2017年2月28日火曜日

厄落としツーリング その8

前回のあらすじ
 
日の出、早ぇよ・・・
 
大崩海岸で断崖を堪能した後は、通行止めなのでUターンし、国道150号線に戻って西へ西へ。
この辺りはバイパスの4車線で、海沿いの大動脈という感じがします。
そのバイパスも焼津市街を過ぎると途切れ、右折と共にまだ拡張されていない普通の道になるんですが、その途切れる手前のコンビニでお茶を買って休憩していると、軽トラの60前後の方に声を掛けられました。
恒例の何cc?という話から、実は自分もバイク乗っているという話に。
モンキーという50ccのバイクがあるんですが、その人はモンキーをカスタムするチームみたいなものに入ってるらしくて、60万以上掛けてカスタムしているとのこと。
モンキーの値段は知らんけど、50ccやから30万前後ぐらいと考えると、倍のお金をカスタムに掛けてるわけで、凄いもんですな。
そのチームの中にはバイク屋もいるらしく、そのバイク屋さんが職権乱用的に自分のモンキーのエンジンを4発に替えたとか、4発にしたらトルクありすぎてウイリーしてこけて走行不能になったとか、挙句にそれぞれの写真を見せられたりしました。
そこまで興味無ぇよ。
大型に乗ってるものの、前車のリッターバイクからずっとどノーマルで乗り続けてる私には興味のないお話でございまして。
倍もお金掛けてるのか、という所で終わってれば、凄い人もいるもんやなぁという感心で終わってたのに、くどい印象が残ってしまいました。
おやじあるある。
自分も気を付けねば。
 
コンビニへ寄ったのにはもうひとつ理由がありまして、いつもスマホを充電しながら走ってるんですが、その充電ケーブルを出し忘れたので、充電する為でもあったんですね。
ところが、そのケーブルがどこを探しても見つからない。
もしや宿に忘れてきたのか?
うむ。困った。
最悪、どこかの電気屋か100円ショップで調達せなあかんな・・・
そんな懸念も持ちつつ、コンビニから先もひたすら国道150号線で進んで行きます。
大井川を越え、更に1kmほど走った先でやや鋭角に右折。
すると、平野部にこんもりと盛り上がった丘陵が見えてきますが、その先端部が能満寺山公園という公園です。
ここが、目的地たる小山城という城跡なんですね。
なぜか二ノ丸跡にですが、立派な模擬天守も建っています。
この城は、諏訪原城と同じく大井川西岸の根拠地で、遠江南部の要衝高天神城の補給拠点でもありました。
その為、幾度か武田家と徳川家の間で争奪戦が起こっています。
バイクを止めて城に登って行くと、まず目につくのが復元された大手の冠木門。
 
 
この門をくぐってすぐの右手には、この城の最大の特徴である三重堀の一番外側の堀が見えます。
 
 
往時は水堀だったんでしょうか。
写真左側に少し見える窪んだような部分が二重目の堀です。
ただ、鬱蒼としてるので、遊歩道から見ても見にくかったですね。
この脇には、山本勘助の声が掛かっているという勘助井戸。
 
 
ただ、山本勘助が討死したとされる第四次川中島の合戦は永禄4年(1561)。
この城が武田家によって大改修されたといわれているのが元亀2年(1571)ですから、どう繋がっているのかよく解りませんけどね。
ここから更に奥に進んで行くと、更に堀があります。
 
 
ここは掘り返したような感じですな。
草もないので、放置されていた堀底が埋まったという感じにも見えません。
往時も空堀だったんでしょうか。
この場所から見上げると、模擬天守がありますが、何故か二ノ丸に建っています。
そして、その二ノ丸と本丸の虎口は、これも武田家らしい丸馬出と三日月堀。
 
 
ここはしっかりと保護されていますね。
さらに、その橋を渡ると本丸。
 
 
本丸には、縁辺の土塁跡も健在です。
 
 
最後に、模擬天守からの景色をば。
 
 
周囲からモッコリ盛り上がった丘陵であることがよく解りますね。
近代風の史跡公園になっていますが、残っている部分はしっかり残ってて、ちゃんと保護されているという良いお城でした(^^)
 
つづく
 
参考:
小山城
地図付きはこちら
 

2017年2月21日火曜日

厄落としツーリング その7

前回のあらすじ
 
本丸の厄落とし完了じゃ!
 
