2015年6月5日金曜日

阿蘇・佐賀ツーリング その6

前回のあらすじ

菊池城はちょっと物足りなかったぜぇ。
隈部館は想像以上だったぜぇ。
 
秋の日は釣瓶落としなんていいますが・・・
まだ14時台ってのに、視界が夕刻っぽい・・・黄色いんっすよ!
すぐ陽が落ちてしまうという脅迫観念があって、秋の午後のツーリングは妙に心が焦りますわ・・・

隈部館を出て、次に向かうのは城村城。
この城は隈部館のほぼ真西10kmほどのところにあり、それほど離れているわけではありません。
しかしながら、主要道で東西に走ってる道が無い。
なので、無理やり生活道路を縫って西へ進む事になるわけなんですが、これがねぇ、結構危ないんですよ。
今まで色んな場所で迷ってきましたが(オイッ)、こんなショートカットを試みた時が一番危ない。
最近はスマホですぐ現在位置を確認できるから大事故は少ないですが、昔は小一時間走った挙句に目的地から遠ざかってるなんてこともありました(苦笑)
今回は、五郎丸という小地名を手掛かりに、そこから西へ入り、県道と川を越え、結構長いトンネルを通る、という計画。
えらい大雑把な説明やな(笑)
でも、県道ですらない上にランドマークも無いので、こんな感じでしか頭に入れられません。
で、結果から言うと、
ほぼ迷わず!
ほぼかい!というツッコミは置くとして、トンネル、首石トンネルという名前らしいですが、ここまでは自画自賛したいくらい完璧!
何せ信号が無いので、途中でスマホを確認する事も無かったわけですが、完璧。
しかし、トンネルに到達した事で気が緩んだのか、トンネルを抜けた先の三叉路で間違って左折してしまいました・・・
どう考えても方向がおかしいと数100mで気付いてUターンしましたが、危なかった。
で、国道3号線を越えて、更に岩野川の向こう側に城村城があるわけですが、あとはアドリブで。
何せ事前に予習した範囲では、ほとんど道らしい道が無い。
周辺はみんな田園の農道レベル。
車のギリギリ通れる未舗装の道の可能性も考えてました。
ま、そういう道でも行けるバイクなんですがね。
幸い、近々に圃場整備されたのか、割と新しい舗装道だったので、躊躇せず当てずっぽうで農道を選んで川沿いの台地に入っていくと、城村城の案内板を発見できました。
いや~良かった良かった。
 
城村城主だった城氏は(ややこしいな・・・)、肥後守護の菊池氏の庶流で、隈部館の主だった隈部氏や同じく菊池一門だった赤星氏と並び、菊池三家老と称された家でした。
名前から解るように、この城村一帯が名字の地です。
後に菊池本家が衰退し、菊池家臣団は豊後大友氏から義武を当主に迎えるのですが、この義武が大友氏からの自立を図った為、菊池三家老は大友氏に味方し、義武と対立しました。
この義武の逐電以降、菊池氏の当主は立てられず、大友氏が肥後守護職をも務めるのですが、大友氏に味方した功で、城氏は隈本(熊本)へと移り、後に城村城は隈部氏の城となっています。
義武が本拠とした海側の拠点は城氏が、菊池氏歴代の拠点である山側の菊池城は赤星氏が封じられているのですが、これは大友氏が、菊池氏の庶流として両家を後継者的な位置付けに置いたということなんでしょうかね。
一方で、隈部家の大友氏における位置付けは気になるところでもありますが。
いずれにせよ、このような経緯で城村城は隈部氏の持ち城となり、紆余曲折を経て隈部氏は龍造寺、島津、豊臣と主を変えて生き残ります。
しかし、肥後の太守として赴任してきた佐々成政の検地には従わず、隈部氏の叛乱を契機として肥後の国人一揆が勃発するわけです。
当初、隈部氏は赤星氏と争って獲得した菊池城に籠もって戦ったのですが、やがて菊池城を放棄してこの城村城に入り、ここで領民と共に約4ヶ月に渡って籠城しました。
ここは、肥後国人一揆の争乱の中心たる城なのです。

現在の城村城は、廃城後に開墾された為、農地となっていましたが、今は耕地ではなくなっています。
草も刈られているので、地域の方が整備されているんでしょうかね。
前述の細い農道から農地へ斜めに上がる道があり、そこを登れば二ノ丸。
そこから振り返れば、先ほどの農道を挟んで三ノ丸が見えます。
写真で言えば、手前の農地が二ノ丸で、その向こうの畦っぽく見えるところが農道。
道は堀切を利用したっぽいですね。
そして、その向こう側が三ノ丸。

 
本丸と二ノ丸の間には段差があり、堀切跡の窪みも残っていました。

 
そして本丸。

 
中央に白い四角が見えますが、ここに城址碑と案内板があります。
案内板には、肥後国人一揆の際の陣図が載っていました。

 
ちょっと小さくて見難いですが、本丸~三ノ丸のほかに、太郎丸、五郎丸、出丸という郭があり、6つの虎口があったことが読み取れます。
そして、大手は南の原口で、桝形を持ち、今回通ってきた農道は、かつては岩地蔵口と呼ばれていたようです。
さすが1万8千が籠もったと言われる城だけに全体で見るとかなり大きいですね。
現在の城という集落全体が城地でした。
また、城村城は台地上にあるのですが、その中腹や麓にも腰郭と言うべき削平地があったようです。
案内板の近くに、下ノ段としてその表示はあります。

 
一応矢印はあるんですがねぇ
どこに道が?
こんな本格的な藪は久々に見ました(笑)
 
城村城を出たのは15時。
城村城の写真を見ても分かるように、夕暮れが近いような色模様。
兎にも角にも、取り合えず国道443号線に出て県道を縫いながら西へ。
予定、というか希望的観測では、時間があれば南関の鷹ノ原城に寄って長州からフェリーで島原へ、なんて事も考えてましたが、どう考えても長洲へ直行して尚、予定便にすら間に合わん・・・
毎度毎度の事ながら、予定が押します(^^;)
菊水I.C.まで来た所で、コンビニでフェリーの時間を確認。
んーー・・・
予定便は確実に間に合わないのはいいとしても、次の便すらかなり危うい・・・
諫早のギロチンや竹崎城リベンジは惜しいが、やむを得ぬ。
ここで急遽予定変更。
この辺りが一人旅の利点ですな。
島原や諫早は丸っと今後へ持ち越し、鷹ノ原城経由で明日寄る予定だった柳川城、蒲池城へ向かう事にしよう!
という訳で、Uターンして九州道だ。
 
つづく
 
参考:
城村城

地図付きはこちら
 

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