
この石垣の上に千貫櫓があり、二ノ丸側に冠木門があったようですね。

 
野面の石垣がいいですな(^^)
吉田城の石垣は、基本は本丸のみで、それ以外は土留めなどの要部のみです。
ただ、この大手虎口の辺りや川沿いは隅部が算木積になっていたりするんですが、北の棗御門の辺りは算木すら曖昧なより古い時代の野面積で、同じ本丸石垣でも時代の差が見受けられました。
川沿いなんかは大水などの影響もあったのか、補修があったんでしょうね。
ここから、更に進むと二ノ丸が公園化されていますが、二ノ丸外側の中堀は無くなっており、平凡な公園という印象です。
二ノ丸の隅櫓だった着到櫓跡がありました。

 
隅櫓ということは、この撮影している場所あたりに堀があったことになります。
流石に今の景色からは、ちょっとイメージが難しいな(^^;)
でも、街中にある城でこれだけ遺構が残っていれば、かなり満足ですわ。
 
吉田城の次の目標は、三河湾スカイライン。
吉田城を出て西へ向かい、国道23号線へ。
そして、豊川を渡らず直進して国道23号線バイパスに入り、再び国道23号線へ、と思ったらバイパス降り口過ぎてた(笑)
やっちまった。
止むを得ず小坂井御津I.C.で降りて、よく分からないまま県道を西へ。
なんか抜け道の需要があるらしく、数台の車列の流れに身を任せて進むと三叉路が出てきたので、南へ折れると国道23号線に復帰できました。
めでたしめでたし。
土地勘が無いだけに、流れがあるというのは助かりますわ。
そのまましばらく西進し、西日を浴びる中、渋滞を抜けて国道247号線へ入り、国坂峠方向へ。
この峠付近から、いよいよ三河湾スカイラインへ突入です。
三河湾スカイラインは、元々は観光開発の為の観光道路として開通したらしいですが、今では遠望峰周辺に施設が少し残っている程度のようですな。
道自体も、今では県道化されています。
そのせいなのか、草木がはみ出し放題で、車線端側1m程度がほぼ使えませんでした。
コーナー途中で草の束に当たるとか怖いしな~
地図上のウネウネしたルートから想像したのとは、ちょっと違いましたわ。
コーナー攻めて、途中で木々の合間から三河湾が・・・なんて想像してたんやけど(^^;)
なんか勿体無いねぇ
 
つづく
 
参考:
吉田城
三河湾スカイライン
地図付きはこちら
 

2015年12月7日月曜日

伊勢湾周遊 その4

前回のあらすじ

なぜか鳥羽城で階段ダッシュ。
20年ぶりの部活・・・
 
出発に無事間に合い、船に乗り込んでみると、廃止云々の話題がちょくちょく出ている伊勢湾フェリーですが、この日は混むとまでは言えないものの、そこそこの入りでした。
やっぱりフェリーは平日の稼働率なんでしょうね。
高速道路が整備されてフェリーを有効利用できる地域が狭まったことと、原油高が主な原因でしょうか。
原油は今は安いですが。
伊勢志摩地域の過疎化や、観光地としての衰退なんかもありそうですね。
土曜日というのに、鳥羽水族館周辺もそれほど人は多くなく、鳥羽城への往復ダッシュの際も歩道にほとんど人はいませんでしたから。
小学校は鳥羽に修学旅行に来たんやけどな~
時代の流れを感じますわ(> <)

さて、フェリー内はと言うと、中国本土か台湾かは分かりませんが、中国語を話す人が75%、日本の観光客が10%、釣り人が15%というところだったでしょうか。
中国語を話す人達は甲板船室問わず写真撮りまくり、日本人観光客の人は座席か甲板でまったり、釣り人は来るべき本番の釣りに備えて仮眠といった感じで、色がはっきり分かれてました。
自分は釣りの人達に近い立場なんで、菓子パンで昼飯を摂った後に就寝。
到着のアナウンスまで目が覚めないという爆睡をかましました(笑)
だって朝早かったんやもん。
そら眠いっすわ。
でもこの1時間近くの仮眠はいいですね。
いつもは昼を過ぎると散漫になってダレる時間があるんですが、この日は昼からも元気でした(^^)
うむ。
これは使える!
 
伊良湖港に到着後、まずは伊良湖岬へ。
港を出てすぐ右折というのは事前に調べて知ってたんですが、「すぐ」がすぐ過ぎた・・・
港の出口とほぼ同じ交差点ですやん。
華麗に直進してしまいましたわ。
でも東方向の国道42号線って海沿いでUターンできる所が無いんですよね。
結局、伊良湖ビューホテルのところまで行ってターンしました。
伊良湖岬は、遊歩道が整備されていて良い感じです。
参観灯台ではないので外から見るだけですが、神島なども見えて曇天ながら風景に趣がありました。
下は恋路ヶ浜。
 
遠くに見える建物は、Uターンをかました伊良湖ビューホテルですな。
意外と遠くまで走らされたんやな・・・
恋路ヶ浜には、身分違いの恋に落ちた二人が都を追放されてこの場所で暮らしたという伝説があり、恋愛の聖地になっているようです。
でも、結構家族連れも多かったですね。
こちらは灯台からの風景。

 
写真左の手すりが灯台で、右手に見える船は、乗ってきた伊勢湾フェリーです。
天気が良ければ言う事無かったんですがねぇ
残念!
 
散策をそこそこに、今回は渥美半島の西岸を北東へ。
南岸をズドンと走るのは、また静岡に行くときの楽しみにとっておこう。
ちょっとだけ走ってもたけどな(笑)
渥美を半島を北東に向かうと、最初の街らしい街は田原です。
田原は城下町で、田原城と言えば、幼い徳川家康を今川家へ送らず、織田家へ送った戸田康光の城というのが一番有名かもしれません。
戸田氏は、三河湾から知多半島の一部まで支配した、海に重きを置く大名で、田原城も直下に海が入り込む城であったようです。
しかし、実際に訪れてみると、近世以降の干拓で全く海は見えませんでした。
海際の城にはよくあることですがね。
城の北側の駐車場から城に入ったんですが、その入口にあたる部分が、一番古城の趣がありました。

 
石垣の組み合わせや、古井戸なんかもあって、雰囲気が良いですね。
この右手が二ノ丸で、階段を上って左側に本丸、右斜め方向に三ノ丸があります。
まず、本丸にある巴神社。

 
この神社はすごく綺麗に整えられいて、城跡というのを忘れそうになるほど。
と言っても、縁辺部なんかを細かく見て回ると、本丸の切岸なんかも確認できます。
神社の名前は、巴城や巴江城とも呼ばれた城の別名から来ていますが、その由来は、巴型に海が湾入していたからとのこと。
今の姿からは想像できませんが、特徴のある地形の裏付けでもありますね。
この本丸の西側にあった二ノ丸は、今は博物館の敷地となっています。


白亜の櫓や倉庫風で雰囲気を壊さないように配慮されていますが、建設の際には遺構の破壊があったらしく、やや議論があったようですね。
なかなか城跡の利用というのも難しい。
この二ノ丸から南へ進むと大手門があります。

 
ここはなかなか雰囲気がよろしい(^^)
そして、丘陵ながら水堀も備えてました。

 
ここまでが主郭部ですね。
この西の華山会館にも出曲輪という郭があり、本丸の東側にもいくつかの腰曲輪がありましたが、そちらは住宅地になっているようです。
全体的には、こじんまりと纏まった良い城でした(^^)
 
つづく
 
参考:
伊良湖岬
田原城
地図付きはこちら
 

2015年11月30日月曜日

伊勢湾周遊 その3

前回のあらすじ

最近、上野樹里をあまり見ないのは大河の低視聴率のせいなんかな?
でも応援してるぞー!
 
