前回のあらすじ
今川到達!
何も無ぇ!
今川館跡のある西尾中学校の辺りから、県道をそのまま南東方向へ進むと、そのまま東条城に着きます。
そう、この城は東条吉良氏の本拠にして、今川家から独立した家康による三河平定戦で吉良本家が敗れ、没落した城。
しかし、東端城、西尾城、今川館、東条城と、ほぼ一直線に等間隔で並んでるから、行くのは楽でええわ~
東条城の主であった東条吉良氏というのは、歴史上で2系統あります。
1つ目は吉良氏の祖である吉良長氏の弟義継の系統。
吉良氏を創始した庶長子の長氏、惣領足利家を継いだ泰氏、そしてこの2人の弟として、東条を領して長氏と同じく吉良を称した義継がいます。
ただ、兄弟の長幼には諸説あるみたいですが。
矢作川を挟んで西の西条を長氏が、東の東条を義継が治めていたわけですが、この義継の系統は後に奥州に転じ、四つの家が乱立した奥州管領を名乗る家の内のひとつとなります。
その結果、やがて西条の吉良本家がこの東条をも支配するのですが、尊氏とその弟直義が対立した観応の擾乱の余波を受けて、吉良家も直義方だった満貞方と、それを危惧して家臣らに擁立された尊義方に分裂し、尊義の系統が新たに東条吉良氏と呼ばれました。
これが2つ目の系統。
以後、両家の仲は悪く、応仁の乱でも対立しましたが、どちらも滅ぼされる事なく戦国時代を迎え、東の今川、西の織田という両雄の隆盛を受けて生存を模索した結果、東条吉良氏の持広の養子として西条吉良氏から義安を迎え、吉良氏はひとつとなります。
ちなみに、この持広の偏諱を受けたことで、家康の父は広忠と名乗りました。
つまりは庇護されていたわけで、当時の松平家の苦境が窺えますね。
しかし、ひとつになった吉良氏も、戦国大名化した両雄とは既に勢力の開きがあまりに大きく、親織田であった義安は駿河に連れ去られ、新今川であった義昭が両家を相続しています。
こうなると、もはや独立何もありません。
その後も紆余曲折があり、結果的には、義昭も松平軍の攻撃で没落してしまうわけですが、この松平軍の動きは、家康の三河平定戦という説と、今川の命による叛乱鎮圧という説があるようです。
陣営が全く正反対となる両説があるということは、当時の情勢が短い期間にかなり流動的に動いたという事なんでしょう。
ま、桶狭間の合戦前後の話になるので、情勢の混沌も致し方無しというところ。
史料によって、前後を混同されている場合がしばしばあるようですな。
この頃、連れ去られた義安はどうしていたかというと、義元討死後にようやく人質を解かれ、三河に帰っていたとされています。
そして、今川家の人質時代に仲が良かった家康に属し、義昭の没落後に吉良宗家を相続しました。
そして、江戸時代には高家旗本として存続し、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央へと繋がるわけです。
この家康の人質時代の人脈としては、北条氏規も有名で、この頃の繋がりから後に家康を通じ、北条氏の外交担当者として氏規が秀吉と交渉したといわれていますね。
現在の東条城は、史跡公園として整備されています。
それも公園というよりは、城の遺構を重視した形で。
なので散策して楽しい城になってますね。
まず登場口から。
杭が打たれていますが、当時は尖った逆茂木。
登るのも大変そうです。
この登城口を過ぎると帯郭。
その奥には横矢掛もありました。
写真ではちょっと分かりにくいですが、結構明確です。
横矢掛というのは、設備としては割と後に登場してくるものなので、もしかしたら吉良氏以降に改修された時のものかもしれません。
帯郭から建てられている冠木門を抜けて丘陵に上がると、そこが三ノ丸です。
三ノ丸の周囲には、土塁の跡も残っていました。
この三ノ丸からの写真は、城好きにとって良い構図かもしれませんね。
色々な要素が入っています。
三ノ丸から上の写真のように本丸に向かってに左手には二ノ丸。
今は神社境内となっていました。
ここからもう一段上が本丸。
土塁や櫓門、櫓が復元されています。
東条城の紹介写真もこの構図だったような。
櫓門をくぐると、いよいよ本丸です。
うむ、広い。
この一角には城址碑もあります。
この時は、ちょうど家族連れがピクニックに来ていました。
小さい子が野球ができそうなぐらいの大きさで、芝生が敷かれていて、という最適な場所ですな。
丁寧に整備されていて、天気も良く、朗らかに散策できました。
城を出る際には違う虎口から出たんですが、主郭部下の削平地も確認できます。
この右手は本丸なのですが、切岸の角度が尋常じゃないぐらい急ですね。
往時からこの状態だったのでしょうか。
そうであれば、かなり堅固に見えますな。
ふむ、良い城跡であった(^^)
東条城からは、県道41号線に入って真っ直ぐ進んでいくと、やがて国道247号線となり、昨日も通った衣浦トンネルを通ります。