ツーリング1日目の宿は、駿河健康ランド。
富士山スカイラインからひたす真っすぐ戻ると、県道76号線という道に出ます。
富士川の右岸、蒲原から由比、興津にかけては、山塊が海にせり出した東海道の難所で、その中でも興津側にある薩タ山は、何度も戦場になるほど重要な場所でした。
その難所の中ほどに向けて、この県道がズドーンと延びてるんですね。
ショートカットとしては最適なんですが、難所を縦に貫く道だけに、結構な険しさの道でした。
日暮れ後の夕闇が迫る中で、その道を乗り越え、興津の駿河健康ランドに着いたのは18:40頃。
駐車場には警備員の方がいるんですが、手慣れた様子でバイクを誘導してるのを見ると、自分みたいなライダーがよく利用してるんでしょうな。
取りあえず個室に入って一休み。
そして、お風呂へ。
健康ランドと銘打っているだけに、浴槽の多彩さは流石。
露天風呂は、地下からの汲み上げという古代水で、まぁ温泉みたいなもんですかね。
少し驚いたのは、ここは男女の浴室の間に温水プールの区画があったこと。
往年の健康ランドっぽい構造をしてます。
施設の歴史を見ると、昭和に遡れるような古さがあるわけではなくて、健康ランドと、温泉旅館の良い所取りをした感じでしょうか。
駐車場から浮き輪を担いで入ってくる子供を見た時には、
ここで何が始まるんや?
と思いましたが(笑)
 
入ろうとした食堂の1時間待ちを回避した以外は、駿河健康ランドでとても快適に過ごし、ぼちぼち明日の出発を計画するかと思った時に、ちょっとした問題に気付きました。
何も考えていなかった事前の計画では、やっぱり富士山と朝日かな?ということで、三保の松原から日の出を拝む予定をしていたんですが、ふと日の出時刻を見ると、5月に入るともう4時台なんですよね。
5時前に三保の松原→ということは4時半には出発→つまり4時過ぎには朝風呂を上がっておく→つまりつまり3時半起き?
そんなのムーリーー
もう22時やっちゅうねん!
1日走り続け来たおっさんが、5時間睡眠で耐えられるわけなかろう。
という事で、三保の松原日の出ツアーは断念しました。
その代わりに、駿河健康ランドでしっかり日の出を確認(^^)
 
 
海が一望やし、なかなか良い日の出ですわ(^^)
朝風呂も浴び、気合を入れて三保の松原へ出発!
興津から国道1号線、国道150号線で向かうわけですが、江尻城へ行った時に下車した懐かしの清水駅前からは、Kawasakiさんちの山梨ナンバーR14と臨時のランデブー。
やっぱりメガスポは加速が違うねぇ
お互い、遠方からやって来て、土地勘も無い場所で一緒に走ってるという一期一会がなんか楽しかったわ。
決して話し掛けたりしませんけども(^^;)
R14とは三保半島の入口で分かれ、自分は三保の松原へ。
6:20という早い目の時間でしたが、観光客はチラホラといました。
取りあえず、松原と海岸と富士山で1枚。
 
 
富士山が霞んでてとても薄いのが残念・・・
でも空は快晴なんでおマケしとくか。
この三保の松原には、羽車神社というのがあります。
 
 
すぐ近くにある、羽衣の松のすぐ近くにある神社ですね。
下は2代目羽衣の松。
 
 
羽車神社は、公的には少し内陸にある御穂神社の離宮なんですが、よくある羽衣信仰と地生えの神様が習合したものでしょうか。
ここに、はごろもフーズの寄進したものが色々とありました。
鈍い話なんですが、これを見て、はっと気付きました。
このはごろもか!
もっと早よ気付けよ・・・
清水と言えば水産加工の会社がいっぱいありますからね。
世紀の秘密に気付いてしまったわい。
 