草野球の集まりの人達がBBQの下準備をしてるのを、ええなぁと羨みつつ青少年公園を後にし、次は鳥羽方向へと向かいます。
来た道を戻って国道23号線のバイパスへ出て津市に入り、津I.C.から伊勢道へ。
津I.C.は松阪へツーリングに来た時も使った所で、なんだか景色が懐かしかった。
今回は、その時に近いけど行く時間が無かった田丸城へ。
地図をよく見ると、勢和多気で伊勢道から分かれている紀勢道が、知らない間に尾鷲まで通じてて、行き易くなっているようですね。
丸1日掛けて、和歌山から国道42号線で延々と走ったのを思い出します。
その内に、三重と和歌山の海沿いが全部高速で繋がる日も来るんでしょう。
採算性はともかくとして、利便性と所要時間は格段に変わるのは間違いありません。
繋がったら、また来なくては。

そうこう物思いをしながら、意外と交通量の多い伊勢道をしばらく走り、玉城I.C.に到着。
ここからちょっと北上すれば、すぐに田丸城です。
とても行き易くてよろしい(^^)
田丸城は、南北朝時代に南朝の拠点として築かれた城で、その初期に南北での攻防が見られ、室町時代は北畠氏の伊勢門前町に対する拠点的機能を担っていたようです。
ただ、史料に登場する回数が多くなく、事跡は推測の部分が多いみたいですね。
戦国時代に入ると、信長の子で北畠氏に入嗣した信雄が北畠氏の影響排除を狙って一時拠点とし、この頃に石垣が整備されました。
しかし、それも5年ほどで火災に見舞われてしまい、以後は捨て城同然だったようです。
その後、豊臣政権期には蒲生氏郷の属城となって、北畠氏時代にこの田丸城主だった田丸直昌が城に戻り、江戸時代には稲葉氏、藤堂氏の属城、そして徳川家紀州藩成立後はその附家老久野氏が城主となりました。
城の御殿部分は、今は中学校になっているんですが、城に行ってみると、まず目に付いたのが俳句。
いや、川柳かな?
「さわやかな 部活の声や 三の丸」

 
縄張図に御殿が三ノ丸とは無かったんですが、地元の一般認識として三ノ丸なんでしょうね。
城跡の学校とか羨ましい・・・
この校門からすぐの所が城の入口で、主郭部が石垣で築かれ、あとの部分は土の城です。
これがなかなか重厚な石垣で、見応えがありますな。
まずは大手虎口付近の石垣。

 
非常に重厚でよろしいですな。
野面積で尚よろし。
この虎口付近から北ノ丸の石垣の姿もメリハリがあってなかなかの雰囲気。

 
北ノ丸の一部の石垣は、公園として整備した際に積み直したようですが、年月が経っているので、新しい部分と古い部分の区別はあまり見られません。
北ノ丸には、現在は稲荷社が祀られています。

 
北ノ丸から戻って本丸。
奥にあるのが天守台の石垣です。

 
この天守台、穴倉式なんですが、エントランスの階段が扇形で、とても特徴的。
ちょっと優雅な感じがしますね。
手前の階段部分がそうなんですが、穴倉式と両方入るように欲張った写真なので、あまり判らないか・・・

 
この天守台からの景色。
晴れてたら爽快なんでしょうけど・・・

 
反対側の本丸の南側に行くと、二ノ丸があり、その虎口は近世城郭らしく非常に立派でした。
それと、二ノ丸と北ノ丸には土塁がよく残っていましたね。
本丸は城壁が囲っていたのか、土塁は無かったようですが。

 
この日は中学校で陸上の競技会か何かがあったのか、二ノ丸には中学校のグラウンドを覗いてる夫婦の方が何組か。
静かな城跡の公園ですし、のんびり散歩がてら子供の様子を見に来られたんですかね。
穏やかな休日の風景でした。
田丸城の主郭部の東側は、帯郭というにはやや幅の広い細長い郭が2段あるんですが、下の段は北ノ丸の下の部分がなかなか見応えがありましたね。
大きな防御施設として、かなり大きな食い違い土塁があります。

 
近世城郭に改修された城で、こんな大きな食い違い土塁というのは珍しい。
もともとあったものを、改修の際に補強したんでしょうか。
また、北ノ丸の帯郭の切岸は、補強の為か2段になっていて、ここもちょっと技巧的でした。
石垣がなかなか良いとの評判を見てましたが、なかなかどうして、土の部分も良いお城でした。
満足満足(^^)
 
田丸城を出て向かうのは、鳥羽。
伊勢湾フェリーです。
何度か廃止の議論が出ており、まだある内に乗っておこうというのも伊勢湾ルートを選んだ理由でした。
この日は、特に何時の便に乗ろうというのは無くて、お城巡りに合わせて適当な便に乗るという算段。
1時間に1本ぐらいのペースで便がありますしね。
そういうわけで、伊勢道から、ETC使えんから手袋外して財布出して料金払ってまた財布仕舞って手袋嵌めなあかんのダルいやん!と思いながら伊勢二見鳥羽ラインを走り抜け、鳥羽市街へ。
フェリー乗り場に着いたのが12:25頃でした。
乗船券購入の時にサクっと時刻表を確認すると、次は13:00の船らしい。
15分前にバイクのところにスタンバっとかなあかんから、12:45には戻らなあかん。
ということは、20分の間に鳥羽城を見てご飯を買えっちゅうことやな。
そんなん無~理~
しかし、ここまで来て鳥羽城を見ない訳には行きません。
乗船券を買ったら、そのまま鳥羽水族館の裏を抜けて城ー向けてダッシュ!
行く手を阻むように近鉄志摩線が!
この辺りは線路を越える場所が無い。
なのでミキモト真珠島の近くまで行って、地下道で線路をくぐり、更に城までダッシュ!したかったけどジョグ止まり・・・
鳥羽城は海沿いの丘陵にある城で、主郭は丘陵上にありますが、その麓には三ノ丸があり、そこに説明板一式もありました。
案内図では、フェリー乗り場や横たわる鉄路の位置関係がよく解りますな。
果てしない遠回りですわ・・・

 
三ノ丸からは、ガッツで階段を駆け上がる!


