2020年6月18日木曜日

第201通常国会閉会

コロナで非常にバタバタした印象のある通常国会が、閉会しました。
コロナがやや落ち着いて来た情勢でもあるし、野党は相変わらず建設的な議論ができないし、河井夫妻の捜査もありますし、閉じてしまって良かったと思います。
特に、河井夫妻は国会議員ですから不逮捕特権もありますし、100%の確率で野党が検察の真似事をするでしょうしね。
国会を開くのもお金が掛かりますから、本筋の特捜部に任せるのが一番ですな。
ちゃっちゃと捜査してやって下さい。
 
で、今回の国会で決める事無く保留されたものに、9月入学があります。
これに関しては、現状維持で取りあえずは良かったと思いますね。
何故なら、メリットが少なすぎるから。
国内においては、会計年度が4月からということで予算編成が容易ですし、会計年度に合わせて3月末で決算という企業も多いのが現状です。
つまり、国内状況としては、現状で結構合理的なんですよね。
そうなると、入学時期を9月にすることで色々とずれが生じ、かなりの混乱が予想されます。
採用に関しては、通年採用に移行して終わりでしょうが、扶養する側としては半年分の計画のずれが生じますし。
ただ、それよりも、個人的には「コロナの混乱に合わせて半年遅らせる」というのに対して、デメリットが大きすぎると感じますな。
なぜなら、これを実施すると、日本は世界に比べて1年遅れになるからです。
世界的に見て、入学月は8月~9月にかけてが多く、グローバルスタンダードと言えますが、4月生まれで例えると、6歳半での入学なんですね。
日本で4月生まれだと7歳。
半年遅らせれば7歳半です。
9月入学推進派は、グローバルスタンダードに合わせるというのを大義名分にする場合が多いですが、今回のように半年遅れで入学させるとグローバルスタンダードから外れるんですね。
このグローバルスタンダードに合わせると言いながら外れることになる矛盾。
すごくモヤモヤしてました。
あと、留学生が来にくいから制度的に来やすいようにする、というのも理由としてよく語られますが、9月入学の中国から山ほど留学生が来とるやないかい、と。
結局は大学の魅力なんですよね。
その本質的な部分を何とか改善しないと、小手先の変更に終始するだけで、混乱という無駄なコストが掛かるだけ。
ま、中国から沢山来るのは、バイトができるというのが最大の魅力なんで、理由がアレなんですが・・・
ともかく、9月入学をやるとしても、半年前倒しですな。
半年遅らせるのはデメリットが半端なく多すぎます。
また、早生まれは不利という事で計画出産した家庭もありますから、導入の相当前から議論と周知を進め、幼稚園の入園時から切り替えないといけません。
 
個人的な考えとしては、この9月入学に関しては2期制の徹底でいいんじゃないかと思うんですけどね。
どうせ単位は前期後期で判定されるわけですから、それを徹底して、規定の単位数を取得すれば3年半で卒業も可とするというのでもいいと思います。
留学生は後期から入学でいいでしょう。
高等教育機関なわけですから、優秀な人はどんどん先に進んでもらう。
我が友人のように勉強が好きということで5年で卒業した人もいますが、これが1単位や数単位の差で卒業を逃したという人なら、4年半で卒業できるという道も開けます。
文系で、4回生は数単位だけで後はほぼ就職活動みいな訳の分からない状態も、さっさと3年半で卒業すれば改善できるでしょう。
お金持ちの家は、モラトリアムをたっぷり楽しめばいいですが。
採用は、世界で人材が流動化する中、経団連なんかは移行したがってますから、前述のように通年採用で問題ないでしょう。
3年半で卒業して半年インターンというもアリですしね。
学費がその分安くなれば、返済型奨学金を受けている苦学生も楽になるし、扶養する側も助かる。
大学の経営は、その分、大変になるかも知れませんが・・・
こんな制度はいかがですかね?
 