トンネルをくぐり、衣浦臨海鉄道に沿って臨海部へ入り、そのまま幹線道路を南へ南へ。
行ける所まで南下していると、すぐ隣に国道247号線が並走してくるので、そのまま国道に乗り換えて羽豆岬を目指します。
ただ、ここまで来ると、岬特有の逃げ場の無い2車線の古い国道で、格段に流れは遅くなりますね。
とは言っても、岬の道なので、海を見ながらのんびり走れて楽しくもあります。
途中、やたらと客を集めている店なんかがあったりして、こんなところですげぇ!と独りごちつつ、気が付けば師崎。
その間の小一時間、前のバイクとランデブーしてたんですが、そのライダーはそのまま岬をターンしていったので、気を付けてな、と勝手に挨拶しつつ、自分は羽豆岬へ。
羽豆岬は、師崎の港の南西側の丘陵です。
今は半島になっていますが、地形的にはもともと島だった陸繋島というやつでしょうか。
その根元にバイクを置き、丘陵を上って先端を目指します。
途中、丘陵の最高部に展望台がありました。
その展望台から師崎の眺めです。
ちょっとこの時間は曇ってきてしまいました。
せっかくの岬なのに、残念(> <)
展望台を下りて、先端の方へ向かってると、羽豆崎城址の碑がありました。
知らなかった・・・
でも、こんなあからさまに水軍の拠点となるような場所に、城が無いなんてことは無いですわな。
帰って調べたところによると、熱田神宮の大宮司千秋氏が築城したようです。
吉良氏のところで少し触れましたが、三河は足利氏が守護だったことから北朝勢力の有力な扶養地で、南朝方にとっては東海道は東西の連絡が取り辛く、陸路がダメなら海路で、ということで築城されました。
要は中継港ですな。
有力な南朝方である北畠氏とも、海を突っ切ればすぐですし、その先には南朝方の本拠地、吉野。
千秋氏にとっては、熱田神宮からは遠いわけですが、当時の熱田神宮は海際の神社で、門前町は港町でもあったわけです。
なのでこんな離れた場所にも影響力を持てたんですね。
千秋氏が衰えた後は、知多半島西部を領した佐治氏の影響下で、後に佐治氏から千賀氏に入嗣した重親の城となりました。
重親は徳川水軍として活躍し、後に徳川御船手四人衆に数えられています。
ただ、城の遺構は、見た限りでは確認できませんでした。
恐らく、郭跡に羽豆神社が建てられ、以降はほとんど破壊されたのでしょうね。
その羽豆神社は、観光客がちょこちょこ訪れる為か、幟なども建てられていました。
おぉ賑わってるな~なんて思いながら、お参りをすると、外観の勢いとは裏腹に常駐の人はおらず。
なので、500円のお土産を買おうとしたら、小さいのが千円しか無かったので、2つ買うハメになりました(笑)
最後に、神社に建てられている展望台から眺めを。
青空が入ったのがこれだけなんですが、恐らくは津市方向あたりかな?
つづく
参考:
東条城
羽豆崎城
羽豆岬
地図付きは
こちら
前回のあらすじ
やだー雨って言ったじゃないですかぁー・・・
昨日の予報から一転して青空が見える晴れの下、更に南東へ進んで西尾城へと向かいます。
西尾城は、古くは西条城といい、西条吉良氏の居城でした。
ただ、吉良氏時代の城の歴史は割と曖昧なようです。
その後、家康の今川家からの独立があり、徳川軍が三河を攻略していく中で西条城も徳川家の城となりました。
そして、城主となった徳川家臣松平正親によって西尾に改められたといわれていますが、これにも時期的に諸説があるようです。
江戸時代には、この辺りのいくつかの城の中で、近世城郭として残ったのが西尾城でした。
そんなこんなで、城は今の西尾市街の中心にあり、分かり易く迷う心配がありません。
城に到着したのは9:30を過ぎた頃。
復興櫓があるので、開館時間としてはちょうど良いかもしれませんな。
駐車場にバイクを止め、まずそこから一番に見える天守台の石垣へ。
この石垣は復元なんですが、天守が二ノ丸にあったという珍しい城でした。
二ノ丸に天守があったというのは、徳島城なんかが有名でしょうか。
そういえば、横手城は確か復興天守が二ノ丸に建てられてたなぁ
何故本丸ではなかったのか大いなる疑問だけど。
他の城は置くとして、天守台からの眺めは、なかなか情緒のあるものでした。
本丸の丑寅櫓も見えますね。
写真の左手にあるのが、同じく復元された二ノ丸鍮石門です。
その正面側。
鍮石門を抜けて旧近衛邸の脇から水堀を見つつ本丸に入ると、一角には城の守護神であった御剱八幡宮があります。
本丸という中枢ですし、代々の藩主に崇拝された事でしょう。
この位置から視線を右に向けると、本丸表門の跡があります。
本丸表門があり、その脇から復元されている三層の丑寅櫓に入る、という構造ですね。
この石垣は往時のものと見られ、野面で不規則な積み方に野趣がありますが、野面積にしては割と整っています。
