2015年2月28日土曜日

クラッチレバー交換

ふと思い立ち、バイクのクラッチレバーを交換してみました。
ツーリング先での転倒対策で可倒式。
そして、よく見る調整機構も付いたやつです。
今のままでも問題ないのですが、もう少し近ければいいかなって感じで。

しかし、しかし。
交換してみて解ったこと。

これ、あかんやつや。

そう、ダメなんです。
調整機構はダイヤルになってたんですが、そのダイヤル部分が握りこむとスイッチボックスに当たる・・・
なんで?
車種対応品ちゃうの?
いやー、対応車種の表記なんて適当なもんですな。
クラッチの遊びを目一杯調整すると、一番開いた状態で握りを一番浅くしたセッティングが一番当たらないんですが、表示切替のスイッチには軽く当たる。
普通に走ってるとトリップメーターが切り替わったり、時計表示も知らない間に変わってたり・・・
しかもこのセッティングでは純正とほぼ変わらん握りの深さ(泣)

調整機構の意味無ぇー!

なんか見た目だけ無駄にカッコ良くなりましたが、やっぱり戻しました。
ツーリングに持っていく予備部品行き。
ある意味、転倒対策にはなったんですがね(苦笑)
しかし、車外品なんて適当だねぇ・・・
 

2015年2月23日月曜日

兵庫城 その5

去る1/31に、兵庫城の発掘調査の現地説明会がありました。
その資料は下で見ることができます。

http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/estate/hyougotu62-3.html.pdf

いよいよ、発掘調査の本丸たる城の遺構がメインということで、今回は資料に飽き足らず、頑張って現地まで行ってきました。
時間の都合で、説明を聞くことはできませんでしたが。

今回の発掘では、城の二重の堀が検出された事がメインです。
多分、これは元禄期の絵図にもあることから、予定通り。
ただ、本丸への虎口が絵図と違って2ヶ所あったことと、馬出のような感じだった二ノ丸が帯郭のような形である可能性が出てきた事が、新たな発見ですね。
元禄図は、城から行政施設の意味合いが濃い陣屋になってから、かなり経って描かれたものですから、当然のことながら、形が初期から変わっている可能性も高いわけです。
特に二ノ丸や内堀は、東から北に掛けて半周していたとすれば、かなり役割が違い、より軍事的性格が強い場所となりますね。
ただ、その先が運河で無くなっているだけに、検証のしようがないとは思いますが・・・

現地での写真はこんな感じ。

 
これは、良好な感じで100m以上も残っていた外堀の南側の基部。
戦国期らしい野面積で武骨です。

 
これは二ノ丸から内堀と奥の本丸。
右手奥には二ノ丸から本丸への土橋の石垣が見えますね。

説明会の日はとてもとても寒い日だったんですが、思いのほか、人が多く来てました。
バスや地下鉄で行かないと行きにくい場所なんですが、予想以上の注目度だったようです。
いや~、なかなか侮れない!
 
参考:
兵庫城
地図付きはこちら
 

2015年2月14日土曜日

千葉さんのややこしや~

去年の秋に佐賀に行った関係で、最近は肥前千葉氏界隈の事を調べていました。
肥前千葉氏と言えば、佐賀藩祖の鍋島直茂が幼い頃に養子になっていた事で、多少は知られているんじゃないでしょうか。

この肥前千葉氏の誕生のきっかけは元寇です。
肥前小城の領地を、当主である千葉頼胤が持っていた関係で、九州領主として防衛を命じられ、九州へと下ったのが最初。
この頼胤、文永11年(1274)の文永の役に参戦しまたが、戦傷を負い、翌年に没してしまいます。
しかし、依然として元の脅威は去らない。
お役目はそのままです。
そこで、長男宗胤が元服しないまま九州へ下り、父の役目を引き継ぎました。
残された千葉の本領では次男胤宗が留守を守っており、後に惣領を継ぐ事になります。
長男宗胤と次男胤宗。
宗胤胤宗。
・・・。
頼胤死去に伴い子宗胤が九州へ下り頼胤の次男で宗胤の弟である胤宗が千葉の本領に残ったが後に胤宗が惣領となった。
・・・・・・ゲシュタルト崩壊しそう。