2020年6月11日木曜日

鹿児島熊本ツーリング その11

前回のあらすじ
 
あんなにお城を探したのは久々かもしれん・・・
 
いよいよ本日で鹿児島ともお別れです。
その感慨を胸に、いつものように朝風呂を浴びると、露天風呂のすぐ裏手がマンションということもあって、平日の朝の住宅地の音が、そこにはありました。
平日のホテルの朝風呂。
俺・・・今日も働かんでええんや・・・
これぞ、労働者ならではの、優雅さを感じるポイントですな。
温泉から上がり、朝食バイキング会場に向かうと、これがなかなか眺望の良いレストランで、清々しく朝食を頂けました。
この場所は多分、結婚式やイベントなんかにも使われる場所なんでしょうね。
屋外テラスや照明用の器具なんかもあって、なかなか良さそうな感じでした。
そういえば昨日、ホテルに着いた時にぞろぞろと団体さんが出て来ていましたな。
そういうイベントを盛んに催しているホテルなのかもしれませんね。
 
ゆったりと過ごせたホテルキングを出て、向かうのは出水城。
宿をここにしたのも、出水城から近いからです。
18年前に辿り着けなかった城ですなのが、調べてみると、城の大部分は立入禁止になっているようでした。
そりゃ辿り着けんわ。
でも、城のすぐ近くまで行けるようなので、観光名所となっている武家屋敷の裏山にあたる城山の方向へと進んで行きます。
出水城は、最初は肝付氏系和泉氏が築城し、そのまま出水の地を支配していましたが、やがて島津氏系和泉氏が支配するようになり、その断絶後の享徳2年(1453)に、宗家の久豊の子用久が入城して薩摩守を名乗ったことから、島津薩州家の城となりました。
この薩州家は、島津忠良・貴久父子と壮絶な家督争いを演じた実久を出したことで有名です。
実久は、一時は実質的に島津当主として振る舞ったとされますが、やがて忠良・貴久父子に追い落とされ、実久の子義虎は貴久の子義久に臣従しました。
義虎の子忠辰はこれに不満だったようで、朝鮮の役の際に軍務を怠り、それによって改易され、秀吉の直轄領を経て島津宗家が領する事になったようですね。
この間、城の動向は不明となりますが、江戸時代の島津家の外城制度が最も早く始められたのがこの出水とも言われ、城はともかく、出水の地は領境に近いことから、島津家は重視していたようです。
さて、その出水城ですが、国道328号線のすぐ北側の城山墓地がその一部ということで、墓地へと向かう細い道をゆるゆると上って行くと、やがて駐車場に到着しました。
この駐車場の向かいの細長い公園が、花見ヶ城と呼ばれる城の郭の跡です。
 
 
公園には、説明板もありました。
 
 
縄張図を拡大。
 
 
この写真の左端が花見ヶ城です。
名前からすると、桜でも植えられていたんでしょうか。
しかし、この公園の大きさから想像すると、他の郭を含めた城の規模は相当大きいことになりますね。
さすがは宗家継承まであと一歩だった薩州家の居城といったところ。
この花見ヶ城の横にふと目をやると、遊歩道の階段がありました。
 
 
これは典型的な、シラス台地を利用した群郭式の城ですな。
階段の勾配がエグい。
さて、問題の主郭部分ですが、予想通り立入禁止でした。
 
 
道があるので、いつか城跡として散策できるよう整備して欲しいところですね。
この奥に花見ヶ城と同じような大きさの郭が7つほどあるはずなんですから。
メジャーな観光地・・・にはならないかもしれないですけど、自分みたいな物好きはいっぱい来るはず(^^;)
最後に、公園の崖から出水市街。
 

