2015年11月30日月曜日

伊勢湾周遊 その3

前回のあらすじ

最近、上野樹里をあまり見ないのは大河の低視聴率のせいなんかな?
でも応援してるぞー!
 
草野球の集まりの人達がBBQの下準備をしてるのを、ええなぁと羨みつつ青少年公園を後にし、次は鳥羽方向へと向かいます。
来た道を戻って国道23号線のバイパスへ出て津市に入り、津I.C.から伊勢道へ。
津I.C.は松阪へツーリングに来た時も使った所で、なんだか景色が懐かしかった。
今回は、その時に近いけど行く時間が無かった田丸城へ。
地図をよく見ると、勢和多気で伊勢道から分かれている紀勢道が、知らない間に尾鷲まで通じてて、行き易くなっているようですね。
丸1日掛けて、和歌山から国道42号線で延々と走ったのを思い出します。
その内に、三重と和歌山の海沿いが全部高速で繋がる日も来るんでしょう。
採算性はともかくとして、利便性と所要時間は格段に変わるのは間違いありません。
繋がったら、また来なくては。

そうこう物思いをしながら、意外と交通量の多い伊勢道をしばらく走り、玉城I.C.に到着。
ここからちょっと北上すれば、すぐに田丸城です。
とても行き易くてよろしい(^^)
田丸城は、南北朝時代に南朝の拠点として築かれた城で、その初期に南北での攻防が見られ、室町時代は北畠氏の伊勢門前町に対する拠点的機能を担っていたようです。
ただ、史料に登場する回数が多くなく、事跡は推測の部分が多いみたいですね。
戦国時代に入ると、信長の子で北畠氏に入嗣した信雄が北畠氏の影響排除を狙って一時拠点とし、この頃に石垣が整備されました。
しかし、それも5年ほどで火災に見舞われてしまい、以後は捨て城同然だったようです。
その後、豊臣政権期には蒲生氏郷の属城となって、北畠氏時代にこの田丸城主だった田丸直昌が城に戻り、江戸時代には稲葉氏、藤堂氏の属城、そして徳川家紀州藩成立後はその附家老久野氏が城主となりました。
城の御殿部分は、今は中学校になっているんですが、城に行ってみると、まず目に付いたのが俳句。
いや、川柳かな?
「さわやかな 部活の声や 三の丸」

 
縄張図に御殿が三ノ丸とは無かったんですが、地元の一般認識として三ノ丸なんでしょうね。
城跡の学校とか羨ましい・・・
この校門からすぐの所が城の入口で、主郭部が石垣で築かれ、あとの部分は土の城です。
これがなかなか重厚な石垣で、見応えがありますな。
まずは大手虎口付近の石垣。

 
非常に重厚でよろしいですな。
野面積で尚よろし。
この虎口付近から北ノ丸の石垣の姿もメリハリがあってなかなかの雰囲気。

 
北ノ丸の一部の石垣は、公園として整備した際に積み直したようですが、年月が経っているので、新しい部分と古い部分の区別はあまり見られません。
北ノ丸には、現在は稲荷社が祀られています。

 
北ノ丸から戻って本丸。
奥にあるのが天守台の石垣です。

 
この天守台、穴倉式なんですが、エントランスの階段が扇形で、とても特徴的。
ちょっと優雅な感じがしますね。
手前の階段部分がそうなんですが、穴倉式と両方入るように欲張った写真なので、あまり判らないか・・・

 
この天守台からの景色。
晴れてたら爽快なんでしょうけど・・・

 
反対側の本丸の南側に行くと、二ノ丸があり、その虎口は近世城郭らしく非常に立派でした。
それと、二ノ丸と北ノ丸には土塁がよく残っていましたね。
本丸は城壁が囲っていたのか、土塁は無かったようですが。

 
この日は中学校で陸上の競技会か何かがあったのか、二ノ丸には中学校のグラウンドを覗いてる夫婦の方が何組か。
静かな城跡の公園ですし、のんびり散歩がてら子供の様子を見に来られたんですかね。
穏やかな休日の風景でした。
田丸城の主郭部の東側は、帯郭というにはやや幅の広い細長い郭が2段あるんですが、下の段は北ノ丸の下の部分がなかなか見応えがありましたね。
大きな防御施設として、かなり大きな食い違い土塁があります。