え?何?これ部活?
おっさんにはとてもきつい・・・
そんなこんなで、本人的にはサラっと、周りから見ると恐らくグダっと鳥羽城を回り、再びジョグ!もとい早歩きで港に戻って船に間に合いました。
結局、昼飯は買えず。
船の中で売ってた菓子パンが、この日の昼食でした。
 
つづく
 
参考:
田丸城
鳥羽城
地図付きはこちら
 

2015年11月25日水曜日

伊勢湾周遊 その2

前回のあらすじ

中勢最大という安濃城は確かに最大っぽかった!
 
安濃城の次に向かうのは、上野城。
三重は伊勢、伊賀、志摩、紀伊の4ヶ国で成り立っていますが、上野城は伊賀にも伊勢にもある為、伊勢上野城とも呼ばれます。
位置は、安濃城から真東に6kmほど。
ただ、海岸線が北東から南西方向に走っている為、それに並行、もしくは直角に通っている道が多く、真東に進める道はありません。
なので、国道23号線のバイパスで北東方向に進み、国道306号線、更に市道から県民の森へ。
途中、止まって道を確認しつつ、伊勢鉄道をくぐり、本城山青少年公園へ向かいました。
ここが上野城跡です。
公園に入ると、青少年公園でありながら、青年と中年の方々が野球をしていました。
そんな区分はどうでもいいか(笑)
これは、どこかの野球部のOBか何かの集まりかな?
野球をした後にBBQをするようで、その準備も同時進行で進んでいました。
なかなか休日らしい光景なんですが、おかげで駐車場がいっぱい(^^;)
バイクのコンパクトさを利用して、端っこにこそっと止めさせてもらいましたわ。

上野城は、前回出てきた長野氏の城で、信長の弟で長野家に養子に入った織田信包が築かせた城です。
安濃津城が完成するまでの仮の本拠ですね。
信包が安濃津城に移った後は、分部光嘉が城を守っていました。
信包繋がりの話として、この城には浅井三姉妹が一時身を寄せていたという説がありますね。
ただ、他に織田信次が保護していたという説があることや、また、信包が保護していたとしても、この上野城のほか、岐阜や清洲の屋敷という説もあるなど、はっきりしたことはわかってないというのが実情でしょうか。
なぜ信包がお市の方や三姉妹を保護していたかというと、同腹の子、つまり母が同じだったからではないかといわれていますね。
幼少期も大人の女優さんが演じたり、史実がよく分かってないのをいい事に八面六臂の活躍をするというファンタジーが話題だった大河ドラマの「江~姫たちの戦国~」では、確か上野城に引き取られた描写をしてました。
ちなみに、このドラマ主演は上野樹里という女優さんで、城の名と名字が同じ。
そして、地元兵庫は加古川というこれまたよく行く所の出身であり、自分的にはこの城から連想せざるを得ない人ですな。
兵庫の人ですし、個人的には凄く応援しています(^^)
ちょっと話が逸れましたが、最近は大河ドラマを町興しに利用する空気があり、公園にも当然の如くお江に絡めた案内板がいくつかありました。
年月が経ってるので、ちょっとうらぶれた感はありましたが・・・
建てたりするのはいいんやけど、薄汚れたり壊れたりすると、すごく場末感が出るんですよねぇ
その時はいいけど、後々、マイナスなイメージのような気も。
ブームが去ったら放ったらかしではなく、維持しやすいように縮小再整備を行うといった事などは、ブームに乗った町興しの今後の課題でしょうか。

上野城の立地は、伊勢湾岸の城によく見られるような、海の見える台地を利用した城で、縄張も比較的シンプルとなっており、最高部の本丸を幾つかの郭が囲っている形となっています。
海方向に二ノ丸やそれに続く段があり、主に海沿いの監視や街道に向けた城ですね。
本丸には展望台が建っていました。

 
この展望台の2階は資料室になっているんですが、残念ながら訪れた時間は経費削減で開館していませんでした。
確か土日祝の数時間やったかな?
帰ってから調べてみると、9:00~16:00の年中無休とか書いてあった・・・
更新ちゃんとしろー!(笑)
ま、物好きしか寄らないんで、経費を考えると難しいのも理解できますわ・・・
この展望台から本丸と二ノ丸を写すとこんな感じです。

 
この広場の四周に土塁が確認できるので、なかなかよろしい。
広場の向こう側は切岸になっていて、2段の二ノ丸があります。

 
この遊具がある方が本丸側で、左手に見える木が段の区切りですね。
といっても数10cm程度しか差はありませんでしたが。
この二ノ丸から更に海側にもう1段下がって削平地があります。
縄張図では特に名前はありませんでしたが、監視目的なのは間違いないでしょう。
海の眺めが素晴らしい。
これで晴れてたらな~

 
つづく
 
参考:
伊勢上野城
地図付きはこちら
 

2015年11月17日火曜日

伊勢湾周遊 その1

天高く 馬肥ゆる秋 ぢっと腹見る。
・・・
ス、スポーツの秋っすよねっ!
というか、やっぱりツーリングの秋ですな!
今年の秋は暖かい日が多くて、バイク乗りには有り難い。
念願の宮崎にも行ってきました。
そんなこんなで、資料整理と共に春のツーリング紀行を。
は、春!?
と言いたい所はまぁ置くとして、5月に伊勢湾をグルっと周ってきました。
最初は、舞鶴若狭道が敦賀まで全通したから記念して北陸へ!なんて思ってましたが、新幹線開通で盛り上がってる北陸を見ると、ちょっと宿を取るのがやばそうやな、と。
で、金曜の夜から四国に行こうかと思っていたんですが、週間予報で日曜が雨の予報になり、日曜は耐えてさっさと帰るかと思っていると、前々日には土曜も雨の予報になってしまったので、雨の到達が遅くなる東が候補になりました。
天気予報を見てると、雨は西と北が早く、東海なら土曜日ぐらいは1日もちそう。
それなら、前から伊勢湾フェリーを使った伊勢湾一周をやりたかったし、帰りが雨でもほぼ高速で済むから比較的安全やし、このルートにするか!ということで、急遽、愛知に宿を取って出発。
急だったので、金曜出発を諦めて土曜早朝出発になりましたが、ま、距離もそう長くないし、そんなに変わらないかな。
しかし、今は滋賀県の宿泊費が高騰してるんですね。
少し調べると、京都泊がパンク状態で、滋賀に流れてるらしい。
数年前に、瀬田で朝食付き3400円というホテルに泊まったのも、今は昔ですな。
 
