2019年6月28日金曜日

北陸北信ツーリング その10

前回のあらすじ
 
森寺城は越中三大山城に劣らない見所満載の城ですわ。
 
予想以上に広大だった森寺城に満足し、次の目的地へ歩を進めていきます。
というわけで、一旦氷見の市街地に戻り、国道160号線を富山市方向へ。
この辺りは車線も多くて交通量もそれほど多くなく、走っていても快適ですな。
次の目的地は、越中三大山城のひとつ、守山城。
守山城は、氷見と高岡の市境にある二上山にあり、当時の越中一流の湊であった放生津から5kmほどの所にあります。
守山城や放生津と言えば、守護代の神保氏の根拠地で、平時は放生津や国府があった小矢部川流域を拠点とし、戦時は守山城が詰の役割を果たしていたのでしょう。
守山城の歴史を見てみる、ほぼ一貫して神保氏が没落する際に落城し、神保氏が城主に復帰するとこの城を拠点に勢力を回復させています。
神保氏にとっては象徴のような城ですね。
城へのアクセスは非常に簡単で、万葉ラインという2車線道路が城まで通っており、その道をひたすら上って行くだけです。
快走路・・・というほどではなく、路傍の木々や草がもっとおとなしければ清々しい道やのにという残念感はありましたが、走りやすい道でした。
この万葉ラインを上り切った先に駐車場があり、そこはもう城内です。
城の縄張は、全体としては小文字の「y」のような形をしており、峰筋に沿って築かれた直線状の長辺と、そこから派生する段郭の短辺で構成されていますが、長辺の部分は公園として開発されてしまっているので、古城という趣は薄かったですね。
駐車場からすぐ公園の入口です。
 
 
公園には東屋があり、登山を楽しんだと思しき中高年の方が談笑していました。
市街地にも近いし、高さ的に考えても、日帰り登山するにはちょうど良さそうですね。
その東屋の脇には案内板がありました。
 
 
公園は、非常に長い削平地となっています。
この辺りは、さすがに越中三大山城らしい大きさと言えるでしょうか。
先端のやや幅が太くなった場所には、でっかい像が。
 
 
なんか威圧感が半端ない・・・(^^;)
この付近はなかなか広い区画なので、居住施設があったのかもしれませんね。
先端から眼下の景色を眺めてみました。
まずは、高岡城方向。
 
 
うむ。
眺望が開けん。
中央の色の濃い部分が高岡城の緑だと思うんですがね。
ついで小矢部川流域。
 
 
こちらは万葉ラインで木々に切れ目があるので、眺望はそこそこですな。
次いで、y字の短辺である段郭を巡って行きます。

段郭は主郭部から見ると、こんな感じで下に繋がっていました。
 
 
写真では判りにくいですが、いかにも山城という感じの典型的な段郭で、しかも、それぞれの郭の規模が大きかったですね。
この辺りはさすがと言ったところでしょうか。
それぞれはこんな感じの郭です。
 
 
一応は公園として整備されているんですが、今はあまり人も入っていない感じ。
最後に、主郭部の切岸をば。
 
 
こういう所を見ると、完全に山城ですね。
いかにも城という感じの場所は少ないですが、探せば見所のある城でした。
 
守山城は高岡市街の端になりますが、このまま東進しても、そこはつい1年前に走った景色。
となれば、時間短縮でショートカットですな。
すぐ近くの高岡北I.C.から能越道に入り、そのまま、やや遠回りながら北陸道へ入って行きます。
途中、去年ウロウロした松倉城やその支城網の付近にある有磯海S.A.で、1年とは早いもんだと懐かしく思いながら軽くパンを食べ、更に東進。
しかし、時間があれば上越まで行きたいなと思っていたんですが、その野望は時間が許してくれませんでした。
意外と新潟まで遠いよなぁ(> <)
というわけで、糸魚川で高速を降り、国道148号線を南下していきます。
この国道、静岡糸魚川構造線の上を通っているせいもあって、覆道とトンネルが延々と続いていました。
これはこれでこの地域独特の景色よなぁ
あんまり景色は見えんけど、走って良かった(^^)
国道148号線の覆道の合間を縫って対岸に目をやると、鉄路が走っていますが、これは大糸線です。
高校生の頃に、シュプール号でこの線路を走ったはず。
この辺りを通るのは真夜中やし、景色は当然全く記憶に無いけど、感慨深いものがありますな。
そうこうしている内に、道は小谷に入ってきました。
白馬連峰を右手に見ながら、時折その残雪を目で追いつつ、高原状の道路を走るのはとても気持ちが良いですな。
毎年白馬栂池に行ってた頃を思い出します。
あちこちのスキー場に行きましたけど、この白馬に限らず、冬以外にスキー場への道を走ってみると、スキーに向かう時の景色と全く違ってて面白いですわ。
これも自分なりのバイクの楽しみのひとつですな。
いや~、写真も忘れて久しぶりにひたすら走りましたわ(^^)
 
つづく
 
参考:
守山城
地図付きはこちら
 

2019年6月22日土曜日

北陸北信ツーリング その9

前回のあらすじ
 
阿尾城を知ってから17年目の到達でした。
いや~長かった(^^;)
 