いや、まだここまではいい。
この後が問題。
この兄弟のそれぞれの子供は、胤貞と貞胤。
これが惣領を巡って争うんですわ。
胤貞貞胤。
・・・。
頼胤死去に伴い子宗胤が九州へ下り頼胤の次子で宗胤の弟胤宗が千葉に残って惣領となったが宗胤の子胤貞は惣領を取り戻すべく胤宗の子貞胤と対立。胤貞は貞胤の千葉荘を攻め胤貞の上洛後に貞胤は胤貞の千田荘を襲うが後に北朝方に降伏。胤貞が貞胤の護送を任され惣領に復帰すると目されたがその帰路の三河で病没し結局は貞胤が惣領となった。

ややこしや~

事跡を追うのに混乱するわ!(笑)
このややこしさの原因は、北条氏による偏諱にあります。
歴代を並べてみると、

北条氏得宗家
    経時-時頼-時宗-貞時
千葉氏
    時胤-頼胤-宗胤-胤貞
            ∟胤宗-貞胤

足利氏でも、
    泰氏-頼氏-家時-貞氏
となっているように、得宗家からの偏諱の一文字+その家の通字という名が多いですね。
得宗家の通字である「時」は珍しく、通字ではない方の字の偏諱が多いという傾向も見えます。
ちなみに、泰氏の「泰」は、北条経時の祖父でその前の当主でもある泰時からでした。
それからもうひとつ。
戦国時代に慣れていると、大内氏や大友氏なんかはそうですが、その家の通字+偏諱の一文字というパターンが多いのですが、鎌倉時代は逆になっていることが多かったようです。

この法則を千葉氏に当てはめてみると、時胤、頼胤はもちろん、宗胤も惣領としての名となります。
対して、胤宗は字順が逆になっていることから、庶子という扱いでした。
これが胤宗が惣領を継いだ後では、本来惣領筋だった胤貞は庶子としての名となり、貞胤が惣領として扱われたことが解ります。
なかなか、厳密な運用ですな。
惣領かそうでないかはかなり重要だから当たり前か。
でも・・・兄弟で前後の字が逆ってのはややこしいぜ(泣)
 

2015年2月10日火曜日

自己責任と役割

最近、ISILによって日本人が殺害されるという事件がありましたが、必ず出てくるのが自己責任論。
自分は、危険地帯に立ち入るのは自己責任だと思う方ですが、各メディアやネットを見ると、なんか色々一緒くたになってる気がします。

まず、整理すると、外国の情報というのは、一般人では個人ベースで得られる情報はそんなに多くなくて、現地や隣国に置かれた大使館や領事館等による情報収集によって得られる部分が多いはずです。
この大使館等の運営資金は税金。
つまり、その国が安全か否か、という情報の収集と発信は政府の責任です。
ここまでは当たり前の話。
で、この先。
その危険であるという情報を知った上で行動するのは、どこに責任の所在があるのか。
ここは、やはり行動した本人に掛かる部分ではないですかね。
今回、政府は湯川さんに関しては把握してなかったようですが、後藤さんに関しては把握しており、3回も渡航自粛要請をしている。
また、かなり前からシリアやイラクに関しては退避勧告も出している。
これは、危険情報の中では最も重いランクです。
更には、後藤さんも自己責任というのを強調した動画を撮っていました。
本人の自覚もあったわけですね。

しかし、この自己責任論と、救出云々の話はまた違う話です。
国には、国民、つまり国籍保有者の生命と財産を守る義務があります。
その過程がどうであれ、つまり責任の所在がどこにあろうとも、救出はしなければなりません。
やらざるを得ないわけです。
それが国としての義務、役割だから。
自己責任だからほっとけばいい、という訳にはいきません。
政府の責任だから救え、というのもまた違います。
責任は観念論みたいなものですが、役割というのは実務です。
好悪善悪は脇に置き、どこに責任があろうが、発生したものにはしっかりと対処するのが当たり前なんです。
この辺り、きっちりと分けておいて欲しいですね。
 