三保の松原を出て、次に向かうは真崎。
三保半島という砂嘴の北の端っこです。
端っこハンターとしては、ぜひ寄っておきたい。
と偉そうに言っても、三保の松原から5分と掛からないんですけどね(^^;)
しかし、真崎に近付くにつれて東海大学関連の施設ばかりが目に付きます。
ここは東海大学の飛び地か!?
そんな思いを胸に、先っぽまで道が無かったので、歩いて突端を目指しました。
 
 
取りあえず、ここでも富士山とセットで1枚。
ここは砂嘴による内海だけに、波も非常に穏やかでのんびりとしてます。
夏には海水浴で賑わうんやろなぁ
海水浴と言えば、雄大な海の景色のイメージですが、真ん前に工業地帯があるのも、またらしさと言えるかもしれません。
 
三保半島を出てた後は、先ほどの国道150号線を西南方向へ。
この道はずっと海沿いの道で、すこぶる快走路ですね。
朝の海風が気持ち良すぎる(^^)
途中、7:30頃に朝食の為にコンビニへ。
イートインがあったので助かりました。
ふと山側を見ると、なんと久能山が。
 
 
ここもかつては久能城という城で、家康没後はその遺骸が最初に埋葬された場所です。
今日は予定がいっぱいなので、階段上りは無理ですが、また寄りたいですな。
静岡なら、日本平と合わせて電車旅で来るのもいいかもしれない。
 
コンビニを出発し、引き続き国道150号線を西南へ。
腹も満たされ、快走でテンションが上がります。
こうしてアガってしまった結果、
登呂遺跡忘失。
こんな遠い所まで来て行き忘れるとか、抜け過ぎですわ。
次にいつ来れるか分からんのに。
あれ?そういえば登呂遺跡ってこの辺じゃなかった?って安部川越える頃に気付いたという・・・
仕方あるまい。
また久能山へ行く時に寄ることとしよう。
気を取り直して、そのまま西へ西へと向かいます。
この国道150号線は、海沿いを走っているわけですが、江戸時代の東海道は国道1号線のルートでした。
宇津ノ谷峠越えという道ですな。
今は国道150号線を始め、東名高速、東海道線、東海道新幹線はそろって日本坂トンネルや石部トンネルでほぼ同じルートを通り、今はここが大動脈ですが、国道1号線だけが不自然に離れているのは、そういう歴史的背景があるんですね。
ここ日本坂に限らず、難所と呼ばれる場所は時代時代でいくつかのルートがあり、それを辿るのも面白いものです。
そうこうしているうちに、バイクは用宗付近へ。
そして、広野の交差点から、海沿いの旧国道150号線へ向かいます。
何が目的かと言うと、大崩海岸。
脆い断崖絶壁の海岸です。
よっしゃ、断崖絶壁を見てやるぜと意気込んでいると、通行止めの表示が。
 
 
道路決壊!?
そんな表示初めて見たわ!
決壊って・・・
でもここまで来たので、行ける所まで行ってみるかと進んでみると、海上橋の所までは行けました。
事前情報も無く来てみたけど、後で調べたら、結構長い間、通行止めになっているらしい。
取りあえず、断崖絶壁。
 
 
海上橋の旧道が押し潰されています。
自然の威力は恐ろしい。
下は反対側。
 
 
この先に旧東海道本線が台風などで破壊された状態で放置されているはずなんですが、ちょっと行けそうにない。
でも、堤防上に敷かれていたという鉄路跡は、なんとなく遠目で確認できました。
しかし、人間の営みなんて意にも介さない自然の怖さはもちろんやけど、こんな所に道路や鉄路を通そうと頑張った人間の情熱も、また恐ろしいもんやわ。
 
