2015年4月9日木曜日

AIIB

近頃、AIIBへの参加の是非を巡って、マスコミで論評が激しいですな。
その多くは、AIIBに参加すべきという論調。
外交的敗北や失敗、中国外交の勝利といった論調もありますね。
しかし、AIIB自体の詳細については、国にもしっかりとした情報が無く、中国からあまり情報が出てきていない様子。
まとめると、

・中国が40%~50%を出資する。
・出資金はGDP比で各国に割り当てられる。
・アジア地域で75%、その他の地域で25%を出資。
・理事会の開催や理事の権限は不明で、本部は北京に置き、トップには中国人が就任。

といった情報が出ています。
拒否権については、アメリカのマスコミが、中国が拒否権を設定しない方針を固めたと報道しましたが、これを中国は否定しました。
なので、現段階では拒否権の設定をするつもりであろうと思われます。

このような組織、というかまだ全容がはっきりとせず、海の物とも山の物ともわからない組織に参加しないのは失敗という論調は、ちょっと偏りが過ぎませんか?
外務省のデータ(http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000018853.pdf)を参照すると、2013年の実績で、日本は49196億ドル、中国は92403億ドルです。
直近のデータでは約2倍といったところでしょう。
つまり、中国が1兆円出すと言えば、日本は比率から5000億円を出さざるを得ませんが、その出資金に見合った権限があるのかどうかも不明、ということになります。
域外のイギリスなどの先進国が、少ない出資金で儲け話に一枚噛める、というのとはちょっとレベルの違う額ですね。
ま、出資金についても外相が1000億円規模と言っているように、全容さえ明らかではありません。
額が額だけに、ある程度はっきりしてから参加の是非を考えるのが現実的ではないでしょうか。
少なくとも、日本は同じような機能のアジア開発銀行では15%以上の出資比率を持ち、アメリカと協力して総裁を出せる影響力を持っているわけですから、慌てる必要は無いと思うんですがね。

いつものバスに乗り遅れるな理論かな?
マスコミには、そういう煽るような感じではなく、メリットデメリットをもっとしっかり押さえた冷静な議論をして欲しいですな。
 

2015年4月7日火曜日

北斗星とトワイライトエクスプレス

先月の3月は、毎年のことですが、鉄道のダイヤ改正のある月です。
鉄道関係者にとっては、年度始めといったところでしょうか。
今年についての大きなトピックとしては、北陸新幹線の開通と、寝台特急の廃止がありました。
それに関してこんな記事が。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150327-00133297-kana-l14

要約すると、
・寝台特急の廃止は鉄道事業者間の事情によるもので、利用者は関係ない話。
・代わって登場するクルーズトレインは高すぎて代替にならない。
・ヨーロッパには、高速鉄道も安い簡易寝台もある。
・旅の多様性が失われる。
といったところでしょうか。

個人的には、幼い頃は鉄道が大好きで、長じてからはトワイライトエクスプレスに乗ったこともあり、日本海モトとレールにいつか乗ってやるという野望を持っていたということもあって、寝台特急の廃止は凄く残念なんですが、ちょっとこの記事も見方が偏ってるかな?と思わくはない内容ですね。
 
国鉄時代には、寝台特急、寝台急行というのがあって、その代表はやっぱりブルートレインでしょうか。
主に東京・大阪から、九州や中四国方面への寝台特急で、東京~西鹿児島なんて恐ろしい長距離列車もありました。
上の日本海モトとレールもそのひとつで、これは大阪~青森、青函トンネル開通後は北海道まで行くようになったブルートレインの日本海に、バイク積載の車両を足したものです。
確かフェリーより早くて便利だったはず。
東京~大阪の急行銀河というのもありましたね。
一応、ブルートレインは特急の名称なので正確にはブルートレインではないんですが、青の車体で外観は完全にブルートレインでした。
前世代のブルートレインの車両を使ってたはず。
これには乗ったことがあります。
いや~なつかしい!

