2024年8月26日月曜日

サイトのリニューアル 茨城の全スポット終了

旅日記サイトのリニューアルですが、茨城県で訪れた全スポットの作成を完了しました。
 
 
栃木県のスポットは、お城が7城、観光地が1ヶ所、資料館が1館で、計9スポットです。
茨城県を訪れたのは、1回しかないので、スポットの少なさはしょうがないですね。
茨城県の南部と、北部の海沿いはノーマークになってしまってます。
関西から見ると、東京という巨大な壁があるので、なかなか厳しい県。
東北とか新潟なら、フェリーで強襲するという方法も採れるんですが、茨城はそういう手が無いので、単純に遠いんですよね。
でも、佐竹氏の太田城や、小田氏とその家臣菅谷氏が粘った土浦城など、行きたい城も多いです。
お城以外にも、鹿島神宮や霞ケ浦、そして筑波山、牛久大仏にも行きたいですね。
さて、北関東も制覇して、一段落でしょうか。
兵庫の隣県をまだ放置してしまっているので、そちらを進めて行きましょう。
 

2024年8月22日木曜日

ぶらり加古

まだまだ暑い日が続いていますね。
今年は特に暑い。
昼にバイクに乗った日には、熱中症で倒れてしまいそうです。
そんなわけで、バイクになかなか乗れません。
年々、夏に弱くなっているというのもありますが(^^;)
はやり、夏に快適に乗ろうと思ったら深夜か早朝ですね。
というわけで、今年も早朝にぶらりとしてきました。
今回は、目的地もルートも設定せず、日の出前に出発して、ただひたすらにブラブラと走っていたんですが、普段走らない道だと、新たな発見もあって面白いですね。
ここと繋がっていたのかとか、こんな店があるんやとか。
そんな走りをしている中、前々から寄ってみたいと思ってた所に出たので、ついでに寄ってみました。
その場所は、加古大池。
この加古大池の前の道はしょっちゅう通るんですが、今まで寄ったことはありませんでした。
初めての訪問になります。
 
 
広いですね。
県下最大の溜池だそうです。
 
 
碑もありました。
こういうのを見ると、地域にとっては一大土木工事だったというのが解りますね。
朝日を浴びながらの、心地の良い散策でした。
 

2024年8月17日土曜日

サイトのリニューアル 栃木の全スポット終了

旅日記サイトのリニューアルですが、栃木県で訪れた全スポットの作成を終えました。
 
 
栃木県のスポットは、お城が8城、神社が2社、史跡が1ヶ所、自然が2ヶ所、道路が3県に跨る日本ロマンティック街道と群馬県との間にある金精峠を含めて3本の計16スポットですね。
栃木県は、日光や宇都宮には2回行った事がありますが、ほかは遠すぎて1回しかありません。
まだまだ訪れたい所はありますが、なかなか時間的に難しいですね。
お城ならば、宇野宮の周辺や那須の周辺を、1日掛けて色々と巡ってみたいものです。
あとは、足尾銅山や鬼怒川温泉、大谷石の採掘場なども行きたいですね。
野望が燻ります。
さて、いよいよ次は北関東最後の茨城県ですね!
 

2024年8月14日水曜日

東信群馬埼玉ツーリング その3

前回のあらすじ
 
武田信玄初陣の城・・・小さくね?
 
海ノ口城、海尻城を訪問した後、さらに北上し、いよいよ本格的に佐久平へ。
その佐久平の入口に、龍岡城というのがあります。
この城は、龍岡城という由緒ありそうな和式の名前ですが、日本に2しかない西洋城郭なんですね。
稜堡式の西洋城郭としては、函館の五稜郭がとても有名ですが、この龍岡城も立派な五芒星の形をしているので、龍岡五稜郭とも呼ばれます。
ただ、城としては、実験的に構築されただけだったので、軍事的な防御力はあまり無かったようですね。
南北の山が近いので、丸見えですし。
でも、当時の最新西洋技術を導入したいというのは、佐賀藩や宇和島藩と同じ心意気を感じます。
まずは、入口の城址碑。
 