 
近世城郭に改修された城で、こんな大きな食い違い土塁というのは珍しい。
もともとあったものを、改修の際に補強したんでしょうか。
また、北ノ丸の帯郭の切岸は、補強の為か2段になっていて、ここもちょっと技巧的でした。
石垣がなかなか良いとの評判を見てましたが、なかなかどうして、土の部分も良いお城でした。
満足満足(^^)
 
田丸城を出て向かうのは、鳥羽。
伊勢湾フェリーです。
何度か廃止の議論が出ており、まだある内に乗っておこうというのも伊勢湾ルートを選んだ理由でした。
この日は、特に何時の便に乗ろうというのは無くて、お城巡りに合わせて適当な便に乗るという算段。
1時間に1本ぐらいのペースで便がありますしね。
そういうわけで、伊勢道から、ETC使えんから手袋外して財布出して料金払ってまた財布仕舞って手袋嵌めなあかんのダルいやん!と思いながら伊勢二見鳥羽ラインを走り抜け、鳥羽市街へ。
フェリー乗り場に着いたのが12:25頃でした。
乗船券購入の時にサクっと時刻表を確認すると、次は13:00の船らしい。
15分前にバイクのところにスタンバっとかなあかんから、12:45には戻らなあかん。
ということは、20分の間に鳥羽城を見てご飯を買えっちゅうことやな。
そんなん無~理~
しかし、ここまで来て鳥羽城を見ない訳には行きません。
乗船券を買ったら、そのまま鳥羽水族館の裏を抜けて城ー向けてダッシュ!
行く手を阻むように近鉄志摩線が!
この辺りは線路を越える場所が無い。
なのでミキモト真珠島の近くまで行って、地下道で線路をくぐり、更に城までダッシュ!したかったけどジョグ止まり・・・
鳥羽城は海沿いの丘陵にある城で、主郭は丘陵上にありますが、その麓には三ノ丸があり、そこに説明板一式もありました。
案内図では、フェリー乗り場や横たわる鉄路の位置関係がよく解りますな。
果てしない遠回りですわ・・・

 
三ノ丸からは、ガッツで階段を駆け上がる!


え?何?これ部活?
おっさんにはとてもきつい・・・
そんなこんなで、本人的にはサラっと、周りから見ると恐らくグダっと鳥羽城を回り、再びジョグ!もとい早歩きで港に戻って船に間に合いました。
結局、昼飯は買えず。
船の中で売ってた菓子パンが、この日の昼食でした。
 
つづく
 
参考:
田丸城
鳥羽城
地図付きはこちら
 

2015年11月25日水曜日

伊勢湾周遊 その2

前回のあらすじ

中勢最大という安濃城は確かに最大っぽかった!
 
安濃城の次に向かうのは、上野城。
三重は伊勢、伊賀、志摩、紀伊の4ヶ国で成り立っていますが、上野城は伊賀にも伊勢にもある為、伊勢上野城とも呼ばれます。
位置は、安濃城から真東に6kmほど。
ただ、海岸線が北東から南西方向に走っている為、それに並行、もしくは直角に通っている道が多く、真東に進める道はありません。
なので、国道23号線のバイパスで北東方向に進み、国道306号線、更に市道から県民の森へ。
途中、止まって道を確認しつつ、伊勢鉄道をくぐり、本城山青少年公園へ向かいました。
ここが上野城跡です。
公園に入ると、青少年公園でありながら、青年と中年の方々が野球をしていました。
そんな区分はどうでもいいか(笑)
これは、どこかの野球部のOBか何かの集まりかな?
野球をした後にBBQをするようで、その準備も同時進行で進んでいました。
なかなか休日らしい光景なんですが、おかげで駐車場がいっぱい(^^;)
バイクのコンパクトさを利用して、端っこにこそっと止めさせてもらいましたわ。

上野城は、前回出てきた長野氏の城で、信長の弟で長野家に養子に入った織田信包が築かせた城です。
安濃津城が完成するまでの仮の本拠ですね。
信包が安濃津城に移った後は、分部光嘉が城を守っていました。
信包繋がりの話として、この城には浅井三姉妹が一時身を寄せていたという説がありますね。
ただ、他に織田信次が保護していたという説があることや、また、信包が保護していたとしても、この上野城のほか、岐阜や清洲の屋敷という説もあるなど、はっきりしたことはわかってないというのが実情でしょうか。
なぜ信包がお市の方や三姉妹を保護していたかというと、同腹の子、つまり母が同じだったからではないかといわれていますね。
幼少期も大人の女優さんが演じたり、史実がよく分かってないのをいい事に八面六臂の活躍をするというファンタジーが話題だった大河ドラマの「江~姫たちの戦国~」では、確か上野城に引き取られた描写をしてました。
ちなみに、このドラマ主演は上野樹里という女優さんで、城の名と名字が同じ。
そして、地元兵庫は加古川というこれまたよく行く所の出身であり、自分的にはこの城から連想せざるを得ない人ですな。
兵庫の人ですし、個人的には凄く応援しています(^^)
ちょっと話が逸れましたが、最近は大河ドラマを町興しに利用する空気があり、公園にも当然の如くお江に絡めた案内板がいくつかありました。
年月が経ってるので、ちょっとうらぶれた感はありましたが・・・
建てたりするのはいいんやけど、薄汚れたり壊れたりすると、すごく場末感が出るんですよねぇ
その時はいいけど、後々、マイナスなイメージのような気も。
ブームが去ったら放ったらかしではなく、維持しやすいように縮小再整備を行うといった事などは、ブームに乗った町興しの今後の課題でしょうか。

上野城の立地は、伊勢湾岸の城によく見られるような、海の見える台地を利用した城で、縄張も比較的シンプルとなっており、最高部の本丸を幾つかの郭が囲っている形となっています。
海方向に二ノ丸やそれに続く段があり、主に海沿いの監視や街道に向けた城ですね。
本丸には展望台が建っていました。

 
この展望台の2階は資料室になっているんですが、残念ながら訪れた時間は経費削減で開館していませんでした。
確か土日祝の数時間やったかな?
帰ってから調べてみると、9:00~16:00の年中無休とか書いてあった・・・
更新ちゃんとしろー!(笑)
ま、物好きしか寄らないんで、経費を考えると難しいのも理解できますわ・・・
この展望台から本丸と二ノ丸を写すとこんな感じです。

 
この広場の四周に土塁が確認できるので、なかなかよろしい。
広場の向こう側は切岸になっていて、2段の二ノ丸があります。

 
この遊具がある方が本丸側で、左手に見える木が段の区切りですね。
といっても数10cm程度しか差はありませんでしたが。
この二ノ丸から更に海側にもう1段下がって削平地があります。
縄張図では特に名前はありませんでしたが、監視目的なのは間違いないでしょう。
海の眺めが素晴らしい。
これで晴れてたらな~

 
つづく
 
参考:
伊勢上野城
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2015年11月17日火曜日

伊勢湾周遊 その1

天高く 馬肥ゆる秋 ぢっと腹見る。
・・・
ス、スポーツの秋っすよねっ!
というか、やっぱりツーリングの秋ですな!
今年の秋は暖かい日が多くて、バイク乗りには有り難い。
念願の宮崎にも行ってきました。
そんなこんなで、資料整理と共に春のツーリング紀行を。
は、春!?
と言いたい所はまぁ置くとして、5月に伊勢湾をグルっと周ってきました。
最初は、舞鶴若狭道が敦賀まで全通したから記念して北陸へ!なんて思ってましたが、新幹線開通で盛り上がってる北陸を見ると、ちょっと宿を取るのがやばそうやな、と。
で、金曜の夜から四国に行こうかと思っていたんですが、週間予報で日曜が雨の予報になり、日曜は耐えてさっさと帰るかと思っていると、前々日には土曜も雨の予報になってしまったので、雨の到達が遅くなる東が候補になりました。
天気予報を見てると、雨は西と北が早く、東海なら土曜日ぐらいは1日もちそう。
それなら、前から伊勢湾フェリーを使った伊勢湾一周をやりたかったし、帰りが雨でもほぼ高速で済むから比較的安全やし、このルートにするか!ということで、急遽、愛知に宿を取って出発。
急だったので、金曜出発を諦めて土曜早朝出発になりましたが、ま、距離もそう長くないし、そんなに変わらないかな。
しかし、今は滋賀県の宿泊費が高騰してるんですね。
少し調べると、京都泊がパンク状態で、滋賀に流れてるらしい。
数年前に、瀬田で朝食付き3400円というホテルに泊まったのも、今は昔ですな。
 
東へ行く時は毎回お決まりパターンで、大阪手前で1回、滋賀まで抜けて1回という休憩パターンがあるんですが、今回は阪神高速北神戸線から中国道へと入ったので、吹田S.A.ではなく名塩P.A.で1回目の休憩を入れ、名神高速、京滋バイパスから名神高速に再び戻って新名神という行程。
休憩を入れた名塩P.A.は拡張されていて、電気自動車用の電気スタンドがあって時代の流れを感じました。
次にいつも通り滋賀で休憩したのが甲南P.A.。
伊豆に行った時に、静岡から降られ通しのビチャビチャの状態で食べた黒ラーメンは美味しかった。
ここで改めて実食してみようというわけです。
で、やっぱり美味しかった(^^)
北関東と新潟のツーリングの時に食べた名神高速の黒ラーメンは、めっちゃ濃くて朝御飯としては胸焼けするぐらいやったけど、こっちはあっさりしてますわ。
おなじ黒ラーメンながら、えらい違いですな。
黒ラーメンを食べるなら、濃厚派は名神、あっさり派は新名神がいいかもしれませんね。

休憩後、新名神を東進し、新名神の四日市へ抜けるルートの工事を間近に見てテンションを上げつつ、いつも北へ向かう亀山ジャンクションを今回は南へ。
そして、少しだけ東名阪道を走って伊勢道へ入り、1つ目の芸濃I.C.で下て県道10号線を南東方向に。
そこから安濃S.A.付近の工業団地を突っ切った先の集落から、阿由多神社へと向かいます。
この神社のある所が、安濃城。
中伊勢地域を支配した長野氏の一族である、細野氏の居城ですね。
 
信長の攻略戦には、細野家当主として細野藤敦の名前が出てきます。
信長が絡んだだけに、ちょっと知られてるような印象でしょうか。
城の築城自体は、信長の伊勢攻略戦の10年ほど前の頃。
長野家に北畠氏から具藤という養子を送り込まれる直前の頃であり、詳細は不明ですけど、なんらかの政治的軍事的要因が考えられますね。
以降、細野氏は本貫の城である細野城からここへ居を移し、信長の攻略戦当時も藤敦が居城してました。
信長の伊勢侵攻時の長野家中はと言うと、長野家当主具藤は実家の方針と同じく反信長。
藤敦は、具藤と仲が悪いながらも、信長への臣従には反対の立場でした。
ここに、藤敦の弟達が登場します。
分部光嘉と川北藤元という2人ですが、彼らは親織田派で、信長の弟信包の長野家への入嗣を目論んでいました。
ま、宗家筋は、前の当主だった藤定が病死か暗殺かは不明なものの、既に没しており、嫡子もいませんでしたから、頭の挿げ替えに抵抗は無かったでしょうね。
彼らは、藤敦と具藤の対立を利用します。
藤敦兄貴が織田に寝返りましたでー、と具藤をけしかけたんですな。
怒った具藤は藤敦討伐に出陣しますが、長野家中でも指折りの勇将だった藤敦は、討伐される理由もないのでこれを撃退し、具藤を追放。
しかし、後ろ盾が無いと既にやって行けなくなっている長野家は、北畠氏と断絶した以上、もう信長を頼るしかありません。
こうして信包が長野家当主として迎えられました。
ただ、藤敦は信包とも折り合えなかったようで、天正8年(1580)には信包の討伐を受けて城を落ち延びています。
この頃、織田家中では、城割りとして在地土豪の小城の整理が行われていました。
この後の城の歴史も不明なことから、城も藤敦の退去で、そのまま廃城になった可能性が高そうです。
 
城へは、松原寺の所から山へ入ったんですが、まず出迎えたのが巨大な土塁と空堀です。
なかなか規模が大きい。
空堀はこんな感じで本丸方向に続いています。
土塁を撮った写真は、ただの山中の写真にしか見えないので載せませんけども(笑)

 
そこから参道が続いているので、しばらく西へ行くと阿由多神社があます。
ここが本丸跡ですな。
現地説明板によると、中勢地域では最大級の平山城とのこと。
神社境内の周囲には土塁があり、一部は基部が大きく、明らかに櫓台跡でした。

 
境内西側には二重の土塁もありました。
堆積物が多いようで、当時は二重の土塁だったのか、それとも間が空堀と言えるほど深く掘られていたのかはちょっと分かりませんけど。
中央が窪みで、右が境内側の土塁です。
左の土塁は、切岸となって落ち込み、その先にも郭がありました。

 
本丸の南側には虎口があり、その下の2段の郭に道が続いていますが、枡形と見られる湾曲があるほか、途中には食い違い部分あり、ちょっと技巧的です。
下の写真が食い違いになっている部分で、この上側に本丸側虎口に繋がる枡形らしき地形が、この下側に2段の郭があります。

 
東側には神社参道が通されていますが、そのちょっと横には枯葉に埋もれながらも虎口がありました。
ややえぐられたような地形があり、往時には桝形か堀があったのではないかと思われます。
ただ、説明板を見ると、ただののっぺりとした虎口なんですけどね。
本丸側から見たのが下の写真で、中央の溝みたいな所が虎口跡です。
この下は鬱蒼とした竹林で、堆積物などで元の地形がかなり不鮮明になっていました。

 
本丸下から東方向には、空堀を挟みつつ、なだらかな方形の削平地が段々に続いており、上級家臣の居住地だったのかもしれません。
下の写真は参道付近なんですが、上の段と下の段の郭、そして間の空堀が分かりますかね。

 
この東側は、本丸への東西方向に穿たれていた最初の空堀が北へうねりつつ続いて城を二分し、その空堀の東には、まだなだらかな削平地が続いていました。
なるほど、これはかなり規模が大きい。
空堀の先は、歩ける範囲で道の左右に2段ずつ4段の郭が確認できましたが、縄張図を見ると、更に東にもまだ郭があるようです。
のっけからえらい城に当たったもんですわ。
まだ8:30というのにテンションが上がってしまう(笑)
 
つづく
 
参考:
安濃城
地図付きはこちら
 

2015年11月12日木曜日

深まりつつある秋

10月は暖かかったですね。
11月も上旬はかなり暖かかった。
そんなこんなで、なかなか秋の深まりは遅いように感じられますが、木枯らし1号が10/25に吹き、それが昨年より2日、一昨年より10日早い観測だったというのを聞くと、季節の歩みはそれほど遅い訳ではないようです。
と言っても、木枯らしが吹いた日近辺の深夜の気温が自宅の庭で6℃という冷え方で、その後はまた暖かい日が続いたんですがね。

バイク乗りとしては、この暖かい日が続くという僥倖を逃す手は無いと、例の原二の友人と淡路へ行く計画を立てていたのですが、悉く予定や天候が合わなかった為に断念し、先の土曜にぶらりとひとりで衝原湖へ行って来ました。
その日も、久しぶりにラーメンツーリングをしてやろうか!などと思いながら前日に就寝したんですが、起きてみると雨がパラついているという始末。
なんだかんだとタイミングが合わんなぁ・・・
そうこうしている間に、雨が止んでなんとかなりそうだったので、衝原湖へとバイクを走らせました。

途中、久々に複合産業団地を通りましたが、なんか道や景色がもう相当変わってて、よく分かりませんでしたわ。
昔はここから鈴蘭台に抜ける道があったんですが、地図を見ると神戸西I.C.の所に完全に付け替えられてる様子。
いや、付け替えられてからも何度か通ってはいるんですが、付け替えられる前の学生時代にこの辺りをよく走ったもんで、木見の交差点とそこから名前を取った木ノ実という喫茶店を見たら、なんだか昔を思い出しまして。
木見の橋を渡って坂を上ってしばらく行った所で右折したら鈴蘭台、という記憶が蘇って来たんです。
その右折の道が、旧道として多少は痕跡が残ってるものかと思ってましたが、団地造成で跡形無く消えてるんですな。
大した事じゃないですが、懐かしいような、寂しいような。

夜間人口がほとんど無いやろうに公園で少年野球してるな、などと思いながら団地を過ぎ、大型トラックの癖にやたらと速い先行車を心地よく追い掛け、峠を越えると坂本という交差点に出ます。
ここを左に行けば衝原湖。
右に行けば箕谷。
更に箕谷への途中で左に曲がれば、山越えで淡河です。
この淡河への国道428号線。
走り屋さんに知られた道なんですが、同時に警察の営業スポットでもあるわけで、休みの日に走ると嫌な汗が出ることもあります(笑)
また、最近は淡河の豊助饅頭や十割そばが有名になってるらしくて、淡河の辺りはいつ通っても人が多いですな。
昔はほんま何も無かったんやけどねぇ
ちなみに、この坂本の交差点の真北には丹生山があり、さらにその向こうに淡河城があります。
戦国時代には、丹生山に明要寺や丹生神社があり、三木合戦の際には、荒木村重の花隈城から六甲の山並みを越えて丹生山、そして淡河城を経由して三木城までが兵糧輸送ルートのひとつでした。
当然、秀吉軍の補給ルート潰しに遭い、寺は焼かれてしまうわけですが、淡河城では淡河定範が痛撃を与えて城を放棄しています。
三木合戦の数少ない激突場所ですね。

坂本の交差点から西へ向かうと、すぐに衝原湖です。
衝原湖は、志染川の呑吐ダムによるダム湖で、呑吐という変わった名前は、ダムで沈む志染川の川筋部分に水を呑んだり吐いたりするように見える大小の滝があった事かららしい。
名前を聞いただけでは、ほぽ確実に漢字が分からない名前や!
ちなみに、この志染川や山ひとつ北の淡河川は、美嚢川を経て西の加古川に注ぐ加古川水系ですが、 もう少し東に行って唐櫃や八多辺りまで行くと、東の武庫川水系になります。
六甲山がデンと構えてる為に、神戸の海岸沿いには大きな川が無く、更に同じ神戸市北区でも、水が西へ逃げる部分と東に逃げる部分があるのが解り易いですね。
この日の湖は水を満々と湛えていましたが、10数年前の酷い渇水の時には、このダム湖が半分干上がり、かつての村の跡が出現したという年がありました。
嬉々として、やっぱりバイクで向かい、湖底を歩いた事がありますが、一見乾いているようでも、泥に足を踏み入れるとくるぶしまでズブズブと・・・
足許をドロドロにして帰った記憶があります(笑)
あれからはそこまで渇水の年が無く、底が剥き出しになることも無いので、とても貴重な経験でした。
ちなみにこの衝原湖、神戸のバイク乗りの間ではちょっとしたスポットで、休日昼間なら、ほぼいつでも10台以上のバイクが止まってます。
この日も曇天にかかわらず、バイク約20台と車数台が止まってました。
スポットとしてはやっぱり人気ですね。
ちょっと西側のカート場は潰れてしまってましたけど・・・
なかなかカート場というのも、経営が難しいものですな。

その後、なんとか天気も崩れないまま、1時間ちょいの行程だったプチツーリングを終えて帰宅しました。
ダムに居た人はみんな、バイクが最適な季節の最後を味わってるんかな・・・
同志として、良いライディングが味わえることを祈りますわ(^^)
 

2015年11月5日木曜日

津山藩森家の分裂

前回、ようやく乃井野藩と関連がある、森長継のところまで到達しましたね。
ふと記事を見かけて書いただけやのに、えらい長くなってしまった・・・
というわけで、乃井野陣屋の三日月藩誕生のきっかけと、津山藩森家の分裂のお話です。
 
津山藩藩祖森忠政の跡を継いだのは森長継。
彼は、前回書いたように、忠政の外孫でした。
父は関成継。
なので、正確に書くと、関系森氏ということになりますね。
ま、江戸時代の大名はギラついた武将成分を排除して象徴化したのが草食化を招いたのか、戦乱での討死が無い割に、嗣子無く断絶というパターンが多く、家の存続の為に養子が乱れ飛びます。
例えば、財政再建を果たした名君として知られる上杉鷹山治憲は秋月氏の出で、祖母が上杉氏出身という薄~い繋がりでした。
外孫どころか、上杉氏の血で見ると外曾孫なわけですね。
更に言えば、この秋月氏に嫁いだ女性の父親は上杉綱憲で、父は有名な吉良上野介義央です。
つまり、吉良系上杉氏でした。
大名同士は婚姻が進んでいますから、遠縁を辿ればどこかに血を持った次男坊、三男坊がいるという状態だったわけです。

