前回のあらすじ
尼崎城は応仁の乱の頃からあった
16世紀前半の頃は大物城と呼ばれた。
前回は大物崩れの所まででした。
この大物崩れは、畿内の戦国史においては非常に大きな事件で、以後、細川晴元が政権を打ち立てるわけなんですが、この晴元という人、短絡的な行動が多く、どうも政策に一貫性が無かったようです。
父の政敵であった高国に勝利すると、高国側であった現将軍足利義晴に対抗してその弟義維を擁した身でありながら、あっさりと義晴と和解し、軍事的中心で功績の高かった三好元長と対立すると、一向一揆を煽って元長を敗死させ、さらに一向衆が危険だと察すると、一向衆と対立する法華宗と協力して山科本願寺を焼き討ちしました。
更に更に、法華宗が洛中で勢力を拡げると、今度は比叡山延暦寺や六角定頼と協力して洛中の日蓮宗本山21ヶ寺を焼き払っています。
出る杭で次の出る杭を打つような、なんとも壮絶な手法ですな。
有力守護大名の家中の政敵に肩入れして守護大名潰しをやった6代将軍足利義教の手法に近いものを感じますが、時は戦国時代、ある勢力の敵対勢力なんていくらでも誕生する時代ですし、肩入れして敵対勢力を育てる必要が無い分、より節操が無いように感じられますね。
このほか、高国の養子氏綱や、元長の子長慶、これまた稀代の謀略師だった木沢長政などの叛乱にも遭っており、晴元時代は政治が乱れに乱れました。
ただ、これはこれで複雑且つ面白い話なのですが、残念ながら肝心の尼崎城が出てきません。
伊丹城や池田城は要所要所で出てくるんですがね・・・
というわけで、次に尼崎城がはっきりとした形で登場してくるのは織田政権時代です。
そう、摂津で成り上がった荒木村重の属城として。
これが、3つ目の城ですね。
荒木村重は、前にもこちらで書きましたが、摂津の山向こう、丹波荒木氏の一流と言われ、父の時代に池田氏に仕官し、中川清秀と共に池田氏を下克上してのし上がりました。
最初は三好方として信長に対抗していたのですが、信長と足利義昭の関係が破綻すると信長に臣従し、摂津を任されています。
本拠としたのは伊丹城で、尼崎城はその海沿いの支城として活用しました。
大物崩れから40年程度は尼崎城の動向が不明で、信長上洛以降は少し争奪があったことが朧気ながら見える事以外は存続してたのか廃城になっていたのかもよく分かりませんが、村重が重要な支城として取り立て、機能強化したのは間違いないでしょう。
そして、この城を嫡子村次に任せました。
嫡子に任せたということで、かなり重要視していた事が窺えますね。
荒木村重は信長に叛いた事で有名ですが、その時に籠城したのは伊丹城でした。
叛乱は天正6年(1578)。
しかし、後ろ盾に期待した毛利家の支援が鈍重で、次第に追い詰められていきます。
やがて、翌年には人知れず伊丹城を脱出し、この尼崎城へと移りました。
この事は、どの歴史関係の本にもサラっと簡単に書いてありますが、
厳重に包囲しとったんちゃうんかい!
というツッコミを毎回入れたくなります(笑)
ただ、信長公記では数人としていますが、村重自身が毛利家の乃美宗勝に送った書状では、数百の数で尼崎に移ったようで、敵中突破すら辞さないという状況だったのではないでしょうか。
その決意の元になったのは何かというと、尼崎城からの毛利軍の撤兵だったようです。
一般的に流布されているイメージでは、敵前逃亡したというのが強いようですが、随分と様相が違いますね。
前述の宗勝に送った書状には、窮状を訴えると共に援兵も求めており、また、雑賀衆に対しても援軍を依頼する内容の書状が残っています。
逃亡どころか、現状をなんとか打開しようという村重の足掻きが読み取れますね。
伊丹城はやや内陸の城ですから、毛利氏や本願寺、雑賀衆との連携拠点である尼崎の失陥は致命的な孤立を招く事く為、自ら確保に動いたという所でしょうか。
しかし、伊丹城は主がいなくなった事から士気が低下し、内側から崩れるように落城してしまいます。
この後、村重や家臣の女房衆が処刑されるのですが、その後も尼崎城は籠城戦を続けました。
身内が処刑されてなお籠城し続けたところに、従来のイメージとは決定的に違ったものが感じられます。
村重の没落後、尼崎城は新たに摂津を任された池田氏の城となり、豊臣政権下では、大坂の至近である事から直轄化され、代官が入城していました。
時代が徳川氏のものとなった後、摂津を治めていた豊臣氏が滅ぼされ、元和3年(1617)に戸田氏鉄が尼崎藩主として入部します。
この氏鉄によって築かれたのが、今の尼崎城ですね。
これが4つめの尼崎城。
場所はというと、旧城の西に新たに縄張をして築かれたようで、尼崎城の絵図には、古城の文字があります。
天守再興の話は、もちろんこの近世尼崎城の天守で、往時は四層四階でした。
ちなみに、この氏鉄の入部は、西国将軍とまで呼ばれた姫路の池田輝政の孫光政が幼少の為に鳥取に移された事に伴う領地再編によるものです。
当時の陣容を見ると、
尼崎城(新城築城) 戸田氏鉄 5万石
明石城(新城築城) 小笠原忠真 10万石
姫路城(一部改修) 本多忠政 15万石
秀吉の造った大坂城を破却して埋め立て、新たに徳川氏の白亜の大阪城を築いたのと同時に、山陽道には譜代をガッツリ配置した事がよく分かりますね。
江戸幕府の治世は長く続いた秘訣が、こういうところもその一因なのでしょう。
綿密ですわ。
長くなりましたけど、尼崎城天守の復元は楽しみですな。
希望を言うなら木造復元ですけど、それはまたとんでもないお金が掛かるので、現状の城の痕跡危ういという状態から見れば、鉄筋コンクリートでも御の字。
完成して暁には、またぶらりと行きますか(^^)
参考:
尼崎城
地図付きはこちら
2016年2月6日土曜日
2016年2月1日月曜日
尼崎城跡の整備 その1
昨年11月頃の神戸新聞に記事が出ていたんですが、本格的に尼崎城の天守復興の話が進んでいるようです。
尼崎に第1号店を開店した旧ミドリ電化の創業者である安保さんが、私費を投じて復元されるとのこと。
惜しむらくは、鉄筋コンクリートであることと、本来の位置から数100mずれている事ですが、本来の位置は小学校や文化財収蔵庫などの既存の施設があり、財政的にも調整が難しいんでしょうね。
尼崎という場所は、中世には大物浦という港がありまして、水運の要所でした。
戦乱の世の中になると、必然的に戦略的要地となり、城が造られています。
ざっと挙げると、応仁の乱の頃の大物城、細川高国が築かせた尼崎城、荒木村重の尼崎城、戸田氏鉄の築いた尼崎城の4つの城が史上には登場するわけですが、戦国期の城と江戸時代の城は別の位置にありました。
で、戦国期の城はというと、先に挙げたように、遡れば文明5年(1473)の大内政弘の感状の写しに大物城の名で登場するのが最初です。
文明5年と言えば、応仁の乱の真っ最中。
周防、長門、豊前、筑前の4ヶ国の守護であった大内政弘は、西軍として上洛し、ほぼ全期間に渡って畿内にいました。
政弘がなぜ西軍に与したかというと、勘合貿易で細川氏と利害衝突していたからのようですね。
で、この年、山名宗全と細川勝元という東西両軍の首魁が病没し、翌年には両家は和解するのですが、それでも政弘は撤兵せず、戦い続けました。
この辺りは、もう意地のようなものなのかもしれません。
当時はメンツが大事な時代ですから。
まして大大名クラスとなるとそれはもう・・・
兎にも角にも、これが最初。
ただ、どのような城であったのか、その後どうなったかなどは史料史料に顕れて来ません。
次に城が登場してくるのは、上で登場した勝元の跡を政元が継ぎ、その政元が実子を残さず、養子を3人作って家督争いが起こった後の時代です。
両細川の乱とも永正の錯乱とも言いますが、幕府No.2で将軍の廃退にすら影響力を及ぼした細川家の家督争いの影響は大きく、永正4年(1507)の政元の死で対立が表面化し、以後、20年以上に渡って畿内の豪族を中心に各地の勢力を巻き込みつつ続きました。
政元の3人の養子とは、澄之、澄元、高国です。
この中で、澄之は細川家の血を引かない九条家出身で、他の2人は分家の出身でした。
家督争い表面化の発端は、養嗣子として迎えられていた澄之の廃嫡と澄元の後継指名です。
これにより、澄之派の家臣の権勢が衰えるのは確実となり、結果、澄之派の香西元長らが政元を暗殺し、澄之を擁立したのが発端となります。