これは、この地方の石材の特徴なのかもしれません。
この石垣の後ろにチラッと見えているのが丑寅櫓です。
二ノ丸に天守が建てられる前には、本丸に天守があったようで、本丸の櫓の中ではこの丑寅櫓が最も規模が大きかったことから、初代天守もこの位置にあった可能性が高そうですな。
一説に、旧天守は隅櫓としてそのまま活用されたとも言われるので、改修などによる建て替えが無ければ、江戸時代の丑寅櫓はかつての天守ということになるんですが、今では現物が失われているので、確認はできそうにありませんけども。
本丸から再び水堀の場所を過ぎると、そこは姫丸という郭です。
夫人の住居など、奥向きの建物があった区域でしょうか。
この姫丸から二ノ丸方向の境には、姫丸門というのがありました。
今はただの道路ですが・・・
この門跡の後ろの建物は、西尾市資料館です。
いつも朝の城巡りというのは、資料館の開館時間になっていない事が多いのですが、この日はちょうど開館してすぐでした。
怪我の功名やね(^^;)
城に関する企画展もあり、西三河の各城についての詳細もあったので、満足度が高かったです。
ちなみに、入館無料。
西尾城は、こじんまりとしてますが、全体としてなかなか良い城ですわ(^^)
西尾城の次は、そのまま東南方向へ。
西尾の古い名は前出のように西条ですが、矢作川の西の条理地割のある土地、という程度の意味ですかね。
今の矢作川は川幅の広い放水路が本流となっているので、西尾の更に西ですが、昔は西尾の東に流れる矢作古川が本流でした。
それとも、条という漢字自体に、条理区画された荘園という程度の意味まで含まれていたのでしょうか。
一帯は吉良荘でしたから、吉良荘の西部という意味の名前だったのかもしれません。
それはともかくとして、西条に対する東条は、矢作川の旧本流を挟んで反対側にあり、川の少し手前に今川があります。
そう、御所が絶えなば吉良が継ぎ吉良が絶えなば今川が継ぐ、と言われた東西の吉良氏や今川氏の本貫の地でした。
由緒正しき土地ですな。
ただ、今川館の正確な位置は判っておらず、碑は館の推定地に建てられていました。
西尾中学校のすぐ南。
グランドの向かい側ですね。
周囲はいかにも農道という細い道しかなく、車で来る人は注意が必要かもしれません。
柵で囲まれた中には、今川了俊の墓もありました。
今川氏の宗家筋に当たるは足利氏は、八幡太郎として知られる源義家の孫義康が足利氏を称したことに始まり、更にその孫義氏が承久3年(1221)の承久の乱の際に三河守護職となって三河と縁を持つこととなります。
義氏は、足利の家督を次男泰氏に譲り、庶長子の長氏には吉良荘を与え、長氏は吉良を称しました。
これが吉良氏の始まりですね。
ちなみに、この庶長子だったという事が、吉良氏が足利氏に次ぐ血統とされる所以です。
吉良氏の祖となった長氏は、嫡子満氏に吉良を継がせ、次男国氏には父義氏から装束料として譲られていた今川荘を譲りました。
こうして、国氏が今川の地名を姓とし、足利氏から吉良氏、吉良氏から今川家が分かれたのです。
で、この墓の了俊は、と言うと、この国氏の曾孫に当たる人物で、南北朝時代に九州探題となって島津氏以外の九州諸豪族を従わせた優れた武将でした。
その島津氏が了俊と決定的に対立した水島の変なんかを見ると、なかなかアクの強い人物だったようですけどね。
しかし、その頃の今川氏の本拠は、現在の浜松から磐田へと移って行っており、既にここにはありませんでした。
そう、ここは了俊とは無関係なのです。
え?墓あるやん。
調べてみてびっくりですが、関係なかった(笑)
実際、了俊の九州探題後の役職も遠江や駿河の守護やしね。
関係無いんよな~
自分ら後世の人間から見ると、今川氏は駿河や遠江の大名ですが、それはもう了俊の頃には確立されてたんですな。
だからと言って、発祥地の価値が揺らぐものではありませんがね(^^)
ちなみに、この了俊の墓を建立した人は江戸時代中頃の西尾藩士だったようで、地元今川村の歴史を調べ、大事にしたんでしょうな。
無名とは言え、立派な歴史家ですわ。
つづく
参考:
西尾城
西尾市資料館
今川館
地図付きは
こちら
一昨日、北朝鮮が核実験を行いましたが、年始早々、色々と動きが出ていますな。
年末の慰安婦問題合意を含むと、南沙諸島での中国の試験飛行もあり、あちらこちらで事態が大きく動き始めているようです。
中国の場合は、上海市場でのサーキットブレーカー発動やその撤廃、株売りに関する新ルールなどが注目されており、南沙諸島の件は霞んでしまっています。
確かに、中国当局が為替の基準値を引き下げ、中国当局が管理できないオフショアの市場ではより元安が進み、株安で通貨安という完全なキャピタルフライト状態なんで、トピックとしては大きいですよね。
通貨防衛で使ったとみられる外貨準備は、12月で1000億ドル強も減ってますし。
