2015年3月20日金曜日

備後ぶらり その3

前回のあらすじ

鞆の町並みはレトロで雰囲気があっていいですわ。
なんとも言えない絶妙な道の狭さが妙に落ち着くね。
 
鞆の町は、ジブリの「崖の上のポニョ」のモデルになった町と言われており、宮崎駿が滞在していたという東南の円福寺の辺りには元々行く予定でした。
で、鞆城の高台から町を見下ろした時、その場所は大可島城の跡地であるということも知りました。
ほうほう、城跡ならば尚の事、行かねばなるまい。

前回の記事で紹介したように、朝の町の路地を一通り満喫した後、鞆のフェリー乗り場へと歩き、その背後にある台地へ。
ここが大可島城の跡です。

 
現在は円福寺というお寺と、民家の敷地になっており、この民家に宮崎駿が滞在していたそうな。
城としては、民家が寺の敷地よりやや高いので、本丸かな?
民家と寺の敷地の大きく2つの郭が存在した城ではなかったかと思われます。
また、台地にあるだけに非常に風光明媚で、鞆の港や町並みが一望できるほか、弁天島や仙酔島もご覧のように眼前に。

 
ちなみに、鞆城築城の際に陸繋島となりましたが、城の在った当時はその名の通り島でした。
陸地からすぐの島、という海賊衆が好物とする立地で、戦国時代には毛利傘下にあった因島村上水軍の拠点でした。

帰ってから調べたんですが、この城では南北朝時代に大きな合戦がありました。
大まかには、四国瀬戸内の制海権を握る南朝方が城を拠点とし、陸側から北朝方が攻め寄せ、北朝方が勝利したという戦いです。
ちなみに、鞆という町は室町幕府と縁が深く、九州から巻き返そうとしていた足利尊氏が建武3年(1336)にこの地で新田義貞追討の院宣を受け、戦国時代には京を追われた最後の将軍足利義昭が毛利氏の保護の下に滞在していたのも、この鞆でした。
その為、室町幕府は鞆に始まり鞆に終わった、と言われることもあります。
なんとも不思議な縁ですね。
それはともかくとして、足利家にとって所縁のある大事な地でもあり、経済的にも重要な湊であった鞆は、南北朝の争奪の地となるのですが、燧灘を往来する南朝勢力の根拠地は伊予であり、その主な支援勢力は、南北両派に分かれて対立していた河野一族のいずれかでした。
この頃の河野家当主通盛は、尊氏に属して伊予守護に就任していますが、後に細川氏に守護職が移り、河野氏が南朝に転じるなど、情勢はかなり流動的だったようです。
この辺りは、全国どこでも南北に分かれて争った家が多く、同じようなもんですな。

この大可島城が拠点化されたのは、足利一族である細川氏によって康永元年(1342)に川之江城が攻められ、伊予の南朝方水軍が救援に失敗してからです。
そこで新たな拠点を求めて、瀬戸内海の対岸に移ったという感じでしょうか。
しかし、北朝もそこは黙っておらず、大可島城攻略に乗り出しました。
そして対峙となるわけですが、四国では細川氏の攻勢が続き、伊予の重要拠点のひとつである世田山城が危機に陥ると、守将であった金谷経氏が主力を率いて四国へ戻り、志願した桒原(桑原)重信のみが残りました。
しかし、こうなっては多勢に無勢。
抗戦空しく落城し、桒原一族は悉く討死したといわれます。
その為、桒原一族の墓もありました。

 
マイナーな城にも、城である以上、相応の歴史があるものですね。
ジブリ好きの人も、歴史マニアの人も、一方ではポニョの1シーンを思い浮かべながら、一方では壮絶なる合戦を思い浮かべながら、この大可島城跡の辺りを散策することができます。
道も狭く、鞆らしい路地の雰囲気も楽しめますしね。
お勧めです(^^)

最後に、大可島城から下りてきた所で見付けた昭和的な仁丹の広告。

 
古い町屋と相まって良い雰囲気でした。
そういえば、学生の頃の先生が仁丹臭くって、ジンタンというあだ名になってたな~(笑)
 
つづく
 
参考:
大可島城
地図付きはこちら
 

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