やられる前にやる。
それがたとえ半将軍とまで呼ばれた権勢を持つ人であっても。
そういう発想ですね。
この時、澄元と高国はなんとか落ち延びる事に成功し、打倒澄之の兵を挙げました。
こうして、
澄之 V.S. 澄元・高国
の構図となっていきます。
この戦いは、澄之が細川家の血を引いていないというのもあって勢力をまとめられず、僅か40日ほとで敗れた澄之が自刃し、決着しました。
ここで終われば、ただの家督争いですが、ここで終わらないのが権力の怖いところでしょうか。
この細川家の争いに乗じ、政元のクーデターによって将軍職を追われていた足利義尹が大内義興の支援を得て上洛してくるのです。
義尹とは、10代将軍義材のことで、後に名乗った義稙の名の方が有名ですかね。
そして、義興は政弘の子です。
西方の裕福な御曹司が、大内家の旗を京洛に立てんと再び動き出したのでした。
ここで、澄元と共闘関係にあった高国が離反して義興に通じた為、細川家は再び分裂してしまいます。
義澄&澄元 V.S. 義尹&高国
ですね。
細川家の家督争いが、将軍家の家督争いにもなったわけです。
そして、圧倒的な軍事力を持つ義興を前にして、現将軍義澄と澄元は落ち延び、将軍交代と細川家の家督交代が起こりました。
こうして、義尹から改名した義稙のもと、義興-高国政権が確立されるのです。
とても複雑ですね。
この後、幾度も攻守交替を挟みながら攻防は続き、やがて義興の帰国と義澄の病没、義稙の澄元への内通と出奔、澄元の病没という流れによって高国が単独で安定政権を確立していくわけですが、この過程で尼崎城が登場してくるのです。
最初の登場が永正16年(1519)で、高国が尼崎城を築城とあり、大永6年(1526)にも諸将に命じて築造させたとありますね。
両方とも阿波勢が摂津進出を図った時期で、その備えとしての築城でしょう。
恐らく、応仁の乱の頃にあった城の跡地か、現存していたのを再築したものと思われるのですが、裏付ける史料はありません。
その後、翌年に高国は澄元の子晴元の阿波勢に敗れ、情勢は再び混沌としてきます。
やがて、高国は浦上村宗の支援を得て晴元勢を攻撃するのですが、援軍として到着した村宗の主君である赤松政祐(晴政)が裏切って高国勢を攻撃した為、高国勢は総崩れに崩れ、膠着状態にあった戦線は一気に晴元勢勝利へと傾きました。
これが、享禄4年(1531)の大物崩れと呼ばれる戦いです。
摂津中嶋で敗れた高国は、最初は大物城を目指すのですが、城に入れず、尼崎の藍染屋の甕に隠れたものの、三好一秀に発見され、尼崎広徳寺で自害させられました。
これにて両細川の乱と呼ばれる長い長い内訌は幕を閉じるのですが、ややこしい点が1点あります。
大物崩れという名があるのに、築城では尼崎という名で出ていること。
これが原因で、昔は大物城と尼崎城が別にあったんではないか?なんて説がありました。
今は、戦国時代の大物城と尼崎城は同じ城であったという説が有力ですね。
その場所は、江戸時代の尼崎城の北東にあったといわれています。
城の位置は曖昧なんですが、地名の由来となった大物主神社周辺と推測されており、阪神電鉄大物駅や、埋め立てられて公園化した大物川緑地公園などにも大物の名前が残っていますね。
大物周辺は、何度か通りすがりに寄った事はあるんですが、とてもじゃないけど城の痕跡なんて探すのは無理でした。
都市化してしまうと、元の地形すら分からなくなってしまう。
ほんま、都市部の平城は残ってませんわ(> <)
ちょっと長くなってしまったんで、次回につづく。
参考:
尼崎城
地図付きはこちら
尼崎に第1号店を開店した旧ミドリ電化の創業者である安保さんが、私費を投じて復元されるとのこと。
惜しむらくは、鉄筋コンクリートであることと、本来の位置から数100mずれている事ですが、本来の位置は小学校や文化財収蔵庫などの既存の施設があり、財政的にも調整が難しいんでしょうね。
尼崎という場所は、中世には大物浦という港がありまして、水運の要所でした。
戦乱の世の中になると、必然的に戦略的要地となり、城が造られています。
ざっと挙げると、応仁の乱の頃の大物城、細川高国が築かせた尼崎城、荒木村重の尼崎城、戸田氏鉄の築いた尼崎城の4つの城が史上には登場するわけですが、戦国期の城と江戸時代の城は別の位置にありました。
で、戦国期の城はというと、先に挙げたように、遡れば文明5年(1473)の大内政弘の感状の写しに大物城の名で登場するのが最初です。
文明5年と言えば、応仁の乱の真っ最中。
周防、長門、豊前、筑前の4ヶ国の守護であった大内政弘は、西軍として上洛し、ほぼ全期間に渡って畿内にいました。
政弘がなぜ西軍に与したかというと、勘合貿易で細川氏と利害衝突していたからのようですね。
で、この年、山名宗全と細川勝元という東西両軍の首魁が病没し、翌年には両家は和解するのですが、それでも政弘は撤兵せず、戦い続けました。
この辺りは、もう意地のようなものなのかもしれません。
当時はメンツが大事な時代ですから。
まして大大名クラスとなるとそれはもう・・・
兎にも角にも、これが最初。
ただ、どのような城であったのか、その後どうなったかなどは史料史料に顕れて来ません。
次に城が登場してくるのは、上で登場した勝元の跡を政元が継ぎ、その政元が実子を残さず、養子を3人作って家督争いが起こった後の時代です。
両細川の乱とも永正の錯乱とも言いますが、幕府No.2で将軍の廃退にすら影響力を及ぼした細川家の家督争いの影響は大きく、永正4年(1507)の政元の死で対立が表面化し、以後、20年以上に渡って畿内の豪族を中心に各地の勢力を巻き込みつつ続きました。
政元の3人の養子とは、澄之、澄元、高国です。
この中で、澄之は細川家の血を引かない九条家出身で、他の2人は分家の出身でした。
家督争い表面化の発端は、養嗣子として迎えられていた澄之の廃嫡と澄元の後継指名です。
これにより、澄之派の家臣の権勢が衰えるのは確実となり、結果、澄之派の香西元長らが政元を暗殺し、澄之を擁立したのが発端となります。
やられる前にやる。
それがたとえ半将軍とまで呼ばれた権勢を持つ人であっても。
そういう発想ですね。
この時、澄元と高国はなんとか落ち延びる事に成功し、打倒澄之の兵を挙げました。
こうして、
澄之 V.S. 澄元・高国
の構図となっていきます。
この戦いは、澄之が細川家の血を引いていないというのもあって勢力をまとめられず、僅か40日ほとで敗れた澄之が自刃し、決着しました。
ここで終われば、ただの家督争いですが、ここで終わらないのが権力の怖いところでしょうか。
この細川家の争いに乗じ、政元のクーデターによって将軍職を追われていた足利義尹が大内義興の支援を得て上洛してくるのです。
義尹とは、10代将軍義材のことで、後に名乗った義稙の名の方が有名ですかね。
そして、義興は政弘の子です。
西方の裕福な御曹司が、大内家の旗を京洛に立てんと再び動き出したのでした。
ここで、澄元と共闘関係にあった高国が離反して義興に通じた為、細川家は再び分裂してしまいます。
義澄&澄元 V.S. 義尹&高国
ですね。
細川家の家督争いが、将軍家の家督争いにもなったわけです。
そして、圧倒的な軍事力を持つ義興を前にして、現将軍義澄と澄元は落ち延び、将軍交代と細川家の家督交代が起こりました。
こうして、義尹から改名した義稙のもと、義興-高国政権が確立されるのです。
とても複雑ですね。
この後、幾度も攻守交替を挟みながら攻防は続き、やがて義興の帰国と義澄の病没、義稙の澄元への内通と出奔、澄元の病没という流れによって高国が単独で安定政権を確立していくわけですが、この過程で尼崎城が登場してくるのです。
最初の登場が永正16年(1519)で、高国が尼崎城を築城とあり、大永6年(1526)にも諸将に命じて築造させたとありますね。
両方とも阿波勢が摂津進出を図った時期で、その備えとしての築城でしょう。
恐らく、応仁の乱の頃にあった城の跡地か、現存していたのを再築したものと思われるのですが、裏付ける史料はありません。
その後、翌年に高国は澄元の子晴元の阿波勢に敗れ、情勢は再び混沌としてきます。