つづく
 
参考:
駿河健康ランド
江尻城
三保の松原
真崎
大崩海岸
地図付きはこちら
 

2017年2月16日木曜日

厄落としツーリング その6

前回のあらすじ
 
諏訪原城は凄かった・・・
 
諏訪原城の後は、更に東へと進んで花倉城に行こうと思ってたんですが、そのまま新東名高速に戻ると、藤枝岡部I.C.ではちょっと行き過ぎてしまうんですよね。
ま、時間的にも順調に来てるので、国道1号線ならバイパスやしそんなに時間も掛からんやろと、国道1号線に入りました。
これが大失敗!
牧之原のトンネルを過ぎるまでは順調だったんですが、下りの直線の部分から渋滞にハマり、大井川を渡るまでの長い事長い事。
車線の拡幅が終わってないから、まさにボトルネックになってるんやね。
こんなに分かり易いボトルネックは久しぶり(^^;)
おまけに、GPSロガーでルートを取ってたんですが、直射日光でスマホの温度が上がって充電できなくなるし、もう大変でした。
そこを抜けてもちょっとした渋滞があったりで、国道1号線はなかなか手強い。
ようやく藤枝バイパスにまで辿り着き、薮田西I.C.でバイパスを降りて北へ。
葉梨小学校の所から西へ入って花倉川という細流沿いを北西方向へと入って行きます。
ため池を越えた所から茶畑農道へ入り、急坂を上って行くわけですが、この道のりが相当長かった。
途中、完全に軽トラ1台分の幅しかなくなって、もし車が来たらどうしようかと思ったり、あまりにも遠いので、ほんまに着くんか?とドキドキしながらでしたが、城への道しるべが要所要所にあって、迷うことなく到着しました。
農道の突き当たりに駐車スペースがあり、乗用車なら1台分、軽自動車なら2台分というところでしょうか。
なかなか険しい城ですね。
この城は、今川氏輝死後の家督争いである天文5年(1536)の花倉の乱の舞台として知られていますが、築城は古く、今川範氏が葉梨荘へ入部した文和2年(1353)に、守護所の詰城として築かれました。
当時は、南北朝時代真っ只中ですから、険しい地形を防御力の源泉とする典型的な中世山城です。
なので、利便性なんて考えちゃいねぇ!
でも、下から登山だと1日仕事になりますから、あれだけ農道を走らされても文句は言えない(^^;)
というか、有り難いですわ。
まずは、駐車スペースの所に案内板。
 
 
尾根筋を軸とした典型的な姿をしていますね。
農道突き当りから城へと入ると、まずは大きな土橋があります。
 
 
この土橋の横には削平地があり、恐らくこちらは搦手になると思うんですが、防御施設か番所のようなものがあったんでしょうか。
ここを越えると上りになり、段郭を横目に進んで行くと2本目の土橋があります。
 