東へ行く時は毎回お決まりパターンで、大阪手前で1回、滋賀まで抜けて1回という休憩パターンがあるんですが、今回は阪神高速北神戸線から中国道へと入ったので、吹田S.A.ではなく名塩P.A.で1回目の休憩を入れ、名神高速、京滋バイパスから名神高速に再び戻って新名神という行程。
休憩を入れた名塩P.A.は拡張されていて、電気自動車用の電気スタンドがあって時代の流れを感じました。
次にいつも通り滋賀で休憩したのが甲南P.A.。
伊豆に行った時に、静岡から降られ通しのビチャビチャの状態で食べた黒ラーメンは美味しかった。
ここで改めて実食してみようというわけです。
で、やっぱり美味しかった(^^)
北関東と新潟のツーリングの時に食べた名神高速の黒ラーメンは、めっちゃ濃くて朝御飯としては胸焼けするぐらいやったけど、こっちはあっさりしてますわ。
おなじ黒ラーメンながら、えらい違いですな。
黒ラーメンを食べるなら、濃厚派は名神、あっさり派は新名神がいいかもしれませんね。

休憩後、新名神を東進し、新名神の四日市へ抜けるルートの工事を間近に見てテンションを上げつつ、いつも北へ向かう亀山ジャンクションを今回は南へ。
そして、少しだけ東名阪道を走って伊勢道へ入り、1つ目の芸濃I.C.で下て県道10号線を南東方向に。
そこから安濃S.A.付近の工業団地を突っ切った先の集落から、阿由多神社へと向かいます。
この神社のある所が、安濃城。
中伊勢地域を支配した長野氏の一族である、細野氏の居城ですね。
 
信長の攻略戦には、細野家当主として細野藤敦の名前が出てきます。
信長が絡んだだけに、ちょっと知られてるような印象でしょうか。
城の築城自体は、信長の伊勢攻略戦の10年ほど前の頃。
長野家に北畠氏から具藤という養子を送り込まれる直前の頃であり、詳細は不明ですけど、なんらかの政治的軍事的要因が考えられますね。
以降、細野氏は本貫の城である細野城からここへ居を移し、信長の攻略戦当時も藤敦が居城してました。
信長の伊勢侵攻時の長野家中はと言うと、長野家当主具藤は実家の方針と同じく反信長。
藤敦は、具藤と仲が悪いながらも、信長への臣従には反対の立場でした。
ここに、藤敦の弟達が登場します。
分部光嘉と川北藤元という2人ですが、彼らは親織田派で、信長の弟信包の長野家への入嗣を目論んでいました。
ま、宗家筋は、前の当主だった藤定が病死か暗殺かは不明なものの、既に没しており、嫡子もいませんでしたから、頭の挿げ替えに抵抗は無かったでしょうね。
彼らは、藤敦と具藤の対立を利用します。
藤敦兄貴が織田に寝返りましたでー、と具藤をけしかけたんですな。
怒った具藤は藤敦討伐に出陣しますが、長野家中でも指折りの勇将だった藤敦は、討伐される理由もないのでこれを撃退し、具藤を追放。
しかし、後ろ盾が無いと既にやって行けなくなっている長野家は、北畠氏と断絶した以上、もう信長を頼るしかありません。
こうして信包が長野家当主として迎えられました。
ただ、藤敦は信包とも折り合えなかったようで、天正8年(1580)には信包の討伐を受けて城を落ち延びています。
この頃、織田家中では、城割りとして在地土豪の小城の整理が行われていました。
この後の城の歴史も不明なことから、城も藤敦の退去で、そのまま廃城になった可能性が高そうです。
 
城へは、松原寺の所から山へ入ったんですが、まず出迎えたのが巨大な土塁と空堀です。
なかなか規模が大きい。
空堀はこんな感じで本丸方向に続いています。
土塁を撮った写真は、ただの山中の写真にしか見えないので載せませんけども(笑)

 
そこから参道が続いているので、しばらく西へ行くと阿由多神社があます。
ここが本丸跡ですな。
現地説明板によると、中勢地域では最大級の平山城とのこと。
神社境内の周囲には土塁があり、一部は基部が大きく、明らかに櫓台跡でした。

 
境内西側には二重の土塁もありました。
堆積物が多いようで、当時は二重の土塁だったのか、それとも間が空堀と言えるほど深く掘られていたのかはちょっと分かりませんけど。
中央が窪みで、右が境内側の土塁です。
左の土塁は、切岸となって落ち込み、その先にも郭がありました。

 
本丸の南側には虎口があり、その下の2段の郭に道が続いていますが、枡形と見られる湾曲があるほか、途中には食い違い部分あり、ちょっと技巧的です。
下の写真が食い違いになっている部分で、この上側に本丸側虎口に繋がる枡形らしき地形が、この下側に2段の郭があります。

 
東側には神社参道が通されていますが、そのちょっと横には枯葉に埋もれながらも虎口がありました。
ややえぐられたような地形があり、往時には桝形か堀があったのではないかと思われます。
ただ、説明板を見ると、ただののっぺりとした虎口なんですけどね。
本丸側から見たのが下の写真で、中央の溝みたいな所が虎口跡です。
この下は鬱蒼とした竹林で、堆積物などで元の地形がかなり不鮮明になっていました。

 
本丸下から東方向には、空堀を挟みつつ、なだらかな方形の削平地が段々に続いており、上級家臣の居住地だったのかもしれません。
下の写真は参道付近なんですが、上の段と下の段の郭、そして間の空堀が分かりますかね。

 
この東側は、本丸への東西方向に穿たれていた最初の空堀が北へうねりつつ続いて城を二分し、その空堀の東には、まだなだらかな削平地が続いていました。
なるほど、これはかなり規模が大きい。
空堀の先は、歩ける範囲で道の左右に2段ずつ4段の郭が確認できましたが、縄張図を見ると、更に東にもまだ郭があるようです。
のっけからえらい城に当たったもんですわ。
まだ8:30というのにテンションが上がってしまう(笑)
 
つづく
 
参考:
安濃城
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2015年11月12日木曜日

深まりつつある秋

10月は暖かかったですね。
11月も上旬はかなり暖かかった。
そんなこんなで、なかなか秋の深まりは遅いように感じられますが、木枯らし1号が10/25に吹き、それが昨年より2日、一昨年より10日早い観測だったというのを聞くと、季節の歩みはそれほど遅い訳ではないようです。
と言っても、木枯らしが吹いた日近辺の深夜の気温が自宅の庭で6℃という冷え方で、その後はまた暖かい日が続いたんですがね。

バイク乗りとしては、この暖かい日が続くという僥倖を逃す手は無いと、例の原二の友人と淡路へ行く計画を立てていたのですが、悉く予定や天候が合わなかった為に断念し、先の土曜にぶらりとひとりで衝原湖へ行って来ました。
その日も、久しぶりにラーメンツーリングをしてやろうか!などと思いながら前日に就寝したんですが、起きてみると雨がパラついているという始末。
なんだかんだとタイミングが合わんなぁ・・・
そうこうしている間に、雨が止んでなんとかなりそうだったので、衝原湖へとバイクを走らせました。