やがて、高国は浦上村宗の支援を得て晴元勢を攻撃するのですが、援軍として到着した村宗の主君である赤松政祐(晴政)が裏切って高国勢を攻撃した為、高国勢は総崩れに崩れ、膠着状態にあった戦線は一気に晴元勢勝利へと傾きました。
これが、享禄4年(1531)の大物崩れと呼ばれる戦いです。
摂津中嶋で敗れた高国は、最初は大物城を目指すのですが、城に入れず、尼崎の藍染屋の甕に隠れたものの、三好一秀に発見され、尼崎広徳寺で自害させられました。
これにて両細川の乱と呼ばれる長い長い内訌は幕を閉じるのですが、ややこしい点が1点あります。
大物崩れという名があるのに、築城では尼崎という名で出ていること。
これが原因で、昔は大物城と尼崎城が別にあったんではないか?なんて説がありました。
今は、戦国時代の大物城と尼崎城は同じ城であったという説が有力ですね。
その場所は、江戸時代の尼崎城の北東にあったといわれています。
城の位置は曖昧なんですが、地名の由来となった大物主神社周辺と推測されており、阪神電鉄大物駅や、埋め立てられて公園化した大物川緑地公園などにも大物の名前が残っていますね。
大物周辺は、何度か通りすがりに寄った事はあるんですが、とてもじゃないけど城の痕跡なんて探すのは無理でした。
都市化してしまうと、元の地形すら分からなくなってしまう。
ほんま、都市部の平城は残ってませんわ(> <)
ちょっと長くなってしまったんで、次回につづく。
参考:
尼崎城
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2016年1月25日月曜日
伊勢湾周遊 その10
前回のあらすじ
羽豆岬到達!
三河湾の双角を制覇!
羽豆岬に到着したのが大体12:30頃。
30分ほどブラブラ散策して出発したのは13時過ぎのお昼時でしたが、ブランチをたらふく詰め込んだので昼休憩無しで知多半島西岸を北上していきます。
この知多半島、名古屋都市圏からほど良い距離なので、ライダーが多い。
相当な数のバイクとすれ違いました。
しかし・・・
族車が多い。
なんで?
暴走族の聖地なん?
それともちょこちょこ話題に上る旧車會の方達ですか?
族車って車通りの多い道でタラタラ走ってるイメージなんで、族車のツーリングってびっくりしました。
カルチャーショックですね。
んー、これも名古屋走りの一端なのか。
あんなバイクで距離を走るのはしんどいと思うんやけど・・・
ただ、道は確かに気持ちよかったですね(^^)
野間灯台の辺りまでは海際で砂浜も多く、一足先に夏のような雰囲気がありました。
野間灯台を過ぎると、国道247号線はやや内陸部を通るようになり、セントレアが近付いてくると4車線となって主要幹線道路の趣が強くなっていきます。
この辺り、海岸沿いに1本、割とスッと伸びている県道がありますが、もしかしたら旧国道ですかね?
こちらも趣ありそうな道なんで、走って見たいですが、今回は残念ながら時間がありません。
セントレアを過ぎてしばらくすると、次の目的地である大野城が右手に見えてきます。
大野城自体は山の上にあった城なんですが、一帯が宅地開発されていて、今は青海山団地の端っこの公園となっていました。
こんな込み入った所の城は、昔なら見つけるのも一苦労でしたが、事前の予習とスマホの詳細地図で迷う事も無くなりましたな。
時代は確実に進んでおりますわ・・・
大野城は、知多半島の西側を支配した佐治氏の居城です。
佐治氏は、そもそもは近江国甲賀郡の出身で、知多郡の分郡守護であった一色氏に仕えて入部したといわれ、以後、水軍を率いて海運を押さえ、勢力を拡げました。
出身は山奥ですが、九鬼氏のような海賊大名のひとつと言えるでしょう。
地図をよく見てみると、城の北側の前山川沿いに大門、城下、屋敷、大屋敷といった地名が並んでおり、城下町を北に構え、川沿いに船を係留していたのではないでしょうか。
そして、その前山川を辿ると矢田川に合流し、その先に大野湊がありました。
佐治氏の領地は3万石とも6万石ともいわれますが、この大野湊が佐治氏の経済的基盤だったと思われます。
麓の地名の散り具合を考えると、経済的にも、単純に規模としても、なかなか大きい城と城下だったのでしょうね。
現在の大野城は、城山公園として整備されています。
駐車場は南北の2ヶ所にあるようですが、今回は住宅地の奥の込み入った所にある南側の駐車場に止めました。
ただ、下が砂利で傾斜もあって、というバイクには向かない駐車場でしたけども(^^;)
その駐車場から入ると、まず目を引くのが土塁に囲まれた削平地。
山上の城の空堀としては広すぎる気もするので、郭跡でしょうか。
ここから下の段には帯郭らしき場所があり、最高部の北側にある遊具広場や多目的広場も郭跡を利用したものと思われます。
遊具広場から主郭部に上がると、すぐ横に城址碑があり、模擬櫓の展望台もありました。
両方入ったので、なかなかいい構図(^^)
本丸全体の広さは下のような感じです。
模擬櫓が圧迫してる部分はありますが、山城の本丸としては標準的な大きさですかね。
模擬櫓の内部には、城に関する資料が並べられていました。
景色もなかなかよろしい。
中央に見えている森の部分が、次の目的地となる大草城ですね。
これだけ至近な位置関係。
その展望台の向かいには佐治神社があり、佐治氏が祀られていました。
大きさから言って、往時はここに小さな天守か物見櫓があったのでしょう。
羽豆岬到達!
三河湾の双角を制覇!
羽豆岬に到着したのが大体12:30頃。
30分ほどブラブラ散策して出発したのは13時過ぎのお昼時でしたが、ブランチをたらふく詰め込んだので昼休憩無しで知多半島西岸を北上していきます。
この知多半島、名古屋都市圏からほど良い距離なので、ライダーが多い。
相当な数のバイクとすれ違いました。
しかし・・・
族車が多い。
なんで?
暴走族の聖地なん?
それともちょこちょこ話題に上る旧車會の方達ですか?
族車って車通りの多い道でタラタラ走ってるイメージなんで、族車のツーリングってびっくりしました。
カルチャーショックですね。
んー、これも名古屋走りの一端なのか。
あんなバイクで距離を走るのはしんどいと思うんやけど・・・
ただ、道は確かに気持ちよかったですね(^^)
野間灯台の辺りまでは海際で砂浜も多く、一足先に夏のような雰囲気がありました。
野間灯台を過ぎると、国道247号線はやや内陸部を通るようになり、セントレアが近付いてくると4車線となって主要幹線道路の趣が強くなっていきます。
この辺り、海岸沿いに1本、割とスッと伸びている県道がありますが、もしかしたら旧国道ですかね?
こちらも趣ありそうな道なんで、走って見たいですが、今回は残念ながら時間がありません。
セントレアを過ぎてしばらくすると、次の目的地である大野城が右手に見えてきます。
大野城自体は山の上にあった城なんですが、一帯が宅地開発されていて、今は青海山団地の端っこの公園となっていました。
こんな込み入った所の城は、昔なら見つけるのも一苦労でしたが、事前の予習とスマホの詳細地図で迷う事も無くなりましたな。
時代は確実に進んでおりますわ・・・
大野城は、知多半島の西側を支配した佐治氏の居城です。
佐治氏は、そもそもは近江国甲賀郡の出身で、知多郡の分郡守護であった一色氏に仕えて入部したといわれ、以後、水軍を率いて海運を押さえ、勢力を拡げました。
出身は山奥ですが、九鬼氏のような海賊大名のひとつと言えるでしょう。
地図をよく見てみると、城の北側の前山川沿いに大門、城下、屋敷、大屋敷といった地名が並んでおり、城下町を北に構え、川沿いに船を係留していたのではないでしょうか。
そして、その前山川を辿ると矢田川に合流し、その先に大野湊がありました。
佐治氏の領地は3万石とも6万石ともいわれますが、この大野湊が佐治氏の経済的基盤だったと思われます。
麓の地名の散り具合を考えると、経済的にも、単純に規模としても、なかなか大きい城と城下だったのでしょうね。
現在の大野城は、城山公園として整備されています。
駐車場は南北の2ヶ所にあるようですが、今回は住宅地の奥の込み入った所にある南側の駐車場に止めました。
ただ、下が砂利で傾斜もあって、というバイクには向かない駐車場でしたけども(^^;)
その駐車場から入ると、まず目を引くのが土塁に囲まれた削平地。
山上の城の空堀としては広すぎる気もするので、郭跡でしょうか。

