2015年11月5日木曜日

津山藩森家の分裂

前回、ようやく乃井野藩と関連がある、森長継のところまで到達しましたね。
ふと記事を見かけて書いただけやのに、えらい長くなってしまった・・・
というわけで、乃井野陣屋の三日月藩誕生のきっかけと、津山藩森家の分裂のお話です。
 
津山藩藩祖森忠政の跡を継いだのは森長継。
彼は、前回書いたように、忠政の外孫でした。
父は関成継。
なので、正確に書くと、関系森氏ということになりますね。
ま、江戸時代の大名はギラついた武将成分を排除して象徴化したのが草食化を招いたのか、戦乱での討死が無い割に、嗣子無く断絶というパターンが多く、家の存続の為に養子が乱れ飛びます。
例えば、財政再建を果たした名君として知られる上杉鷹山治憲は秋月氏の出で、祖母が上杉氏出身という薄~い繋がりでした。
外孫どころか、上杉氏の血で見ると外曾孫なわけですね。
更に言えば、この秋月氏に嫁いだ女性の父親は上杉綱憲で、父は有名な吉良上野介義央です。
つまり、吉良系上杉氏でした。
大名同士は婚姻が進んでいますから、遠縁を辿ればどこかに血を持った次男坊、三男坊がいるという状態だったわけです。

話を戻しますが、長継は外孫とは言え、森家中の人間であり、祖父忠政が個人的にいつでも会えるような近い孫でした。
上杉氏に比べれば相当近しいことがわかるでしょうか。
このように身近な孫を後継者に選んだ忠政が、寛永11年(1634)に没すると、順調に長継が家督を継ぎます。
長継政権は長期政権で、隠居は延宝2年(1674)と、40年間も続きました。
途中、弟関長政に2万石弱を分知して宮川藩という支藩を興させています。
また、長継は非常に子沢山で、男児だけで一説に24人もの子があったといわれるほどでした。
側室は10人。
英雄色を好むを地で行く人ですな。
ただ、乱世では子が死ぬ機会も多く、他家へ乗っ取りの為に養子に出すということも頻繁で、メリットがあるのですが、平時は嫡男以外は部屋住みとして可も無く不可も無く人生を終えていくのが一般的でした。
他家の養子にと声が掛かればラッキーで、時には相続争いの種になるなど、そうメリットは多くありません。
というわけで、長継も例に洩れず、男児を弟の養子として出しています。
先に出た次弟長政に六男or九男の長治を、三弟関衆行には九男or十二男の衆利を、押し込む押し込む。
いや、想像ですけどね(笑) 
というか、子供多すぎて順番に諸説あるってどんだけ(笑)
また、養子だけではなく、隠退後に五男長俊に1万5千石を分知し、津山新田藩を興させてもいます。
ただ、肝心の嫡男忠継は早世してしまっていて、と言っても30代後半だったわけですが、嫡孫として長成がおりました。
しかし、長成は寛文11年(1671)生まれで、長継が隠退する頃はまだ幼児であった為、長継はリリーバーとして三男or五男の長武を指名しています。
長武がリリーバーとして10年余りを中継ぎし、甥長成へと家督が渡されたのが貞享3年(1686)。
長武は、隠居料2万石を得てめでたく隠退・・・というわけではなく、どうやらその2万石で支藩設立を目論んだようですが、親父より先に死んでしまった為、うやむやになりました。
親父、生物として強すぎ。
その後、元禄10年(1697)に長成が子も無いまま27歳で早世してから、森家はバタバタとなっていきます。
長成の末期養子として指名されたのが、さきほど長継の弟の養子となっていた衆行。
上から順番というのではなく、しかも他家の養子として出ていた衆行が何故指名されたのか、事情はよく分かりませんでしたが、衆行は急遽森姓に復し、将軍の謁見を受ける為、江戸へと向かいます。
しかししかし。
この衆行さん、ちょっと本音をズケズケ言ってしまう人だったようで、伊勢で病に倒れた挙句、政策批判をやってしまいます。
時は5代将軍綱吉の治世、野良犬すらお犬様と崇められていた生類憐れみの令の真っ只中。
気持ちはよく解ります。
しかし、現代のように言論の自由はありません。
あえなく、森家は改易となってしまいました。

森家にとって救いだったのは、長継の生物的強さ。
先々代当主だった長継がいまだ健在で、しかも直系の子供も沢山いました。
幕府も、恨みを持ちかねない人間が多数いるのは厄介だったのか、それとも温情だったのか、事実上、分割した上で存続を許しています。
具体的には、支藩として成立していた宮川藩、津山新田藩の存続を認め、長継が貰っていた隠居料2万石もそのまま安堵して西江原藩を立藩させました。
こうして、西江原藩は長継から八男長直に引き継がれ、後に赤穂藩浅野内匠頭長矩の赤穂事件での改易から5年後に赤穂藩主となっています。
宮川藩は、長継の弟長政から長継の子で養子となっていた長治が継いでいましたが、津山藩改易に伴って備中新見1万8千石に移されました。
そして、分知を受けていた津山新田藩主で長継の五男長俊は、津山藩改易で三日月1万5千石へ移され、元禄13年(1700)頃に乃井野陣屋を完成させたのです。
いや~、ようやく乃井野陣屋に辿り着きました。
森家、事件有りすぎ。
最後に、森家とその周辺の系図を付けときます。
文中に登場した人物は太字になってますので、追ってみて下さい。
あと、数字は生年です。
ややこしさが解ると思うので(笑)

 
参考:
乃井野陣屋
津山城
新見陣屋
赤穂城
地図付きはこちら 兵庫 岡山
 

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