2020年2月29日土曜日

鹿児島熊本ツーリング その7

前回のあらすじ
 
知覧城は南九州の城らしい城でしたな!
 
17年前に知覧を訪れた際には、城には行けませんでしたが、知覧の特攻平和会館で長い時間を過ごしました。
その頃は自分もまだ若く、自分と同年代の人や若い人たちが、どのように考え、出撃していったのかを遺書などで間近に感じると、とても切なく哀しかったですね。
同じような年代だっただけに、自分がこの時代に生きていればどうなっていたか、感情移入せずにはいられませんでした。
今回は時間の都合もあって、前回とは反対に城へ寄って会館には寄らなかったんですが、南九州という、九州以外からはなかなか行きにくい場所でもありますので、一生に1度、特に感受性の高い若い頃に訪れて欲しい場所ですね。
さて、知覧を出発し、次に向かうのは加世田です。
今は、市町村としては南さつま市となっていますが、加世田という地名は、伊作島津家の宗家継承の戦いには必ず出てくる地名で、実質的な近世島津氏の祖である島津忠良が人生で最も厳しい戦いだったと語った別府城がありました。
なので、押さえないわけにはいきません。
知覧から加世田への道は簡単で、県道27号線で川辺へ、川辺から国道225号線と県道31号線で万之瀬川沿いに下って行けば、割とすぐという感じ。
加世田の市街地の入口辺りのコンビニでサンドイッチの昼食を摂っていると、神戸ナンバーを見つけた初老の方が、
「日本一周ですか??」
と声を掛けてきました。
いやまぁ・・・
脱獄した人が日本一周を騙って逃げてたのはついこの間のことですけども(笑)
ええ歳のおっさんが、そんな長期間の休みなんて取れませんわ(> <)
取れるならもう1度行きたいですけどねぇ
昼食を終え、加世田市街に入り、なんとなく雰囲気を覚えている南さつま市の市役所付近の交差点を南へ折れ、国道270号線から加世田川沿いの路地へ入ると、加世田別府城跡があります。
この加世田別府城も17年前に来ているんですが、雨だったので、ゆっくりと散策はできていないんですよね。
なので、知覧城に続いてのリベンジというわけです。
加世田別府城は、元々は薩摩平氏系別府氏が築いた城で、後に島津宗家に攻撃されて別府が降伏したことから、島津宗家の持ち城となっていました。
後に、島津宗家から分かれた薩州家が相続し、戦国時代中頃の薩州家の当主が、島津忠良と家督争いを繰り広げた実久というわけです。
そして、忠良が薩摩統一を進める過程で、薩州家の重要拠点だった加世田別府城を攻撃したのが、先ほど出てきた戦いなんですね。
しかし、肝心の加世田別府城はと言うと、江戸時代までは外城制度の中心としてある程度維持されていたようですが、明治時代に小学校用地となり、高さが削られ、城の痕跡はほぼありませんでした。
現在の城跡は、公園となっています。
その奥まった所に城址碑がありました。
 
 
そして、説明碑。
 
 
写真では読みにくいですが・・・安心してください。
現地でも読みにくかったですから(^^;)
この左手には、加世田別府城の開祖である別府五郎忠明の碑もありました。
 
 
小学校に関する碑もあります。
 
 
城址碑以外で城らしいのは、南の階段ですかね。
 
 
高さは削られて結構低くなっているみたいですが、この階段の傾斜具合が城っぽさを感じさせます。
でも、興味無い人が見たら普通の階段やな(^^;)
この階段付近にも、簡単な説明板がありました。
 
 
前回は訪れたと言っても雨でバタバタだったので、今回はゆっくりできて満足しました(^^)
 
加世田別府城の散策を終え、今度は国道270号線を北上して行きます。
ただ、加世田市街の外れの辺りから、肥料のかほりがしてきました。
臭い・・・
鹿児島に入ってから、この肥料の臭いは数度目。
ちょうど畑に肥料を入れる時期なんかなぁと思っていましたが、市街の外れとは言え、ここはまだ田園風景にはほど遠い。
どういうこと?と思っていたら、数台前の大型トラックの前が肥料運搬車でした(^^;)
そりゃ臭いわ・・・
でも、鹿児島では秋を感じるかほりなのかも知れませんね。
その運搬車とも途中で名残を惜しみながら(?)別れ、更に北へ走っていると、急に城の案内が目に入って来ました。
そんな城は知らんぞと思いつつ、慌ててバイクを路肩に止め、Uターン。
訪れてみると、貝殻崎城という城跡でした。
 