 
この2本目の土橋そこを過ぎると堀切があり、大きな二ノ丸。
 
 
二ノ丸の下にも削平地がありました。
二ノ丸の虎口部分には堀切もあります。
この堀切は竪堀として続き、麓へ落ち込んでいました。
 
 
二ノ丸の北側には帯郭。
 
 
そして、本丸。
 
 
全体的には、詰城らしく、居住性をほとんど考慮しない構造ですね。
防御施設そのものという感じの城でした。
 
次は、いよいよ今回の目玉である厄落とし。
日本一の霊峰を拝むぞ!
花倉城からは、新東名高速まで下りてきたところで、その側道に入り、藤枝岡部I.C.へ。
この辺りの細い道も、スマホにはちゃんと載ってるので楽勝です。
静岡S.A.で本日初めての給油をし、バイクにも飯を食わせて準備万端。
意気揚々と新富士I.C.へ。
しかししかし、新東名高速から降りたはいいが、国道139号線が見当たらない。
あれ?あれ?なんて言ってるうちにあらぬ方向へ・・・
どうなってんねんと地図をよく見ると、国道139号線は西富士道路のことらしい。
マジかよ!どうりで西富士西富士と出てくるわけだ。
この後、なんとか西富士道路へ戻ろうと画策するものの、途中から入る道なんて無い上に、並走する道路もない。
というわけで、地元の抜け道ドライバーをストーキングしながら、なんとか西北へ西北へと走り、富士山スカイラインへと入る交差点の少し手前で、ようやく国道139号線に入ることができました。
後は富士山スカイラインをどんどん上るだけ。
夕方からならアタックする車は少ないだろうとの予想も当たり、ひたすら快走路が続きます。
登山道路区間に入る交差点で完全冬装備に替え、そこから更に上って行くと、ようやく富士山五合目に到着しました。
 

この日は頂上に雲も掛からず、なかなかの良い天気(^^)
とは言え、中腹にガスは出てましたが。
取りあえず、予定の時間よりはちょっと遅かったけど、なんとか17時前に到着したので満足ですわ。
ひとまず富士山を拝んで勝手に厄払いをし、閉店準備の土産物屋で土産をゲット。
しかし、ここから見る富士山は、5合目付近が森林限界というのもあって、岩ばかりの無骨な火山やねぇ
果てしなく荒々しくて黒い。
なんとも言えない畏怖を感じますな。
この時期、富士山はまだ山開き前で、登山道は下のようにバリケードされていたんですが、写真撮影スポットと思われる五合目の碑は、そのバリケードの内側でした。
 
 
下の写真で、階段を登った先の場所。
案内板以外は人工物が入らず、頂上が撮れるそうな場所です。
 
 
日本人は、おとなしくバリケード手前の所で撮影していたんですが、中国人観光客はバリケードの中へズカズカ入って行って、余裕で案内板の所で写真撮影していましたね。
さすが中国人といったところでしょうか。
そんなんええんか?というのが日本人としての感想ですが、あの国は人口が多いから、自分のやりたいと思ったことは周り関係なくやらないと埋没してしまうという民族性があるのかもしれませんね。
色んな意味で強いわ(^^;)
ま、兎にも角にも、これで自分的厄落としは完了です。
めでたしめでたし!
いや、旅はまだ終わらんけども。
 
つづく
 
参考:
花倉城
富士山スカイライン
富士山
地図付きはこちら
 

2017年2月8日水曜日

厄落としツーリング その5

前回のあらすじ
 
茶畑を抜けた先にある天方城。
これが茶畑ツーリングの始まりになるとは、まだ知る由も無かった・・・
 
気が付けば2月8日。
個人的に思い入れのある日ですが、ま、それは置くとして、年末年始もあって書きたいことが多くなり、ちょっとしばらく飛んでしまいました。
ぼちぼちと旅日記を再開しますかね
早くせんと、花粉症が来たらもう春やしな!
 
前回は諏訪原城に到着したところまででしたが、この城、兎にも角にも雄大です。
甲斐武田家の武田勝頼の時代に、遠江進出の拠点として大井川の水運を利用すべく流域に築かれた城のひとつですが、後に徳川家が奪取し、関東に移る頃に廃城となりました。
廃城後は原野に還った為、何よりも史跡の残存具合が素晴らしい城です。
泰平の時代の牧之原台地は、台地だけに水運も悪く、里山として使われる程度でした。
干拓されて茶畑になるのは明治時代以降の事なんですが、なかなか利用し辛い土地だったのが幸いしたんですね。
今の諏訪原城は、駐車場も整備され、非常に訪れやすい城になっています。
 
 
まず駐車場に案内板。
縄張が色で綺麗に示されていて、とても解かり易い。
マイナーに城へ行くと縄張図が無かったりしますから、全体像を掴むのに苦労するんですよね。
非常にありがたい(^^)
駐車場の横には大手南外堀があります。
 