政経共に、この後どう動いていくのか、ちょっと目が離せませんね。
しかし、北朝鮮はどうするんだろう。
中国は北朝鮮に核があることを認めておらず、前回も独自の経済制裁をしたようですが、今回もするでしょう。
今、北朝鮮の経済的な拠り所は中朝関係しかないわけですが、石油とか輸入必須な品目をどうするのかが注目ですね。
とは言え、2013年の核実験の際も経済制裁はあったといわれていますが、その年の石油の輸入は10%ほど増えてたりするので、何とも言えません。
しかし、このニュースで改めて思うのは、安保反対派の想像力の無さでしょうか。
ネットでは、
http://www.sankei.com/politics/news/151107/plt1511070011-n1.html
という共産党志位委員長の番組での発言が槍玉に挙げられていますが、どこにリアルな危険が無かったのか、ちょっと問い詰めたいぐらいですな。
ほんの2ヶ月前ですからね。
それから劇的に情勢が変化したわけでもないのに、核実験ですから。
前述のように、南沙諸島でも中国の試験飛行が始まり、実用化寸前です。
ま、共産党については、上の記事にリンクされていた、
http://www.sankei.com/premium/news/151123/prm1511230014-n1.html
を読むと、昔に比べて今はかなり歪に凝り固まってしまったのかな、という印象もありますが。
共産党もその辺は自覚があるようで、天皇陛下が臨席する為にずっと欠席していた国会開会式にも出席しました。
選挙や議会での野党共闘を目指す姿勢とリンクしてのことでしょう。
実際、60年安保や70年安保で運動した支持層が老齢となっており、機関紙である赤旗の購買数も右肩下がりとなれば、党の存続に危機感を持つのも当たり前。
このまま理想論を語っているだけではどうにんもならん、という思いがあるのでしょう。
しかし、現実認識はまだまだですな。
民主党など他の野党も含め、もっと実現的な策を語ってほしいものです。
でないと、選ぶ方としても選択肢が無いままですから。
あと、話し合いで解決したらいいと言ってた方々はどこへ行ったんですかね。
いまこそ中国や北朝鮮と話し合いの好機だと思うんですが、一向に活動が報じられません。
今こそ、頑張ってほしいものです。
きな臭いのは、東アジアだけでは無い模様で、中東ではイランとサウジアラビアの冷却化が進んでいます。
昨日も、イランの在イエメン大使館をサウジアラビア軍が空爆したとの主張をイランがしたというニュースがあり、いよいよ本格的な国交断絶の寸前という所まで来ていますね。
もともとスンニ派とシーア派という対立はありますが、ペルシア人のイランとアラブ人のサウジアラビアでは微妙に民族的背景が異なります。
その辺りの影響もあるんでしょうな。
人種的にはほぼ同じみたいですけど。
しかし、こんなトピックがあったのに、ドバイ原油は30ドル割れ、アメリカのWTIもヨーロッパの北海BRENTも32ドル台というニュースが。
石油をガブ飲みしていた中国経済の減速に加え、アメリカの石油輸出解禁、イランの経済制裁解除と、下げ要素が強すぎます。
比較的調子がいいのはインドぐらいのものでしょうか。
また、中東諸国だけではなく、ブラジルやロシアなどの資源国も大変ですな。
ロシアでは政府系の銀行VEBが政府に支援を要請したとあり、ソチ五輪の後始末もありますが、金融を牛耳る欧米の制裁がずっと効いている状態です。
対ISISで米ロは和解のきっかけを掴んだようにも見えますので、中東での仲介もありますし、こちらも今年1年で動きが出てくるでしょうね。
なかなか、今年も荒れる年になりそうです。
年末を無事に乗り切り、今年もめでたく新年を迎えることができました。
いや~良き哉良き哉。
年末の走り納めが12/26の土曜日で、走り初めが今日だったわけですが、走り納めも走り初めもこんなに暖かく走れたのは記憶にありません。
ほんま、今年は暖かいですわ。
このまま世の中も暖かい一年になればいいんですが、株は大発会から500円超の下落と不穏含み。
ん~なかなかうまくは行きませんな。
年末のアメリカの市況と今日の中国の市況が悪かったのが響いてるようで、国内自体は業績も伸びてるし、そこそこのはずなんですが、今年も海外要因に影響されそうですね。
その中国上海では、今年から導入されたサーキットブレーカーが発動したそうで。
システム稼動テストなんでしょうか(笑)
実環境での動作試験というのはかなり大事ですからね、という冗談はともかく、今月8日からは、中国株暴落時に売却が禁止されていた銘柄の売却が再開されるのもあり、中国株は先安感が出ています。
新春早々、今週来週辺りはちょっと動きがあるかも知れませんね。
いや~クワバラクワバラ(^^;)
師走のこの忙しい時期に、大きなニュースとなりましたね。