 
しかし、城址碑を見てびっくり。
小泉純一郎書とかいあるではありませんか。
あの人、横須賀が地元じゃなかったっけ?と思いながら調べてみると、純一郎氏の父が加世田は小湊の鮫島さんだったんですね。
この貝殻崎城は、中世には鮫島家の居城だったので、その繋がりというわけですな。
鮫島氏を辿れば、もともとは駿河の豪族で、源頼朝に初期から付き従った宗家の名が見え、後に薩摩国阿多郡の地頭として下ってきたようです。
その後、室町時代に島津家と対立するも臣従し、以降は島津家臣としていくつかの鮫島姓の人物が見えますね。
子孫の純也氏はと言えば、小松原の漁師の家の生まれだそうです。
戦国時代に、小松原を領していた島津家臣の鮫島宗政という武将がいますから、その末流なのかもしれません。
純也氏の衆議院議員初当選は鹿児島で、鹿児島1区で2期務め、その後に養父小泉又次郎の地盤を継いで神奈川2区で7期務めています。
そして、その地盤を継いだのが純一郎氏というわけですな。
なかなか意外な歴史が知れて、面白かったです。
城址碑の傍らには、城の説明碑もありました。
 
 
ただ、城跡らしい遺構は見当たりませんでしたね。
そこはちょっと残念(^^;)
川の合流点に張り出した舌状台地に築かれた城ですが、高低差はあまり無かったので、居館から出発した城だったんでしょう。
こういう、突然現れる城との出会いもまた、旅の醍醐味ですな。
 
つづく
 
参考:
加世田城
貝殻崎城
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2020年2月22日土曜日

クルーズ船雑感

毎日、メディア上を賑わせている新型コロナウィルスですが、なかなか封じ込めとは行かないですね。
全国で散発的に感染が報告されており、それは今後も続きそうです。
富士フイルム富山化学が開発したアビガンという薬が投与開始されるとのニュースが出ており、これが効けば、持病持ちの人にとっては要注意ではあるものの、やや酷い程度の風邪という扱いになるのかもしれません。
そこは効果に期待したいですね。
このままだと、半年ぐらいは相当経済に影響が出てしまいそうですから。
 
さて、クルーズ船についてなんですが、色々な情報が飛び交ってますね。
ただ、意外だったのは、旗国主義というのが案外知られていなかったことですな。
自分は昔に、旗国主義とその延長理論が大前提となっている沈黙の艦隊という漫画を読んでいたので、船というのは公海上は船籍国の飛び地のようなものというは常識だったんですが、世間一般には知らない人が多かったようです。
ここ数日になってようやく報道され出しましたが、船内は船のトップたる船長が統括しなければならず、船長や船医の指示がまず第一であるということは、大事なポイントでしょう。
感染者が下船した後も、船内ではパーティ等が開かれていたそうなんで、船長と船医にそこまでの危機感が無かったように思います。
また、WHOも、基本再生産数という、感染者が平均何人に感染させるかという指数を、特性が未知のウイルスなのに低く見積もっていたのではないか、と感じられますね。
クルーズ船を始め、院内感染の経緯を見ると、基本再生産数はちょっと低すぎるのではないでしょうか。
このようなWHOの指針から、各国、特にアメリカCDCのような感染症対策の組織を持たない日本は行動指針を決定しますから、対策が後手に回りがちになった可能性が高いです。
これらの要因を見ていくと、あくまで結果論でしかありませんが、各国でクルーズ船寄港拒否が頻発したように、日本にとってのリスク管理と自国民保護の観点では、自国民だけを受け入れての寄港拒否が最善だったのかもしれません。
ただ、人道的な見地から、なかなかそうもいかないですからね。
難しい所ですな。
クルーズ船での隔離を終え、各国が自国民をチャーター機で帰国させていますが、感染者は日本に残している場合が多く、この辺り、それぞれの国の本音というか、国としてのリスク管理の難しさが滲み出ていますね。
 