ここから下の段には帯郭らしき場所があり、最高部の北側にある遊具広場や多目的広場も郭跡を利用したものと思われます。
遊具広場から主郭部に上がると、すぐ横に城址碑があり、模擬櫓の展望台もありました。

両方入ったので、なかなかいい構図(^^)
本丸全体の広さは下のような感じです。
模擬櫓が圧迫してる部分はありますが、山城の本丸としては標準的な大きさですかね。

模擬櫓の内部には、城に関する資料が並べられていました。
景色もなかなかよろしい。

中央に見えている森の部分が、次の目的地となる大草城ですね。
これだけ至近な位置関係。
その展望台の向かいには佐治神社があり、佐治氏が祀られていました。
大きさから言って、往時はここに小さな天守か物見櫓があったのでしょう。

散策することはしなかったですが、城下へと続く北側の中腹は開発されていないようで、色々と探ればまだまだ遺構の類がありそうですね。
大野城の次は、先ほど展望台から見えていた大草城へ。
上でも書きましたが、大野城から北北西1.3kmという近さです。
国道155号線を走ると、左手にたくさんの幟が見えますが、これは地蔵寺の幟。
大草城はそのお隣です。
目印にはちょうど良かった。
大草城は、先の大野城に入城した織田長益が新たに居城として築いた城です。
しかし、大野城の廃城時期と同様、築城前後の詳しい事跡がはっきりしていません。
長益の入部時期としては、佐治信方討死後の天正2年(1574)に佐治一成の後見として入部したという説、同10年(1582)の本能寺の変の後という説、同12年(1584)の小牧長久手の合戦後に佐治氏が大野から追放された後という説、があります。
後見説では一成の成人独立間近の天正9年(1581)に築城に着手したということになっており、他は入部後に築いたとされていますから、天正9年から同14年までの期間のどこかで築城工事が始まったというわけですね。
そして、天正18年(1590)の織田信雄改易に伴って秀吉の御伽衆となり、摂津に移った為、未完にして廃城となりました。
しかし、地形的な工事はほぼ終わっており、土塁や水堀が非常に良く形を残しています。
主郭部分は完成間近だったんじゃないでしょうか。
見たところ、総石垣にするつもりも無いような感じですしね。
丘陵南側の駐車場にバイクを止め、少し坂を登るとそこが本丸です。
本丸はグラウンドになっており、一角に模擬櫓の展望台が建っていました。
そこに説明と縄張図があります。

近世城郭らしい方形の郭の組み合わせですね。
グラウンドで遊ぶ子供達を横目に、ぶらぶらと散策していきます。
西側の入口は、土塁というのがよく分かる地形ですね。

少し進んで二ノ丸に行くと、土塁が非常に良く残っていました。
奥側の縁辺が盛り上がっているのが見えます。

ちなみに、撮影したこの部分はかつては水堀だったようで、やや窪んでいました。
堀が埋め立てられているのは、この部分だけみたいですね。
この土塁の上に登ると、端が広くなっています。
おそらく隅櫓の場所だったのでしょう。

ただ、この辺りを含めてぐり石などの類は見られなかったので、石垣はあったけど壊された、というような感じではないですね。
石垣の工事が入る前だったのか、そもそも総石垣にするつもりが無かったのか。
大体の築城工事は、本丸から工事に入り、地形を整えて城郭構造を造り終えると、本丸は上物の作事へ移行し、普請部門は二ノ丸の工事に取り掛かります。
大草城では二ノ丸の地形(チギョウ)と呼ばれる普請まではほぼ終わっており、恐らく本丸は作事に移っていたと思われますが、本丸近辺に石垣の詰石などの痕跡が見えません。
表面の大石は転用されることが多いですが、小さい詰石を全て持って行くということはあまりないので、石垣がかつてあったならそういう石が散乱してることが多いんですがね。
どうなんでしょうか。
二ノ丸の外側に下りて行くと、水堀がきちんとした形で残っています。