来年早々の国会開会を前に、外交的問題を片付けておくという面もあるんでしょう。
ま、日本の立場で言えば、法的には日韓基本条約と日韓請求権協定で解決している話ですし、人道的にもアジア女性基金で対処してきた話で、本質的には韓国国内の問題なんですがね。
なので、拠出するお金はクレーマーに追い銭をあげるような印象はありますが、不可逆的な解決の為には必要な迷惑料だったのかもしれません。
ただ、日本の法的責任は解決済みであることは譲ってませんし、それを世界に発信していく必要もあるかと思われます。
法的責任は50年も前に解決してるが今回は人道的見地からより厚く支援した、となれば、日本の評価にも繋がりますし。
今回の支援は、前回のアジア女性基金と違い、運営主体が韓国であることもポイントですね。
金は出すけど、後々のクレームは運営してる韓国に言ってね、という意図が見えます。
それプラス、アメリカが合意の裏書的な立場にある事。
合意文書の作成は、3月にアメリカで、と伝えられています。
文書なし質問なしの共同会見というのがかなり異例で、それだけ両国の世論を睨みながらという所なんでしょうけど、アメリカの仲介と後押しもあったんでしょう。
対中国に本腰を入れ始めたアメリカにとっては、中国の隣国たる2つの同盟国が対立していることは、戦略的に非常にまずい状況ですし。
ただ、日本にとってもこのアメリカ仲介というのは大事な要素で、前回は2国間の協定であった為にちゃぶ台返しも可能でしたが、次にこれを覆すと、アメリカの顔に泥を塗ることになる。
日本には何をしても許されるというような空気を持つ韓国にとっては、これは大きな足枷になるでしょう。
また、韓国側が自ら不可逆的、最終的という言葉を使ってますから、「前の時はこう言うたやん」という主張を世界に向けて発信できます。
言わば保険ですな。
日本国内にややヒステリックな反応があり、個人的にも非常に共感や理解もできるのですが、それは「どうせまたクレームを付けてくる」という韓国の信用の無さも大きいかと思われます。
そういう意味では、保険は説明材料になるでしょうね。
もう戦後70年です。
当時の現役世代だった人も少なくなり、更に社会で主導的立場だったはずの30代以上の人は、もうほとんどいません。
上の世代が起こした問題は、すでに50年前には法的に片付いますし、今回の合意でより過去のものにするべきですね。
今の世代は政策決定には関係無かったわけですから、過去を反省するのではなく教訓とし、前を向かなくてはなりません。
前回のあらすじ
夕闇迫りつつも、無事予定を完了!
うむ上出来じゃ。
今回の宿泊地は、半田市の駅前のビジネスホテル。
この辺りは臨海部だけあって、ビジネス需要が多いみたいですね。
ただ、ビジネスホテルの数は充実してても、大浴場を備えている所が少ない。
バイクで膝を曲げてる時間が多いし、山も歩くしで、
足伸ばしてぐったりしたいんや~
というのがおっさんには切実な願いなんです!
いつも、ここまで行きたいという所とここまでは確実に回れるだろうという所の間ぐらいに宿を取って、確実に回れるところがもし行けなくても次の日にカバーできるようにしてるんですが、今回はこの辺りで取りたいという地域で大浴場を加味すると、ほぼ一択。
もっさいおっさん単独で泊まるにはちょっと小洒落た感じのホテルかなとも思ってたんですが、着いてみると、大量の中国人が食堂に溢れて騒がしかったので、心配は杞憂に終わりました(笑)
しかし、中国の人ってエレベーターでも平気で喋るんですね。
しかも、乗ってる人同士が大声で会話してた時はそんなもんやろと思いましたが、エレベーターで携帯のハンズフリーで話してる時は、さすがに、えっ!?ここで?と思いましたわ。
会話丸聞こえやん。
ま、中国語分からんけどね。
恐るべし、中国人!
週末のせいなのか、ホテルの駐車場は満車で、バイクはフロントに許可を貰ってホテルの前に止めたんですが、荷下ろし作業中に、ボボボ・・・という、「らしい」音でフェラーリがホテルのエントランス前に止まりました。
おーフェラーリやん!と思いつつ、荷下ろしを続けていると、ドライバーが車を降りて何故かこちらに。
恐らく、駐車場が一杯で代替の駐車場を聞きに来た宿泊者だと思うんですが、
「長距離だとそういうバイクがやっぱり楽ですか?」
と聞かれました。
すでに神戸ナンバーを確認されとるな、と思いつつ、
「やー楽ですねー」
と答えると、
「やっぱりそうですかー。私もねドゥカティに乗ってるんですけど、故障しちゃって、車で来たんですよねー」
と言わはりました。
いや、それは聞いてへんけど。
「そうなんですかー。ドゥカティも故障が多いって聞きますもんね。」
「そうなんですよー・・・」
流れる微妙な空気・・・
え?何?イタ車好きですね、とでも喰いつけばよかったん?