実久もここから城下町を見ていたんですかねぇ
 
いよいよ、丸2日間滞在した鹿児島に別れを告げて、熊本へと入って行きます。
国道3号線を北上して行くんですが、意外と交通量が多いんですよね。
まだ高速道路が開通してないのもあるんでしょう。
緩慢な流れのまま、県境を越え、水俣市街を過ぎ、国道3号線が再び山へ入ろうとした時、城山という文字が見えました。
ここですかさず右折。
曲がったすぐ先に水俣城がありました。
危うく行き過ぎる所でしたね。
ナイスな判断(^^)
水俣城は、肥後南部の芦北郡の要衝で、相良氏が戦国時代の前夜から支配しており、相良氏の内訌や、北上する島津氏との戦いで度々登場する城です。
以前にも来たことがあるんですが、その時は近世城郭部分しか見ていない為、再訪する事にしました。
国道3号線から下ってきたのがちょうど公園の東側だったので、東の中世城郭の部分から散策していきます。
水俣城は激戦を繰り広げた城ですから、相応の規模を持っていたと考えると、地形から見て、この公園東側の道は空堀で、水俣第一中学校に掛けてか、更にその東に掛けても城が続いていたような気はするんですが、収容人数的にそこまでの規模が必要だったのか、どうだったんでしょうね。
ま、想像はその程度にして、公園内部へ。
まずは中世城郭部分の頂上へ。
 
 
比高は20m強といったところでしょうか。
段状の場所がいくつもあって完全に城跡という趣ですが、この部分から遺構は検出されていないという話もあります。
しかし、城以外には考えられない地形なんですよね。
最上段から次段を眺めるとこんな感じ。
 
 
どう考えても城の段郭なんですよね。
下は上から数えて3段目の削平地。
 
 
上から数えて4段目の付近には、西南戦争での薩軍の慰霊碑もありました。
水俣は主な行軍路では無かったようですが、それなりの戦闘があったようです。
 
 
そして、広大な4段目。
この削平地は、後世に改変されて広げられたような感じがしますね。
当時からこの大きさなら、居住空間だったと思われますが、どうなんでしょうか。
  
 
中世城郭と近世城郭の間に、説明板と城址碑がありました。
 
 
水俣城は、後に肥後が加藤清正に与えられた際に大幅に改修したようで、加藤家独特の巨石の石垣が顔を見せています。
なんとなく、佐敷城の雰囲気に似ていますね。
 
 
石垣のラインの屈曲部分も残っていました。
この上に石垣があったなら、なかなか壮大な城跡だったんですが、残念。
 
 
近世城の中にはよく分からない窪んだ部分も。
井戸にしてはちょっと形が違うしなぁ
 
 
近世城の本丸部分近くの石垣。
探せば結構あるんですよね。
 
 
近世城の本丸たる最上部。
木々が鬱蒼と茂っています。
 
 
中世城をじっくりと散策できて、とても満足しました。
 
つづく
 
参考
出水城
水俣城
地図付きはこちら→鹿児島県熊本県
 

2020年6月5日金曜日

アベノマスク届きました

ようやくアベノマスクが届きました。
周囲にも届いているようです。
今更・・・という感は否めず、やっぱり評判は悪いですねぇ
個人的には、運用的にはなかなかいいアイデアだと思ってるんですが。
 
