2020年3月23日月曜日

鹿児島熊本ツーリング その8

前回のあらすじ
 
まさかこんな所で小泉さんのルーツと出会うことになるとは!
 
突然現れた貝殻崎城を後にし、再び国道270号線を北上して行きます。
すると、すぐに和田という集落があるんですが、ここにも城があるんですな。
うっかり1度通り過ぎてしまったので、国道を戻って和田の集落へ。
17年前、伊作城を探して当時の吹上町内をウロウロ彷徨っていたんですが、偶然にもこの和田の集落に入り込み、田中城を見つけました。
和田小学校の横を抜けた先で城の案内板を発見した記憶が蘇ります。
集落の中にある和田小学校はなんとなく覚えていますね。
懐かしい(^^)
今考えれば、ようこんな国道から外れた場所で城を見つけたなと、自分の事ながら感心しますわ。
その時は、下り坂の天気予報で伊作城だけは雨の降る前に行っておきたいとロクに散策しませんでしたので、今回、改めての散策です。
まずは登山道入口の案内板。
 
 
以前に訪れた当時は、こんな立派な案内板は無かったですね。
白地に文字だけの説明板でした。
地元に大事にされているようで何よりです。
田中城は、藤原純友の子孫とされる和田親純が築城したと思われ、親純は、薩摩平氏の実力者であった伊作良道の娘婿だったようですね。
親純は、伊作荘を良道から譲り受けますが、鎌倉幕府成立後に守護となった島津氏によって次第に押され、歴史の闇に消えてしまいます。
ただ、遺構を見ると、城自体はかなり後まで活用されていたようですな。
遊歩道を入って行くと、段郭のような地形があり、その上の小ピークも削平されています。
 
 
これが本丸から順番に数えていくと3番目の削平地。
そのまま道を進んで行くと、本丸の下に2段目の削平地がありました。
こちらは遺構が明確ですね。
 
 
この上の段に本丸があり、城址碑も建てられています。
 
 
本丸は整備が行き届いていました。
地元の方に感謝!
本丸北側は視界が開けており、切岸もはっきりしています。
 
 
本丸直下には、空堀が穿たれていました。
写真では判りにくいですが、現地では非常に明確で、いい遺構でしたね。
 
 
最後に、本丸から和田の集落。
 
 
領主であった和田親純も、ここから開拓した美田を眺めたことでしょう。
小規模ながら、遺構もしっかり残っている良い城でした(^^)
 
田中城を後にし、再び国道270号線を北上して行きます。
吹上の市街を越え、更に進んで行くと、永吉の集落の案内があったので、県道35号線から永吉の集落へ。
この永吉には、南郷城があります。
城主は桑波田氏で、どうも芸人のクワバタオバラのくわばたりえさんが子孫の模様。
鹿児島の豪族の子孫が、どういう経緯で大阪に出たのか、そういうのはちょっと興味がそそられますな。
NHKのファミリーヒストリーでもやってくれないかなぁ
そんな話は置くとして、南郷城は、永吉の集落の中心にある永吉小学校の裏手にあります。
永吉小学校の脇の道を北へ抜けると、やがて細い道になり、城の案内と縄張図がありました。
 
 
 
説明板にあるように、この城は伊作島津氏反攻の先駆けとなった城です。
城主の桑波田栄景は、島津忠良の子貴久が養子として島津宗家を継いだ頃に忠良から所領安堵を受けていました。
しかし、島津実久が家督を継承しようとし、実際に首府たる鹿児島を押さえると、栄景は実久に通じたのです。
ただ、一豪族としては、宗家の勝久の態度がコロコロ変わったのもあり、どちらに正統性があるかは微妙なので、生き残りの為に勢力の拡大しそうな実久に付いたというだけのことなんでしょう。
しかし、伊作に戻った忠良の本拠から近いという地理的不幸がありました。
こうして、南郷城は忠良の標的となり、栄景が猟に出ている情報を得るや忠良の家臣が猟夫に変装して栄景の帰城を装い、開門に成功して奪ってしまうわけです。
うかうか留守にもできませんな。
さて、縄張図によると、遊歩道は本丸の西側を通って主郭部へと入って行くようです。
それでは出発!
と、意気揚々と進み、城道らしくなってきたと思っていたら・・・
 
 
土砂崩れ!
写真では何が何だか分かりませんが、右側が本丸側の崖で、右側から左側へ、ひと目見てちょっと乗り越えられる土砂の量じゃないってのが解るほどの大規模な土砂崩れでした。
意気揚々と猟を終えて帰ってきたら城を締め出されてしまった栄景の心境を、まさか味わうことになるとは。
なかなか趣向が凝っておるではないか・・・
・・・
マジかーーい!
 
つづく
 
参考:
田中城
南郷城
地図付きはこちら
 

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