2014年9月24日水曜日

陽光に誘われて その1 (中道子山城)

春の事を今頃書いているという恐るべき遅筆ぶりに自分でも驚愕の思いですが、GWに例の原付二種の友人とぶらり加古川の北へ日帰りツーリングに行ってきました。
どこかに行こうぜという友人の誘いと、どこに行くかは任せるわという甘言に、取りあえず我が趣味全開で選ばせてもらいましたわ。
「おし、官兵衛もやってるし、志方に行くか」
と。
中道子山城の写真を撮ってなかったのと、志方城に行ってなくて、いつかはぶらりと行ってやろうと思ってたわけです。
渡りに船とはまさにこのこと。
 
志方へ行くのに使った道は県道65号線。
若い頃はこの道で姫路にも行ったりしましたな。
抜け道として使われる事も多いので、大型車が多い道でもありますが、稲美野の田園風景を抜けていく気持ちの良い道です。
そして志方市街の少し手前の投松の交差点をおもむろに右折して中道子山城へ。
そして、前日に六甲山に登って筋肉痛という友人を連れて城へ。
城跡からは、志方一帯の風景がばっちり見通せます。
山城の立地としてはこれ以上無し!

 
志方方面が一望のもとですな(^^)
本丸も広くて申し分なし。

 
中道子山城ではなく、なぜ赤松城址という碑が建っているのかは置くとして・・・ね。
しかし、この城はどうも三木合戦の頃には使われていなかったようです。
伝承としては三木合戦の時の落城伝説があるのですが、史料には登場しない。
確認できるのは、城主の孝橋氏が、天文末年(1555)頃から弘治年間(1555-58)に佐用へ移ったことです。
背景を見ると、ちょうど中央を制した三好軍が播磨に侵入して明石氏や別所氏を屈服させた頃です。
ただ、志方の方には三好軍が来た様子は無く、いかなる理由で孝橋氏が佐用に退いたのかよく分かりません。
三好氏との政治的な何かがあったのは間違いなさそうなんやけど・・・
遺構を見ると結構な普請をしてる城なんですがねぇ
放棄するのはともかく、その後に使われなかったのは勿体無いなぁ
ちなみに縄張はこんな感じです。

 
本丸が中心ではなく、北東方向の尾根にあるのがやや特徴的ですが、山の三方向の尾根筋を削平した典型的な山城ですね。
中央部はちょっと技巧的で、下のような空堀と土橋という部分があるほか、本丸方向には米蔵という土塁で囲った郭もあります。


木陰になってるだけに、携帯のカメラじゃ空堀と土橋の凹凸が判りにくいですが・・・
この辺りは、二ノ丸方向の大手と三ノ丸方向の搦手から道が繋がる部分で、本丸防衛の最重要箇所として防備が固められたのでしょうね。
そして、次は大手の切岸。
なかなかに迫力があります。

 
しかし、これほど見晴らしが良い上に城郭として整備もされているのに、播磨が争乱になった頃には使われなかったという、なんか不思議な城です。
 
参考:
中道子山城
地図付きはこちらから
 

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