また、クルーズ船の隔離に関連し、DMATとして船内に入った岩田教授の告発動画と、高山医師による補足が注目を集めました。
もう消されてしまった動画も見ましたし、高山医師のFacebookも見ましたが、検疫の組織運営上の話としては、医療の素人の目から見ると高山医師の言に理があるように感じます。
組織を動かすというのは会社などでも変わらないわけで、そういう観点から見ると、という話ではありますが。
ただ、岩田教授も十分経験のある方だと思いますし、どちらが100%正しいという話でもないんですがね。
組織で動かす検疫と、スタープレーヤーが活躍できる余地がある感染症の臨床との差でしょうか。
まして、設備がチープでも感染者の隔離をある程度は考えられているであろう医療施設と、完全なるレジャー施設である旅客船では構造に大きな違いがあり、船内構造も最初は把握し切れていなかったであろうという条件は、結構大きかったのではないか、と思いますね。
あと一点、検疫に従事した方の二次感染が発生していますが、色々とガイドライン違反が発覚しています。
ここだけは、しっかりと是正してもらいたいですね。
どんな立派なマニュアルを作っても、守らなければ無いのと変わらないですし。
状況が混乱している時こそ、組織として動く上で大事なことですから。
 
最後に、今回のクルーズ船で、本当にリスク管理できる人は直前にキャンセルしているはずです。
君子危うきに近寄らずのように、目の前の数十万よりもリスク回避を選んだ人が。
日本を出港した段階で、中国で未知の肺炎が発生している事と、その中国に寄港することは判っていましたからね。
もちろん、各人にとっての数十万の価値の大小が選択に影響することは避けられませんが。
バブルの時代に異変を感じて株を売れ抜けた人のように、正常性バイアスに流されず、きちんとリスク管理できる人になりたいものですな。
 

2020年2月16日日曜日

鹿児島熊本ツーリング その6

前回のあらすじ
 
雨の中のバイク旅って巻きで進行しますよね・・・
 
池田湖からは指宿スカイラインという、阿多南部カルデラの外輪山を突き抜ける道が出ており、その道で知覧を目指すわけですが、結構アップダウンがある道でしたね。
薩摩半島東部の稜線を縫うのもあり、まるで山岳道路のよう。
そのせいか、雨に加えて霧まで発生する始末。
なかなか手強い(^^;)
だけども問題は今日の雨~傘がない♪
と生まれる前の曲を歌って凌ぎました(^^;)
雨の時は頭に流れるんだよな~
この指宿スカイライン、晴れの時に走れば、かなり気持ちの良い快走路だったと思います。
非常に残念ですな(> <)
指宿スカイラインには、知覧という名のI.C.もあるんですが、そこまで行くと知覧の市街地からかなり遠くなるので、頴娃I.C.から県道を伝って知覧城へと向かいます。
知覧城付近でちょっと行き過ぎたかと戻ったりもしましたが、雨も上がったので多少迷っても気は楽になりましたね。
そして、懐かしき知覧城に到着。
やたら広い駐車場は今も健在でした。
2001年に来た時には発掘調査で城内へは立ち入り禁止になっていましたからね。
17年振りのリベンジです。
まずは、駐車場にある鳥瞰図から。
 
 
前回はこれだけ撮って止むを得ず撤退しましたからね。
懐かしい(^^)
シラス台地の浸食地形を活用した、南九州の典型的な城ですな。
城への道は、独立した各郭の空堀となっている谷筋を辿って城の内部へと入って行き、蔵ノ城と本丸の下へと繋がっています。
まずは城の中心たる本丸へ。
本丸への動線は、2度曲げられた桝形となっていました。
改修時期が割と新しいようですね。
 