途中、久々に複合産業団地を通りましたが、なんか道や景色がもう相当変わってて、よく分かりませんでしたわ。
昔はここから鈴蘭台に抜ける道があったんですが、地図を見ると神戸西I.C.の所に完全に付け替えられてる様子。
いや、付け替えられてからも何度か通ってはいるんですが、付け替えられる前の学生時代にこの辺りをよく走ったもんで、木見の交差点とそこから名前を取った木ノ実という喫茶店を見たら、なんだか昔を思い出しまして。
木見の橋を渡って坂を上ってしばらく行った所で右折したら鈴蘭台、という記憶が蘇って来たんです。
その右折の道が、旧道として多少は痕跡が残ってるものかと思ってましたが、団地造成で跡形無く消えてるんですな。
大した事じゃないですが、懐かしいような、寂しいような。

夜間人口がほとんど無いやろうに公園で少年野球してるな、などと思いながら団地を過ぎ、大型トラックの癖にやたらと速い先行車を心地よく追い掛け、峠を越えると坂本という交差点に出ます。
ここを左に行けば衝原湖。
右に行けば箕谷。
更に箕谷への途中で左に曲がれば、山越えで淡河です。
この淡河への国道428号線。
走り屋さんに知られた道なんですが、同時に警察の営業スポットでもあるわけで、休みの日に走ると嫌な汗が出ることもあります(笑)
また、最近は淡河の豊助饅頭や十割そばが有名になってるらしくて、淡河の辺りはいつ通っても人が多いですな。
昔はほんま何も無かったんやけどねぇ
ちなみに、この坂本の交差点の真北には丹生山があり、さらにその向こうに淡河城があります。
戦国時代には、丹生山に明要寺や丹生神社があり、三木合戦の際には、荒木村重の花隈城から六甲の山並みを越えて丹生山、そして淡河城を経由して三木城までが兵糧輸送ルートのひとつでした。
当然、秀吉軍の補給ルート潰しに遭い、寺は焼かれてしまうわけですが、淡河城では淡河定範が痛撃を与えて城を放棄しています。
三木合戦の数少ない激突場所ですね。

坂本の交差点から西へ向かうと、すぐに衝原湖です。
衝原湖は、志染川の呑吐ダムによるダム湖で、呑吐という変わった名前は、ダムで沈む志染川の川筋部分に水を呑んだり吐いたりするように見える大小の滝があった事かららしい。
名前を聞いただけでは、ほぽ確実に漢字が分からない名前や!
ちなみに、この志染川や山ひとつ北の淡河川は、美嚢川を経て西の加古川に注ぐ加古川水系ですが、 もう少し東に行って唐櫃や八多辺りまで行くと、東の武庫川水系になります。
六甲山がデンと構えてる為に、神戸の海岸沿いには大きな川が無く、更に同じ神戸市北区でも、水が西へ逃げる部分と東に逃げる部分があるのが解り易いですね。
この日の湖は水を満々と湛えていましたが、10数年前の酷い渇水の時には、このダム湖が半分干上がり、かつての村の跡が出現したという年がありました。
嬉々として、やっぱりバイクで向かい、湖底を歩いた事がありますが、一見乾いているようでも、泥に足を踏み入れるとくるぶしまでズブズブと・・・
足許をドロドロにして帰った記憶があります(笑)
あれからはそこまで渇水の年が無く、底が剥き出しになることも無いので、とても貴重な経験でした。
ちなみにこの衝原湖、神戸のバイク乗りの間ではちょっとしたスポットで、休日昼間なら、ほぼいつでも10台以上のバイクが止まってます。
この日も曇天にかかわらず、バイク約20台と車数台が止まってました。
スポットとしてはやっぱり人気ですね。
ちょっと西側のカート場は潰れてしまってましたけど・・・
なかなかカート場というのも、経営が難しいものですな。

その後、なんとか天気も崩れないまま、1時間ちょいの行程だったプチツーリングを終えて帰宅しました。
ダムに居た人はみんな、バイクが最適な季節の最後を味わってるんかな・・・
同志として、良いライディングが味わえることを祈りますわ(^^)
 

2015年11月5日木曜日

津山藩森家の分裂

前回、ようやく乃井野藩と関連がある、森長継のところまで到達しましたね。
ふと記事を見かけて書いただけやのに、えらい長くなってしまった・・・
というわけで、乃井野陣屋の三日月藩誕生のきっかけと、津山藩森家の分裂のお話です。
 
津山藩藩祖森忠政の跡を継いだのは森長継。
彼は、前回書いたように、忠政の外孫でした。
父は関成継。
なので、正確に書くと、関系森氏ということになりますね。
ま、江戸時代の大名はギラついた武将成分を排除して象徴化したのが草食化を招いたのか、戦乱での討死が無い割に、嗣子無く断絶というパターンが多く、家の存続の為に養子が乱れ飛びます。
例えば、財政再建を果たした名君として知られる上杉鷹山治憲は秋月氏の出で、祖母が上杉氏出身という薄~い繋がりでした。
外孫どころか、上杉氏の血で見ると外曾孫なわけですね。
更に言えば、この秋月氏に嫁いだ女性の父親は上杉綱憲で、父は有名な吉良上野介義央です。
つまり、吉良系上杉氏でした。
大名同士は婚姻が進んでいますから、遠縁を辿ればどこかに血を持った次男坊、三男坊がいるという状態だったわけです。

話を戻しますが、長継は外孫とは言え、森家中の人間であり、祖父忠政が個人的にいつでも会えるような近い孫でした。
上杉氏に比べれば相当近しいことがわかるでしょうか。
このように身近な孫を後継者に選んだ忠政が、寛永11年(1634)に没すると、順調に長継が家督を継ぎます。
長継政権は長期政権で、隠居は延宝2年(1674)と、40年間も続きました。
途中、弟関長政に2万石弱を分知して宮川藩という支藩を興させています。
また、長継は非常に子沢山で、男児だけで一説に24人もの子があったといわれるほどでした。
側室は10人。
英雄色を好むを地で行く人ですな。
ただ、乱世では子が死ぬ機会も多く、他家へ乗っ取りの為に養子に出すということも頻繁で、メリットがあるのですが、平時は嫡男以外は部屋住みとして可も無く不可も無く人生を終えていくのが一般的でした。
他家の養子にと声が掛かればラッキーで、時には相続争いの種になるなど、そうメリットは多くありません。
というわけで、長継も例に洩れず、男児を弟の養子として出しています。
先に出た次弟長政に六男or九男の長治を、三弟関衆行には九男or十二男の衆利を、押し込む押し込む。
いや、想像ですけどね(笑) 
というか、子供多すぎて順番に諸説あるってどんだけ(笑)
また、養子だけではなく、隠退後に五男長俊に1万5千石を分知し、津山新田藩を興させてもいます。
ただ、肝心の嫡男忠継は早世してしまっていて、と言っても30代後半だったわけですが、嫡孫として長成がおりました。
しかし、長成は寛文11年(1671)生まれで、長継が隠退する頃はまだ幼児であった為、長継はリリーバーとして三男or五男の長武を指名しています。
長武がリリーバーとして10年余りを中継ぎし、甥長成へと家督が渡されたのが貞享3年(1686)。
長武は、隠居料2万石を得てめでたく隠退・・・というわけではなく、どうやらその2万石で支藩設立を目論んだようですが、親父より先に死んでしまった為、うやむやになりました。
親父、生物として強すぎ。
その後、元禄10年(1697)に長成が子も無いまま27歳で早世してから、森家はバタバタとなっていきます。
長成の末期養子として指名されたのが、さきほど長継の弟の養子となっていた衆行。
上から順番というのではなく、しかも他家の養子として出ていた衆行が何故指名されたのか、事情はよく分かりませんでしたが、衆行は急遽森姓に復し、将軍の謁見を受ける為、江戸へと向かいます。
しかししかし。
この衆行さん、ちょっと本音をズケズケ言ってしまう人だったようで、伊勢で病に倒れた挙句、政策批判をやってしまいます。
時は5代将軍綱吉の治世、野良犬すらお犬様と崇められていた生類憐れみの令の真っ只中。
気持ちはよく解ります。
しかし、現代のように言論の自由はありません。
あえなく、森家は改易となってしまいました。