例えば、何か商売をしてて大量の受注があった場合、当然、卸から商品を掻き集めますよね。
ところが流通在庫が空っぽという場合、どういう手を打つか考えてみると、次はメーカーへの問い合わせでしょうか。
メーカーに在庫あるか?と。
需要が厚いなら、無いならリベート出すから作ってくれ、という小売りも出てくるかもしれません。
3月ごろの状況で言えば、これがマスク製造に対する補助金と同じなんですな。
そして、メーカーに手当てもしたけど、当面の需要に何とか応えなければいけない。
次に考えられるのは代用品です。
似たような品物で代用できないか、と。
これが布マスクなんですよね。
日本政府の取った対策というのは、こういう民間でも発生するような流れであって、当然の対策でもあるんですな。
布マスクの代用性というのは早くからネットでは周知されていましたが、状況がコロコロ変わる状況で、生産機械や工場の系統が違うことでリソースの取り合いにならないというのは、無駄な混乱を抑えられる非常に良いアイデアなんですよね。
しかも、あの混とんとした状況で1億5千万枚という大量の発注を消化したというのは、なかなか凄いんじゃないかと思うわけです。
ただ、この辺りは商社の頑張りが称賛されるべきだとは思ってますが。
いずれにしろ、そんなに叩かれることか?というのが正直な感想です。
4月末から配布してまいすから、発注時期は恐らく3月前半から半ばというところでしょう。
その頃はマスクは完全に在庫が払底してて、もの凄い高値になっていた時期です。
正規ルートの補助金は既に出していて、それを利用して参入する企業は製造設備の設置に取り掛かっていましたが、製造はまだ先。
じゃあどうする?
別のルートで代用品だな、という話になったわけですが、経緯を見ると合理的な判断だったと思います。
それとも、あのまま補助金以外の対策をしなかった方が良かったんでしょうか。
GW前からマスクの輸入が可能になりましたが、それはマスク外交をしていた中国国内が落ち着きを見せたのと、ブローカーが価格下落を見越して放出したからですが、そんな予測が難しい外部要因に頼った運営が良かったんでしょうか。
中国がマスク輸出を解禁しなければ、恐らく今でもマスクは品薄ですからね。
今、手に入るというのは、ただの結果論にしか過ぎません。
価格にしてもそう。
 
政府の布マスクの契約額が260億円になる見込み 以前より約200億円圧縮
https://news.livedoor.com/article/detail/18348449/
 
上の記事にもありますが、総額は260億円になる見込みです。
260億円で1億5千万枚。
つまり、1枚173円(送料込み)
そんなに高いですか?
あと、現金を配った方が良いなんて意見も見かけましたが、それは10万円の給付で別途手当してますし、当初予算の460億円を国民に配っても400円弱にしかなりません。
こういう緊急事態の際は、色々な対策を打ちますから、その内のひとつにフォーカスを絞ってやいのやいの言ってもしょうがないと思うんですがねぇ
もちろん後の検証は必要ですから、議事録を残していないというのは論外ですが。
あと、非常時の予算というのは、通年の予算と違って厚めに確保して事後清算となります。
マスクもそうですが、スピードが必要な緊急対策は、足りなくなるとストップしてしまうので、止まらないよう厚めに用意するんですね。
で、後で清算して使用予算を確定するわけです。
この仕組みはマスコミがちゃんと説明するべきだと思うんですが、その仕事を全然せず、センセーショナルな数字ばかりを報道してるんですよね。
非常時と散々煽っておきながら、視聴率しか見てないんでしょうか。
無用の対立ばかりを煽っているように感じます。
もうちょっと報道機関としての仕事をこなしてほしいですね。
 

2020年5月29日金曜日

バンブーカーテン

バンブーカーテン。
そのまま竹のカーテンという意味ですが、かつての鉄のカーテンと同様、分断のカーテンです。
竹、つまり中国をイメージした、対中国のカーテンですね。
中国共産党は28日、近年ずっと続いている香港の民主化運動に、より強力な制圧力の根拠となる、香港国家安全法の制定方針を採択したわけですが、これがバンブーカーテンのダメ押しになりそうな気配ですね。
香港は1国2制度の下、自由主義陣営から特別な待遇を与えられていましたが、この法律が可決、施行されると、香港も中国本土並みの人権抑制体制となる可能性が高く、アメリカを筆頭とする自由主義陣営はこれを許さないでしょう。
これに伴い、金融センターとしての立場も終わりそうです。
つまり、中国の集金機能を担っていた窓口としての役割も終わるわけですから、今後、中国が世界からお金を集めるというのが難しくなってきそうですね。
まだ米中貿易摩擦とメディアで報道されている頃から、新潮で連載を持っている鈴置さんは、アメリカは中国の覇権主義を潰すつもりだと断言されていましたが、コロナ騒動も手伝い、いよいよその可能性がかなり高まってきました。
この辺り、時勢をよく観察しているだけにさすがですね。
報道されているニュースでも、今のこの状況を表す事実が出てきています。
次世代の半導体製造でトップを行くTSMCが、アメリカに工場を造るというのもそのひとつ。
 