2015年2月5日木曜日

両毛・新潟ツーリング その12

前回のあらすじ

蔵王堂城、栃尾城、順調!
天気も良くて気持ちよし。
 
栃尾から向かうのは与板。
与板の本与板城も13年前のリベンジで、その時は城の案内図のある麓までは行ったけど、登城せずじまい。
長岡に泊まって、新潟へ向かう途中で寄ったっけ。
懐かしいですわ。
ただ、栃尾から与板方向には目ぼしい国道が無いので、現地で県道を確認しながら西方向へ直線的にルートを選択していきます。
田舎でこういうルート選択の仕方をすると、信号が少なくて停車時に確認するということもできないので、感覚的な方向と直感で選択することになるんですが、これ以上無いというぐらいのベストな選択をする場合と、いつの間にやら逆方向みたいな選択になる場合があります。
まさにギャンブル!
いや、そこは止まって確認せい(笑)
今回は、そういう意味では、ほぼ当たりでした。
途中に見附があるので、その案内表示を参考に道を辿り、県道19号線に出て見附を通過し、南へ緩やかに曲がっているのが解ってすぐ軌道修正。
そして、産業団地から国道8号線に。
後は、与板へは県道20号線しかないので楽勝です。
なんか勝った気分(笑)
誰に?

改めて与板の地図を見てみると、兼続お船ミュージアムとか、幟とか、例の大河ドラマの影響なのか、観光地化が進んだ様子。
前に来た時には、そんな観光地の雰囲気なんてカケラも無かったのに、大河ドラマの影響って凄いもんだ。
肝心の本与板城はと言うと、ここにも幟が立ってましたが、草は刈られておらず、下草が生え放題。
本丸たる実城は楽に散策できましたが、二ノ郭と三ノ郭は遊歩道部分以外がやや藪化しつつある状態です。
そして南郭は、行けなくはないが草木を払う装備が要る状態でした。
大河ドラマやってる頃は綺麗に整備されてたんですかね。
でも人が多いとゆっくり散策できないし、痛し痒し。
ちなみに、与板には本与板城と与板城の2城あって、本与板城から与板城へ与板の主城が移されたと考えられていますが、その時期や並存したかなどはあまりよく判っていません。
13年前に登った与板城は、本与板城よりも急峻で、もっと山城という感じでしたね。
そういう意味では、ある程度状況が切迫した背景があったのかもしれません。

城を散策してみると、実城には何故か城址碑が2つありました。
その1。

 
その2。


この碑の後ろにある盛り上がりは土塁です。
実城は四周をほぼ土塁が囲っていたようで、非常に良好に残ってる部分もありました。
続いて二ノ郭。
藪化しつつある部分とすっきり下草の無い部分があるけど、何故なのか。

 
次は三ノ郭。
何故か二ノ郭よりも下草が無くて散策し易かったという(笑)

 
城へアクセスする道路がちょうど工事中で、途中でバイクを置いて城に行ったんですが、工事が終わってから城内の整備に取り掛かる予定だったのかもしれません。
でも季節が季節なんで、整備してもすぐ草だらけになりそう・・・
あと、13年前の案内板のイメージの場所が無かったんですが、城へ行くルートは別にもあるんですかねぇ
 
与板からは、再び国道8号線近くまで戻って、中之島見附I.C.から北陸道でビューンとひとっ飛び。
いや、まだだ、まだ終わらんよ。
金色じゃない青いマシンで呟いても様になりませんが、まだリベンジは終わらない。
13年前に薄暮の中で撤退した柏崎がある!
柏崎I.C.まで北陸道で走って、国道8号線に下り、西へ行けば目的地はすぐそこです。
例の如く、1度行き過ぎて米山台でターンして来ましたが(笑)
目的地とは、枇杷島城!
宇佐美定行のモデルと言われる宇佐美定満の居城です。
城跡は、前に訪れた当時は柏崎農業高校、現在は柏崎総合高校と呼ばれる高校になっていて、はるか昔は土塁なんかが残っていたらしいですが、今は城址碑しかありません。
その城址碑が目当て。
それしかないんですが、その碑さえ見れればちゃんと行った気になるという(笑)
で、撮ってきました。

