2020年1月17日金曜日

鹿児島熊本ツーリング その3

前回のあらすじ
 
木田原城は地図にプロットしてあるのに現地に気配が全く無い!
 
鹿屋の市街を出て、東に進んで行くと、台地の上に新しい市街地が見えてきます。
地図を見ると、この辺りは比較的新しい区画のようで、整然と縦横に道が切られていました。
そして、道沿いには大きな店舗がそこそこあって、今や全国各地の郊外に見られるような見覚えのある光景となっていますね。
2001年に来た時にはもう夜だったので記憶は全く参考にならないんですが、合理化が進むと大規模化と均質化が進むんだなぁというのを走りながら感じました
よく旅行に行く人間としては、各地の特色が無くなって行くというのはちょっと寂しいんですけど、生活している人にとっては、便利さには代えられないですしね。
そんな鹿屋の新市街を東端の辺りまで走り、南に折れ、南東方向に進んで行きます。
目指すは、かつて日没サドンデッドとなった高山城のリベンジ。
国見小中学校の付近から、高山川を越える辺りは広く綺麗な道から旧道へと変わる場所なんですが、なんとなく見覚えがあり、当時より旧道の区間が短かったですね。
高山川を過ぎれば城はすぐで、左手に見えてくる旧本城小学校が目印です。
 
高山城は、言わずと知れた肝付氏の居城で、その中でも英主であった兼続は、他の大隅の豪族達の盟主となり、大いに島津氏と争いました。
その兼続の嫁さんが、島津忠良の娘である御南というのは割と有名で、島津氏と対決するにあたって離縁を迫る兼続に対し、御南は頑なに拒否したという逸話があります。
この辺り、薩摩女の意志の強さを感じますね。
ただ、戦国時代の血縁関係というは何とも複雑だなと思うのは、兼続の妹が忠良の嫡子で島津宗家を継いだ貴久の初期の正室となっていることです。
つまり、争った兼続と貴久は、二重の義兄弟なんですね。
貴久は島津四兄弟の上3人を生んだ雪窓夫人を、継室として入来院氏から迎えていますから、争った頃には恐らく兼続の妹は亡くなってはいるんですが、濃い親戚であることには間違いない。
更に、この雪窓夫人の出身である入来院氏には、兼続の別の妹が嫁いでいます。
雪窓夫人の甥重嗣の正室ですね。
おまけとして付け加えると、兼続から島津氏との争いを引き継いで戦った兼続の嫡子も、忠良からの偏諱を受けて良兼と名乗ってますな
もう世代すら跨ぐ複雑さで、整理が追いつきませんわ。
 
何だかんだ話がずれましたが、旧本城小学校の校庭にバイクを置いて、いざ散策スタート。
まず出迎えてくれるのは、旧小学校の校庭の端にある案内板。
 
 
縄張図もあって、なかなか親切ですな。
このすぐ後ろに馬乗馬場という碑が建っているので、城外にも馬場があったんでしょう。
縄張図では、城内を分断するようにも馬場がありますね。
城へと進んで行くと、大手口という碑があり、そこからいよいよ城内。
最初に、本丸方向へと向かう道と、湯沸場という区画へ続く道に分かれています。
まずはその湯沸場へ。
湯沸場は、大手口からそれほど標高差の無い郭で、朽ちた説明板によると、往時は馬乗馬場や大手口付近の士小路が一望できる水源地兼炊事場であったようです。
 
 
今度は、来た道を戻って本丸方向へ。
なんとなくしか分からなかった三ノ丸とされる段を左に見ながら進むと、大来目神社と球マ?(王へんに麻)屋敷の段があります。
この段は2段構成でした。
下段から神社のある上段への階段。
 
 
そして、大来目神社のある上段。
 
 
左手に見える神社の後背は、なかなかきつい切岸になっています。
その切岸の先には山伏が籠ったという山伏城。
 
 
なかなか広い郭ですね。
山伏城の南は二ノ丸ですが、この山伏城と二ノ丸の間に大手門があったようです。
 
 
この向こう側には堀切がありました。
シラス台地は台地と平地という構成が多いので、台地の下の動線は割と平坦な場合が多く、明確に堀切という形で動線が遮られているのは珍しいですね。
続いて、本丸西側の二ノ丸。
 
 
ここもかなり広い。
さすが大隅をまとめ上げた肝付氏の城だけあります。
次は、本丸北西側の桝形城。
この郭は2段構成で、防衛的に重要な機能を持たされていた雰囲気のある郭でした。
下の写真は上段。
 
 
そして、中核たる本丸。
本丸だけは、虎口付近が桝形になっていました。
桝形の登場年代から考えると、肝付氏が斜陽になってからの改修の可能性が高そうです。
下は、本丸へと続く道の桝形。
 
 
本丸内部。
 
 
縁辺の土塁も明確ですね。
本丸から先に進むと、馬乗馬場という区画に出ます。
 
 
この先には奥郭というが続いているんですが、藪の為に散策を諦めました。
高低があまり無さそうなので、家臣の居住区域だったのかもしれませんね。
規模としては、この馬乗馬場までの主郭部分と、この奥の奥郭群で同じぐらいのようです。
この奥郭まで城の範囲として考えると、大隅でも屈指の規模になりますね。
さすがですわ。
 
つづく
 
高山城
地図付きはこちら
 

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