去年の秋に佐賀に行った関係で、最近は肥前千葉氏界隈の事を調べていました。
肥前千葉氏と言えば、佐賀藩祖の鍋島直茂が幼い頃に養子になっていた事で、多少は知られているんじゃないでしょうか。
この肥前千葉氏の誕生のきっかけは元寇です。
肥前小城の領地を、当主である千葉頼胤が持っていた関係で、九州領主として防衛を命じられ、九州へと下ったのが最初。
この頼胤、文永11年(1274)の文永の役に参戦しまたが、戦傷を負い、翌年に没してしまいます。
しかし、依然として元の脅威は去らない。
お役目はそのままです。
そこで、長男宗胤が元服しないまま九州へ下り、父の役目を引き継ぎました。
残された千葉の本領では次男胤宗が留守を守っており、後に惣領を継ぐ事になります。
長男宗胤と次男胤宗。
宗胤胤宗。
・・・。
頼胤死去に伴い子宗胤が九州へ下り頼胤の次男で宗胤の弟である胤宗が千葉の本領に残ったが後に胤宗が惣領となった。
・・・・・・ゲシュタルト崩壊しそう。
いや、まだここまではいい。
この後が問題。
この兄弟のそれぞれの子供は、胤貞と貞胤。
これが惣領を巡って争うんですわ。
胤貞貞胤。
・・・。
頼胤死去に伴い子宗胤が九州へ下り頼胤の次子で宗胤の弟胤宗が千葉に残って惣領となったが宗胤の子胤貞は惣領を取り戻すべく胤宗の子貞胤と対立。胤貞は貞胤の千葉荘を攻め胤貞の上洛後に貞胤は胤貞の千田荘を襲うが後に北朝方に降伏。胤貞が貞胤の護送を任され惣領に復帰すると目されたがその帰路の三河で病没し結局は貞胤が惣領となった。
ややこしや~
事跡を追うのに混乱するわ!(笑)
このややこしさの原因は、北条氏による偏諱にあります。
歴代を並べてみると、
北条氏得宗家
経時-時頼-時宗-貞時
千葉氏
時胤-頼胤-宗胤-胤貞
∟胤宗-貞胤
足利氏でも、
泰氏-頼氏-家時-貞氏
となっているように、得宗家からの偏諱の一文字+その家の通字という名が多いですね。
得宗家の通字である「時」は珍しく、通字ではない方の字の偏諱が多いという傾向も見えます。
ちなみに、泰氏の「泰」は、北条経時の祖父でその前の当主でもある泰時からでした。
それからもうひとつ。
戦国時代に慣れていると、大内氏や大友氏なんかはそうですが、その家の通字+偏諱の一文字というパターンが多いのですが、鎌倉時代は逆になっていることが多かったようです。
この法則を千葉氏に当てはめてみると、時胤、頼胤はもちろん、宗胤も惣領としての名となります。
対して、胤宗は字順が逆になっていることから、庶子という扱いでした。
これが胤宗が惣領を継いだ後では、本来惣領筋だった胤貞は庶子としての名となり、貞胤が惣領として扱われたことが解ります。
なかなか、厳密な運用ですな。
惣領かそうでないかはかなり重要だから当たり前か。
でも・・・兄弟で前後の字が逆ってのはややこしいぜ(泣)
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