夏の台風の傷跡は生々しかった・・・
南郷城のある永吉の集落を後にして、真っすぐ西方向に道をとり、国道270号線へと復帰し、更に北上していきます。
伊集院の一宇治城、市来の鶴丸城など、薩摩の戦国史を語る上で重要な城がすぐ近くにあるんですが、取っている宿が出水なのと、今回寄っておきたい城を考えると、ちょっとペースを早めないとさすがにきつくなってきました。
伊集院も市来も、高速がすぐ近くを通っているから、鹿児島からすぐ行けるやん・・・鹿児島はフェリーでまた来れるやろ・・・ということで、メジャーなこの2つの城を諦め、前回は場所が確定できなかった串木野城へ。
市来の鶴丸城の数km西を通り、大動脈の国道3号線に合流すると、左手に神村学園が見えてきます。
予備知識も無かったので、「おぉ!あの強豪の神村学園やん!」とメットの中で叫んでしまいました。
結構便利な所にあるんですね。
いや~びっくりしましたわ(^^;)
神村学園を過ぎると、いよいよ串木野の市街地に入ってきますが、串木野駅に至る手前の県道39号線で右に折れて北東に走り、大きく右に曲がる辺りが串木野城です。
さて、散策するかと、バイクを止め、小山となっている城跡の付近を歩いてみたんですが・・・入る道が無い。
目の前に城のある山は見えているのに、入る道が無いんですよね。
全景はこんな感じです。
元々は薩摩平氏の河辺一族だった串木野氏が開拓領主として在城したようですが、ご多聞に漏れず、南北朝時代に島津氏が城を奪い取りました。
城の構造としては、鹿児島によく見られるシラス台地の群郭式の城だったようで、地名として串木野駅付近に浜ヶ城という地名が残っていますが、これは出城らしいですな。
五反田川の湾曲部を利用して東と北の堀として使い、6つの郭と3つ展望所、更に3つの出城を擁していたというから、かなり大きな城だったようです。
で、どこから入ればいいのやら・・・
一応、情報としては、郭のひとつでもあった東の南方神社辺りから主郭へと入れるとのことでしたが、入口はあったものの、もの凄い竹藪で入ることはできませんでした。
その後、ぐるっと1周してみましたが、他に入口らしき場所は無し。
ただ、外郭の切岸として使われたという崖と、説明板だけはありました。
外城制度となった江戸時代は、城跡に地頭屋敷が置かれたようですね。
ちみなに、石垣は明治時代に築かれたもの。
城には入れなかったけど、地頭屋敷跡は散策できたし、説明板も確認できたから良しとするか。
串木野を出たのが15:30過ぎ。
秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので、神戸よりも日の入りが20分ほど遅いとは言え、もう既にこの時間で濃厚に夕暮れの気配が漂っています。
先を急がねば。
串木野城からは、串木野I.C.が目と鼻の先ということで、南九州自動車道を使って時間節約。
次に目指すのは、隈之城こと二福城で、薩摩川内都I.C.まで1区間使い、その後は国道3号バイパスへ。
バイパスに入ってすぐの立体交差で降り、細い道を北東へ辿って行くと、隈之城駅の脇を抜けて旧国道3号線を過ぎて隈之城小学校へと出るんですが、その手前で南の丘陵地の住宅街に入って行くと、二福城の城址碑がありました。
バイパスを降りた後は、完全にやらかしたと思ったほど路地的な道でしたが、バッチリ過ぎるぐらいバッチリの道程でしたね。
二福城は、元々は串木野城と同じく薩摩平氏系の薩摩氏の城で、恐らく串木野城と同様に南北朝時代に島津氏が奪い、やがて総州島津家の城となっていたようです。
この総州島津家というのは、貞久から薩摩守護職を継いだ師久の系で、川内の碇山城を本拠としており、ほど近い隈之城もその勢力範囲だったわけですね。
しかし、師久の子伊久とその子守久の間で対立が起き、同じく貞久から大隅守護職を継いでいた奥州島津家の氏久の子元久、つまり伊久の従兄弟にあたるわけですが、その元久が仲裁したことで薩摩守護職は元久に譲られました。
とは言っても、仲裁だけで守護職を譲るわけもなく、交換条件として元久は伊久の一族から正室を迎えたわけですね。
これで総州家の血と影響力が残せると伊久は思っていたはずですが、やがて元久は正室を離縁してしまい、これによって伊久と元久も対立していきます。
また、この頃、元久は日向に派遣されていた弟久豊とも、対伊東氏の政策で対立するようになりました。
なかなか複雑ですね。
「久」がゲシュタルト崩壊しますな。
その後、伊集院氏も入って対立が先鋭化し、奥州家によって総州家は滅ぼされてしまうんですが、二福城は、総州家にとっては重要な城で、伊久の子で守久の弟にあたる忠朝が一時期この城で戦っています。
しかし、前述のように応永28年(1421)に落城し、島津宗家となった奥州家の城となりました。
この後、城は入来院氏に与えられたものの、島津四兄弟の叔父にあたる重朝が謀反の疑いで罰せられたことから、入来院氏は島津家に叛旗を翻し、永禄12年(1569)の年末に降伏したことで、再び島津宗家の城に戻っています。
そして、四兄弟の末っ子である家久が、地頭を10年間務めていることから、隈之城や川内は相変わらず重要な土地として認められていたんでしょう。
しかし、その城も今ではすっかり住宅地に変わってしまっていて、遺構の類はありませんでした。
あるのは、子安地蔵のところに城址碑のみ。
城址碑には説明文も刻まれています。
その隣にある子安観音の由来。
城址碑があっただけマシとしないと。
つづく
参考:
串木野城
二福城
地図付きはこちら
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