しかし、これらはごく一部が電車の寝台列車として生き残ってるのみで、ブルートレインとしてはもう今は走っていません。
ブルートレインの末期には、時々新聞記事で見ましたが、どの便もガラガラでした。
最盛期には10両以上で運用されていたと記憶してますが、末期には両数を減らして尚、ガラガラだったんです。
ノスタルジーに浸っても、実需はこんなものでしかありません。
これも時代の流れというところでしょうかね。
新幹線が登場し、高速化し、新幹線網と言えるだけの路線が構築された今、中距離は新幹線と競合し、他方、飛行機にもスカイマークやLCCといった上位2社に対抗し得る存在ができて運賃が安くなり、長距離は航空路線と競合するようになっています。
こうして、寝台特急に需要が無くなってしまったのです。
もちろん、愛好家はそれとは関係なく寝台特急を利用しますが、記事にあるように、それでも北斗星の年間の乗車率は6割程度でしかありません。
日常需要をある程度拾えないと、やはり存続は難しい。
さらに、日常需要はある程度安定しますが、それ以外は季節やブームといった要因で変動しがちでもあり、その上、通過する在来線の非JR化で取り分減少ともなれば、営利企業としては、数十年スパンでの償却を考える車両更新の決断はし難いでしょうね。
残念ですが、理解も出来ます。
鉄道としては多様性が失われるのは間違いないのですが、一般の人から見ると、新幹線や航空路線といった選択肢が増えた結果とも言えるわけですし。

で、この現状で寝台特急を存続させようとすると、クルーズトレインになるわけですな。
愛好者需要に特化した形で。
ななつ星なんかを見ると、料金設定にはちょっと難があるように感じますが、売れてるということは受け入れられているのでしょう。
記事にあったように、個人的には電力の発送電分離のようにオープンアクセスを進めてもらって、JR以外の会社から企画列車が運行されるようになったら、よりいいなと思うんですよね。
第三セクターになってるということは、地元自治体の意向も反映し易く、オープンアクセスには逆にチャンスじゃないかと思いますし、頑張って欲しいですね。
かつての鉄ちゃんとしても、応援したいです。
 

2015年3月31日火曜日

備後ぶらり その5

前回のあらすじ

草ぼーぼーの中を歩き、靴を草の葉と変な実まみれにしながら、辿り着けなかった新庄城を断腸の思いで後にしたのだった・・・
 
次に目指すは5kmほど北東の尾首城。
この城を目指すのは2度目。
つまりは、リベンジなのです。
とは言え、今回も場所がはっきりと分かったわけではなく、せっかくのバイクで小回りも利くから行ってない道を回っておくか、と言う程度。
しかししかし、前回来た時に、さすがにこの先は無いんじゃないか?と引き返したその先に城の案内板が!

 
途中までは、ど~こに連れて行かれるんかね~なんて思いながら走っていました(笑)
狭い山道の上りでUターンなんかに追い込まれた日にはお手上げやな、と。
いや~思い切って突き進んでみて良かった(^^)

ちょっと逆光ですが、尾首城の全景はこんな感じです。


この小山になってる部分が主郭部で、街道筋があったであろう仁吾川はこの向こう側の急斜面の下に流れています。
手前の畑地はなだらかな地形だったんですが、居館や武家屋敷があったところですかね?
広く見れば城の一角に当たるのかもしれません。
この木々が生えている部分の左手には、空堀とも取れる窪みがあり、そこから獣道とも呼べない道を木々に掴まりながら登って行くと、確実に郭となっている部分に出ました。
この全景写真で言うと、城は3郭構成で、左手側に三ノ丸に相当すると思われる最下段、中央が最高部の本丸、右手にその中間の高さの二ノ丸に相当する次段があります。
これが本丸の削平地。

 
木々で遠近感が解り辛いですが、三日月に近い長方形で、長辺が大体25mぐらいと、意外と規模がありました。
ちなみにこの向こう側の次段は完全に藪化していて散策できず。
周辺にも郭がある可能性があるんですが、案内板の類が無かったので全容は不明です。
後は、三ノ丸部分に上り土塁と思われるものがありました。
見所はそれぐらいですかね。
空堀の可能性がある窪みの辺りにもまだ何かあるかもしれません。