文章で書くとそうでもないですが、結構食いついて来いよオーラが出てる喋り方だったんで、ちょっとしんどい。
旅の話ならもっと喰いつくんやけどねぇ
フェラーリもドゥカティも高いから凄いとは思うんですが、興味が無いんですよねぇ
特に海外製バイクは、長距離を乗る人間からすると、出先で止まる確率的に食指が動かない。
国産でも止まる時は止まるけど、まだ対応ショップ数的に修理できる可能性が高いですし。
ツーリングが使用のほとんどですから、その大きな荷物を抱えて電車で帰るという空しさだけは避けたいんです。
そんなこんなで、ドライバーはホテルに入っていきました。
微妙な空気を残して・・・
しかし、今思い出すと、ドライバーが話してたのは標準語的イントネーションだったはずなのに、再生は関西弁になってる。
かつて東北を放浪していた時、石巻の交番で道を教えてもらった婦警さんは一生懸命かわいい東北弁で教えてくれたけど、それも今再生するとなぜか関西弁。
これは何という現象なんでしょうか?
それぞれの人のイメージだけ残ってて、言葉は勝手に翻訳されている・・・
人の記憶ってのは勝手に書き換わるもんなんですねぇ
チェックイン後、待望の大浴場に入り、コンビニへ朝飯の買い出しへ。
明日の朝は雨ということなので、大目のブランチにしてギリギリまでチェックインを遅くし、昼飯無しで走る作戦です。
おにぎり、サンドイッチ、豚汁等々。
コンビニで1000円オーバーは買い過ぎな気もしますが、2食分やし、と我が腹を見ないことにする。
どうせ朝も遅いと、日付が変わるまでダラダラとテレビを見て、寝る前に天気予報を確認すると、テレビは朝が雨でのち曇り、Yahoo天気も同じ、スマホにバンドルされてたAccuWeatherという使った事ない予測サイトは朝一時曇りのみ。
ほう。
雨じゃないという予報もあるのか。
おやすみ。
そして、朝。
ふと7時半頃に目が醒めて外を確認すると、
晴れ・・・とる・・・
ええぇぇぇぇー
曇りですらなくて、晴れてますやん!
そこからは、慌しいこと。
朝風呂は譲れないので、寝ぼけ眼そのまま朝風呂を頂き、1000円分の朝飯を掻き込み、知多半島のみだった予定ルートを早急に西三河を含むルートへ変更。
出発は8:30を過ぎてました。
AccuWeather、次からお前を信じるぜ!
ホテルを出て、最初に寄ったのは東端城。
衣浦大橋を渡って県道46号線を辿っていけば、すぐ近くまで迷う事無く行けました。
この城の築城年代には、松平氏が大浜を掌握していた文亀3年(1503)の頃と天正8年(1580)の2つの説がありますが、戦国時代末期には長田尚勝がおり、後に小牧長久手の合戦で池田恒興を討つという大功を挙げた弟の永井直勝の城となっています。
直勝は永井に改姓したことで永井氏の祖となり、子孫は藩主として維新まで続きました。
城自体は、家康の関東転封時にどうだったか諸説があるものの、直勝が大坂の陣の功で元和2年(1616)に上野国小幡で大名に列するまで存続したようです。
現在の城跡は、城山稲荷の境内となっていますが、細かい所を見ていくと、遺構が所々に残っていました。
まずは城山稲荷社の前景。
やたらと駐車場が広かったです。
次は、北隣の念空寺との間。
念空寺の敷地も城域だった微高地で、間の掘り込みは確実に空堀跡ですな。
この写真で見ると分かりますが、城があるのは比高数mの微高地です。
標高だと10m弱といったところでしょうか。
周囲の現況が割と平坦なだけに、現地では防御面で不安がある城のように感じましたが、すぐ南の油ヶ淵は当時は北浦という海の入江で、干拓も進んでおらず、もっと城に近い所に海岸線がありました。
地図を見ると判り易いですね。
下の地図の中央一番上の城跡の両サイドに細流がありますが、当時は堀の代わりの汽水域だったかと思われます。
地図の南側は規則正しく造られた干拓地で、当時の北浦。
今の現地からは想像しにくいですが、海とは密接な城だったんですね。
大浜の代官だった長田氏が城主だったのも、海経由での接続が良かったからでしょう。
城山稲荷社の隣には農地があり、そこには浅くなった空堀と低い土塁も確認できました。
痕跡が残っている城は、当時の姿を想像しながら散策するのが楽しいですね(^^)
つづく
東端城
地図付きは
こちら
前回のあらすじ
吉田城は都市型のいいお城跡。
明石城に通じるものがあった。
三河湾スカイラインは勿体無し!
三河湾スカイラインを抜ける頃、陽は完全に夕日の状態に。
ぼちぼち、今日はもう城は巡り納めか・・・なんて思いつつ、坂野峠から東へ真っ直ぐ向かい、上ノ郷城へ。
まだこの明るさなら行ける!