この外側の三ノ丸方向は民家が建っていましたが、ちゃんと切岸は残っており、三ノ丸もある程度工事が進んでいたようですね。
未完ということもあって、歴史上は無名なお城なんですが、近世城郭遺構としてはなかなか良い城でした(^^)
この後、時間があれば桑名城と長島城にも寄ろうかと思ってたんですが、どうも時間切れとなりました。
東から神戸へ帰ると、夕刻には京阪神に帰る車の集中によって栗東や瀬田、高槻で混雑します。
桑名城や長島城に寄る1時間半のロスが、帰宅時間の3時間押しというような状況すら有り得るわけで、ここが判断の分かれ目かと。
ま、この日は雨で直帰も想定に入っていたことを考えると、これだけ回れただけでも十分満足ですわ(^^)
こうして、東海I.C.から伊勢湾岸道に入り、長島や桑名を遠目に見つつ新名神経由で名神へ。
途中、大津S.A.で休憩を挟んだ際に、駐車場の中で誰も止めていない端っこに反対向きに止めてたのに、休憩から帰ってくるとツーリンググループがまるで知り合いのようにすぐ隣に奥に向かって止めており、集団の中で自分のバイクだけ空気読まない奴のように反対向きだったりして、微妙に死んだ魚の目になったりしましたが、重大なトラブルは無く、無事に中国道西宮北I.C.に到着。
この時点でまだ18時過ぎだったので、なんとなく大沢温泉に入って帰りました。
この最後の締めの温泉、ヤバいです。
次の日の疲れの残り方が天と地ほど違う。
ヤバい。
これは癖になりそうや(^^;)
1日目:431.4km
2日目:367.6km 合計:799.0km
参考:
2016年1月19日火曜日
伊勢湾周遊 その9
前回のあらすじ
今川到達!
何も無ぇ!
今川館跡のある西尾中学校の辺りから、県道をそのまま南東方向へ進むと、そのまま東条城に着きます。
そう、この城は東条吉良氏の本拠にして、今川家から独立した家康による三河平定戦で吉良本家が敗れ、没落した城。
しかし、東端城、西尾城、今川館、東条城と、ほぼ一直線に等間隔で並んでるから、行くのは楽でええわ~
東条城の主であった東条吉良氏というのは、歴史上で2系統あります。
1つ目は吉良氏の祖である吉良長氏の弟義継の系統。
吉良氏を創始した庶長子の長氏、惣領足利家を継いだ泰氏、そしてこの2人の弟として、東条を領して長氏と同じく吉良を称した義継がいます。
ただ、兄弟の長幼には諸説あるみたいですが。
矢作川を挟んで西の西条を長氏が、東の東条を義継が治めていたわけですが、この義継の系統は後に奥州に転じ、四つの家が乱立した奥州管領を名乗る家の内のひとつとなります。
その結果、やがて西条の吉良本家がこの東条をも支配するのですが、尊氏とその弟直義が対立した観応の擾乱の余波を受けて、吉良家も直義方だった満貞方と、それを危惧して家臣らに擁立された尊義方に分裂し、尊義の系統が新たに東条吉良氏と呼ばれました。
これが2つ目の系統。
以後、両家の仲は悪く、応仁の乱でも対立しましたが、どちらも滅ぼされる事なく戦国時代を迎え、東の今川、西の織田という両雄の隆盛を受けて生存を模索した結果、東条吉良氏の持広の養子として西条吉良氏から義安を迎え、吉良氏はひとつとなります。
ちなみに、この持広の偏諱を受けたことで、家康の父は広忠と名乗りました。
つまりは庇護されていたわけで、当時の松平家の苦境が窺えますね。
しかし、ひとつになった吉良氏も、戦国大名化した両雄とは既に勢力の開きがあまりに大きく、親織田であった義安は駿河に連れ去られ、新今川であった義昭が両家を相続しています。
こうなると、もはや独立何もありません。
その後も紆余曲折があり、結果的には、義昭も松平軍の攻撃で没落してしまうわけですが、この松平軍の動きは、家康の三河平定戦という説と、今川の命による叛乱鎮圧という説があるようです。
陣営が全く正反対となる両説があるということは、当時の情勢が短い期間にかなり流動的に動いたという事なんでしょう。
ま、桶狭間の合戦前後の話になるので、情勢の混沌も致し方無しというところ。
史料によって、前後を混同されている場合がしばしばあるようですな。
この頃、連れ去られた義安はどうしていたかというと、義元討死後にようやく人質を解かれ、三河に帰っていたとされています。
そして、今川家の人質時代に仲が良かった家康に属し、義昭の没落後に吉良宗家を相続しました。
そして、江戸時代には高家旗本として存続し、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央へと繋がるわけです。
この家康の人質時代の人脈としては、北条氏規も有名で、この頃の繋がりから後に家康を通じ、北条氏の外交担当者として氏規が秀吉と交渉したといわれていますね。
現在の東条城は、史跡公園として整備されています。
それも公園というよりは、城の遺構を重視した形で。
なので散策して楽しい城になってますね。
まず登場口から。
杭が打たれていますが、当時は尖った逆茂木。
登るのも大変そうです。
この登城口を過ぎると帯郭。
その奥には横矢掛もありました。
写真ではちょっと分かりにくいですが、結構明確です。
横矢掛というのは、設備としては割と後に登場してくるものなので、もしかしたら吉良氏以降に改修された時のものかもしれません。
帯郭から建てられている冠木門を抜けて丘陵に上がると、そこが三ノ丸です。
三ノ丸の周囲には、土塁の跡も残っていました。
この三ノ丸からの写真は、城好きにとって良い構図かもしれませんね。
色々な要素が入っています。
三ノ丸から上の写真のように本丸に向かってに左手には二ノ丸。
今は神社境内となっていました。
ここからもう一段上が本丸。
土塁や櫓門、櫓が復元されています。
東条城の紹介写真もこの構図だったような。
櫓門をくぐると、いよいよ本丸です。
うむ、広い。
この一角には城址碑もあります。
この時は、ちょうど家族連れがピクニックに来ていました。
小さい子が野球ができそうなぐらいの大きさで、芝生が敷かれていて、という最適な場所ですな。
丁寧に整備されていて、天気も良く、朗らかに散策できました。
城を出る際には違う虎口から出たんですが、主郭部下の削平地も確認できます。
この右手は本丸なのですが、切岸の角度が尋常じゃないぐらい急ですね。
往時からこの状態だったのでしょうか。
そうであれば、かなり堅固に見えますな。
ふむ、良い城跡であった(^^)
東条城からは、県道41号線に入って真っ直ぐ進んでいくと、やがて国道247号線となり、昨日も通った衣浦トンネルを通ります。
トンネルをくぐり、衣浦臨海鉄道に沿って臨海部へ入り、そのまま幹線道路を南へ南へ。
行ける所まで南下していると、すぐ隣に国道247号線が並走してくるので、そのまま国道に乗り換えて羽豆岬を目指します。
ただ、ここまで来ると、岬特有の逃げ場の無い2車線の古い国道で、格段に流れは遅くなりますね。
とは言っても、岬の道なので、海を見ながらのんびり走れて楽しくもあります。
途中、やたらと客を集めている店なんかがあったりして、こんなところですげぇ!と独りごちつつ、気が付けば師崎。
その間の小一時間、前のバイクとランデブーしてたんですが、そのライダーはそのまま岬をターンしていったので、気を付けてな、と勝手に挨拶しつつ、自分は羽豆岬へ。
羽豆岬は、師崎の港の南西側の丘陵です。
今は半島になっていますが、地形的にはもともと島だった陸繋島というやつでしょうか。
その根元にバイクを置き、丘陵を上って先端を目指します。
途中、丘陵の最高部に展望台がありました。
その展望台から師崎の眺めです。
ちょっとこの時間は曇ってきてしまいました。
せっかくの岬なのに、残念(> <)
展望台を下りて、先端の方へ向かってると、羽豆崎城址の碑がありました。
知らなかった・・・
でも、こんなあからさまに水軍の拠点となるような場所に、城が無いなんてことは無いですわな。
帰って調べたところによると、熱田神宮の大宮司千秋氏が築城したようです。
吉良氏のところで少し触れましたが、三河は足利氏が守護だったことから北朝勢力の有力な扶養地で、南朝方にとっては東海道は東西の連絡が取り辛く、陸路がダメなら海路で、ということで築城されました。
要は中継港ですな。
有力な南朝方である北畠氏とも、海を突っ切ればすぐですし、その先には南朝方の本拠地、吉野。
千秋氏にとっては、熱田神宮からは遠いわけですが、当時の熱田神宮は海際の神社で、門前町は港町でもあったわけです。
なのでこんな離れた場所にも影響力を持てたんですね。
千秋氏が衰えた後は、知多半島西部を領した佐治氏の影響下で、後に佐治氏から千賀氏に入嗣した重親の城となりました。
重親は徳川水軍として活躍し、後に徳川御船手四人衆に数えられています。
ただ、城の遺構は、見た限りでは確認できませんでした。
恐らく、郭跡に羽豆神社が建てられ、以降はほとんど破壊されたのでしょうね。
その羽豆神社は、観光客がちょこちょこ訪れる為か、幟なども建てられていました。
おぉ賑わってるな~なんて思いながら、お参りをすると、外観の勢いとは裏腹に常駐の人はおらず。
なので、500円のお土産を買おうとしたら、小さいのが千円しか無かったので、2つ買うハメになりました(笑)
最後に、神社に建てられている展望台から眺めを。
青空が入ったのがこれだけなんですが、恐らくは津市方向あたりかな?
つづく
参考:
東条城
羽豆崎城
羽豆岬
地図付きはこちら
今川到達!
何も無ぇ!
今川館跡のある西尾中学校の辺りから、県道をそのまま南東方向へ進むと、そのまま東条城に着きます。
そう、この城は東条吉良氏の本拠にして、今川家から独立した家康による三河平定戦で吉良本家が敗れ、没落した城。
しかし、東端城、西尾城、今川館、東条城と、ほぼ一直線に等間隔で並んでるから、行くのは楽でええわ~
東条城の主であった東条吉良氏というのは、歴史上で2系統あります。
1つ目は吉良氏の祖である吉良長氏の弟義継の系統。
吉良氏を創始した庶長子の長氏、惣領足利家を継いだ泰氏、そしてこの2人の弟として、東条を領して長氏と同じく吉良を称した義継がいます。
ただ、兄弟の長幼には諸説あるみたいですが。
矢作川を挟んで西の西条を長氏が、東の東条を義継が治めていたわけですが、この義継の系統は後に奥州に転じ、四つの家が乱立した奥州管領を名乗る家の内のひとつとなります。
その結果、やがて西条の吉良本家がこの東条をも支配するのですが、尊氏とその弟直義が対立した観応の擾乱の余波を受けて、吉良家も直義方だった満貞方と、それを危惧して家臣らに擁立された尊義方に分裂し、尊義の系統が新たに東条吉良氏と呼ばれました。
これが2つ目の系統。
以後、両家の仲は悪く、応仁の乱でも対立しましたが、どちらも滅ぼされる事なく戦国時代を迎え、東の今川、西の織田という両雄の隆盛を受けて生存を模索した結果、東条吉良氏の持広の養子として西条吉良氏から義安を迎え、吉良氏はひとつとなります。
ちなみに、この持広の偏諱を受けたことで、家康の父は広忠と名乗りました。
つまりは庇護されていたわけで、当時の松平家の苦境が窺えますね。
しかし、ひとつになった吉良氏も、戦国大名化した両雄とは既に勢力の開きがあまりに大きく、親織田であった義安は駿河に連れ去られ、新今川であった義昭が両家を相続しています。
こうなると、もはや独立何もありません。
その後も紆余曲折があり、結果的には、義昭も松平軍の攻撃で没落してしまうわけですが、この松平軍の動きは、家康の三河平定戦という説と、今川の命による叛乱鎮圧という説があるようです。
陣営が全く正反対となる両説があるということは、当時の情勢が短い期間にかなり流動的に動いたという事なんでしょう。
ま、桶狭間の合戦前後の話になるので、情勢の混沌も致し方無しというところ。
史料によって、前後を混同されている場合がしばしばあるようですな。
この頃、連れ去られた義安はどうしていたかというと、義元討死後にようやく人質を解かれ、三河に帰っていたとされています。
そして、今川家の人質時代に仲が良かった家康に属し、義昭の没落後に吉良宗家を相続しました。
そして、江戸時代には高家旗本として存続し、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央へと繋がるわけです。
この家康の人質時代の人脈としては、北条氏規も有名で、この頃の繋がりから後に家康を通じ、北条氏の外交担当者として氏規が秀吉と交渉したといわれていますね。
現在の東条城は、史跡公園として整備されています。
それも公園というよりは、城の遺構を重視した形で。
なので散策して楽しい城になってますね。
まず登場口から。

杭が打たれていますが、当時は尖った逆茂木。
登るのも大変そうです。
この登城口を過ぎると帯郭。

その奥には横矢掛もありました。

写真ではちょっと分かりにくいですが、結構明確です。
横矢掛というのは、設備としては割と後に登場してくるものなので、もしかしたら吉良氏以降に改修された時のものかもしれません。
帯郭から建てられている冠木門を抜けて丘陵に上がると、そこが三ノ丸です。
三ノ丸の周囲には、土塁の跡も残っていました。

この三ノ丸からの写真は、城好きにとって良い構図かもしれませんね。
色々な要素が入っています。
三ノ丸から上の写真のように本丸に向かってに左手には二ノ丸。
今は神社境内となっていました。

ここからもう一段上が本丸。
土塁や櫓門、櫓が復元されています。

東条城の紹介写真もこの構図だったような。
櫓門をくぐると、いよいよ本丸です。

うむ、広い。
この一角には城址碑もあります。

この時は、ちょうど家族連れがピクニックに来ていました。
小さい子が野球ができそうなぐらいの大きさで、芝生が敷かれていて、という最適な場所ですな。
丁寧に整備されていて、天気も良く、朗らかに散策できました。
城を出る際には違う虎口から出たんですが、主郭部下の削平地も確認できます。

