2015年1月30日金曜日

両毛・新潟ツーリング その11

前回のあらすじ

坂戸山パネェ!
長岡城存在感薄し。
 
長岡城で念願のリベンジを果たし、次に向かうのは、同じく長岡の城。
長岡城の前の地域拠点である蔵王堂城です。
このお城を見付けるのは簡単。
地図で長岡駅から真っ直ぐ上へ1.5kmほどの所に視線を向けると、そのまま蔵王という地名があります。
まんまここ。
すごく簡単ですね。
簡単。
簡単なのになぜ見つからぬ・・・
いや~、この辺の道は細いですわ。
大きめの道だけ走ってちゃ、見付かりません。
杜らしき木々を見付けて路地へ入っていくと、ようやく発見できました。
しかし、バイクでよかった。
車ならあんな細い道をぐるぐる探し回るなんて心が折れるかもしれん(^^;)

当時の蔵王権現は、今は金峯神社になってるんですな。
城は、この裏手にありました。
遺構としては、こんな感じで一部の堀と土塁だけが残っている状態。

 
城址碑は、土塁の上に。

 
このように遺構は少ないとは言え、有り難い事に地元の有志がまもる会を結成して保存活動をしておられます。
この日もテントを立てて2人の方がおられました。
史跡巡りをする上で、こういう方々には本当に頭が下がります。

蔵王堂城の歴史について見てみると、すぐ裏が信濃川になっているように、軍事拠点というよりは川の物流や門前町をベースとした商人町の支配、そして利便性がその主目的であったようですね。
古志郡を中心に支配した古志長尾氏の根拠地だったわけですが、戦国時代の初期の段階で古志長尾氏は栖吉に移り、上杉謙信の叔父にあたる長尾為重が城に入ったとされています。
でも、この為重は良質の史料に見えない武将だそうで、この為重を抜くと、確実に城の史実として確認できる事は少なかったりします。
軍事拠点でないのは分かりますが、行政拠点としてもあまり出てこない模様。
上杉家が秀吉政権下で会津に転封になった後は、名人久太郎と呼ばれた堀秀政の子秀治が越後に入り、その弟親良が入城しますが後に出奔。
その後も紆余曲折があり、最終的には秀治の又従兄弟直寄が最後の城主となって長岡へ城を移します。
というわけで、蔵王堂城跡には、歴代城主で一番有名な堀直寄の像が建っているというわけです。
 
長岡市街を走ってて思ったんですが、全体的に道が茶色い。
なんでかな~、地質的なもの?なんて考えながら走ってたわけですが、その内、さてはこれは融雪の水によるものやな?と勝手に結論付けました(笑)
融雪の管が鉄製で、その鉄分が融雪の水に溶け出して道路に出てきたものと。
帰って調べてみると、この融雪設備というのは長岡の今井与三郎という実業家が考案したものらしい。
ほうほう。
つまり長岡が発祥で、当然ながら設備も古い、と。
管が鉄製でっていうのも、ほぼ当たってるんじゃなかろうか。
角栄さんの影響で、そういう土木工事が早かったから、鉄製の管がいまだに使われてるのかなんて思ってましたが、その部分だけは想像の域を出ませんな(笑)
 
そんな事を思いつつ、今度は東へ進路を向け、栃尾へ。
そう、上杉謙信が頭角を現した栃尾城が目的です。
下調べによると、この栃尾城のすぐ下まで車道は延びているが、舗装されていないとのこと。
うむ。
このバイクの真価が発揮できるな。
で、栃尾市街の北側から山へ入っていくと、良いのか悪いのか、駐車場までちゃんと舗装されていました(^^;)
この駐車場から栃尾城本丸までは10分足らず。
すぐに到着です。

 
本丸からの守門岳方面の景色が素晴らしい!
景色もよろしいが、本丸から栃尾市街の方向はスコーンと直線的な崖といっていいほどの急坂で、これも山城らしくてよろしい。
この写真の左下の方向ですな。
覗き込むと落ちてしまいそうな感覚に襲われる。
横から撮るとこんな感じ。
この切岸状のものが山の中腹まで続いています。

 
栃尾城は、本丸と二ノ丸の間の堀切が深く、本丸から松ノ丸、三ノ丸、五島丸へと続く峰と、二ノ丸から中ノ丸、琵琶丸へとつづく峰があり、一城別郭のような縄張です。
ただ、本丸と二ノ丸以外は草が繁茂していて散策しづらい。
季節が季節だけに草刈のタイミングなんかもあるんでしょうけど、大きな堀切が行く筋もあって勿体無いなぁという印象。

 
この中ノ丸と琵琶丸の間の堀切が、写真としては一番映えますかね。
ほかにも大体の郭の間に堀切が穿たれているほか、松ノ丸のところには二重堀切があったりと、見所が多い城です。
それだけに、下草が払われていればもっとしっかりと確認できたのに、惜しい。
そんな状態ですが、意外と訪れている人もいました。
中には親子連れも。
地元の人には、簡単にピクニック気分を味わえる場所なのかもしれませんね。
 
つづく
 
参考:
蔵王堂城
栃尾城

地図付きはこちら

0 件のコメント:

コメントを投稿