 
知覧の歴史は割と複雑で、平安時代から薩摩に根を張っていた薩摩平氏系の知覧氏と、鎌倉政権の近しい島津氏系の知覧氏がいたようですが、いずれも没落してしまったようで、同じく島津一門の佐多氏が南北朝時代の領主として登場します。
その後、今給黎久俊が押領し、応永27年(1420)に島津豊久が討伐した後、再び佐多氏に与えるわけなんですが、この時、上木場城として史料に登場するのが知覧城の最初といいわれていますね。
その頃は桝形なんて構造物は考案されていないので、桝形が登場した戦国時代後期に改修されたんでしょうな。
この桝形の道を登って行くと、もう1度桝形となってから本丸へと出ます。
 
 
そして本丸内部。
 
 
テデンと城址碑がありますね。
本丸縁辺には土塁も明確に残っています。
 
 
よく手入れもされていて、心地よい城ですな(^^)
本丸を下りて、すぐ近くの蔵ノ城・・・と行きたい所ですが、残念ながら蔵ノ城は遊歩道崩落の為に立ち入り禁止になっていました。
今年は台風がきつかったですからねぇ。
シラス台地は脆いからしょうがないですな。
というわけで、本丸の下の堀底を進んで、今城と弓場城を目指します。
今城と弓場城へは同じ斜面を上り、途中から道が分かれていました。
まずは弓場城へ。
 
 
弓場城は知覧城では3番手か4番手の郭だと思いますが、ここも小規模ながら虎口に桝形が形成されていますね。
なかなか城全体にしっかり手を入れて改修されたようです。
弓場城内部はこんな感じ。
 
 
弓場城にもしっかり土塁が残ってていい感じ。
続いて今城へ。
今城の虎口にも桝形がありました。
 
 
こちらは弓場城よりもしっかり造られている様子。
重要度が解りますね。
今城の内部はこんな感じです。
 
 
弓場城に比べて範囲の一部は手が入ってない状態でした。
とは言え、郭としてはかなり広かったんで、本丸に続く第2の居住空間だったかも知れませんね。
今城ってのも後で付け足した居住区画っぽい名前ですし。
いや~リベンジ成功で大満足ですわ(^^)
 
つづく
 
知覧城
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2020年2月9日日曜日

鹿児島熊本ツーリング その5

前回のあらすじ
 
まさかフェリーじゃなく旅客船だったなんて!!
 
なんきゅうフェリーに乗って、山川港に着く頃にはもう薄暮でした。
 
 
中央に薄っすら開聞岳が見えていますね。
予定では、長崎鼻から夕陽と共に撮る予定だったのに!
仕方が無いので、予約していた指宿の宿、千成荘に直行しました。
ひとり旅が4組という、なんとも言えない静寂が支配する食堂で夕食を頂いたんですが、出てきたカツオの腹皮がメチャメチャ美味しかったですね。
シンプルな塩焼きやったのに、あんなに美味いなんて。
世の中には、まだまだ知らない美味いものがあるんでしょうな(^^)
この腹皮のおかげで、夕食を食べ過ぎてしばらく動けなかったんですが、ようやくお腹も落ち着いた頃、砂風呂へと出かけました。
海沿いの各ホテルなんかでもやってるようですが、指宿温泉には立ち寄りの施設として砂むし会館砂落という施設があります。
 
 
日曜の20時過ぎ。
観光客も引けているであろう時間帯を狙って正解でした。
貸し切りとはいきませんが、砂に埋もれた時に周りを確認すると自分が3組目。
通常、砂風呂は10分から15分だそうですが、汗かきの自分は耐性があるのか、20分ほど埋まってから、怪獣が地面から生まれるようにドサドサと砂を落としながら起き上がった時には、埋まっているのは自分だけとなっていました。
砂を落とした後に入る大浴場も自分のほかにおっちゃんがひとりいただけ。
こんなにゆっくり砂風呂を味わえるなんて、完全に作戦勝ちですな(^^)
 
翌朝、朝風呂に入り、美味しい朝食を頂いた後、窓の外を見ると、
雨。
雨雲レーダーを確認すると、9:30頃に止むような感じだったんですが、時間が来ても完全には上がり切らないようだったので、止む無く出発しました。
そこから、雨は時折強くなったりほとんど止んだりという繰り返していましたが、止むことはなく・・・行程も巻きに。
まずは、鰻池。
 