上ノ郷城は、鵜殿氏の居城でした。
鵜殿と言えば、日本一面積の小さい村というので、和歌山県の鵜殿村が有名でしたが、今は市町村合併で残念ながら無くなっています。
日本一小さい村というでっかい看板があったのは、今でも覚えていますね。
ああいう日本一の○○というのは、なぜかそそるものがありますな(笑)
それは置くとして、その鵜殿村を本貫とする鵜殿氏は、もともとは熊野別当の家系という伝承がある豪族ですが、三河国には熊野大社の神領や荘園がいくつかあったようで、家系云々はともかく、その現地管理者から出発したのでしょう。
三河湾と伊勢湾、熊野の地理的な近さというものを感じますね。
熊野の辺りは険阻ですが、陸路ではなく海路であれば、伊勢湾に入ってしまうと交通はかなり容易で、人的物的交流も盛んだったようです。
いつ頃にこの地に来たのかは不明ですが、南北朝時代には豪族として頭角を現し、戦国時代には三河に進出した今川家に従って重用されました。
当主が長持の時には、あの今川義元の妹婿となっていますが、これは東三河の今川与党として重要視された結果でしょう。
ちなみに、某歴史シミュレーションゲームのN長のY望にも、今川家臣として登場してきます。
あのゲームに登場するということは、かなり重臣と言えるでしょうな。
七条兼仲みたいに、事跡がはっきりしないローカル武将なのにポンっと出る場合もありますがね(笑)
話を鵜殿氏に戻すと、今川家の姻戚となった長持の子長照も同様に重用され、というか、つまりは義元の甥なのでそれは当然の事なんですが、三河においての活動が史料に見えます。
また、後の桶狭間の合戦直前には、今川家にとって対織田戦線の最重要拠点である大高城将でもありました。
後の家康である松平元康が、兵糧運び入れで賞されたのもこの時。
しかし、皮肉にも、大高城で出迎えた長照と、運び入れた若き日の家康は、直後の義元の討死によって、やがて激突する運命となります。
戦後、今川家から独立を志した家康と、親族の立場から今川家に留まった長照。
やがて、岡崎城を拠点に自立した家康は、西三河を席巻し、今川家の勢力圏にあった東三河へと侵攻します。
この上ノ郷城もその矢面に立ち、長照が迎え討ちますが、その頃は今川家の後ろ盾も弱く、上ノ郷城は落城し、長照は討たれました。
その上ノ郷城は、三河湾スカイラインの描く弧の中心辺りにあります。
蒲郡駅から真北、赤日子神社に駐車スペースがあるのですが、周辺は農村特有の道の細さで、大きな車では行きにくいかもしれません。
その駐車スペースには、案内図がありました。
そこから狭い道を歩くと、堀跡といわれる熊ヶ池があります。
更に、そこから北へ進んだ所が主郭部。
この熊ヶ池から主郭部の間には、居館があったともいわれています。
主郭部へ足を踏み入れると、まず目に入ってくるのが大きな土塁と空堀で、その土塁上に城址碑がありました。
下の写真中央部にある木の幹のような真っ直ぐのものが城址碑です。
土塁と空堀がはっきりしているのもいいですね(^^)
城址碑のある場所から堀を越えて一段上の場所に本丸があります。
その本丸の入口には腰郭のような4m四方程度の郭があり、かつては大手門があったんでしょうか、左手に石垣も見えますね。
最後は本丸。
2段構成になっていたことがよく判ります。
最後、と書いたけどもう1枚、こっちの方が土塁と空堀のコントラストがはっきりしてていいかな?
現地の縄張図を見ると、空堀ではなく郭跡だった可能性もあるようです。
ただ、建物跡なのか掘り込まれていたのか、発掘してみないと分からないんでしょうね。
上ノ郷城の後は、もう1城寄る予定だったんですが、出発する頃には陽が落ちてしまってました。
やばい・・・
急いで蒲郡西I.C.付近に戻って県道を南下し、国道247号線へ。
おぉこんな所にボートレース場が!なんて思いつつ、左折して臨海部へ走り、形原漁港へと到着。
この漁港の南の山が形原城です。
まだ明るさが残ってた!
現在の形原城は、古城稲荷の境内地となっていますが、それは城跡のごく一部に過ぎないようです。
実際、残っている部分は、城としてはかなり狭いですしね。
地図を見ると、稲荷社の辺りが東古城ですが、その北西に北古城、南西に南古城という地名が残っており、これらも城域だったと思われます。
更に南西の馬場も、城内と言うには遠いですが、外郭だったのかもしれませんね。
とりあえず、
この辺、東西南北多いな!
