2015年11月17日火曜日

伊勢湾周遊 その1

天高く 馬肥ゆる秋 ぢっと腹見る。
・・・
ス、スポーツの秋っすよねっ!
というか、やっぱりツーリングの秋ですな!
今年の秋は暖かい日が多くて、バイク乗りには有り難い。
念願の宮崎にも行ってきました。
そんなこんなで、資料整理と共に春のツーリング紀行を。
は、春!?
と言いたい所はまぁ置くとして、5月に伊勢湾をグルっと周ってきました。
最初は、舞鶴若狭道が敦賀まで全通したから記念して北陸へ!なんて思ってましたが、新幹線開通で盛り上がってる北陸を見ると、ちょっと宿を取るのがやばそうやな、と。
で、金曜の夜から四国に行こうかと思っていたんですが、週間予報で日曜が雨の予報になり、日曜は耐えてさっさと帰るかと思っていると、前々日には土曜も雨の予報になってしまったので、雨の到達が遅くなる東が候補になりました。
天気予報を見てると、雨は西と北が早く、東海なら土曜日ぐらいは1日もちそう。
それなら、前から伊勢湾フェリーを使った伊勢湾一周をやりたかったし、帰りが雨でもほぼ高速で済むから比較的安全やし、このルートにするか!ということで、急遽、愛知に宿を取って出発。
急だったので、金曜出発を諦めて土曜早朝出発になりましたが、ま、距離もそう長くないし、そんなに変わらないかな。
しかし、今は滋賀県の宿泊費が高騰してるんですね。
少し調べると、京都泊がパンク状態で、滋賀に流れてるらしい。
数年前に、瀬田で朝食付き3400円というホテルに泊まったのも、今は昔ですな。
 
東へ行く時は毎回お決まりパターンで、大阪手前で1回、滋賀まで抜けて1回という休憩パターンがあるんですが、今回は阪神高速北神戸線から中国道へと入ったので、吹田S.A.ではなく名塩P.A.で1回目の休憩を入れ、名神高速、京滋バイパスから名神高速に再び戻って新名神という行程。
休憩を入れた名塩P.A.は拡張されていて、電気自動車用の電気スタンドがあって時代の流れを感じました。
次にいつも通り滋賀で休憩したのが甲南P.A.。
伊豆に行った時に、静岡から降られ通しのビチャビチャの状態で食べた黒ラーメンは美味しかった。
ここで改めて実食してみようというわけです。
で、やっぱり美味しかった(^^)
北関東と新潟のツーリングの時に食べた名神高速の黒ラーメンは、めっちゃ濃くて朝御飯としては胸焼けするぐらいやったけど、こっちはあっさりしてますわ。
おなじ黒ラーメンながら、えらい違いですな。
黒ラーメンを食べるなら、濃厚派は名神、あっさり派は新名神がいいかもしれませんね。

休憩後、新名神を東進し、新名神の四日市へ抜けるルートの工事を間近に見てテンションを上げつつ、いつも北へ向かう亀山ジャンクションを今回は南へ。
そして、少しだけ東名阪道を走って伊勢道へ入り、1つ目の芸濃I.C.で下て県道10号線を南東方向に。
そこから安濃S.A.付近の工業団地を突っ切った先の集落から、阿由多神社へと向かいます。
この神社のある所が、安濃城。
中伊勢地域を支配した長野氏の一族である、細野氏の居城ですね。
 