この右手は本丸なのですが、切岸の角度が尋常じゃないぐらい急ですね。
往時からこの状態だったのでしょうか。
そうであれば、かなり堅固に見えますな。
ふむ、良い城跡であった(^^)
東条城からは、県道41号線に入って真っ直ぐ進んでいくと、やがて国道247号線となり、昨日も通った衣浦トンネルを通ります。
トンネルをくぐり、衣浦臨海鉄道に沿って臨海部へ入り、そのまま幹線道路を南へ南へ。
行ける所まで南下していると、すぐ隣に国道247号線が並走してくるので、そのまま国道に乗り換えて羽豆岬を目指します。
ただ、ここまで来ると、岬特有の逃げ場の無い2車線の古い国道で、格段に流れは遅くなりますね。
とは言っても、岬の道なので、海を見ながらのんびり走れて楽しくもあります。
途中、やたらと客を集めている店なんかがあったりして、こんなところですげぇ!と独りごちつつ、気が付けば師崎。
その間の小一時間、前のバイクとランデブーしてたんですが、そのライダーはそのまま岬をターンしていったので、気を付けてな、と勝手に挨拶しつつ、自分は羽豆岬へ。
羽豆岬は、師崎の港の南西側の丘陵です。
今は半島になっていますが、地形的にはもともと島だった陸繋島というやつでしょうか。
その根元にバイクを置き、丘陵を上って先端を目指します。
途中、丘陵の最高部に展望台がありました。
その展望台から師崎の眺めです。

ちょっとこの時間は曇ってきてしまいました。
せっかくの岬なのに、残念(> <)
展望台を下りて、先端の方へ向かってると、羽豆崎城址の碑がありました。

知らなかった・・・
でも、こんなあからさまに水軍の拠点となるような場所に、城が無いなんてことは無いですわな。
帰って調べたところによると、熱田神宮の大宮司千秋氏が築城したようです。
吉良氏のところで少し触れましたが、三河は足利氏が守護だったことから北朝勢力の有力な扶養地で、南朝方にとっては東海道は東西の連絡が取り辛く、陸路がダメなら海路で、ということで築城されました。
要は中継港ですな。
有力な南朝方である北畠氏とも、海を突っ切ればすぐですし、その先には南朝方の本拠地、吉野。
千秋氏にとっては、熱田神宮からは遠いわけですが、当時の熱田神宮は海際の神社で、門前町は港町でもあったわけです。
なのでこんな離れた場所にも影響力を持てたんですね。
千秋氏が衰えた後は、知多半島西部を領した佐治氏の影響下で、後に佐治氏から千賀氏に入嗣した重親の城となりました。
重親は徳川水軍として活躍し、後に徳川御船手四人衆に数えられています。
ただ、城の遺構は、見た限りでは確認できませんでした。
恐らく、郭跡に羽豆神社が建てられ、以降はほとんど破壊されたのでしょうね。
その羽豆神社は、観光客がちょこちょこ訪れる為か、幟なども建てられていました。

おぉ賑わってるな~なんて思いながら、お参りをすると、外観の勢いとは裏腹に常駐の人はおらず。
なので、500円のお土産を買おうとしたら、小さいのが千円しか無かったので、2つ買うハメになりました(笑)
最後に、神社に建てられている展望台から眺めを。
青空が入ったのがこれだけなんですが、恐らくは津市方向あたりかな?

つづく
参考:
東条城
羽豆崎城
羽豆岬
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2016年1月14日木曜日
伊勢湾周遊 その8
前回のあらすじ
やだー雨って言ったじゃないですかぁー・・・
昨日の予報から一転して青空が見える晴れの下、更に南東へ進んで西尾城へと向かいます。
西尾城は、古くは西条城といい、西条吉良氏の居城でした。
ただ、吉良氏時代の城の歴史は割と曖昧なようです。
その後、家康の今川家からの独立があり、徳川軍が三河を攻略していく中で西条城も徳川家の城となりました。
そして、城主となった徳川家臣松平正親によって西尾に改められたといわれていますが、これにも時期的に諸説があるようです。
江戸時代には、この辺りのいくつかの城の中で、近世城郭として残ったのが西尾城でした。
そんなこんなで、城は今の西尾市街の中心にあり、分かり易く迷う心配がありません。
城に到着したのは9:30を過ぎた頃。
復興櫓があるので、開館時間としてはちょうど良いかもしれませんな。
駐車場にバイクを止め、まずそこから一番に見える天守台の石垣へ。
この石垣は復元なんですが、天守が二ノ丸にあったという珍しい城でした。
二ノ丸に天守があったというのは、徳島城なんかが有名でしょうか。
そういえば、横手城は確か復興天守が二ノ丸に建てられてたなぁ
何故本丸ではなかったのか大いなる疑問だけど。
他の城は置くとして、天守台からの眺めは、なかなか情緒のあるものでした。
本丸の丑寅櫓も見えますね。
写真の左手にあるのが、同じく復元された二ノ丸鍮石門です。
その正面側。
鍮石門を抜けて旧近衛邸の脇から水堀を見つつ本丸に入ると、一角には城の守護神であった御剱八幡宮があります。
本丸という中枢ですし、代々の藩主に崇拝された事でしょう。
この位置から視線を右に向けると、本丸表門の跡があります。
本丸表門があり、その脇から復元されている三層の丑寅櫓に入る、という構造ですね。
この石垣は往時のものと見られ、野面で不規則な積み方に野趣がありますが、野面積にしては割と整っています。
これは、この地方の石材の特徴なのかもしれません。
この石垣の後ろにチラッと見えているのが丑寅櫓です。
二ノ丸に天守が建てられる前には、本丸に天守があったようで、本丸の櫓の中ではこの丑寅櫓が最も規模が大きかったことから、初代天守もこの位置にあった可能性が高そうですな。
一説に、旧天守は隅櫓としてそのまま活用されたとも言われるので、改修などによる建て替えが無ければ、江戸時代の丑寅櫓はかつての天守ということになるんですが、今では現物が失われているので、確認はできそうにありませんけども。
本丸から再び水堀の場所を過ぎると、そこは姫丸という郭です。
夫人の住居など、奥向きの建物があった区域でしょうか。
この姫丸から二ノ丸方向の境には、姫丸門というのがありました。
今はただの道路ですが・・・
この門跡の後ろの建物は、西尾市資料館です。
いつも朝の城巡りというのは、資料館の開館時間になっていない事が多いのですが、この日はちょうど開館してすぐでした。
怪我の功名やね(^^;)
城に関する企画展もあり、西三河の各城についての詳細もあったので、満足度が高かったです。
ちなみに、入館無料。
西尾城は、こじんまりとしてますが、全体としてなかなか良い城ですわ(^^)
西尾城の次は、そのまま東南方向へ。
西尾の古い名は前出のように西条ですが、矢作川の西の条理地割のある土地、という程度の意味ですかね。
今の矢作川は川幅の広い放水路が本流となっているので、西尾の更に西ですが、昔は西尾の東に流れる矢作古川が本流でした。
それとも、条という漢字自体に、条理区画された荘園という程度の意味まで含まれていたのでしょうか。
一帯は吉良荘でしたから、吉良荘の西部という意味の名前だったのかもしれません。
それはともかくとして、西条に対する東条は、矢作川の旧本流を挟んで反対側にあり、川の少し手前に今川があります。
そう、御所が絶えなば吉良が継ぎ吉良が絶えなば今川が継ぐ、と言われた東西の吉良氏や今川氏の本貫の地でした。
由緒正しき土地ですな。
ただ、今川館の正確な位置は判っておらず、碑は館の推定地に建てられていました。
西尾中学校のすぐ南。
グランドの向かい側ですね。
周囲はいかにも農道という細い道しかなく、車で来る人は注意が必要かもしれません。
柵で囲まれた中には、今川了俊の墓もありました。
今川氏の宗家筋に当たるは足利氏は、八幡太郎として知られる源義家の孫義康が足利氏を称したことに始まり、更にその孫義氏が承久3年(1221)の承久の乱の際に三河守護職となって三河と縁を持つこととなります。
義氏は、足利の家督を次男泰氏に譲り、庶長子の長氏には吉良荘を与え、長氏は吉良を称しました。
これが吉良氏の始まりですね。
ちなみに、この庶長子だったという事が、吉良氏が足利氏に次ぐ血統とされる所以です。
吉良氏の祖となった長氏は、嫡子満氏に吉良を継がせ、次男国氏には父義氏から装束料として譲られていた今川荘を譲りました。
こうして、国氏が今川の地名を姓とし、足利氏から吉良氏、吉良氏から今川家が分かれたのです。
で、この墓の了俊は、と言うと、この国氏の曾孫に当たる人物で、南北朝時代に九州探題となって島津氏以外の九州諸豪族を従わせた優れた武将でした。
その島津氏が了俊と決定的に対立した水島の変なんかを見ると、なかなかアクの強い人物だったようですけどね。
しかし、その頃の今川氏の本拠は、現在の浜松から磐田へと移って行っており、既にここにはありませんでした。
そう、ここは了俊とは無関係なのです。
え?墓あるやん。
調べてみてびっくりですが、関係なかった(笑)
実際、了俊の九州探題後の役職も遠江や駿河の守護やしね。
関係無いんよな~
自分ら後世の人間から見ると、今川氏は駿河や遠江の大名ですが、それはもう了俊の頃には確立されてたんですな。
だからと言って、発祥地の価値が揺らぐものではありませんがね(^^)
ちなみに、この了俊の墓を建立した人は江戸時代中頃の西尾藩士だったようで、地元今川村の歴史を調べ、大事にしたんでしょうな。
無名とは言え、立派な歴史家ですわ。
つづく
参考:
西尾城
西尾市資料館
今川館
地図付きはこちら
やだー雨って言ったじゃないですかぁー・・・
昨日の予報から一転して青空が見える晴れの下、更に南東へ進んで西尾城へと向かいます。
西尾城は、古くは西条城といい、西条吉良氏の居城でした。
ただ、吉良氏時代の城の歴史は割と曖昧なようです。
その後、家康の今川家からの独立があり、徳川軍が三河を攻略していく中で西条城も徳川家の城となりました。
そして、城主となった徳川家臣松平正親によって西尾に改められたといわれていますが、これにも時期的に諸説があるようです。
江戸時代には、この辺りのいくつかの城の中で、近世城郭として残ったのが西尾城でした。
そんなこんなで、城は今の西尾市街の中心にあり、分かり易く迷う心配がありません。
城に到着したのは9:30を過ぎた頃。
復興櫓があるので、開館時間としてはちょうど良いかもしれませんな。
駐車場にバイクを止め、まずそこから一番に見える天守台の石垣へ。