 
これ以上無い満足ですわ。
これで、13年前に鵜川を眺めて佇んでいた自分自身も浮かばれることでしょう。
いや、死んでませんけども。
ついでにその鵜川。

 
往時は曲がりくねった川で、枇杷島城の堀の役目を果たしていました。
今は河川改修で直線的になってますけどね。
 
まだ3日目の昼時ですが、ここで今回のツーリングは撤収。
こっから高速をぶっ放しても、帰宅は夜。
新潟遠いっす!
帰りは京都ナンバーの軽と大阪ナンバーのマークXとで、抜きつ抜かれつの同じペースで走行。
全く知らない同士ながら、妙に親近感が湧きます。
そのランデブーも敦賀I.C.で終了して、こちらは下道へ。
この日没間近の時間、京都大阪を通るのは危険。
草津や瀬田の渋滞が待っている。
昔は天王山トンネルという如何ともし難い渋滞大王が居ましたが、トンネル4本化以降は大人しいもので、あの頃に比べたらどうってことはないけどもね。
若狭の辺りも、舞鶴若狭道が全通して北陸道と接続すれば、もう少し早く通過できるかな?
待ち遠しいですな(^^)
全通したら、北陸へ行こう!
 
1日目:621.8km
2日目:403.5km
3日目:765.9km  合計:1791.2km
 
参考:
本与板城
与板城
枇杷島城

地図付きはこちら
 

2015年1月30日金曜日

両毛・新潟ツーリング その11

前回のあらすじ

坂戸山パネェ!
長岡城存在感薄し。
 
長岡城で念願のリベンジを果たし、次に向かうのは、同じく長岡の城。
長岡城の前の地域拠点である蔵王堂城です。
このお城を見付けるのは簡単。
地図で長岡駅から真っ直ぐ上へ1.5kmほどの所に視線を向けると、そのまま蔵王という地名があります。
まんまここ。
すごく簡単ですね。
簡単。
簡単なのになぜ見つからぬ・・・
いや~、この辺の道は細いですわ。
大きめの道だけ走ってちゃ、見付かりません。
杜らしき木々を見付けて路地へ入っていくと、ようやく発見できました。
しかし、バイクでよかった。
車ならあんな細い道をぐるぐる探し回るなんて心が折れるかもしれん(^^;)

当時の蔵王権現は、今は金峯神社になってるんですな。
城は、この裏手にありました。
遺構としては、こんな感じで一部の堀と土塁だけが残っている状態。

 
城址碑は、土塁の上に。

 
このように遺構は少ないとは言え、有り難い事に地元の有志がまもる会を結成して保存活動をしておられます。
この日もテントを立てて2人の方がおられました。
史跡巡りをする上で、こういう方々には本当に頭が下がります。

蔵王堂城の歴史について見てみると、すぐ裏が信濃川になっているように、軍事拠点というよりは川の物流や門前町をベースとした商人町の支配、そして利便性がその主目的であったようですね。
古志郡を中心に支配した古志長尾氏の根拠地だったわけですが、戦国時代の初期の段階で古志長尾氏は栖吉に移り、上杉謙信の叔父にあたる長尾為重が城に入ったとされています。
でも、この為重は良質の史料に見えない武将だそうで、この為重を抜くと、確実に城の史実として確認できる事は少なかったりします。
軍事拠点でないのは分かりますが、行政拠点としてもあまり出てこない模様。
上杉家が秀吉政権下で会津に転封になった後は、名人久太郎と呼ばれた堀秀政の子秀治が越後に入り、その弟親良が入城しますが後に出奔。
その後も紆余曲折があり、最終的には秀治の又従兄弟直寄が最後の城主となって長岡へ城を移します。
というわけで、蔵王堂城跡には、歴代城主で一番有名な堀直寄の像が建っているというわけです。
 
長岡市街を走ってて思ったんですが、全体的に道が茶色い。
なんでかな~、地質的なもの?なんて考えながら走ってたわけですが、その内、さてはこれは融雪の水によるものやな?と勝手に結論付けました(笑)
融雪の管が鉄製で、その鉄分が融雪の水に溶け出して道路に出てきたものと。
帰って調べてみると、この融雪設備というのは長岡の今井与三郎という実業家が考案したものらしい。
ほうほう。
つまり長岡が発祥で、当然ながら設備も古い、と。
管が鉄製でっていうのも、ほぼ当たってるんじゃなかろうか。
角栄さんの影響で、そういう土木工事が早かったから、鉄製の管がいまだに使われてるのかなんて思ってましたが、その部分だけは想像の域を出ませんな(笑)
 