森家にとって救いだったのは、長継の生物的強さ。
先々代当主だった長継がいまだ健在で、しかも直系の子供も沢山いました。
幕府も、恨みを持ちかねない人間が多数いるのは厄介だったのか、それとも温情だったのか、事実上、分割した上で存続を許しています。
具体的には、支藩として成立していた宮川藩、津山新田藩の存続を認め、長継が貰っていた隠居料2万石もそのまま安堵して西江原藩を立藩させました。
こうして、西江原藩は長継から八男長直に引き継がれ、後に赤穂藩浅野内匠頭長矩の赤穂事件での改易から5年後に赤穂藩主となっています。
宮川藩は、長継の弟長政から長継の子で養子となっていた長治が継いでいましたが、津山藩改易に伴って備中新見1万8千石に移されました。
そして、分知を受けていた津山新田藩主で長継の五男長俊は、津山藩改易で三日月1万5千石へ移され、元禄13年(1700)頃に乃井野陣屋を完成させたのです。
いや~、ようやく乃井野陣屋に辿り着きました。
森家、事件有りすぎ。
最後に、森家とその周辺の系図を付けときます。
文中に登場した人物は太字になってますので、追ってみて下さい。
あと、数字は生年です。
ややこしさが解ると思うので(笑)

 
参考:
乃井野陣屋
津山城
新見陣屋
赤穂城
地図付きはこちら 兵庫 岡山
 

2015年10月30日金曜日

津山藩森氏

前回は、乃井野陣屋の三日月藩藩主である森氏について書きました。
が、長くなったので藩祖忠政のところまででしたね。
今回はそのややこしい続きを。

津山藩藩祖の忠政は、あの鬼武蔵で有名な長可の末弟です。
この人も兄に負けず劣らず、兄が信州から撤退する際に敵対した北信濃の一族をわざわざ探し出して処刑するなど、なかなかクセのある人でした。
その為か、施政もかなり苛烈で、川中島藩では一揆が起きていますが、これに対しても圧力をもって対応しています。
慶長8年(1603)には、津山へ加増転封となっていますが、苛烈さを聞いた土豪らが反発し、入国にも策を講じるほどでしたが、これは忠政が一枚上手だったようで、一揆の裏をかいてさっさと入国してしまいました。
こうなると一揆も弱いもので、新領主にお伺いを立てる人間も出て分裂状態となり、一揆は瓦解しています。
この辺りは、なんだか集団心理をよく知ってるような感じですね。

ただ、前回も言ったように、津山藩の家中では刃傷沙汰が多く、ちょっとまとまりに欠ける印象です。
津山城築城の前に院庄に築城を試みていますが、その現場で名古屋山三郎と井戸宇右衛門が口論の末に斬り合いとなり、山三郎は宇右衛門に、宇右衛門は他の藩士に斬殺されています。
これが1件目。
名古屋山三郎と言えば、「なごやさんざ」の名で知られる歌舞伎の祖とされる人物で、妻は同じく歌舞伎の祖といわれる阿国とされています。
とても美男子だったといわれ、芸達者でもあったので、忠政のお気に入りだったようですね。
一方の宇右衛門は、叩き上げの猛者で、長可が東美濃を席巻した際に加治田城の降兵のまとめ役として仕えていますが、元々は大和の出身です。
筒井順慶の家臣として出てくる井戸良弘と同族と思われますが、系図は分かりません。
山三郎自身は、どうも上昇志向の強い人間だったようで、妹が忠政の側室であったことから外戚として権力強化を志向し、忠政もそれに同調したようです。
川中島藩の頃からこの両者には諍いがあったようですが、最終的には忠政が宇右衛門一党の討滅を図り、宇右衛門と同時に別の場所で弟も討たれました。
結果的には上位討ち、という形式ですね。
ただ、暗殺を立案したと思われる山三郎が武のある宇右衛門にさくっと斬られているのが情けないですが。
しかし、まぁなんともきな臭い・・・

この事件後、院庄への築城は縁起が悪いと断念され、津山へ築城することになるのですが、忠政の父可成の正室の弟で、宇右衛門の義兄でもあった重臣林為忠は事件に怒りを発し、後処理をしていた川中島から美作へ向かう途中で出奔してしまっています。
林家は、各務家と共に可成時代から森家を支えた家臣で、土岐家や斎藤家での同僚筋でした。
蜂須賀家における稲田家、細川家における松井家、堀家における奥田家が近いかな。
姻戚でもあり、藩内の鎮め役でもあったわけです。
森家にとってこのような古参筋の武将を失ったのは痛手でした。
代わりに筆頭家老になったのは、同じく元同僚筋の重鎮である各務氏でしたが、可成と長可の時代に森家を支えた元正はすでに亡く、その嫡男元峯が就任しています。
しかし、事もあろうに、鎮めとなるべき元峯が、5年後に家老の小沢彦八を殺害し、止めに入った細野左兵衛も元峯の家臣が殺害するという事件を起こしてしまいました。
これが2件目。
筆頭家老というのに、あまりにもいただけない。
戦国の雰囲気がまだ色濃い時代ですから、家臣の刃傷沙汰は各藩でありましたが、家老などの上級家臣同士で、このような事件が何度も起こる藩というのは稀ですな。
よく取り潰しにならなかったもんです。
以後、忠政もどうにもならんと思ったのか、可成の弟で旗本になっていた可政を招聘し、家政の引き締めを図りました。
この可政は、可成の弟とは言え、父通安の晩年の子の為、甥の長可よりも年下で、しかも長可とは喧嘩別れして出奔していたという経歴があります。
ちなみに、この可政の娘婿で、関成政の長子である武兵衛も森家に仕えていたんですが、やはり忠政と対立して出奔しました。
森家中の出奔、どんだけ多いねん!
とツッコミたくもなりますが、激烈な気性の家系なんでしょうね。