 
鰻温泉もちょっと見たかったんですが、寄れず。
そのまま踵を返して長崎鼻へ。
長崎鼻の龍宮神社。
 
 
続いて、長崎鼻から開聞岳の景色。
 
 
17年前も同じ構図で撮っていたんですが、その時は曇天の夕暮れで、開聞岳が霞んでいました。
今回はそのリベンジだったんですがね。
うむ、リベンジ失敗じゃ!
次に、その先の長崎鼻灯台。
 
 
曇天でも先っぽ感は抜群ですな。
水平線と灯台には、やはりなんとも言えない魅力があります。
薩摩半島最南端の長崎鼻を攻めた後は、その余勢を駆ってJR最南端の駅、西大山駅へ。
バイクで5分ほどの距離です。
 
 
なぜか外国人観光客がいっぱい。
最南端の岬は解るけど、最南端のJR駅ってどうなん?
外国人が、
「おぉ~最南端のJRの駅やんか!」
って感動するとは思えんけどな~(^^;)
通勤で使ってるはず無いんやし
ちょっと不思議な感じでした。
西大山駅からは、ちょっと奥に入って池田湖へ向かいます。
 
 
ここで本格的にシトシトと雨が降ってきました。
開聞岳と池田湖の構図で撮りましたが、そう遠くないはずの開聞岳が霞んでしまうほど。
ここから更に西に進んで坊津や野間岬まで足を伸ばせたらなんて思っていましたが、出発時間を遅らせたことや、この後も南薩摩一帯に雨雲が掛かり続けるようなので、断念。
進路を北に転じ、17年前に城の内部に入れなかった知覧城のリベンジへ、いざ。
 
つづく
 
指宿温泉
鰻池
長崎鼻
龍宮神社
西大山駅
池田湖
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2020年2月2日日曜日

ほたるのひかり

すったもんだがありましたが、1/31をもってイギリスがEUを離脱しました。
その際、イギリスの国会では、議員さんが手に手を取って蛍の光を歌っていたのが非常に印象的でしたね。
どこかのネタとして、
「僕たち、私達は、EUを卒業します!!」
という小学校の卒業式的なキャプションが付いていて、思わず笑ってしまいました(^^;)
さて、EUの四大国の一角が、グループを抜けるアイドルのごとく正に「卒業」して行ったわけですが、今後、EUはどうなって行くんでしょうか。
優等生だったドイツも、輸出割合が多いだけに貿易摩擦の影響をモロに受けてしまい、リセッションぎりぎりの状況。
ドイツ銀行という爆弾もあります。
フランスはフランスで、黄色いベスト運動が今も収まらず、政権支持率は低いまま。
失業率も高止まりしており、国内の政治状況の厳しさは当分続くでしょう。
イタリアも政局の混乱が続いており、なかなか対外的に力を割く状況には無さそうです。
経済はどうなんでしょうかね。
あまり日本にはイタリアの経済ニュースは届いて来ませんが、良くは無さそうです。
EUの様々な拘束にメリットをあまり感じていない国もあるとされる中、今後の動きが注目ですね。
 
一方、EUを出て行ったイギリスですが、こちらも前途はなかなか険しそうです。
EUを抜けたことにより、各協定を各国と結び直す必要があるわけですが、しばらくの間はそのタイムラグによって損失と混乱が発生しそうです。
今後は、EUと付かず離れずの距離を維持しつつアメリカ重視に転換すると言われていますが、どうなるんでしょうかね。
国家論として、大陸国家(ランドパワー)と海洋国家(シーパワー)という論がありまして、今回のイギリスの一連の流れは、ヨーロッパ大陸の大陸国家寄りから海洋国家寄りへ立場を移すという大きな流れの中の出来事という見方もできるわけですが、誰か詳しい人の考察を聞きたい所ですな。
 
そして、海洋国家の巨頭と目されるアメリカも、弾劾裁判のバタバタが続いています。
ただ、こちらも無罪評決の見通しが立ったことで、大統領選挙選へと焦点が移って行くんではないでしょうか。
中国との貿易交渉は、アメリカの国内事情が一段落したことと、中国での新型コロナウイルスの件もあって、しばらくは停滞するように思います。
一方、その中国では、いよいよ3日から市場が開くわけですが、経済活動は武漢はもちろん他の都市も停滞したままで、先行して下落していた世界各国の市場を考えても厳しい春節明けとなるのは間違いありません。
これが、国内国外にどれだけ波及して行くのか、注視が必要ですね。
 

2020年1月30日木曜日

鹿児島熊本ツーリング その4

前回のあらすじ

高山城はさすが大隅の雄肝付氏の城だけある!
 