そんな事を思いつつ、今度は東へ進路を向け、栃尾へ。
そう、上杉謙信が頭角を現した栃尾城が目的です。
下調べによると、この栃尾城のすぐ下まで車道は延びているが、舗装されていないとのこと。
うむ。
このバイクの真価が発揮できるな。
で、栃尾市街の北側から山へ入っていくと、良いのか悪いのか、駐車場までちゃんと舗装されていました(^^;)
この駐車場から栃尾城本丸までは10分足らず。
すぐに到着です。

 
本丸からの守門岳方面の景色が素晴らしい!
景色もよろしいが、本丸から栃尾市街の方向はスコーンと直線的な崖といっていいほどの急坂で、これも山城らしくてよろしい。
この写真の左下の方向ですな。
覗き込むと落ちてしまいそうな感覚に襲われる。
横から撮るとこんな感じ。
この切岸状のものが山の中腹まで続いています。

 
栃尾城は、本丸と二ノ丸の間の堀切が深く、本丸から松ノ丸、三ノ丸、五島丸へと続く峰と、二ノ丸から中ノ丸、琵琶丸へとつづく峰があり、一城別郭のような縄張です。
ただ、本丸と二ノ丸以外は草が繁茂していて散策しづらい。
季節が季節だけに草刈のタイミングなんかもあるんでしょうけど、大きな堀切が行く筋もあって勿体無いなぁという印象。

 
この中ノ丸と琵琶丸の間の堀切が、写真としては一番映えますかね。
ほかにも大体の郭の間に堀切が穿たれているほか、松ノ丸のところには二重堀切があったりと、見所が多い城です。
それだけに、下草が払われていればもっとしっかりと確認できたのに、惜しい。
そんな状態ですが、意外と訪れている人もいました。
中には親子連れも。
地元の人には、簡単にピクニック気分を味わえる場所なのかもしれませんね。
 
つづく
 
参考:
蔵王堂城
栃尾城

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2015年1月23日金曜日

両毛・新潟ツーリング その10

前回のあらすじ

金精道路・・・
その寒さ、恐るべし。
 
3日目。
ツーリング最終日。
新潟の探索を午前中に終わらせて、長い距離を帰らないといけません。

GWからずっと早朝起床にシフトしてるおかげで、体に疲れは残りつつも、早朝起床に難なく成功。
誰もいない朝風呂を満喫し、6時過ぎにチェックアウト・・・しようとしたらフロントに誰もおらず。
素泊まりで前日の内に清算は済ませていたので、そのまま鍵を置いて出てきました(^^;)
ホテルではそういうことはないけど、旅館で早朝出発しようとすると、まれに出くわす光景か。
何度か体験したことがあります(笑)

五十沢温泉を出発して、第一目標の坂戸城までは、5分を切るほどの距離。
しかし、まだ6時20分と言うのに、坂戸山の登山口の駐車場はほぼ満車でした。
これにはびっくり(^^;)
バイクやから隅に止められたけど、車やったら右往左往するところですわ。
しかし、中高年の登山ブームというのは凄いですな。
坂戸山は登山の山としても人気とは知ってたけど、こんな早朝に駐車場が満車とは思いもよらなかったですわ。
端に止めたバイクのそばでそそくさと準備をして、まずは江戸時代に居館が置かれていた御館へ。
ここには石垣と城址碑がありますが、人っ子ひとりいません。
登山ルートによってえらく差があるみたいです。

 
目論見としては、この石垣を見た後、御館から御居間屋敷を経由して素人に優しいらしい薬師尾根コースへ行こうと思いましたが、残念ながら御館からの登山道がよく分かりませんでした。
なので止むを得ず、一旦駐車場に戻って薬師尾根を麓から登る事に。
ここで若いお姉さん3人組が、一旦降りてきてから再び登る自分を見て、まさか2回目?とか話してましたが、んなことたぁ無い(笑)
しかし、その3人組はとっても軽装で、明らかに観光客のような感じ。
どこでどうなって坂戸山に登る事になったのか、そっちの方に興味が湧きます(笑)
薬師尾根を登り始めて気付いたんですが、この山、麓の部分は登る人が多すぎて、登山道が撫で固められててとても登りにくい。
靴底を引っ掛ける所が少ないんですな。
だからメリハリ無くだらだらと登る感じになるし、ずっと踏ん張ってなきゃいけない。
これが思ったよりハードです。
普通の山道だと、凹凸の中に水平な部分を見つけて体重を乗せると、それだけで足が休まるもんなのですが。
その麓部分を越え、標高が上がってくると、今度は岩が露出した所を渡るような部分もあり、なかなか変化があって面白い道です。
登山道からの残雪を抱えた山の景色は絶景の一言!