この可政が迎えられた後、津山藩は一応の安定を見るようになりました。
しかし、まだまだ森家には苦難が。
忠政には3人の男子がいたものの、皆、父に先立って早世してしまうのです。
ここで登場するのが関氏。
先ほど、ちらっと出てきた関さんです。
元々は可成と織田家中で同僚だった家ですが、そもそもは土岐氏の家臣筋でもあり、その頃から両家に付き合いがあったのかもしれません。
ともあれ、どういう縁かは不明ですが、可成の娘が関成政の室となり、両家は縁続きとなります。
しかし、成政は長可と同じく小牧長久手の合戦で討死してしまい、室と遺児は母方の実家である森家を頼りました。
この縁で先ほどの武兵衛も森家に仕えていたわけですが、成政の末子、武兵衛の弟に成次という人物がおり、この人物も同様に長じてから森家に仕え、室に忠政の娘、つまりは従兄弟にあたる於郷を迎えています。
そして、この嫡子である長継が忠政の養子となり、津山藩森家を継承するわけですな。
長継は、忠政にとっては外孫にあたります。
子も早世し、内孫もいない。
なかなか綱渡りな継承と言えますかね。
 
あ~長かった。
ようやく三日月藩誕生の分裂のところまで来たわ(^^;)
というわけで、つづく。
 
参考:
津山城
地図付きはこちら
 

2015年10月24日土曜日

乃井野陣屋

先日、神戸新聞に兵庫県の史跡として乃井野陣屋が載っていました。
乃井野陣屋と聞いてもピンと来ませんが、藩としては三日月藩という風流な名前の藩の陣屋ですね。
この陣屋、三日月という名前に惹かれて予備知識も無く寄ってみた事があるんですが、陣屋としては恐ろしく風格があります。
岡山の成羽陣屋の重厚な石垣も陣屋としては破格でしたが、この乃井野陣屋には、堀があり、橋が架かり、櫓門があります。
どう見ても近世城の風格。
上月城などにちょっと寄った時に、寄り道しても損はありません(^^)

陣屋というのは平地に造られる事が多く、維新後は中心部の平地ということで行政施設の用地や学校施設なんかに使われ、遺構がほとんど残っていないという所がほとんどです。
なので、乃井野陣屋のように丁寧に整備されているのは珍しい。
ちなみに、城と陣屋の違いというのは不鮮明で、いかにも城という構えでも藩が小さければ陣屋ですし、居館城郭でも藩が大きければ城と呼ばれます。
江戸時代には、城というのは名誉呼称で、城持ち大名というのはステータスでした。
その上が国持ち大名、もしくは国主と呼ばれる大名で、これは戦国時代に名を成した戦国武将の家がほとんどです。
で、三日月藩はと言うと、当然ながら陣屋ですから無城大名でした。
三日月藩の藩主は森氏です。
その祖は、と言うと、鬼武蔵として名を馳せた森長可、そしてその父の可成の2代が中興ということになるでしょうか。
系譜としては、美濃森氏の一族で、美濃守護の土岐氏に仕えていました。
土岐氏の滅亡後、やがて可成は信長に仕え、尾張統一戦、桶狭間の合戦、上洛戦など、信長の合戦にほぼすべて参陣し、度々武功を挙げています。
信長は門地に囚われず、実力主義で家臣を登用しましたが、可成は織田家としては外様であり、その政策の最初期の家臣だったのでしょう。
その証拠に、上洛以降は近江宇佐山城を任されました。
当時は、近江から京へ入るルートは、坂本から峠越えで入るのが一般的で、その非常に大事な街道を押さえる城が宇佐山城であり、そこを任されていたわけですから、信頼振りが窺えます。
ちなみに、後に天下人となった秀吉は、東からの入京路は瀬田川宇治川ルートを使い、その京の入口である伏見に居城を築いていました。
また、大阪に出るにも木津川淀川ラインで行き来できますから、非常に便利ですね。
街道を押さえる城というのは多いですが、京周辺の城には、特にそういう政治的役割があるんですね。
で、宇佐山城を任された可成ですが、元亀元年(1570)の織田浅井手切れ後の姉川の合戦の直後、浅井朝倉連合軍の進出を寡兵でもって迎撃し、奮戦するも下坂本で討死しました。
信長は可成の死を非常に悼んだといいます。
可成には、森蘭丸、坊丸、力丸の幼い子がおり、信長が小姓に取り立てるわけですが、それも可成の死を哀れんだ為といわれますね。

森家は、嫡子可隆は越前攻めの際に討死していたので、次男長可が家督を継ぎました。
この武将が鬼武蔵と呼ばれた人物です。
当時の鬼という異名は、強いと同義で、戦に強ければ鬼○○と呼ばれました。
有名な所では、鬼の半蔵、鬼島津、鬼和子。
丹波は多くて、丹波鬼、丹波の赤鬼、青鬼。
挙げればキリがないですが、長可の何が鬼かって、その所業がリアルで鬼。
強いじゃなくて鬼なんですね。
合戦にも強いが、気性も恐ろしく激しかった。
そして敵対者には容赦ない・・・
ま、その辺りのネタは幾らでも出てくるので置くとして、長可は順調に織田家中の上級家臣となり、本能寺の変の直前には信濃川中島周辺の20万石の大名になりました。
信長横死後は美濃へ帰って東美濃を席巻し、後継者レースでは岳父である池田恒興と共に秀吉に味方しましたが、小牧長久手の合戦で岳父と共に討ち死にしてしまいます。
まだ27歳。
嫡子もおらず、長可も遺領は信頼できる人に任せると遺言状に書いていたんですが、秀吉の裁量で家督は末弟の忠政に引き継がれました。
普通は何としても家の存続を図るのが武士の宿命ですが、何とも変わった人だったんですねぇ

こんなひと悶着を挟みつつ、忠政が森家を存続させ、やがて江戸時代には川中島藩主、そして津山藩主となって森氏の藩祖となります。
ただ、この忠政も性格的に難があったのか、兄長可に似た部分があって、逸話には事欠きません。
また、津山藩でもやたら刃傷沙汰が多い。
可成は三国志の超雲のような正統派猛将の匂いがするんですが、長可や忠政は非常に扱い難い印象がありますね。
一部にネタになっている森氏のややこしいイメージも、この兄弟に由来する部分が多そうです。

森氏はちょっとネタが多いのか、乃井野陣屋に辿り着かないまま、長くなってしまいました。
というわけで、次回へつづく。
 
参考:
乃井野陣屋
地図付きはこちら
 

2015年10月20日火曜日

プロ野球の新監督

10月になると、夏をシーズンとするプロスポーツもオフシーズンに入って行きますが、今年もプロ野球は残すところ、日本シリーズのみとなりました。
今年の全日程終了ももうすぐですね。
ところで、来年から阪神タイガースの監督にアニキ金本の就任が決定しました。
アニキ金本は努力の人です。
甘やかされて伸び悩む阪神の若手に、ぜひ影響を及ぼしてほしいですね。

一方、ライバルとされる読売ジャイアンツも監督の交代があります。
まだ、確定ではないですが、長期政権だった原監督の辞任は確定で、後任を高橋由伸兼任コーチに絞ったというニュースが流れていました。