台湾TSMC、米に半導体工場 米中覇権争いのカギ
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59137730V10C20A5MM0000/
 
もともとアメリカが工場の誘致を仕掛けていた案件ですが、この工場建設により、アメリカが主導する体制に入ることが確実で、ECRA法等の規制から中国の案件をほぼ請け負えなくなります。
つまり、5Gのサプライヤーであるファーウェイを始めとする中国半導体メーカーは、自社で設計、製造をしなくてはならなくなりました。
しかも、その設計のツールはアメリカ由来の技術ということで、それも回避しなければなりません。
ファーウェイは5G網の機器すら揃えるのが難しくなりそうで、かなり厳しいですね。
また、グローバルファウンドリーズの中国工場閉鎖も、同じライン上の話でしょう。
 
GFの中国成都の300mm工場、量産を始めることなく閉鎖 - 中国メディア報道
https://news.yahoo.co.jp/articles/e2d437afb2445bdf09dd09a7c24db9eb04ec54a8
 
こちらは1度も生産しないままの撤退ですから、大きな痛手ですが、それほどの圧力があったということですね。
コロナ騒動がまだ落ち着いていない中、国際情勢は着々とアフターコロナの体制へと移行しつつあるようです。
しばらく、目が離せませんね。
 

2020年5月24日日曜日

検察庁法改正案のあれこれ

検察庁法改正案について、ドタバタが続いていましたが、結局、お流れになりましたね。
大山鳴動して鼠一匹・・・とまでは言いませんけど、賭け麻雀が発覚して黒川さんが辞任、その麻雀の相手が産経新聞の検察番と朝日新聞の元検察番というのでは、右も左も馴れ合い発覚で誰の得にもならず、鼠花火がフラフラっとあらぬ方向に走ってパンと破裂したような印象ですな。
賭け・不要・不急・密・密・密で6翻跳満か。
ってやかましいわ!
冗談はさておき、騒動の中で、ツイートが発端でバタバタしたことに対して、ちょっと違和感が。
ある程度SNS等を使ったことがある人にとっては常識だと思うんですが、メインアカウントとサブアカウントの使い分けだけではなく、アカウントの売り買いや、ツイート数やいいね数の請負などもある世界ですから。
それなのに、ツイート数がこれだけあるといったような話が、ワイドショーならともかく、国会や報道番組でこれ見よがしに出されるのは、ちょっといただけないですね。
ネットリテラシーがどうこう言われる時代に、この人たちはネットリテラシーが無いんか?と思ってしまいました。
選挙という民主主義の道具があるわけですから、不確かな数を元に議論を展開するのはいただけないですね。
 
それともうひとつ。
検察の定年延長についてですが、個人的にはどちらでも良いとは思います。
他の公務員に定年延長があるのなら、検察官も定年延長しないとフェアではないとは思いますが、ぶっちゃけた話、そこまで興味がありません。
公務員自体が待遇としては恵まれていますし。
ただ、システム監査担当を務めている人間としては、検察の人事権は法律上は行政を司る内閣にあるのに、慣例上は検察内部にあるというのはどうなんですかね。
大阪府の吉村知事が、選挙という国民の選択で選ばれた内閣が人事権を行使する方が良いというような事をおっしゃっていましたが、システム監査担当としてはその意見に同意します。
確かに、内閣が定年延長権を持つと内閣の意に従う検査官が総長の立場に就く懸念というのはあるでしょう。
検察が中立である必要の為に、内閣が定年延長権を持つのは良くないというのも理解できます。
ただ、検察が本当に中立なのか?という議論は必要なんじゃないかと思いますね。
今までの検察官すべてが清廉潔白の中立であったか?という話なら、実際に犯罪に手を染めた検察官もいるように、必ずしも清廉潔白の人物ばかりとも言えないし、そもそも個人にはその経験から来る思想や色があり、政治的に中立というのも幻想です。
その政治的な色が濃いか薄いかだけでしょう。
時の政権に近しい人物がそこそこのポストにいないと、上の懸念が実現してしまう可能性は無いわけですが、それはつまり、検察庁が採用し、検察庁が育成するのに、政治的中立にならずにそういうムラが出てくるという話ですからね。
各人、それぞれ色があって当たり前で、当然ながらそれは人事方針にも何らかの影響は及ぼします。
すなわち、2度目ですけども、政治的に中立というのが幻想であるわけです。
長々と説明しましたが、要するに、検察内部で人事が完了していても、望まざる人物が一定のポストに就く、すなわち人事システム的にエラーを起こすリスクは存在するわけですね。
そのことが議論からまるっきり抜け落ちているのは、なんか片手落ちですな。
庶民から見ると、内閣が近しい検察官を優遇するのも、検察内部の人事システムがエラーを起こすのも、はっきり言ってリスク評価としては大して変わりません。
何なら、下手な事をすれば選挙に負ける内閣は衆議院の任期4年が懸念する期間の最大と言えますが、検察はそういう縛りが無いわけですから、長い時間を掛けてやりたい放題できるようになってしまうのは検察かもしれませんね。
ここのところ、法曹界独自の理論で裁判員裁判の判決が覆る例が多いですから、その辺りは裁判官も検察官も、色々な感覚が庶民とは離れていても不思議ではありません。
 