この石垣は復元なんですが、天守が二ノ丸にあったという珍しい城でした。
二ノ丸に天守があったというのは、徳島城なんかが有名でしょうか。
そういえば、横手城は確か復興天守が二ノ丸に建てられてたなぁ
何故本丸ではなかったのか大いなる疑問だけど。
他の城は置くとして、天守台からの眺めは、なかなか情緒のあるものでした。
本丸の丑寅櫓も見えますね。

写真の左手にあるのが、同じく復元された二ノ丸鍮石門です。
その正面側。

鍮石門を抜けて旧近衛邸の脇から水堀を見つつ本丸に入ると、一角には城の守護神であった御剱八幡宮があります。
本丸という中枢ですし、代々の藩主に崇拝された事でしょう。

この位置から視線を右に向けると、本丸表門の跡があります。

本丸表門があり、その脇から復元されている三層の丑寅櫓に入る、という構造ですね。
この石垣は往時のものと見られ、野面で不規則な積み方に野趣がありますが、野面積にしては割と整っています。
これは、この地方の石材の特徴なのかもしれません。
この石垣の後ろにチラッと見えているのが丑寅櫓です。
二ノ丸に天守が建てられる前には、本丸に天守があったようで、本丸の櫓の中ではこの丑寅櫓が最も規模が大きかったことから、初代天守もこの位置にあった可能性が高そうですな。
一説に、旧天守は隅櫓としてそのまま活用されたとも言われるので、改修などによる建て替えが無ければ、江戸時代の丑寅櫓はかつての天守ということになるんですが、今では現物が失われているので、確認はできそうにありませんけども。
本丸から再び水堀の場所を過ぎると、そこは姫丸という郭です。
夫人の住居など、奥向きの建物があった区域でしょうか。
この姫丸から二ノ丸方向の境には、姫丸門というのがありました。
今はただの道路ですが・・・

この門跡の後ろの建物は、西尾市資料館です。
いつも朝の城巡りというのは、資料館の開館時間になっていない事が多いのですが、この日はちょうど開館してすぐでした。
怪我の功名やね(^^;)
城に関する企画展もあり、西三河の各城についての詳細もあったので、満足度が高かったです。
ちなみに、入館無料。
西尾城は、こじんまりとしてますが、全体としてなかなか良い城ですわ(^^)
西尾城の次は、そのまま東南方向へ。
西尾の古い名は前出のように西条ですが、矢作川の西の条理地割のある土地、という程度の意味ですかね。
今の矢作川は川幅の広い放水路が本流となっているので、西尾の更に西ですが、昔は西尾の東に流れる矢作古川が本流でした。
それとも、条という漢字自体に、条理区画された荘園という程度の意味まで含まれていたのでしょうか。
一帯は吉良荘でしたから、吉良荘の西部という意味の名前だったのかもしれません。
それはともかくとして、西条に対する東条は、矢作川の旧本流を挟んで反対側にあり、川の少し手前に今川があります。
そう、御所が絶えなば吉良が継ぎ吉良が絶えなば今川が継ぐ、と言われた東西の吉良氏や今川氏の本貫の地でした。
由緒正しき土地ですな。
ただ、今川館の正確な位置は判っておらず、碑は館の推定地に建てられていました。
西尾中学校のすぐ南。
グランドの向かい側ですね。
周囲はいかにも農道という細い道しかなく、車で来る人は注意が必要かもしれません。