なぜ、このニュースを出したかと言うと、元野球部というのもありますが、
2人の誕生日が自分と同じ
だからです。
そう、誕生日が同じだからと言って、全くもって、完全に、有り得ないほど、天と地が引っくり返っても、自分が偉いわけではないんですが、個人的にはやっぱり勝手に親近感を抱いてて、何となく嬉しいものなんです。
誕生日同じで野球も同じなのにお前はヘッポコやったやん!
という指摘は無しの方向でお願いします(笑)
 
さてさて、秋と言えばスポーツ、秋と言えばツーリング。
この前の九州ツーリングは快晴で気持ち良かったですな。
春のツーリングも早くまとめないと!
そして、ぼちぼちスポーツして体を絞っていかないとね。
秋はご飯が美味すぎる・・・
 

2015年10月13日火曜日

多国籍企業の税金

先週月曜のニュースですが、ひとつ節目となるニュースがありました。

http://www.sankeibiz.jp/macro/news/151005/mca1510052131016-n1.htm

各新聞社が報じていますが、それほど深く取り上げたところは無かったようです。
結構大きな話だと思うんですけどね。
この多国籍企業の税金の話なんですが、リーマンショックの前から問題点は指摘されており、まとまるまでに結構時間が掛かったな、という印象でしょうか。
リーマンショック以前の話ですが、あるファンドを率いる投資家が、雇っている事務員より遥かに税率が低かったという話がありまして、この話と、この多国籍企業の税金逃れの話は、なんだか凄く不公平に思った記憶があります。
稼ぐのは全く構わんけど、相応の税金は払えよ、と。
新自由主義が掲げられていた時代の歪みですかね。
その頃から、この話はすでに国際会議の議題には挙がっていて、穴が塞がれるのはそう遠くない未来の話かな、なんて思ってましたけど、なかなか進みませんでした。
ただ、国境というハードルが低くなっていく時代にあって、有利な国で利益を最大化する、というのは、グローバルな営利集団としては生存本能みたいなもので、責めるのも酷な気はします。
ともあれ、一歩前進ですね。

グローバル企業にとって国民が富裕な先進国は重要な市場ですが、コストも高けりゃ税金も高い。
だから、商売だけは先進国でして、義務は他のところで、となるのも合理的ではあるんですが、先進国のインフラや生活水準を利用した商売をしている以上、それだとフリーライダーと本質的に変わりません。
少し前にスターバックスやグーグルの租税回避が話題になっていましたが、各国子会社間で仕入れや商標権料などをやり取りして、法人税の高い国では利益を少なく申告し、法人税の安い国で利益を計上するという手法や、ダブルアイリッシュダッチサンドウィッチという、アイスランドとオランダの2国間の租税協定を利用したものでした。
また、アマゾンも、日本にあるのはただの倉庫だと主張して、日本の税務当局と揉めてましたね。
この辺りも、数年前にスイスがアメリカに屈してスイス国内の銀行口座の情報を提供したように、タックスヘイブンなどと共に締め付けがきつくなっています。
アマゾンやその他ネット通販企業に対しても、今回の報告で、名目上倉庫でもビジネスの根幹である場合は課税できるようにするよう報告書に記載されました。
やっぱり、正々堂々と、商売した国で義務を果たして欲しいですね。
近江商人の、「売り手よし、買い手よし、世間よし」という三方よしの精神を持ってもらいたいものです。

この前、ふとポートアイランドに行った際にイケアを見まして、そういえばスウェーデン発祥のイケアの本社ってオランダなんよな、と思い出しましたが、イケアも立派なグローバル企業です。
オランダ人は歴史的に見ても重商主義で、商売に長けた優秀な人が多く、そういう人材の確保やヨーロッパ各地との交通の便がいい事が理由として紹介されていましたが、オランダに本社を移したのはそういう面だけではないんでしょうな。
オランダにはグローバル企業が集まっていますが、その目的のひとつが安い租税にあったりしますからね。
資本主義の行き着く先は、合理化を推し進めた巨大企業化で、インターネットの普及というのも、国境を越える煩雑さを少なくする要素であり、時代と言えば時代なんですが、巨大企業はその図体故に影響も大きいので、あまりにドギツイやり方は、倫理的に考えても控えて欲しいものです。
 

2015年10月9日金曜日

初めてのpython その2

予定通り(?)の続報です(笑)
 
前回の最後で、python単体とCGIとしての動作が違うと書きましたが、それも回避に成功しました。
問題点を整理すると、

・python単体では全てutf-8で処理できて、file書き出しも画面出力も問題なし
・CGIとして実行すると、あの有名な Encode Decode Error が出る

というもの。
どうも単体での実行とCGIとしての実行で、文字コードの扱いが変わるようですね。
CGIとして実行した場合、日本語出力の部分で、ASCIIでやってみたけど変換できひんやろが!とエラーを吐くので、

'日本語部分'.encode('utf-8')

として出力すると、エラーを出さなくなりました。
しかし、画面には日本語ではなく見慣れない文字列が・・・
ん゛ーなんじゃこら。
と小一時間四苦八苦してると、バイト列ということに気付きました。

よくよく調べてみると、python2系とpython3系でencodeの扱いが変わり、python2系ではunicodeから指定する文字コードの文字列への変換だったのが、python3系では指定する文字コードのバイト列への変換に変わったようです。
なので出力がバイト列になってしまう。
この辺りは、検索しても解説しているページが少なかったですね。
なので、なんでバイト列に変換されんねん、と訳も解らず、ハマりました(^^;)
回避方法は、

sys.stdout = io.TextIOWrapper(sys.stdout.buffer, encoding='utf-8')

の一文を入れること。
sys.stdout(システムの標準出力=画面)をutf-8でラップしてしまいますよ、という設定。
これで出力が自動的にutf-8の文字コードになります。
ざっと、日本語扱う時はこれ入れとけばいいよ、と書いているサイトはいくつかあったんですが、個人的には、そういうのは対象のみに絞って変えたいってのがあって、標準出力の設定を一括で変えてしまうことは躊躇してました。
でも、バイト列ですべて処理するといった他の回避方法は非常にややこしそうだったので、最終的には導入することに。
これでオールクリア。
無事、CGIとして動くようになりました。
 
色々と調べてもややこしかったpythonですが、python2系とpython3系は明確に分けて検索したほうが素人にはいいですね。
混乱の原因になります。
それぐらい下調べしてから始めろよ、という話でもあるんですが(^^;)
検索した感じでは、まだ2系の解説ページの方がちょっと多いかな。
3系をやろうと思ってる人には、要注意事項です。
でも、ハマッたお陰でpythonの理解はちょっと深まったでしょう!
でないと浮かばれない・・・
あと、検索して一番の収穫は、
忘備録って間違い発祥の単語だったこと!
備忘録の間違いかららしいです。
辞書にも載ってるぐらい市民権を得てますがね。
そら変換できんわな(笑)
前回、堂々と忘備録と書いた気がしますが、スクリプト動作記念にそのままで(^^;)