まぁでも何年も場所が分からなかった城に辿り着けたのでかなり満足!
いや~えがったえがった。
 
1日目:195.9km
2日目:124.7km
3日目:192.9km  合計:513.5km
 
参考:
尾首城
地図付きはこちら
 

2015年3月26日木曜日

備後ぶらり その4

前回のあらすじ

鞆は良か雰囲気ですわ。
早朝の空気も凛として良かったっす。
 
大可島城の周辺を見て回り、当初の目的だったポニョのモチーフとなった場所も見終えたので、駐車場に戻る際には、こんなところも通りました。

 
ここは対潮楼で有名な福禅寺の近く。
こんな路地が至る所にあるんですよ。
路地マニア垂涎(笑)
名残惜しき鞆の写真の最後っぺ。
 
今回は鞆がメインだったので、これからぼちぼちと帰投したわけですが、行きと違い、山陽道の福山東I.C.への道路案内に従って進むと、真っ直ぐ行くだけで国道182号線に入れました。
臨海部に整備された道で、鞆に行くなら圧倒的に早くて快適ですね。
行きは想定したルートに固執してましたわ。
しかし、この途中、何気なく給油しにGSに入り、いつものように給油したんですが、そこでひたひたパン給油事件が。
どんなネーミングやねん!スープ会社の回し者か?というのは置くとして、いつものように給油口を開け、給油ガンをセットし、跳ね返りの滴防止の為に備え付けの雑巾を宛がったわけです。
そして、給油を終え、雑巾を除けたその時、タンク表面にガソリンが・・・
えっ?と思い、雑巾を見ると、
ガソリンでスープ浸したひたひたパン状態になっとるがな!
これは想定外・・・
タンク表面への飛び散り防止の為の雑巾がまさかガソリンに侵されていたとは!
おかげでタンクのプレクサスのコーティングがそこだけ剥げて色がマダラになるわ、左手のグローブがガソリン臭くなるわ、散々ですわ。
静電気が怖いのでガンを持つ右手のクローブは外すんですが、左手も外しておけばすぐひたひたになってるのに気付いたのに・・・
 
そんなトラブルもありながら、交通量の多くなってきた国道182号線を淡々と北上し、根拠地とする神石高原へ。
以前に探し切れなかった尾首城を探しつつ帰るかな、と思って走っていると、県道9号線の道端に急に城の案内板が。


城の名は新庄城。
これは初耳。
朝食が遅くなるなと思いつつ、案内板を見付けた以上は寄らずにはおられない。
しかししかし、この城、アクセスが藪化していて城の本体がどこにあるのか分からずじまいでした。
段々になって郭の跡かな?と思うような墓地があったりはしたんですが、案内板とは形状が違いすぎて、少なくとも城の中心では無いようです。
でも、明らかに城っぽい地形だったので、もしかしたらやや離れた出丸などの遺構が再利用されたものかもしれません。

 
お墓を撮るのは失礼なのでその墓地の入口の所なんですが、左の郭っぽい削平地が中央の鈎型の土塁で区切られてるように見えますよね。
そう、見えるんです。
この向こう側の墓地も含めると3段の平地。
ん~、遺構くさいんだけどな~
ちなみに、この反対方向は完全に藪化した道で、草を掻き分けて進むと廃屋がありました。
もしかして、城はそこから更に登った先だったんだろうか・・・
 
つづく
 
参考:
新庄城
地図付きはこちら
 

2015年3月20日金曜日

備後ぶらり その3

前回のあらすじ

鞆の町並みはレトロで雰囲気があっていいですわ。
なんとも言えない絶妙な道の狭さが妙に落ち着くね。
 
鞆の町は、ジブリの「崖の上のポニョ」のモデルになった町と言われており、宮崎駿が滞在していたという東南の円福寺の辺りには元々行く予定でした。
で、鞆城の高台から町を見下ろした時、その場所は大可島城の跡地であるということも知りました。
ほうほう、城跡ならば尚の事、行かねばなるまい。

前回の記事で紹介したように、朝の町の路地を一通り満喫した後、鞆のフェリー乗り場へと歩き、その背後にある台地へ。
ここが大可島城の跡です。

 
現在は円福寺というお寺と、民家の敷地になっており、この民家に宮崎駿が滞在していたそうな。
城としては、民家が寺の敷地よりやや高いので、本丸かな?
民家と寺の敷地の大きく2つの郭が存在した城ではなかったかと思われます。
また、台地にあるだけに非常に風光明媚で、鞆の港や町並みが一望できるほか、弁天島や仙酔島もご覧のように眼前に。

 
ちなみに、鞆城築城の際に陸繋島となりましたが、城の在った当時はその名の通り島でした。
陸地からすぐの島、という海賊衆が好物とする立地で、戦国時代には毛利傘下にあった因島村上水軍の拠点でした。