 
城跡内部は、小学校の敷地になっていました。
 
 
稜堡の内部はこんな感じ。
往時はもっと堡塁が高かったんでしょう。
 
 
堀も健在です。
きっちり曲げられた堀の確度が、稜堡式城郭というのを感じさせますね。
 
 
南側の稜堡の先端は尖ってませんでしたね。
 
 
堀の無い所には、住宅が迫っていました。
地元にとっては身近な存在なんでしょうね。
 
 
龍岡城説明板。
 
 
縄張図。
綺麗な星形ですね。
 
 
龍岡城が全面的に西洋城郭ではなかった証拠として、少し離れた場所に桝形がありました。
この辺りは純粋に和式城郭の形式を踏襲していますね。
 
 
であいの館というビジターセンターは、もう閉館の時間だったので入れませんでしたが、お城の散策には満足しました。
なんたって、日本に2つしか無い西洋城郭ですからね。
これで日本の西洋城郭は完全制覇です笑
 
龍岡城を出たのは、もう17時を過ぎていましたが、続いてすぐ北の平賀城へ。
平賀城の目印として、城山保育園というのがあります。
お城の北の集落にある保育園ですが、何と言っても、その名前がいいですね。
地図を見ていても、お城好きとしては、城山というワードに引力を感じますから笑
平賀城へは、その城山保育園から南東すぐの麓にある、瀧不動寺から登ることができます。
しかし、そこで事件が。
スマホ持ってくの忘れた!
山の中腹で気付いたんですが、ここから取りに戻っては陽が暮れてしまう・・・。
というわけで、写真を諦め、そのまま平賀城の散策を強行しました。
受けた印象としては、海尻城に似ていましたね。
その一番の類似点は、長方形の本丸が3段構成であったこと。
山の地形にもよるので何とも言えませんが、本丸は海尻城をそのまま大きくしたような感じでした。
海尻城の事績には、平賀城の主であった平賀氏の事は出て来ませんが、すぐ近くの海ノ口城に平賀源心が城主であったという伝承があるので、海尻城にも平賀氏流の築城術が施された可能性もあるかもしれませんね。
それとも、佐久平一般の築城技術であったのか、気になるところです。
最後に、平賀城の遠景を。
 
 
あまりにも悔しくて、翌日に遠景だけでもと撮りに行きました笑
 
つづく
 
参考:
 

2024年8月8日木曜日

巻き戻し

恐怖指数のVIXなどを見ると、ようやく落ち着いた感じですが、株価に為替に乱高下がすさまじいですね。
タイミング的には、日銀の利上げから円高、円高による輸出株価の下落に加え、アメリカの想定外の指標の悪さが相乗効果となって下落しました。
日本市場の下落から、東アジア、ヨーロッパ、アメリカまで株安が連鎖し、世界の金融界で、お金の流れの壮大な巻き戻しが起こったようですね。
下落の大きさには色々と解説が出ていますが、個人的には、フラッシュトレードと呼ばれる多頻度のアルゴリズム取引と円キャリー取引、そしてスルスルと上がったことによる信用取引残の多さという3本立てがあると思っています。
フラッシュトレードが一般化してから、株価も為替も、それまで考えられなかったような極端な値動きが見られるようになりました。
行き過ぎの値動きですね。
極端な値動きの兆候が見られると、それに反応したアルゴリズムが売買に動き、値動きを助長する。
それに強制決済された信用取引が乗っかり、さらに為替に関しては、値動きの大きさに円キャリー取引を手仕舞いするファンドの取引もプラスされた。
そんな感じではないかと。
あと、AIと半導体関連株の影響も大きいですね。
アメリカ市場での年初からの上昇の3分の2はAI半導体関連で、まだまだ投資が必要な時期だけに収益が出る状況ではないのですが、期待先行で買われていました。
その部分もリスクオフで巻き戻ったと言えそうです。
そして、当然ながら、日本のAI半導体関連株も売られるという流れになりました。
ただ、信用取引は、乱高下によって売りも買いもかなり薙ぎ払われたのは、市場としては良かったかもしれません。
信用売買も、過度な動きの時は助長する動きになりますからね。
また、円キャリー取引は、ブルームバーグの記事によれば、まだ50%から60%が巻き戻ったに過ぎないようです。
経済指標の悪化を受けた9月のFOMCでの利下げが、0.5%以上も有り得るという話が出てきていますから、円キャリー取引を行っているファンドが、これを受けてどう動くのか、気になるところですね。
市場の想定以上の利下げが行われた場合、再び日米の金利差を意識して円高に動く可能性があり、株価も巻き込まれるでしょう。
それが株式にどこまで波及するか。
どこぞの偉い人ではないですが、この言葉がぴったりですね。
注視するぞ!注視するぞ!!注視するぞ!!!
なんか修行みたいですが笑
 