柵で囲まれた中には、今川了俊の墓もありました。

今川氏の宗家筋に当たるは足利氏は、八幡太郎として知られる源義家の孫義康が足利氏を称したことに始まり、更にその孫義氏が承久3年(1221)の承久の乱の際に三河守護職となって三河と縁を持つこととなります。
義氏は、足利の家督を次男泰氏に譲り、庶長子の長氏には吉良荘を与え、長氏は吉良を称しました。
これが吉良氏の始まりですね。
ちなみに、この庶長子だったという事が、吉良氏が足利氏に次ぐ血統とされる所以です。
吉良氏の祖となった長氏は、嫡子満氏に吉良を継がせ、次男国氏には父義氏から装束料として譲られていた今川荘を譲りました。
こうして、国氏が今川の地名を姓とし、足利氏から吉良氏、吉良氏から今川家が分かれたのです。
で、この墓の了俊は、と言うと、この国氏の曾孫に当たる人物で、南北朝時代に九州探題となって島津氏以外の九州諸豪族を従わせた優れた武将でした。
その島津氏が了俊と決定的に対立した水島の変なんかを見ると、なかなかアクの強い人物だったようですけどね。
しかし、その頃の今川氏の本拠は、現在の浜松から磐田へと移って行っており、既にここにはありませんでした。
そう、ここは了俊とは無関係なのです。
え?墓あるやん。
調べてみてびっくりですが、関係なかった(笑)
実際、了俊の九州探題後の役職も遠江や駿河の守護やしね。
関係無いんよな~
自分ら後世の人間から見ると、今川氏は駿河や遠江の大名ですが、それはもう了俊の頃には確立されてたんですな。
だからと言って、発祥地の価値が揺らぐものではありませんがね(^^)
ちなみに、この了俊の墓を建立した人は江戸時代中頃の西尾藩士だったようで、地元今川村の歴史を調べ、大事にしたんでしょうな。
無名とは言え、立派な歴史家ですわ。
つづく
参考:
西尾城
西尾市資料館
今川館
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2016年1月8日金曜日
年始早々
一昨日、北朝鮮が核実験を行いましたが、年始早々、色々と動きが出ていますな。
年末の慰安婦問題合意を含むと、南沙諸島での中国の試験飛行もあり、あちらこちらで事態が大きく動き始めているようです。
中国の場合は、上海市場でのサーキットブレーカー発動やその撤廃、株売りに関する新ルールなどが注目されており、南沙諸島の件は霞んでしまっています。
確かに、中国当局が為替の基準値を引き下げ、中国当局が管理できないオフショアの市場ではより元安が進み、株安で通貨安という完全なキャピタルフライト状態なんで、トピックとしては大きいですよね。
通貨防衛で使ったとみられる外貨準備は、12月で1000億ドル強も減ってますし。
政経共に、この後どう動いていくのか、ちょっと目が離せませんね。
しかし、北朝鮮はどうするんだろう。
中国は北朝鮮に核があることを認めておらず、前回も独自の経済制裁をしたようですが、今回もするでしょう。
今、北朝鮮の経済的な拠り所は中朝関係しかないわけですが、石油とか輸入必須な品目をどうするのかが注目ですね。
とは言え、2013年の核実験の際も経済制裁はあったといわれていますが、その年の石油の輸入は10%ほど増えてたりするので、何とも言えません。
しかし、このニュースで改めて思うのは、安保反対派の想像力の無さでしょうか。
ネットでは、
http://www.sankei.com/politics/news/151107/plt1511070011-n1.html
という共産党志位委員長の番組での発言が槍玉に挙げられていますが、どこにリアルな危険が無かったのか、ちょっと問い詰めたいぐらいですな。
ほんの2ヶ月前ですからね。
それから劇的に情勢が変化したわけでもないのに、核実験ですから。
前述のように、南沙諸島でも中国の試験飛行が始まり、実用化寸前です。
ま、共産党については、上の記事にリンクされていた、
http://www.sankei.com/premium/news/151123/prm1511230014-n1.html
を読むと、昔に比べて今はかなり歪に凝り固まってしまったのかな、という印象もありますが。
共産党もその辺は自覚があるようで、天皇陛下が臨席する為にずっと欠席していた国会開会式にも出席しました。
選挙や議会での野党共闘を目指す姿勢とリンクしてのことでしょう。
実際、60年安保や70年安保で運動した支持層が老齢となっており、機関紙である赤旗の購買数も右肩下がりとなれば、党の存続に危機感を持つのも当たり前。
このまま理想論を語っているだけではどうにんもならん、という思いがあるのでしょう。
しかし、現実認識はまだまだですな。
民主党など他の野党も含め、もっと実現的な策を語ってほしいものです。
でないと、選ぶ方としても選択肢が無いままですから。
あと、話し合いで解決したらいいと言ってた方々はどこへ行ったんですかね。
いまこそ中国や北朝鮮と話し合いの好機だと思うんですが、一向に活動が報じられません。
今こそ、頑張ってほしいものです。
きな臭いのは、東アジアだけでは無い模様で、中東ではイランとサウジアラビアの冷却化が進んでいます。
昨日も、イランの在イエメン大使館をサウジアラビア軍が空爆したとの主張をイランがしたというニュースがあり、いよいよ本格的な国交断絶の寸前という所まで来ていますね。
もともとスンニ派とシーア派という対立はありますが、ペルシア人のイランとアラブ人のサウジアラビアでは微妙に民族的背景が異なります。
その辺りの影響もあるんでしょうな。
人種的にはほぼ同じみたいですけど。
しかし、こんなトピックがあったのに、ドバイ原油は30ドル割れ、アメリカのWTIもヨーロッパの北海BRENTも32ドル台というニュースが。
石油をガブ飲みしていた中国経済の減速に加え、アメリカの石油輸出解禁、イランの経済制裁解除と、下げ要素が強すぎます。
比較的調子がいいのはインドぐらいのものでしょうか。
また、中東諸国だけではなく、ブラジルやロシアなどの資源国も大変ですな。
ロシアでは政府系の銀行VEBが政府に支援を要請したとあり、ソチ五輪の後始末もありますが、金融を牛耳る欧米の制裁がずっと効いている状態です。
対ISISで米ロは和解のきっかけを掴んだようにも見えますので、中東での仲介もありますし、こちらも今年1年で動きが出てくるでしょうね。
なかなか、今年も荒れる年になりそうです。
年末の慰安婦問題合意を含むと、南沙諸島での中国の試験飛行もあり、あちらこちらで事態が大きく動き始めているようです。
中国の場合は、上海市場でのサーキットブレーカー発動やその撤廃、株売りに関する新ルールなどが注目されており、南沙諸島の件は霞んでしまっています。
確かに、中国当局が為替の基準値を引き下げ、中国当局が管理できないオフショアの市場ではより元安が進み、株安で通貨安という完全なキャピタルフライト状態なんで、トピックとしては大きいですよね。
通貨防衛で使ったとみられる外貨準備は、12月で1000億ドル強も減ってますし。
政経共に、この後どう動いていくのか、ちょっと目が離せませんね。
しかし、北朝鮮はどうするんだろう。
中国は北朝鮮に核があることを認めておらず、前回も独自の経済制裁をしたようですが、今回もするでしょう。
今、北朝鮮の経済的な拠り所は中朝関係しかないわけですが、石油とか輸入必須な品目をどうするのかが注目ですね。
とは言え、2013年の核実験の際も経済制裁はあったといわれていますが、その年の石油の輸入は10%ほど増えてたりするので、何とも言えません。
しかし、このニュースで改めて思うのは、安保反対派の想像力の無さでしょうか。
ネットでは、
http://www.sankei.com/politics/news/151107/plt1511070011-n1.html
という共産党志位委員長の番組での発言が槍玉に挙げられていますが、どこにリアルな危険が無かったのか、ちょっと問い詰めたいぐらいですな。
ほんの2ヶ月前ですからね。
それから劇的に情勢が変化したわけでもないのに、核実験ですから。
前述のように、南沙諸島でも中国の試験飛行が始まり、実用化寸前です。
ま、共産党については、上の記事にリンクされていた、
http://www.sankei.com/premium/news/151123/prm1511230014-n1.html
を読むと、昔に比べて今はかなり歪に凝り固まってしまったのかな、という印象もありますが。
共産党もその辺は自覚があるようで、天皇陛下が臨席する為にずっと欠席していた国会開会式にも出席しました。
選挙や議会での野党共闘を目指す姿勢とリンクしてのことでしょう。
実際、60年安保や70年安保で運動した支持層が老齢となっており、機関紙である赤旗の購買数も右肩下がりとなれば、党の存続に危機感を持つのも当たり前。
このまま理想論を語っているだけではどうにんもならん、という思いがあるのでしょう。
しかし、現実認識はまだまだですな。
民主党など他の野党も含め、もっと実現的な策を語ってほしいものです。
でないと、選ぶ方としても選択肢が無いままですから。
あと、話し合いで解決したらいいと言ってた方々はどこへ行ったんですかね。
いまこそ中国や北朝鮮と話し合いの好機だと思うんですが、一向に活動が報じられません。
今こそ、頑張ってほしいものです。
きな臭いのは、東アジアだけでは無い模様で、中東ではイランとサウジアラビアの冷却化が進んでいます。
昨日も、イランの在イエメン大使館をサウジアラビア軍が空爆したとの主張をイランがしたというニュースがあり、いよいよ本格的な国交断絶の寸前という所まで来ていますね。
もともとスンニ派とシーア派という対立はありますが、ペルシア人のイランとアラブ人のサウジアラビアでは微妙に民族的背景が異なります。
その辺りの影響もあるんでしょうな。
人種的にはほぼ同じみたいですけど。
しかし、こんなトピックがあったのに、ドバイ原油は30ドル割れ、アメリカのWTIもヨーロッパの北海BRENTも32ドル台というニュースが。
石油をガブ飲みしていた中国経済の減速に加え、アメリカの石油輸出解禁、イランの経済制裁解除と、下げ要素が強すぎます。
比較的調子がいいのはインドぐらいのものでしょうか。
また、中東諸国だけではなく、ブラジルやロシアなどの資源国も大変ですな。
ロシアでは政府系の銀行VEBが政府に支援を要請したとあり、ソチ五輪の後始末もありますが、金融を牛耳る欧米の制裁がずっと効いている状態です。
対ISISで米ロは和解のきっかけを掴んだようにも見えますので、中東での仲介もありますし、こちらも今年1年で動きが出てくるでしょうね。
なかなか、今年も荒れる年になりそうです。
2016年1月4日月曜日
2016走り初め
年末を無事に乗り切り、今年もめでたく新年を迎えることができました。
いや~良き哉良き哉。
年末の走り納めが12/26の土曜日で、走り初めが今日だったわけですが、走り納めも走り初めもこんなに暖かく走れたのは記憶にありません。
ほんま、今年は暖かいですわ。
このまま世の中も暖かい一年になればいいんですが、株は大発会から500円超の下落と不穏含み。
ん~なかなかうまくは行きませんな。
年末のアメリカの市況と今日の中国の市況が悪かったのが響いてるようで、国内自体は業績も伸びてるし、そこそこのはずなんですが、今年も海外要因に影響されそうですね。
その中国上海では、今年から導入されたサーキットブレーカーが発動したそうで。
システム稼動テストなんでしょうか(笑)
実環境での動作試験というのはかなり大事ですからね、という冗談はともかく、今月8日からは、中国株暴落時に売却が禁止されていた銘柄の売却が再開されるのもあり、中国株は先安感が出ています。
新春早々、今週来週辺りはちょっと動きがあるかも知れませんね。
いや~クワバラクワバラ(^^;)
いや~良き哉良き哉。
年末の走り納めが12/26の土曜日で、走り初めが今日だったわけですが、走り納めも走り初めもこんなに暖かく走れたのは記憶にありません。
ほんま、今年は暖かいですわ。
このまま世の中も暖かい一年になればいいんですが、株は大発会から500円超の下落と不穏含み。
ん~なかなかうまくは行きませんな。
年末のアメリカの市況と今日の中国の市況が悪かったのが響いてるようで、国内自体は業績も伸びてるし、そこそこのはずなんですが、今年も海外要因に影響されそうですね。
その中国上海では、今年から導入されたサーキットブレーカーが発動したそうで。
システム稼動テストなんでしょうか(笑)
実環境での動作試験というのはかなり大事ですからね、という冗談はともかく、今月8日からは、中国株暴落時に売却が禁止されていた銘柄の売却が再開されるのもあり、中国株は先安感が出ています。
新春早々、今週来週辺りはちょっと動きがあるかも知れませんね。
いや~クワバラクワバラ(^^;)
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