2020年5月11日月曜日

長良川の合戦

大河ドラマで、前半の最大の見所である長良川の合戦が終わりましたね。
本木道三、さすがにちょっとかっこよ過ぎるとは思わないでもないですが、独特のクセがあって良かったですね。
あの髭も個性が強くてGood。
対する斎藤義龍こと伊藤高政。
伊藤さんの演技は良いんですが、如何せん、年齢がちょっとネック。
長良川の戦いの5年後に病没した義龍の享年は35。
つまり、この戦いの時は30歳ということになります。
若さゆえに新しい視点を持ち父と激しく対立する、という部分がやや描き切れていなかったように感じました。
見た感じ、元木道三と伊藤高政では兄弟ぐらいに感じてしまうので、ちょっと近すぎましたね。
光秀と同学という設定なので、光秀役の長谷川さんの見た目に合わせたのかも知れませんが。
 
ところで、長良川の合戦では、明智党は道三方に与したのは間違いないのですが、主人公たる光秀自身の姿は史料からは追えません。
光秀自身、明智の生まれかどうかも分かりませんから、当然ではあるんですがね。
また、今回の麒麟がくるは、道三の2人の後継者として信長と光秀を描いたかつての国盗り物語を踏襲したようなストーリーになっていますが、一部、新しい史実をちゃんと埋め込んでいます。
なので、長良川の合戦までは国盗り物語の新解釈リメイクといった観がありますな。
国盗り物語からアップデートされた史実、定説というのは、まず、道三の成り上がりが1代ではなく2代であったこと。
最後に伊藤高政も言い放っていましたが、「油売りの息子」という言葉が何度も出て来ました。
それから、義龍が弟たちを謀殺した場面。
過去の通説では、家督を譲った道三は鷺山城に隠退したということになっていましたが、信長公記では稲葉山城に住んでいたと記されており、ドラマもこれに従ったようです。
それぞれの史料の評価により、信長公記の説の方が有力となっているようですので、それに従ったのでしょう。
次に、義龍が道三の息子ではなく土岐頼芸の落胤であるという説の否定。
これは、江戸時代に流布された話で、元々が信憑性に欠ける説ではあるんですが、そのことについて、ドラマの登場人物が明確に肯定する場面はありませんでした。
つまり、ドラマの中でも、義龍の根拠の無い思い込みという事になっていますね。
ただ、史実の義龍を見てみると、一色氏の出身という説がある母深芳野との繋がりからなのか、一色姓を名乗っています。
歴史上の義龍が、もし本当に頼芸の子と思っているなら、大義名分的に土岐を名乗ったはずですし、権力を握った後は頼芸を保護したでしょう。
正統性の何よりの証明になりますから。
ところが、頼芸が美濃へ戻ったのは武田氏滅亡後の天正10年(1582)で、義龍が連絡を取った形跡もなさそうです。
史実からは、義龍が頼芸の息子という認識であったことは窺えないんですね。
ただ、父殺しについては、何らか感じていた形跡がチラホラと見え隠れします。
この事は、逆に言えば道三の息子という自覚を持っていた証左なのかもしれませんね。
頼芸の息子として逆臣道三を討ったのならば、大義名分的に考えて、父殺しの事には触れないでしょうから。
ただ、この頼芸落胤説に関して、ドラマはちょっと詰めが甘かった。
長良川の合戦で、本木道三が掲げたのは道三考案の二頭波頭の旗印。
二頭波や立波とも呼ばれ、道三を象徴するモチーフです。
これに対し、伊藤高政が掲げたのは旗印は撫子。
撫子紋と言えば、美濃斎藤氏の紋です。
つまり、高政はなんだかんだ言って斎藤氏として出陣したことになるんですね。
そこは土岐源氏の桔梗紋やろ!
思わず画面に突っ込んでしまいました(^^;)
「我が父は土岐頼芸様・・・」とか何とか言いながら、立ち位置が道三の後釜たる斎藤氏ってどないやねん!
それでも、ドラマには満足しましたけどね。
道三といい、明智党といい、滅びの美学なんですかね。
涙腺が緩んでしまいますな・・・
 

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