高山城からは、県道561号線を使って最初は西に、次いで西南方向へと進み、一気に大隅半島の西海岸へ。
この県道、1.5車線の部分も多いですが、立派な2車線の部分も結構長くて、なかなか良い道でした。
突き当りの西海岸の海沿いを南北に走っているのは国道269号線で、この道は18年前に佐多岬を目指してトコトコと走った道です。
そう思うと感慨深いですな。
国道沿いにも佐多岬まで○○kmという案内表示が見え、懐かしさがより高まります。
あの時は、佐多岬から高山城を目指しましたが、今回は逆順ですね。
とは言っても、佐多岬までは行きませんが。
今回の目的は、根占。
と言っても根占には大根占と小根占があって、大きくは同じ根占なんですが、市町村も錦江町と南大隅町で分かれているからちょっとややこしい。
根占は、古くは禰寝と書かれ、やがて禰寝院という行政単位となりました。
その禰寝院の南部を指す南俣と呼ばれる一帯の地頭が、地名そのままの禰寝氏です。
禰寝氏は、この小根占を中心に、戦国時代には一時、種子島を制圧したほどの勢力を持ち、島津氏に対抗した肝付氏を中心とする連合の、主な一角でした。
後に島津氏に臣従し、直系血族は断絶しますが、島津氏から養子が入ったことにより薩摩藩家老の家系として続くと共に小松姓に改名し、幕末の小松帯刀へと続くわけですな。
その禰寝氏が本拠とした富田城が、今回の目的地です。
富田城へは、国道269号線を雄川沿いに東へ走り、南へと折れる国道を尻目に直進し、諏訪神社の脇を抜け、しばらく山へ入った場所にあります。
案内板の標柱は小さく、うっかり見過ごしてしまうかも知れないほどでした。
 
 
この民家の脇を進んで行くと、富田城が現れます。
 
 
左手の盛り上がりが本丸、右手の盛り上がりが東城とのこと。
しかし、どちらも道が完全に自然へと還ってしまっていました。
なんとか藪を掻き分けて東城へ辿り着いたものの、内部へと入る道は分からず終い。
下は、バッと見、何が何だか分かりませんが、東城下の空堀です。
 
 
念の為、城の北側の道も回ってみましたが、城へ入れそうな道はありませんでした。
禰寝さんって大隅の歴史じゃ重要な役どころやと思うんやけどなぁ
整備してもらってないのが残念です(> <)
 
このツーリングの2日目の宿は、指宿に取ってありまして、この根占から出ているフェリーなんきゅうで錦江湾を突っ切って薩摩側に渡る予定にしてました。
富田城で不満足な散策を終え、すぐ近くの根占港に行ってみると、15:00の便が出たばかり。
そして、次の便は16:20の模様。
よし、乗れなかったんじゃなく逆に時間に余裕があるっちゅうことか!というわけで、緊急にもうひとつ城を回る事にしました。
その城は国見城。
巨艦のように台地が突き出してきた地形にある城で、一時は禰寝氏も本拠としていた城です。
そうと決めたのなら、急いでスマホを手繰って情報を収集し、いざ出発。
国道269号線を北へ戻って大根占の市街に入り、適当に右折して城内地区を目指しましたが、なかなか台地へ入って行く道がありません。
台地の麓の道でUターンして少し南へ戻ってみたところ、何とか台地方向へ向かう道を発見し、1車線分の幅しか無いような道を進んで行くと、急に2車線の広い道に出ました。
その変化に内心驚きながら、快適なヘアピンカーブを抜けて上って行くと、城内集落を貫く道に入り、集落の真ん中に国見城の説明板を発見。
 