どちらにしろ、法律的に根拠の無い慣例的な運用は、システム監査担当をやってる人間としては気持ち悪いですな。
法律に従って内閣がきちんと人事権を持つのか、それとも慣例を追認して人事権を検察に持たせる法律を通すのか、どちらかにしてほしいものです。
できれば、ある程度掣肘が利く仕組みでね。
そういう意味で、内閣が人事権を握るほうがすっきりします。
そういえば、今回の騒動ではっきりしたことがありますな。
これは評価すべきかもしれません。
それは、
テンピンは合法!
俗にいう黒川基準ですな(笑)
法律的には、一時の娯楽に供するものならば賭博罪に問われませんが、テンピンの賭博麻雀ならOKと。
あと大事なのは、「一時」の定義かもしれません。
黒川さんのように、月1~2回ならOKというわけです。
額は一緒でも、生業、つまり商売としてやると確実に賭博罪になりますからね。
ま、取り締まる側の検事がやるのは、もちろん問題外ですけども(^^;)
 

2020年5月16日土曜日

鹿児島熊本ツーリング その10

前回のあらすじ
 
18年前の落穂拾いは快調に進むのである。
 
さて、隈之城の北は、いよいよ薩摩川内市の市街地です。
意外と知られていませんが、薩摩川内に国分寺町という場所があるように、薩摩国の国府が置かれた土地でした。
古い時代から割と重要視されていた土地なんですね。
川の水運が重要な大規模運搬手段だった時代には、川内川の水運は、現代の高速道路に匹敵するほど貴重で、人や物を運ぶ要だったはずです。
当然ながら時の権力者からも重視され、薩摩大隅日向三ヶ国の守護であった島津氏も、南北朝時代は川内の碇山城に本拠を置いていました。
さて、隈之城からその川内市街へは、わずかに北に1.5kmほど。
正に目と鼻の先ですな。
二福城からは、九州新幹線の東側へ回って北上し、平佐小学校を目指して行きます。
この平佐小学校こそが、秀吉の九州征伐の時に桂忠昉率いる4百が秀吉軍8千を相手に全く引かずに激しい籠城戦を演じた、平佐城の跡なんですね。
平佐城は、現在の川内駅を含む範囲にあった城で、平佐小学校は二ノ丸にあたり、川内駅付近が三ノ丸の範囲です。
ただ、本丸は住宅街になってしまっているのが残念ですね。
住宅地は郭跡らしく割と平坦な地形でしたが、遺構らしきものは見当たりませんでした。
今回、小学校に城址碑があるという事が分ったので、それを見に来たわけです。
やはり、城址碑を見ないと、訪れた!っていう区切りが付きにくいもんですな(^^;)
 