 
写真右手の窪みがそれ。
駐車場とその付近の茶畑は、大手曲輪とそれに付随する武家屋敷などがあった場所で、台地上の平地となっています。
この辺りは視界が広く平坦で、雰囲気としては凄く近世的な趣がありました。
ここから、諏訪原城の目玉である巨大な丸馬出へ向かいます。
 
 
まず、左手に茶畑へと開墾された大手曲輪が。
その一角には、今福浄閑の戦死跡という碑。
 
 
ただし、これは伝承に過ぎないようです。
史料上では、今福浄閑斎は諏訪原城陥落後も活動が見られ、久能城で討死したようですな。
ま、こういう史実かどうか分からないという碑も、史跡には付き物と言えますね。
この大手曲輪を過ぎて歩いていくと、大手北外堀がありました。
 
 
駐車場付近の南堀と、この北堀の間の方形の区画が大手曲輪です。
この大手曲輪周辺は、徳川時代の拡張によってできた部分ですね。
北堀の右手は林になっていますが、往時はここに武家屋敷が並んでいました。
ここを過ぎて進むと、諏訪原城の立派な城址碑と大きな案内板があり、いよいよ丸馬出が見えてきます。
 
 
ドーン!
と言いたいところですが、写真じゃ迫力が伝わらん・・・
柵の向こうが丸馬出の空堀なんですけどねぇ
穿たれた!というような高低差と平坦地のコントラストがあったんですけど、普通の農地の写真みたいになってるな・・・
この中馬出の左手には、北馬出があります。
この北馬出の空堀も見事ですね。
綺麗な薬研状でした。
 
 
北馬出と中馬出の間は土橋状になっています。
 
 
これらの馬出を越えて中心部へ入ると、諏訪原城の二ノ曲輪と呼ばれていた二ノ丸です。
下は二ノ丸の南側部分。
 
 
この左手の二ノ丸外側の外堀も規模が大きい。
 
 
所々石材が斜面に転がってましたが、往時は部分的に石垣だったのかな?
何にしろ、壮大な切岸ですね。
二ノ丸の中に入ると、やたらめったらだだっ広い平地。
規模の大きさが凄い。
何人ぐらい籠れるんやろか。
二ノ丸から奥に進み、内堀の空堀と土橋を渡って奥に進むと本丸です。
下は本丸から見た内堀。
 
 
本丸も広いですが、こちらは変哲もない方形の郭という感じ。
 
 
本丸には櫓台があります。
天主台地となっていますが、境の城だけに天守があったかどうかは不明。
治所としての城でもないですしね。
 
 
本丸の崖側には搦手。
搦手郭なる区画がありました。
 
 
搦手郭を上から。
こちらは崖側なんで、非常に重層的ですね。
山城のような感じで、こちらもまた良し。
 

 
本丸に再び戻って、反対側から本丸の眺め。
 
 
本丸からは、大井川と島田市街も見えます。
 
 
本丸から再び二ノ丸へ。
二ノ丸中央部へと繋がる部分には、水の手であるカンカン井戸があります。
 
 
ここから崖側へとつながる谷筋には、水之手曲輪が。
下まで下らず、上から見ただけですが、木々から漏れる陽光が反射する部分があって、今でも水が溜まっている部分があるようです。
 
 
水之手曲輪から上がると再び二ノ丸。
その二ノ丸にはいくつかの馬出が繋がっています。
下は二ノ丸東馬出。
 
 
そして二ノ丸東内馬出。
 
 
最後に、諏訪原城の名のもとになった諏訪神社。
ここも馬出で、大手馬出という名前。
 
 
その証拠に、三日月堀が周囲にあります。
 
 
いや~ええ城やわ~
よくこんだけ残ってたもんだ。
満喫したわ!
良すぎて、なんか写真紀行みたいになってしまったけど(^^;)
 
つづく
 
参考:
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