というのが地図を見た印象ですが(笑)
ざっと見ただけで、古城、稲生、戸甫井、馬場、馬相、上野、上松、根崎、御屋敷、名田、欠ノ上、湿見、中畑、鞍掛・・・
これらに東西だったり南北だったりが付いています。
そんなに細分化せんでもよかろう、と思うぐらい。
これも地域の特色なんでしょうね。
話を形原城に戻すと、この城は、十八松平のひとつとして江戸時代の大名として生き残った形原松平氏発祥の地。
形原松平氏と言えば、高槻藩、丹波篠山藩、丹波亀山藩といったように関西で藩主を務めており、意外と自分にとっても近しく感じる家だったりします。
大元を辿れば、松平氏3代信光の子与副から始まっており、割と古い時代に分かれた松平一門ですね。
ちなみに、この松平氏を調べて行くと面白いのですが、2代ごとに英主が出ています。
初代親氏が、土豪である松平氏の養子となって源姓松平氏の歴史が始まるわけですが、流浪の身分であった親氏に松平信重が松平郷を譲ろうと思えるぐらいですので、ひとかどの人物だったのでしょう。
親氏の子親泰は、親氏を手伝った事や岩津進出を果たしたことから、ぼちぼち活躍したと思われます。
ま、この初代と2代は存在が疑われてたりもするので、どちらもはっきりしていないと言えばはっきりしていないんですがね。
次が、上にも出てきた3代目の信光で、親氏の子という説もあるのですが、この信光の時代に大きく松平氏が発展しました。
松平郷は兄信広が継いでいることから、信光自体は分家だったと思われるんですが、岩津を継ぎ、やがて平野部の安祥にまで勢力を拡げています。
これが分家発展の1回目。
信光の跡を継いだのは親忠だったのですが、この人もぼちぼちの活躍をしたようですね。
ただ、惣領は信光の長男に譲られたと三河物語には記されており、分家だったと思われます。
これが正しければ、分家発展の2回目ですな。
この親忠の子が5代の長親で、この人物は今川軍を率いた北条早雲と戦って撃退するなど、やはり英主でした。
彼は三男だったのですが、兄達は在京していた、つまり惣領の役割は兄達が担っていたようで、地元の有力者として力を蓄えたのでしょう。
分家発展3回目。
しかし、この長親の子信忠は暗愚で、家臣から、頼むから隠退して!と言われるほど。
その為、信忠の隠退で7代目の清康が登場してきます。
松平清康と言えば、知る人ぞ知る三河の英雄。
13歳にして家督を継ぎ、岡崎へ進出して西三河を平らげ、更には東三河にも侵攻して僅か6年にして三河統一を成し遂げました。
そして、尾張にも進出し、織田信秀の弟信光の守山城を攻めたのですが、その最中、家臣に斬られてしまいます。
享年25。
これが森山崩れです。
ここで死ななければ、数ヶ国の主になったかもしれないというほどの武将でした。
非常に惜しい。
この後、松平家は苦難の時を迎えます。
清康の子広忠はまだ幼く、叔父信定が岡崎城を押領し、広忠は流浪の挙句に今川義元の後ろ盾を得て復帰しますが、後の家康である嫡男竹千代を人質に取られ、やがて自分も家臣に討たれてしまいました。
この人が8代目。
そして、9代目の家康の登場となるのです。
簡単に整理すると、
・初代親氏-流浪の身から松平郷を譲られる。
・2代親泰-初代のお手伝い。岩津進出。
~ 伝説の境目 ~
・3代信光-惣領は松平郷松平氏の信広。岩津松平氏。念願の平野部安祥へ進出して戦国大名の礎を築く。
・4代親忠-惣領は長兄?安祥松平家として惣領名代か。
・5代長親-戦国大名化。三男の分家ながら実力的惣領。北条早雲と対決し撃退。
・6代信忠-ボンクラさん。さっさと隠退させられる。
・7代清康-三河統一の英雄。遠征中に凶刃に斃れる。
・8代広忠-岡崎を追われ流浪。後に復活するも今川配下。
・9代家康-江戸幕府創設。
こんな感じですか。
1代目は伝承に近いので何とも言えませんが、2代ごとの3・5・7・9代目はガッツリ英主ですね。
そして、江戸時幕府創設後も、3代家光、5綱吉が目立つ存在となっています。
こちらは功罪共に深しといった感じですが・・・
それと、本宗家筋の松平郷松平氏から見ると、家康は分家の分家の分家にあたるんですが、ここは織田家と相通じるものがありますな。
織田家も、本家筋たる岩倉織田家の分家の清須織田家の更に分家の清須三奉行の家ですしね。
その岩倉織田家も、越前の総本家から分かれて尾張に来たっぽいので、嫡流から見た信長は、分家の分家の分家ということになるわけです。
長子相続が建前の武士の世ですが、世が乱れると、実力のある分家がのし上がってくるということがよく解りますな。
話が恐ろしいほど逸れましたが、現在の形原城は、古城という趣はあるものの、城跡として残っているのは非常に小さい範囲にとどまっています。
城跡の全景はこんな感じで、比高は10mほど。
この場所が既に10mほど上った場所なので、海からは20mほどの高さでしょうか。
2段の削平地が残っており、下段は広場、上段には社殿があります。
その一角に城址碑。
遺構と呼べる物は少ないですが、古城の趣はある城でした。
とりあえずは、ここまで明るさが残ってて良かった(^^)
午前4城、午後4城の予定は無事終了。
天気も崩れなくて何よりですわ。
明日は朝から雨の予定やし、ホテルでゆっくりやねぇ
つづく
参考:
上ノ郷城
形原城
地図付きは
こちら