2022年6月13日月曜日

曽我兄弟の仇討ち

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が、曽我兄弟の仇討ちの回まで来ましたね。
言わずと知れた、日本三大仇討のひとつです。
この事件が起こったのは、建久4年(1193)。
鎌倉時代の始まりは、昔はイイクニの1192年、今はイイハコの1185年になっているそうですが、いずれにしても鎌倉幕府成立後で、奥州藤原氏もすでに滅び、次第に幕府が盤石となりつつあった時です。
そういう中で起こったこの事件。
今までは外向けの戦いの連続だった頼朝政権が、そのエネルギーを内向きの権力闘争に転換する起点だったように感じますね。
 
曽我兄弟の仇討ちの経緯はと言うと、ドラマの中での癖の強いじいさまとして描かれていた伊東祐親が、祐経の領地を押領した事に始まります。
祐親は、本来の嫡流筋である自分を差し置き、祖父の養子の子である祐経が伊東荘を相続したことに不満を抱いていたようで、押領だけでなく、祐経に嫁いでいた娘も離縁させてしまいました。
武士としての存在を全否定されたに等しい処置と言えるでしょう。
祐経は、当然ながらこれを恨み、祐親を襲撃するんですが、祐親を討つことはできず、その嫡男河津祐泰が討たれてしまいます。
この祐泰の子が、祐成と時致の曽我兄弟というわけですな。
まさに恨みの連鎖。
そして、祐の字のゲシュタルト崩壊。
う~ん、赤松氏を調べた時に似たような記憶が・・・
まぁそれはともかくとして、この事件は、表向きは仇討ちとして知られていますが、異説として、時政が黒幕となって頼朝の暗殺も企図していたというものがあります。
仇討ちを成した後、弟時致が頼朝の寝所に侵入して捕らえられたことや、北条時政が烏帽子親になっている点からのようですが、「鎌倉殿の13人」では、なんと頼朝暗殺がこの事件の本当の目的で、仇討ちは後付けの表向きの理由として描かれました。
しかも、時政は知らなかったという形で。
これは意外でしたね。
そう持ってくるか、と。
上総広常の誅殺の時もそうでしたが、ここでも、関東の開発領主たる御家人と鎌倉政権中枢の意識の差や確執を散りばめており、この先、幕府が合議制へと変化していくのに、重要な要素となって行くんでしょう。
要因に諸説がある事件を使って、歴史の大筋を変えずに伏線を張っていく演出は、さすが。
そして、忘れちゃいけない、スケベ心丸出しの頼朝神回避。
頼朝と義時のやり取りは、今までの大河視聴歴の中で一番面白かったかもしれません(笑)
 
ドラマも後半戦。
幕府草創の功臣はまだまだ健在で、これから幕府内で主導権争いを繰り広げ、淘汰されていくわけですが、そういう人気の無いドロドロの部分をどう見せるのか、どう持っていくのか、展開が楽しみです。
 

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