帰ってから調べたんですが、この城では南北朝時代に大きな合戦がありました。
大まかには、四国瀬戸内の制海権を握る南朝方が城を拠点とし、陸側から北朝方が攻め寄せ、北朝方が勝利したという戦いです。
ちなみに、鞆という町は室町幕府と縁が深く、九州から巻き返そうとしていた足利尊氏が建武3年(1336)にこの地で新田義貞追討の院宣を受け、戦国時代には京を追われた最後の将軍足利義昭が毛利氏の保護の下に滞在していたのも、この鞆でした。
その為、室町幕府は鞆に始まり鞆に終わった、と言われることもあります。
なんとも不思議な縁ですね。
それはともかくとして、足利家にとって所縁のある大事な地でもあり、経済的にも重要な湊であった鞆は、南北朝の争奪の地となるのですが、燧灘を往来する南朝勢力の根拠地は伊予であり、その主な支援勢力は、南北両派に分かれて対立していた河野一族のいずれかでした。
この頃の河野家当主通盛は、尊氏に属して伊予守護に就任していますが、後に細川氏に守護職が移り、河野氏が南朝に転じるなど、情勢はかなり流動的だったようです。
この辺りは、全国どこでも南北に分かれて争った家が多く、同じようなもんですな。

この大可島城が拠点化されたのは、足利一族である細川氏によって康永元年(1342)に川之江城が攻められ、伊予の南朝方水軍が救援に失敗してからです。
そこで新たな拠点を求めて、瀬戸内海の対岸に移ったという感じでしょうか。
しかし、北朝もそこは黙っておらず、大可島城攻略に乗り出しました。
そして対峙となるわけですが、四国では細川氏の攻勢が続き、伊予の重要拠点のひとつである世田山城が危機に陥ると、守将であった金谷経氏が主力を率いて四国へ戻り、志願した桒原(桑原)重信のみが残りました。
しかし、こうなっては多勢に無勢。
抗戦空しく落城し、桒原一族は悉く討死したといわれます。
その為、桒原一族の墓もありました。

 
マイナーな城にも、城である以上、相応の歴史があるものですね。
ジブリ好きの人も、歴史マニアの人も、一方ではポニョの1シーンを思い浮かべながら、一方では壮絶なる合戦を思い浮かべながら、この大可島城跡の辺りを散策することができます。
道も狭く、鞆らしい路地の雰囲気も楽しめますしね。
お勧めです(^^)

最後に、大可島城から下りてきた所で見付けた昭和的な仁丹の広告。

 
古い町屋と相まって良い雰囲気でした。
そういえば、学生の頃の先生が仁丹臭くって、ジンタンというあだ名になってたな~(笑)
 
つづく
 
参考:
大可島城
地図付きはこちら
 

2015年3月13日金曜日

備後ぶらり その2

前回のあらすじ

鞆城跡は城の痕跡少なし。
でもめっちゃ景色ええわ~
 
鞆城跡の民俗博物館から南へ下って行くと、途中に稲荷社があり、下り切ればそこはもう鞆の懐かしい感じの町並みです。
ただ、こんな狭い道なのに、意外と車通りが多い。
こりゃ危ないですわ。
市街を迂回する道路の話が出るのも納得。
振り返ってみると、鞆城へは結構な勾配となってることが分かりますね。
稲荷社が腰郭だったんでしょうか。
なんて事は無い写真ですが、なんか気に入ってる構図です。

 
下り切った所には鞆の浦の商家として保存されている建物なんかもあり、雰囲気を味わいつつそのまま海まで抜けると、そこはもう鞆湊。
保存状態が良いという雁木が目に入ってきます。

 
こんなにちゃんとした状態で残っているのは、相当珍しいらしいです。
港湾として生き続けている以上、施設改修の手は入り続けるということなので、時代にそぐわなくなったものは造り替えられる運命にありますからね。
残って尚且つ現役というのは凄い。

この港の周辺には、鞆の町の代表的な風景である細い路地が、昔の風情を色濃く残して入り組んでました。
下の写真で少しは伝わりますかね?
凄く雰囲気が宜しいです(^^)

 
 
何故かアヒル隊長のひな壇(笑)

 
場所によっては人ひとり分の幅しかない路地も。

 
こんな路地、大好物ですわ。
観光地でも、すぐ路地裏の人通りの少ない道に行こうとする癖が(笑)
そんな路地マニアの好奇心をくすぐる路地多し。

昔からの湊町だけに、歴史に所縁のある場所も多いです。
下は、坂本竜馬がいろは丸事件で談判した町屋。


今は普通の旅館として運営されているみたいですね。
下は、政変によって長州派の貴族7人が京都から落去した七卿落ちの際に立ち寄った民家。
保命酒という医用酒を販売していた中村家の住宅で、中村家の廃業もあって太田家の所有となり、今は太田家住宅七卿落ち遺跡という名になっています。

