2020年8月24日月曜日

鹿児島熊本ツーリング その16

 前回のあらすじ

 

バイク乗ってる時は天気順調やったのにチェックイン後になんで降られなアンカねん!

 

ツーリング最終日のこの日も快晴。

朝、起き出して、泰泉閣の目玉になっているジャングル風呂で朝風呂を満喫し、これまた目玉となっている朝のバイキングで朝食をたっぷり頂きました。

バイキングやと、つい和食洋食両方食べてしまうんよな~

これは確実に今日も昼飯軽食コースやね。

膨れたお腹を抱えつつ、泰泉閣を出発してまず向かうのは鷹取城。

うきは市の南には、九重連山から連なる山塊が壁のようにそそり立っていますが、その壁の上に造られた城です。

全国に山城は数千とありますが、その中でも比高は屈指の高さで、現地には全国で最も高い場所にある城との説明がありました。

「最も高い」というのが何を基準にしたのかよく分かりませんが、地図で測ってみると比高は700m以上もあり、確かに相当高い。

道があったから行くのを決めましたが、平地から足で登れと言われたらさすがに遠慮するレベルですな。

地元神戸の六甲山はこれより少し高い程度ですが、登るとなれば完全に1日ハイクですからね。

幸い、この壁みたいな山筋には、尾根に耳納スカイラインという道が通っていまして、比高と峻険さの割にアクセスがいいんです。

ほんと助かりました。

しかし、この壁的な山の尾根は、筑後川沿いの平野部の南端から2kmほどしか無いんですが、その南端からひたすら山道とヘアピンカーブを走って行くことになのます。

お城へ行くのにこんな長い時間を走った記憶はないんですが、25分も掛かりました。

エグい城ですわ。

こんな所によう城なんか建てたな~なんて思って現地を散策してみると、南側は結構なだらかな風景なんですね。

そうか、と納得しました。

この城の築城者は筑後十五城のひとつに数えられる国人の星野氏ですが、星野氏はその名字の通り、この城の南東の星野地区がその本貫です。

つまり、本貫の地から見ると、北側の山の頂上とは言え、そこまで急峻では無く、筑後川沿いからアクセスすることを思えば、まだマシなんですね。

鷹取城から星野地区方向を撮った下の写真でも判るように、星野地区自体が山深い場所です。

 

 

反対に筑後川沿いから見れば、崖の上にあるような城で、攻め上がるには非常にキツい。

城から撮った写真では解りにくいですが、ほんと急峻です。

 

 

つまりは、北側から南の本拠を守るにはうってつけ、と言うわけです。

ただ、大友傘下にあった星野氏が大友氏から離れたことで、後に問注所氏と争いになっていますが、問注所氏の本拠も山深い場所で、両者の戦いは北から鷹取城へ攻め上がる形ではなく、もしかしたら山岳戦が繰り広げられたのかも知れませんね。

さて、その鷹取城ですが、現地は非常に整備が行き届いており、とても散策がし易い城となっています。

畝状空堀が非常にはっきりした城でした。

道からすぐ城域になるんですが、そこにもう畝状の凹凸が見られます。

 

 
この写真右側の部分が畝状空堀です。
城の東の部分を守るように掘られていました。
ここから城へ入って行くと、上から3段目の削平地が見えてきます。
削平はされているんですけど、水平ではなく斜面ですが。
敵からも丸見えですが、郭内から斉射するには斜面の方が前後にも厚くできるメリットがありますね。
 
 
そして2段目。
 
 
こちらは平地。
そして頂上部の本丸
 
 
本丸には台上の地形があり、往時は櫓か館的なものでもあったんでしょうか。
その台上部分。
 
 
ここには頂上を示す三角点がありました。
そして、説明板。
 
 
主郭の西側は城跡として整備されていませんでしたが、ここにも畝状竪堀が明確に確認できました。
 
 
秋の朝一ということもあって空気が澄んでおり、これ以上無く爽快だった鷹取城の散策を終え、来た道を下って行きます。
次に向かうのは、先ほども少し出てきた問注所氏の本拠、長岩城。
筑後十五城の中では最も東に位置し、星野氏とはお隣さんになりますね。
まずは筑後川沿いの平地に戻り、県道151号線を東へ。
突き当りで一旦北に走り、1本東の県道106号に乗り換えて再び南へと走ります。
合所ダムまでは非常に整備された道だったので快走し、後は川沿いを南へ南へ。
一度、諏訪神社まで行ってしまい、下調べでは諏訪神社は行き過ぎだったはずと検索して引き返し、無事到着しました。
長岩城は中世的な城で、中腹に居館を置き、背後に急峻な詰の区域を構築していますが、散策してみても、明確に城域と呼べるほどのまとまった大きな削平地はありませんでしたね。
周囲にいくつか城があるそうなので、川筋の谷を中心に複数の城で防衛する形態だったのでしょう。
分散ゲリラ方式ですな。
そして城自体もゲリラ的な抗戦を前提としているような構造でした。

まずは入口。

城址碑は最近建てられたんでしょうか。

非常に立派で綺麗です。

 

 
縄張図・・・なんですけど、曇っていて朧気です。
 
 
城跡の入口。
当時は居館の門があったような感じですね。
その後ろに僅かに見えているのが説教道場です。
この説教道場の場所に居館がありました。
 
 
説教道場の背後からが城郭部分・・・ですが、ずっと下の写真のような感じで、削平地らしき場所がほとんどありませんでした。
 
 
ひたすら峻険な地形と岩場が続きます。
僅かな平場を軸に、集団対集団ではなく数人から10人未満単位で戦いをする感じでしょうか。
問注所氏の領地は、筑後十五城が出てくる大友氏時代の文書から引くと1000町ですから、動員兵力は数百。
長岩城周辺の領地がその半分で、更に川の流域にあるいくつかの城に分散すると、長岩城に籠城するまで追い詰められた際の籠城兵力は100程度というところでしょう。
そう考えると、こういうゲリラ的な戦いも有効かもしれませんね。
通常の城郭とは防御思想が違うようなので、初見ではちょっと驚きました。
こんな構造では、敵も大軍を展開できないから、攻略は手間だったでしょう。
それが防御力の一端とも言える城ですな。
 
つづく
 
参考:
地図つきはこちら
 

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