2024年8月4日日曜日

東信群馬埼玉ツーリング その2

前回のあらすじ
 
さあ、旅の始まり!
信玄の攻略ルートをトレースするぜ!
 
山梨長野の県境を越えると、野辺山の高原を抜け、国道141号線は猛烈な下りに差し掛かります。
八ヶ岳の麓から、千曲川の削った崖下へ一気に下りるようなイメージすらありますね。
下り切れば、海ノ口と呼ばれる土地。
ここは、若き日の16歳の武田信玄が初陣を果たし、急襲で一気に城を攻略した海ノ口城があります。
海ノ口城には、いつか寄ってみたいと思っていました。
小学生の頃に見た信玄の伝記にも、海ノ口城の功は載っていたぐらい有名なお城ですからね。
一旦、佐久海ノ口駅で休憩して地図を確認し、千曲川を渡った先の海ノ口城を目指します。
大芝峠へ向かう道を進んで行くと、山へ入る手前に海ノ口城の表示が出て来ました。
そこからさらにバイクで進んで行くんですが、ややガレ場に近い道で、慎重にコケないように進んで行きます。
4輪ならまだ進めそうだったんですが、石畳の上に土が被っている感じの上り坂が見えたので、バイクで進むのを断念しました。
そこからは徒歩で進んで行きます。
少し登ると、少し広い駐車場のスペースがあり、そこからも緩やかな谷筋の道が続くんですが、城の入口としては、ちょっと緩やか過ぎますね。
かと言って居住空間のような感じでもなく、判断が難しい区画でした。
さらにそこから登っていくと、峰の鞍部のような場所に出るので、そこを右手に折れて城へ向かいます。
道は、尾根筋の緩やかな登山道に。
 
 
途中には堀切らしき窪みもありました。
道は主郭部の下段へと出ます。
 
 
そして本丸。
 
 
城址碑と説明板があります。
防御の一端を成したであろう屏風岩が荒々しくていいですね。
屏風岩の裏は断崖です。
 
 
説明板は、かすれてて解読に時間が掛かりましたね笑
 
 
本丸の先には物見台のような場所があり、東屋が建てられていました。
 
 
休憩にはちょうど良かったですね。
この東屋の先には大堀切が。
上から覗くと、なかなかの迫力がありますね。
 
 
しかし、2千人が籠ったという城にしては、削平地が少ないです。
2千人が籠れる規模というのは、ある程度の動員兵力のある豪族の城ということになりますが、海尻城との近さを考えても、そんな領主がここに在ったとは考えにくく、海尻城の支城としての境の城だったのでしょう。
それなら、このお城の規模感も理解できますね。
 
海ノ口城を出て国道141号線に戻り、北上すると、すぐに海尻城の案内が見えてきます。
もう少し北かと思っていたので、こんなに近いのかとびっくりしましたが笑
ガッツリの山城であれば、時間の関係でスルーしようかと思っていましたが、見た目が数10m程度の山だったので、散策して行くことにしました。
城の南に大きな駐車場が用意されているので、そこにバイクを止めて散策開始。
近くの国道脇には諏訪社があり、この辺りが三ノ丸だそうです。
国道を挟んだ東側も三ノ丸ですが、こちらは住宅地になっていますね。
 
 
城への入口は北の医王院にありました。
 
 
中腹には峰筋に小さな削平地が造られています。
 
 
そして本丸。
 
 
本丸は3段構成で、最後部には碑が建っていました。
 
 
碑の所から見ると、3段というのがよく解ります。

 
海尻城説明板。
 
 
本丸の先にも遊歩道が続いていた形跡があったのですが、藪化していたので、そこは断念しました。
残っている部分は本丸だけですが、なかなか良いお城でしたね。
 
つづく
  
参考: