2014年12月11日木曜日

両毛・新潟ツーリング その6

前回のあらすじ

前日に見付けた白井城。
いや~見つけておいてよかった!
 
箱田城の次は前橋です。
前橋城はかれこれ13年前に行ったんですが、今回はその対岸にある石倉城が目標。
かつての前橋城内だった範囲を抜けていくことにはなるんですがね。
箱田城の辺りの利根川の左岸には、国道17号線が走っていますが、これは旧道で、現在は対岸の右岸側にバイパスができています。
どちらもまだ17号と表記されていますが、バイパス完成で県道扱いに、という感じでしょうか。
そのバイパスのお陰か、こちらの17号線は交通量も多くなく、のんびりと走れますね。
こうして渋川から南下して行き、やがてバイパスと合流して、道は前橋市街へと入って行きます。
いや~、なんとなく懐かしい。
川沿いの前橋公園辺りから県庁が見えますが、城の土居も見えてなかなか感慨深いですな。
こんな遠くまで、2度も来れるとは思ってなかった(^^)
そうこうしているうちに中央大橋で利根川を渡り、大きな交差点の手前で適当に左折して住宅地に入ると、すぐに現れる公園が石倉城跡です。
しかし、県庁のすぐ対岸がこんな閑静な住宅地というのも少しびっくり。
この辺りは官庁街も近いし、そこで働いている人は職住接近でよろしいですな(^^)

この石倉城は、罷り間違えば県庁所在地名、つまり前橋城から続く前橋市ではなく、石倉城から続く石倉市になっていたかもしれないという城です。
どういう事かと言うと、対岸の前橋城の前身にあたるのがこの石倉城なのです。
しかし、暴れ川として名高い利根川の氾濫で壊されてしまいました。
そして、変わってしまった流路で二分された石倉城の東側を再利用して、新たに築かれたのが前橋城というわけなのです。
その後、主要な拠点機能は前橋城に移りましたが、旧石倉城の西側部分も城として再利用されるようになったようで、前橋城と新生の石倉城が並存する期間が続きます。
しかし、戦乱が収まると、城の機能は前橋城に集約され、石倉城は廃城となりました。
祖を同じくしながら、直系の家が廃れ、傍系の家が栄えたような感じですかね。
流路が変わってなければ人やモノの流れも違っているので、素直にそのままというわけにも行かないですが、氾濫が無い、もしくはその規模が小さければ、石倉城、そして石倉藩となって石倉県が誕生した可能性もありますな。
福井、福岡、福島の福シリーズ、山形、山梨の山シリーズに続く石川、石倉の石シリーズができていたのかもしれません。
だがしかし!
前橋城は江戸時代に利根川の浸食で一旦放棄されており、石倉城もその巨大なる自然の壁が立ち塞がっていたことでしょう。
そして、戦国、江戸と、2度までその利根川の壁を越えたとしても、群馬郡という、回文かよ!と思わず間違ってツッコミを入れてしいそうなグンマーが立ちはだかるのであった!
 
・・・いやいや、
何の想像やねん(笑)
 
そんな訳の分からない想像は置くとして、現状の石倉城は、公園に碑があるのみで、城らしい痕跡はありません。

 
こんな碑が公園の端にあります。
地図を見ると、外堀公園というのもあるようですね。
でも、そちらにも遺構は無い様子。
県庁至近で、真っ先に市街地化されたであろう場所だけに、しょうがないか・・・
 
石倉城からは、群馬大橋を渡って利根川左岸に戻り、上毛鉄道沿いに東へ。
大胡へと向かいます。
そして、大胡市街から荒砥川沿いに少し北に進めば、大胡城に到着します。
大胡幼稚園を目指せば解り易いですかね。
幼稚園も元は城の一角だった場所で、幼稚園に隣接してすぐ南に主郭部があります。
大胡城は荒砥川沿いの河岸段丘状の地形を持つ丘陵にある城で、荒砥川の支流をうまく堀として利用しており、平地の大きさの割りに切り立った場所の多い城ですな。
この辺りは赤城山の火山灰土の影響もあって、南九州の城と同じく、切り立った深い谷となっている地形が多いようです。
それを利用した大胡城の堀もこんな感じで深く切り立っています。
これは、本丸から幼稚園の敷地となっている北城を撮ったものですが、この間の堀は、元々細流があったのか、堀として流路を開削したのかは不明ですが、かなり深い。
写真では解りづらいですが、上から眺めると、かなり深いなぁ、と感嘆するほど。

 
現地案内図を見ると、土の城という感じですが、桝形や本丸の区切りなんかに石垣の跡があり、総石垣ではないものの、主要部は石垣であった可能性が高そうです。
でも、内堀はこんな感じで土の城という印象が強いですね。

 
上の写真の内堀の左側は本丸の土塁ですが、これもきれいな形を残していました。
本丸側からの写真が下。

 
本丸は南北2段に分かれており、南側の本丸下段の削平地と内堀側の土塁、そして木の後ろ側に見えているのが本丸虎口です。
最後に、本丸からの荒砥川の眺望を。

 
典型的な崖城ですね。
ちなみに、城址碑らしい城址碑は、この崖の真下にありました。
川沿いから城跡に入ってくるのに、短いトンネルを抜けるのですが、そのトンネルの入口脇です。
トンネルということから解るように、往時の大手は南側だったようです。
また、江戸時代には丘陵部だけではなく、平地にも郭が拡張されていました。
ただ、江戸時代頃の縄張を明示した案内板なとが無かったので、そこだけはちょっと残念でしたね。
下草もしっかり刈られてて、きちんと整備されているだけに、少し勿体無かったです。
 
なんか写真を入れて長くなってしまいました。
まだ2日目午前中というのに、その6とは、ちと長い・・・
この後は群馬側から日光へアプローチじゃ!
 
つづく
 
参考:
石倉城
大胡城

地図付きはこちら
 

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