 
しかし、鞆という町は雰囲気がある上にコンパクトで、徒歩での散策とはとても相性が良いですね。
そして、早朝に来て良かった。
観光客がいないというのが、路地マニアとしては最高ですな(^^)
 
つづく
 
参考:
鞆ノ浦
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2015年3月7日土曜日

備後ぶらり その1

ずっと前に記事に上げた、ホタルのついでに訪れた場所場所をひとつ。
ま、かれこれ9ヶ月ぐらい前の話なんですが、バイクもオフシーズンということで、許してつかぁさい(笑)
 
毎年、蛍の頃に訪れているのが広島県は備後地方なんですが、去年は梅雨の時期に全部晴れるという予想だったので、居ても立ってもいられずバイクで出撃しました。
蛍目当てと言っても、当たり前の事ながら昼間はホタルも出ないので、ガッツリとバイクで出掛けられるという寸法。

バイクで出掛けたのは土曜日。
最終目的地は鞆の浦なので、渋滞が予想され、そこから逆算すると、いつものツーリングのように朝5時の起床。
山間だけあって早朝は寒い。
まず、備後を南北に縦断する国道182号線に出て、国道2号線へ入り、県道22号線で鞆へ、という計画。
主要幹線だけで行けるから楽やわ~なんて思ってましたが、帰りにもっと簡単なルートが発覚する、というのは置いておくとしましょう(笑)
国道182号線に入って驚いたのは、バイクの数。
こんな早朝、しかも気温10度ちょっとしかなくて走ると寒いというのに、ライダーがやたらと走ってる。
たしかにこの道は神辺から北に抜けた所にヘアピンがあるし、その北も山間部を抜けていくコーナーが多い道という割にアップダウンが控えめで走りやすい感じ。
備後ライダーの定番ワインディングロードになっているんですかね。
色んなバイクがいて、ちょっと楽しかった(^^)

そんなこんなで、懐かしい神辺を過ぎて福山東に入り、国道2号線経由で芦田川沿いの県道22号線へ。
大きな川の河口部らしい緩慢な流れが、もう海かと見間違うほどですな。
そういえば、この近くに中世に栄えた草戸千軒があったのを思い出しました。
昔の芦田川は瀬戸川とぶつかる辺りから東に大きく湾曲する分流を出しており、この県道22号線が芦田川を越える辺りで再び合流してたんですが、その間の中洲に河口港としての町があったんですな。
それが草戸千軒と呼ばれる町で、中世に栄え、江戸時代に洪水で滅んだことから、日本のポンペイと呼ばれることもあったそうな。
河川改修で分流が無くなったのと、河川幅が拡げられてはいますが、この緩慢な流れを見ていると、河口港としての優れた立地が想像できます。

県道22号線は、途中で芦田川に別れを告げて少し内陸を走り、やがて海沿いへ。
そこからはずっと海沿いで、仙酔島が見えてくると間もなく鞆に到着。
ちなみに、一般には鞆の浦として知られていますが、町の名は「鞆」が正しく、港は「鞆港」、かつての行政区分は「鞆町」です。
鞆の浦の名は、そのまんま鞆という町のすぐ近くの海という意味ですな。
あくまで、正確には、という話ですけども。
つまり何が言いたいかと言うと、ここにあった城は、「鞆の浦城」ではなく、「鞆城」となるわけです。
というわけで鞆城はこちら。

 
何かよく分からん写真(笑)
今は城跡に歴史民俗資料館が建っておりまして、城っぽさはほぼ無い、というわけです。
ただ、資料館の北側には、下のように明らかに古い時代の石垣が残っていました。

 
あと、立地もいいですな。
将軍足利義昭がしばらく居た場所だけに、風光明媚。
城跡からは、鞆の浦と、戦国時代に村上水軍が使っていた大可島城が左手に見えます。

 
もっと城らしい写真が欲しいですか?
これなんかどう?

 
めっちゃ石垣してますな!
でもこれ、復元石垣なんですよね。
資料館建設に伴って出土した基底部を元にした復元。
写真の石垣の隅部の3段目から上が少し色も違ってるし、復元部分かな?
でも雰囲気は出てます(^^)

さてさて、第一目標の鞆城も攻略し、いよいよ次は鞆の浦の散策です。
 
つづく
 
参考:
鞆城
地図付きはこちら