 
城らしい痕跡はこの周囲にありませんでしたが、削平地を利用して後に小学校が建てられていたようですね。
 
 
今はもう何てことはない広場にしか過ぎないんですが、この変遷も古城らしいと言えば古城らしい歴史でしょうか。
学校の敷地になっているというのは、意外と多いですからね。
この後、周囲を散策してみると、土塁や空堀らしき遺構はあったんですが、縄張図が無かった為、残念ながら全体像はよく分かりませんでした。
 
国見城からフェリー乗り場に戻ったのは、出発の受付時間を考えて16:00の少し前。
しかし、この時間でもフェリー待ちの車が全くいない・・・
何かおかしい。
なんでや?というわけで受付でもう一度よく確認してみると・・・
なんと16:20の便は旅客専用!
マジか!
この瞬間、開聞岳と夕日を撮るという野望は潰えた・・・
あ~あ。
と凹んでもいられないので、近くの観光名所を探してみると、なんと徒歩圏内に温泉があるではないか!
なんという幸運!
ここでダラけることに決定(^^;)
この温泉は、ねじめ温泉といい、ネッピー館という愛称の温泉施設として営業されていました。
 
 
その特徴は、豊富な湯量と、海水ちゃうんかとツッコミたくなるほど塩辛い泉質。
1Lの温泉の残留物が1gを越えれば成分が濃いなと思うのに、この温泉はなんと37.88gと言う値を弾き出していたんですね。
ただ、塩化物イオンとナトリウムイオンを足して約29g。
海水が3%食塩水ですから、これはほぼ海水が温められた温泉というわけですな。
でも、なかなかここまで濃い塩化物泉も無いですし、貴重な体験でした。
ねじめ温泉から歩いてフェリー乗り場に戻ると、ぼちぼちと車が集まって来てましたね。
やっぱりフェリーはこうでなくっちゃ。
もうチケットは買ってあったので、当然バイクの1番乗りでフェリーに乗船。
のんびりと1時間弱の船旅で、山川に着いた時にはもう暗くなっていました。
あとは指宿の宿に向かうだけ。
今日はやらかしもあって、結局のんびりな行程でしたな(^^;)
 
つづく
 
参考:
富田城
国見城
ねじめ温泉
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2020年1月24日金曜日

第201回通常国会

1/20に通常国会が開会しました。
この通常国会の前に、旧民主党系の立憲民主党と国民民主党の合流が議論されていましたが、流れましたね。
毎年恒例ではありませんが、年末になると政党の合従連衡話が出てきます。
立憲民主党と国民民主党の合流も、その例年の流れに沿ったものでしょう。
これは、通常国会前というタイミング的なものもありますが、もうひとつ、大きな要因として、政党助成金の要件が1月1日を基準としているからなんですね。
かつては、フロム5なんていう、あからさまにそれ狙いやろ的な政党もありましたが、あれも要件に「5人以上の政党」というのがあるからなんですな。
お金の無い立憲民主党。
民主党、民進党の財産を受け継いでお金はあるが、人気が無い国民民主党。
お金の面から見ると、また違った構図が見えてきますね(^^;)
 
さて、今回の通常国会、序盤は、桜の会というスキャンダルを引っ張りたい野党と、それを流してしまいたい与党との対決になるんでしょうな。
報道各社の支持率調査にも如実に表れていますが、スキャンダルを追求すれば政権支持率が数%~10%程度落ちるのが恒例です。
そして、今回も年明けの支持率調査にてき面に出ていますが、報道が止まると戻る、といういつもの流れでした。
野党にとっては、来たるべき衆議院議員選挙に向けてスキャンダルを突いて目立ちたい所というのはよく解りますが、中東はきな臭い状態ですし、新型コロナウイルスも気に掛かる。
まして春節で人の大移動が起こってる最中ですから、優先順位を付けて議論して欲しい所ですね。
良くない事は良くないのは間違いないんですが、突いたところで国会を開く経費以下の問題にしかならないのなら、費用対効果が薄すぎます。
そういうのは、警察や検察、特捜といった専門機関に任せるべきでしょうね。
一国民としては、山積する課題に対する議論が深まるよう願います。