新造船はピッカピカでいいね~
南港発のフェリーが、鹿児島県は志布志港に着くのは、定刻では9:40。
その時間からの行程を考えると、昼ご飯の時間がもったいない。
なので、朝食バイキングをできるだけ遅い時間に、たくさん食べて、ノンストップ作戦で行くことにしました。
とは言っても、フェリーでは早くに目が覚めてしまうんですよね。
暇を持て余して早く寝てしまうからでしょうか。
朝から風呂に入って、部屋でまったり朝のテレビを見て、多くの人が食べ終わった頃合いを見計らって食事を摂りに食堂へ。
食事後は、ダラダラと身支度をしてると、ようやく志布志港へ到着しました。
そこから、フェリーにとって一番大事なお客さんであるトラックが下船して、ようやく一般旅客の下船となります。
前回来た時は、下船後、そのまま東へ向かってすぐの志布志城へ行きましたが、今回は国道220号線を西へ。
まず、目指すのは北原城という城。
北原城は、大隅に勢力を持っていた肝付氏の庶族北原氏の本貫で、伝承では、肝付氏初代の兼俊の子である兼綱か兼幸が木田原に住して木田原(北原)を称したとあります。
しかし、この頃の北原氏の動向は不明なんですね。
南北朝時代に真幸院の飯野城へ移ってから、日向の主な豪族として成長を遂げ、歴史上に存在がはっきりしてきます。
そういうこともあってか、国道220号線から串良川沿いに北西に進んでも案内板の類は無いどころか、最も近い道が串良川の右岸であった為、川の左岸に位置する城の近くへ向かう道すらありませんでした。
地図にプロットされている城の場所の北には、堀代わりの細流があり、2つの川を渡らずにまともに近付けそうなのは北西方向しかないんですが、国道269号線まで出てみても、とても道は無さそうなんですよね。
本腰入れて道なき道を進まないと、無理っぽいですな。
ちょっとバイク旅には要害過ぎひん?
割にどの地図にもプロットされてる城なんですが、到達情報の乏しい城でした。
まさかの緒戦から撤退というダメージを受けつつ、次に向かうは鹿屋城。
大隅地方の中心である鹿屋の城ですな。
道は簡単で、先ほどの国道269号線を少し南西に走れば、ひたすら真っすぐな道になり、そのまま道なりで城山公園の横に出ます。
とは言っても、うっかり一旦過ぎてしまって引き返しましたが(^^;)
駐車場にバイクを止め、公園に向かうと、まずは説明板が出迎えてくれます。
うん、繁茂し過ぎて邪魔ですな・・・。
鹿屋城は、説明板にもあるように中世から戦国時代にも史料に記述がありますが、具体的に城がどのようであったのかは詳細不明です。
この場所にあったかすら分からないらしい。
現在残っている遺構は、天正8年(1580)から伊集院忠棟によって築かれたものとされ、残っている遺構は一部ではあるものの、シラス台地を存分に利用した鹿児島の戦国時代の城に比べると、かなり近世的な雰囲気がありますね。
ただ、本丸は貯水場となっていて、城っぽさはありません。
公園化されているのは二ノ丸と今城で、二ノ丸からは城下だった鹿屋の旧市街が一望でき、水運で活用されたはずの肝属川を含め、経済性が重要視されつつあった戦国時代末期の時代の流れが感じられますね。
また、地図を見ると、志布志湾へ注ぐ肝属川以外にも、錦江湾まで陸路で1里ほどど、城の立地は非常に良いですな。
大隅地方の第一の都市の礎はこの辺りにあるのかもしれません。
二ノ丸へ向かう道は、シラス台地特有の深い空堀の堀底道となっています。
ここにも城址碑がありました。
先に進んで行くと二ノ丸です。
上は二ノ丸の突端の部分。
複数の段があり、最上段に妙に幅があったので、土塁とも櫓台とも判断がつかない場所でした。
公園には、古いながら展望台もあります。
展望台から鹿屋市街。
この日は何かイベントがあったようで、城跡の直下の広場には非常に多くの人がいて、賑やかな感じでした。
写真には写ってませんが・・・
晴天率の高い秋ですし、イベントには良い季節ですね。
この日はちょっと天気が良くなかったですが、ここからの景色も晴れてたらもっといい眺めなんでしょうね。
この二ノ丸への入口には大きな空堀があるんですが、空堀を挟んだ向こうに今城という郭があります。
そこも公園として整備されていました。
これは上段。
今城は2段構成で、下の段はこんな感じ。
この今城は、二ノ丸に比べて、特有の鹿児島の古城らしさがかなり漂っていましたね。
この後、城の北側を散策してみましたが、それらしい部分はあったものの、遺構とまではっきりしたものはありませんでした。
残っている部分を見るとかなりいい感じなんで、もっと遺構が残っていたらな~と思わせる城でしたね。
つづく
参考:
北原城
鹿屋城
地図付きはこちら
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