 
小学校の近辺を散策してみると、小学校と駅、それから本丸跡の住宅地が丘陵になっているのが解ります。
兵4百という少数で籠ったということですので、この3つの主郭部分以外に出城的な郭があるほど拡張されていなかったのかもしれません。
また、南九州特有の群郭式と呼ばれる深い堀の痕跡も見当たりませんでした。
堀跡が道筋として痕跡が見えたりするもんですが、全体的に割と平坦。
埋められたのか、元々そうだったのか、後は想像するかタモリさんにブラブラしてもらうしかないですねぇ
 
平佐城周辺の散策が終わった頃は、もう夕景になりつつありました。
このまま宿を取っている出水に向かうか、欲張って城巡りをするか迷いましたが、欲張って東郷まで足を延ばすことに。
東郷という土地は、北薩摩に勢力を扶養した渋谷氏の一族である5つの家のひとつ、東郷氏の本拠地です。
とは言っても、薩摩の各地では下り衆と呼ばれる関東の武家と在地豪族との間で争いが起こったんですが、この東郷でも在地豪族の郡司であった大前氏が東郷を支配しており、それに挑戦するような形で東郷氏が勢力を拡張し、やがて拠点としました。
こうして、有力な国人として成長した東郷氏。
東郷という姓は、東郷平八郎など、近代史のほうが有名かも知れませんが、戦国時代でも渋谷五族という形で歴史上に登場しています。
目指すのは、その東郷氏が本拠としていた鶴ヶ岡城。
ただ、東郷氏の本拠とは言っても、築城自体は大前氏の時代であったようです。
その東郷へは、川内川を国道267号線で遡って行けばすぐ。
鶴ヶ岡城があるのは、小さな東郷市街の北東です。
ただ、現地に城の案内が無いもなければ、遊歩道も無い・・・
ネット上に何らかの報告書が出展と思われる詳しい周辺図があったので、城の位置は間違いないと思うんですが、どうにも入る術がありませんでした。
迫る日没に焦りつつ、バイクでも、徒歩でも、周囲を3周ぐらいしてみましたが、見付けられず(> <)
本丸のちょっと南側に、土砂崩れなのか、工事なのか、大規模に削られたような跡があり、もしかしたらそこから以前は入れたのかも知れませんね。
残念ですわ。
遺構として見えたのは、下の空堀跡と思われる部分のみ。
 
 
ここに突入してみたんですが、例の削られた跡に行き着いただけでした。
城の北側には民家があります。
 
 
民家の奥に見えるのは、本丸の北側切岸だと思われます。
ただ、見知らぬ人の家から直登するわけにもいかず・・・断念!
 
鶴ヶ城を後にする頃には、すっかり陽も沈み、薄暮が広がって来ていました。
宿を取っている出水へは、まだまだ距離があります。
頑張って走らねば。
宮之城の虎居城に未練を残しつつ、国道267号線から国道504号線へと入り、北薩横断道へ。
この横断道へ向かう道が真っ暗で、ガンガン上っていくんですな。
昼間に来たら面白そうな道ですが、この季節の陽の暮れた時間だとちょっと寒い。
秋の夜風にやや凍えながら、山塊を突き抜け、一気に高尾野へ。
もうここまで来れば、出水の市街地はすぐそこです。
ファミレスで隣席に陣取っていたかしましい地元のJKの方言を満喫しつつ食事を済ませ、宿にチェックイン。
泊まったキングホテルは、温泉のあるホテルで、なんとカップラーメンとミネラルウォーターが付いていました。
さらに、頼みませんでしたけど、オーダーすれば夜食におにぎりも付くみたい。
こんなに安く抑えてあるのに、こんなにおまけが付くなんて、びっくりのサービスですわ。
仕事で泊まったなら、色々節約になって有り難いやろなぁ
 