話を戻しますが、長継は外孫とは言え、森家中の人間であり、祖父忠政が個人的にいつでも会えるような近い孫でした。
上杉氏に比べれば相当近しいことがわかるでしょうか。
このように身近な孫を後継者に選んだ忠政が、寛永11年(1634)に没すると、順調に長継が家督を継ぎます。
長継政権は長期政権で、隠居は延宝2年(1674)と、40年間も続きました。
途中、弟関長政に2万石弱を分知して宮川藩という支藩を興させています。
また、長継は非常に子沢山で、男児だけで一説に24人もの子があったといわれるほどでした。
側室は10人。
英雄色を好むを地で行く人ですな。
ただ、乱世では子が死ぬ機会も多く、他家へ乗っ取りの為に養子に出すということも頻繁で、メリットがあるのですが、平時は嫡男以外は部屋住みとして可も無く不可も無く人生を終えていくのが一般的でした。
他家の養子にと声が掛かればラッキーで、時には相続争いの種になるなど、そうメリットは多くありません。
というわけで、長継も例に洩れず、男児を弟の養子として出しています。
先に出た次弟長政に六男or九男の長治を、三弟関衆行には九男or十二男の衆利を、押し込む押し込む。
いや、想像ですけどね(笑) 
というか、子供多すぎて順番に諸説あるってどんだけ(笑)
また、養子だけではなく、隠退後に五男長俊に1万5千石を分知し、津山新田藩を興させてもいます。
ただ、肝心の嫡男忠継は早世してしまっていて、と言っても30代後半だったわけですが、嫡孫として長成がおりました。
しかし、長成は寛文11年(1671)生まれで、長継が隠退する頃はまだ幼児であった為、長継はリリーバーとして三男or五男の長武を指名しています。
長武がリリーバーとして10年余りを中継ぎし、甥長成へと家督が渡されたのが貞享3年(1686)。
長武は、隠居料2万石を得てめでたく隠退・・・というわけではなく、どうやらその2万石で支藩設立を目論んだようですが、親父より先に死んでしまった為、うやむやになりました。
親父、生物として強すぎ。
その後、元禄10年(1697)に長成が子も無いまま27歳で早世してから、森家はバタバタとなっていきます。
長成の末期養子として指名されたのが、さきほど長継の弟の養子となっていた衆行。
上から順番というのではなく、しかも他家の養子として出ていた衆行が何故指名されたのか、事情はよく分かりませんでしたが、衆行は急遽森姓に復し、将軍の謁見を受ける為、江戸へと向かいます。
しかししかし。
この衆行さん、ちょっと本音をズケズケ言ってしまう人だったようで、伊勢で病に倒れた挙句、政策批判をやってしまいます。
時は5代将軍綱吉の治世、野良犬すらお犬様と崇められていた生類憐れみの令の真っ只中。
気持ちはよく解ります。
しかし、現代のように言論の自由はありません。
あえなく、森家は改易となってしまいました。

森家にとって救いだったのは、長継の生物的強さ。
先々代当主だった長継がいまだ健在で、しかも直系の子供も沢山いました。
幕府も、恨みを持ちかねない人間が多数いるのは厄介だったのか、それとも温情だったのか、事実上、分割した上で存続を許しています。
具体的には、支藩として成立していた宮川藩、津山新田藩の存続を認め、長継が貰っていた隠居料2万石もそのまま安堵して西江原藩を立藩させました。
こうして、西江原藩は長継から八男長直に引き継がれ、後に赤穂藩浅野内匠頭長矩の赤穂事件での改易から5年後に赤穂藩主となっています。
宮川藩は、長継の弟長政から長継の子で養子となっていた長治が継いでいましたが、津山藩改易に伴って備中新見1万8千石に移されました。
そして、分知を受けていた津山新田藩主で長継の五男長俊は、津山藩改易で三日月1万5千石へ移され、元禄13年(1700)頃に乃井野陣屋を完成させたのです。
いや~、ようやく乃井野陣屋に辿り着きました。
森家、事件有りすぎ。
最後に、森家とその周辺の系図を付けときます。
文中に登場した人物は太字になってますので、追ってみて下さい。
あと、数字は生年です。
ややこしさが解ると思うので(笑)

 
参考:
乃井野陣屋
津山城
新見陣屋
赤穂城
地図付きはこちら 兵庫 岡山