信長の攻略戦には、細野家当主として細野藤敦の名前が出てきます。
信長が絡んだだけに、ちょっと知られてるような印象でしょうか。
城の築城自体は、信長の伊勢攻略戦の10年ほど前の頃。
長野家に北畠氏から具藤という養子を送り込まれる直前の頃であり、詳細は不明ですけど、なんらかの政治的軍事的要因が考えられますね。
以降、細野氏は本貫の城である細野城からここへ居を移し、信長の攻略戦当時も藤敦が居城してました。
信長の伊勢侵攻時の長野家中はと言うと、長野家当主具藤は実家の方針と同じく反信長。
藤敦は、具藤と仲が悪いながらも、信長への臣従には反対の立場でした。
ここに、藤敦の弟達が登場します。
分部光嘉と川北藤元という2人ですが、彼らは親織田派で、信長の弟信包の長野家への入嗣を目論んでいました。
ま、宗家筋は、前の当主だった藤定が病死か暗殺かは不明なものの、既に没しており、嫡子もいませんでしたから、頭の挿げ替えに抵抗は無かったでしょうね。
彼らは、藤敦と具藤の対立を利用します。
藤敦兄貴が織田に寝返りましたでー、と具藤をけしかけたんですな。
怒った具藤は藤敦討伐に出陣しますが、長野家中でも指折りの勇将だった藤敦は、討伐される理由もないのでこれを撃退し、具藤を追放。
しかし、後ろ盾が無いと既にやって行けなくなっている長野家は、北畠氏と断絶した以上、もう信長を頼るしかありません。
こうして信包が長野家当主として迎えられました。
ただ、藤敦は信包とも折り合えなかったようで、天正8年(1580)には信包の討伐を受けて城を落ち延びています。
この頃、織田家中では、城割りとして在地土豪の小城の整理が行われていました。
この後の城の歴史も不明なことから、城も藤敦の退去で、そのまま廃城になった可能性が高そうです。
 
城へは、松原寺の所から山へ入ったんですが、まず出迎えたのが巨大な土塁と空堀です。
なかなか規模が大きい。
空堀はこんな感じで本丸方向に続いています。
土塁を撮った写真は、ただの山中の写真にしか見えないので載せませんけども(笑)

 
そこから参道が続いているので、しばらく西へ行くと阿由多神社があます。
ここが本丸跡ですな。
現地説明板によると、中勢地域では最大級の平山城とのこと。
神社境内の周囲には土塁があり、一部は基部が大きく、明らかに櫓台跡でした。

 
境内西側には二重の土塁もありました。
堆積物が多いようで、当時は二重の土塁だったのか、それとも間が空堀と言えるほど深く掘られていたのかはちょっと分かりませんけど。
中央が窪みで、右が境内側の土塁です。
左の土塁は、切岸となって落ち込み、その先にも郭がありました。

 
本丸の南側には虎口があり、その下の2段の郭に道が続いていますが、枡形と見られる湾曲があるほか、途中には食い違い部分あり、ちょっと技巧的です。
下の写真が食い違いになっている部分で、この上側に本丸側虎口に繋がる枡形らしき地形が、この下側に2段の郭があります。

 
東側には神社参道が通されていますが、そのちょっと横には枯葉に埋もれながらも虎口がありました。
ややえぐられたような地形があり、往時には桝形か堀があったのではないかと思われます。
ただ、説明板を見ると、ただののっぺりとした虎口なんですけどね。
本丸側から見たのが下の写真で、中央の溝みたいな所が虎口跡です。
この下は鬱蒼とした竹林で、堆積物などで元の地形がかなり不鮮明になっていました。

 
本丸下から東方向には、空堀を挟みつつ、なだらかな方形の削平地が段々に続いており、上級家臣の居住地だったのかもしれません。
下の写真は参道付近なんですが、上の段と下の段の郭、そして間の空堀が分かりますかね。

 
この東側は、本丸への東西方向に穿たれていた最初の空堀が北へうねりつつ続いて城を二分し、その空堀の東には、まだなだらかな削平地が続いていました。
なるほど、これはかなり規模が大きい。
空堀の先は、歩ける範囲で道の左右に2段ずつ4段の郭が確認できましたが、縄張図を見ると、更に東にもまだ郭があるようです。
のっけからえらい城に当たったもんですわ。
まだ8:30というのにテンションが上がってしまう(笑)
 
つづく
 
参考:
安濃城
地図付きはこちら
 

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