つづく
 
参考:
平佐城
鶴ヶ岡城
地図付きはこちら
 

2020年5月11日月曜日

長良川の合戦

大河ドラマで、前半の最大の見所である長良川の合戦が終わりましたね。
本木道三、さすがにちょっとかっこよ過ぎるとは思わないでもないですが、独特のクセがあって良かったですね。
あの髭も個性が強くてGood。
対する斎藤義龍こと伊藤高政。
伊藤さんの演技は良いんですが、如何せん、年齢がちょっとネック。
長良川の戦いの5年後に病没した義龍の享年は35。
つまり、この戦いの時は30歳ということになります。
若さゆえに新しい視点を持ち父と激しく対立する、という部分がやや描き切れていなかったように感じました。
見た感じ、元木道三と伊藤高政では兄弟ぐらいに感じてしまうので、ちょっと近すぎましたね。
光秀と同学という設定なので、光秀役の長谷川さんの見た目に合わせたのかも知れませんが。
 
ところで、長良川の合戦では、明智党は道三方に与したのは間違いないのですが、主人公たる光秀自身の姿は史料からは追えません。
光秀自身、明智の生まれかどうかも分かりませんから、当然ではあるんですがね。
また、今回の麒麟がくるは、道三の2人の後継者として信長と光秀を描いたかつての国盗り物語を踏襲したようなストーリーになっていますが、一部、新しい史実をちゃんと埋め込んでいます。
なので、長良川の合戦までは国盗り物語の新解釈リメイクといった観がありますな。
国盗り物語からアップデートされた史実、定説というのは、まず、道三の成り上がりが1代ではなく2代であったこと。
最後に伊藤高政も言い放っていましたが、「油売りの息子」という言葉が何度も出て来ました。
それから、義龍が弟たちを謀殺した場面。
過去の通説では、家督を譲った道三は鷺山城に隠退したということになっていましたが、信長公記では稲葉山城に住んでいたと記されており、ドラマもこれに従ったようです。
それぞれの史料の評価により、信長公記の説の方が有力となっているようですので、それに従ったのでしょう。
次に、義龍が道三の息子ではなく土岐頼芸の落胤であるという説の否定。
これは、江戸時代に流布された話で、元々が信憑性に欠ける説ではあるんですが、そのことについて、ドラマの登場人物が明確に肯定する場面はありませんでした。
つまり、ドラマの中でも、義龍の根拠の無い思い込みという事になっていますね。
ただ、史実の義龍を見てみると、一色氏の出身という説がある母深芳野との繋がりからなのか、一色姓を名乗っています。
歴史上の義龍が、もし本当に頼芸の子と思っているなら、大義名分的に土岐を名乗ったはずですし、権力を握った後は頼芸を保護したでしょう。
正統性の何よりの証明になりますから。
ところが、頼芸が美濃へ戻ったのは武田氏滅亡後の天正10年(1582)で、義龍が連絡を取った形跡もなさそうです。
史実からは、義龍が頼芸の息子という認識であったことは窺えないんですね。
ただ、父殺しについては、何らか感じていた形跡がチラホラと見え隠れします。
この事は、逆に言えば道三の息子という自覚を持っていた証左なのかもしれませんね。
頼芸の息子として逆臣道三を討ったのならば、大義名分的に考えて、父殺しの事には触れないでしょうから。
ただ、この頼芸落胤説に関して、ドラマはちょっと詰めが甘かった。
長良川の合戦で、本木道三が掲げたのは道三考案の二頭波頭の旗印。
二頭波や立波とも呼ばれ、道三を象徴するモチーフです。
これに対し、伊藤高政が掲げたのは旗印は撫子。
撫子紋と言えば、美濃斎藤氏の紋です。
つまり、高政はなんだかんだ言って斎藤氏として出陣したことになるんですね。
そこは土岐源氏の桔梗紋やろ!
思わず画面に突っ込んでしまいました(^^;)
「我が父は土岐頼芸様・・・」とか何とか言いながら、立ち位置が道三の後釜たる斎藤氏ってどないやねん!
それでも、ドラマには満足しましたけどね。
道三といい、明智党といい、滅びの美学なんですかね。
涙腺が緩んでしまいますな・・・