 
ただ、絶景なのはいいんですが、尾根道は眺望が開けすぎて直射日光がツライ・・・
豪雪地帯の5月の早朝やからそんなに暑くならんやろ、という予想は見事に覆され、汗ダラダラの登山となりました(^^;)
1度の休憩を挟んで、頂上に到着したのは7時過ぎ。

 
頂上にはやっぱり10数人という多くの人がいました。
中には家族3人で朝食ピクニックしている人も。
まだ幼稚園に行っていないぐらいの小さなお子さんだったんですが、装備を見ると、お父さんが背負って登ってきたみたい。
親父パワー、スゲェーー!
他にも、リアルにおるんかい!と驚いた、今日2回目という初老の方や、どう考えても自分じゃ眠すぎて仕事にならんだろ的な、毎日仕事の前に登っていると言ってる方なんかも居て、凡人には、
ここは修羅の国か!?
としか思えませんでした(^^;)

坂戸城は、この頂上を主郭部として、峰筋に郭を設けた城ですが、段郭になっている部分は少なく、標高の割に平山城的な郭の広さが感じられる城でした。
山上の縄張はこんな感じ。

 
もちろん、細かく見れば、当然段郭はあるんですが、かなり郭としての削平地が広い城です。
全体的にそれが判る写真というのは撮れなかったですが、この本丸にあたる実城の南西側は、こんな感じになっています。

 
視界が広いですよね。
全体的に割と広々としてました。
時間の関係で行けませんでしたが、下は実城から峰筋に続く大城と小城。
 
 
そして、先ほどまで泊まっていた五十沢温泉方向の眺め。
いや~絶景絶景(^^)

 
最後、おまけで麓の内堀と愛車。

 
なかなか登るのに覚悟の要る坂戸城ですが、登って損はない城ですな(^^)
 
坂戸城の次の目標は、長岡城。
これもまたリベンジ。
13年前は長岡に宿泊したにもかかわらず、城を探し当てられなかったという因縁があります。
今回は予習バッチリ(^^)

時間の制約上、六日町から関越道に入ってサクッと長岡へ直行。
長岡I.C.から長岡駅までは、やや距離がありますが、道が広くて爽快に流れます。
交通量に対して、このオーバースペックな道の広さは、田中角栄様々なんですかね?
そうこう考えている間に長岡駅に到着。
駅近くの自転車が並べられている所に止めたんですが、どうも見覚えのある風景。
マップで確認してみると、この周辺にいくつかホテルが点在しています。
13年前もこんな情景の場所に止めた記憶があるので、恐らくこの辺りに止めたんでしょうな。
泊まったホテル名こそ覚えてないけど、全く持ってリベンジ(笑)

長岡城は、戊辰戦争で攻防があった為に荒廃し、維新後はそのまま鉄道用地として活用されました。
つまり、駅がそのまま城跡なのです。
そして、駅前には城址碑が、
ドーーン!

 
と、無い?
ああそうですか。
そりゃ、長岡花火のほうが今は知名度あるわな。
しかし、城址碑もあるはずなのに・・・と探してみると、ありました、ありました。

 
申し訳程度に(笑)
これ、石垣をモチーフにした噴水とは思うけど、後ろの本丸跡の碑が小さすぎて、普通の人にはただの石製噴水と思われてない?
噴水の所の岩は、石垣に使われたような痕跡があって、石材の再利用っぽいんですが、それについても何の説明もありませんでした。
ん~残念。
しかし、まだ長岡城の痕跡はあるんです。
駅前のアオーレ長岡という市役所一体型の建物の敷地に。

 
ちょっと陰影で判りにくいですが、城址碑と二ノ丸跡の碑、そして説明碑が並んでいます。
一番右は城内稲荷神社の碑ですね。
これも城を指し示すと言えるかも知れません。
兎にも角にも、これで一応はリベンジ達成です。
いや~、宇都宮城といい、長岡城といい、13年越しのスッキリですわ!
 
つづく
 
参考:
坂戸城
長岡城

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