氷見の市街から見ると、北側の外れ辺りに前回の阿尾城があるんですが、そこから北西へと走ると森寺城があります。
次の目的地はその森寺城。
往時は湯山城と言ったようですね。
温泉でも出てたんでしょうか。
阿尾城から森寺城へ向かうのは簡単で、阿尾城のすぐ近くの阿尾城跡口の交差点から北西へ道を真っすぐ行くだけです。
国道160号線を越えてしばらく進むと、その名も森寺という交差点があり、そこから東側の集落に入って更に農道を1kmちょっと北西へ進むと城に到着するんですが、城から更に北西へ進むと荒山峠で、古くはこの荒山街道が越中と能登を結ぶ主要道のひとつでした。
戦国時代の初期頃である15世紀後半頃の情勢は、能登には能登畠山氏が守護としてデンと構えていましたが、越中はその本家である河内畠山氏の守護国で、実際の支配はその守護代である神保氏や椎名氏が行っていた為、守護代に力が集中し、守護の河内畠山氏も抑え切れなくなっていったようです。
この守護と守護代の対立というのは全国各地が見られましたが、越中に関してはちょっと状況が違いました。
なんてったってお隣に有力な親戚がいるわけです。
これを利用しない手は無い。
そんなわけで、河内畠山氏は隣国能登の能登畠山氏を通して越中の支配強化に乗り出し、これを受けて能登から越中への橋頭保として造られたのが森寺城なんですね。
なので、越中側に在る国境の城ではあるんですが、どちらかと言えば越中方向が正面となるような構造になっています。
そして、こうした経緯から、能登畠山氏は越中の氷見地方とは縁が深くなったようで、氷見の八代荘の国人と思われる八代氏が、弘治の内乱以降に能登畠山氏の中枢に参画したりしていますね。
越中とは言え、この森寺城や氷見は、能登畠山氏の分国に近い様相だったのかも知れません。
 
さて、その森寺城ですが、なかなか整備されている城でしたね。
車ではちょっとすれ違えないような細い農道をしばらく進んで行くと、左手の山へと入るような感じになり、割と大きな駐車場が用意されています。
案内板もバッチリ!
こういう縄張図があれば、散策には最高ですね(^^)
 
 
駐車場はもう城内の一角で、家臣の屋敷跡か何かだったんでしょう。
すぐ北は、背の高い雑草がびっしり生えてて立ち入れませんが、寺坂屋敷という区画です。
寺坂という家臣の配下の屋敷だったのか、それとも寺坂氏に近しい武将の屋敷というところでしょうか。
ここから、いよいよ山、というか丘陵に入って行くわけですが、登山道は能登側の搦手方向へと一旦回り、昔の街道の道に繋がります。
荒山街道がこの城内を通る道だったのか、それとも西側の麓に街道が通っていて城内は傍道だったのかはよく分かりませんでしたが、城内の道としてはかなり広い部類に入るでしょう。
この道沿いに、牛ヶ窪、百貫馬場という細長い削平地があり、その間にはそれぞれ土塁と堀切が明確に残っていました。
下は百間馬場の搦手側にあった堀切。
 
 
同じく搦手側の土塁と食違い。
 
 
そして百間馬場。
 
 
ここから先は、いよいよ主郭部分です。
百間馬場の先から二ノ丸の搦手への道が続いていました。
 
 
この折れ曲がった重層的な構造は、なんとも言えない良さがありますね(^^)
その途中には石垣も残っていました。
 
 
七尾城もそうだったんですが、畠山氏の築城術は割と石垣を多用するようです。
さすがに管領の一族ということで、畿内の技術が取り入れられていたのかも知れませんね。
搦手から二ノ丸に入ると、そこは広大な平地でした。
 
 
正面が二ノ丸大手で、右側の低い石垣が本丸です。
二ノ丸には巨大な井戸があり、水ノ手も確保されていました。
 
 
奥の本丸の石垣を近くから。
 
 
本丸は、石垣と堀で区画された四角い郭ですな。
 
 
次は、二ノ丸を出て、大手口から下って行きます。
 
 
ここも石垣の痕跡がかなりありました。
当時はなかなか威圧感のある大手だったんでしょうね。
大手道を下って行くと、カンジャ屋敷から連なる郭群があり、道は再び街道へと戻って行きます。
その周辺には、サイダ屋敷、野崎屋敷など、有力家臣の屋敷地を兼ねる郭が幾つもありました。
屋敷地の多さから、越中に威勢を示すべく畠山氏がこの森寺城に出張ってきた時には、その軍制そのままこの城に移ってきたような印象だったのかもしれません。
下は、そんな屋敷地のひとつ、サイダ屋敷。
 
 
屋敷地ということもあって、このサイダ屋敷を始め、それぞれがなかなか広い郭でした。
高低差はあまり無い城でしたが、城地が広大で、本気で兵を籠めたら相当な拠点になったでしょうな。
いや~満足満足(^^)
 
参考:
森寺城
地図付きはこちら
 

2019年6月17日月曜日

2000万円足りない

金融庁の審議会の報告で、豊かな老後を送る為には2000万円足りないという報告書が上がってきた為、色々とニュースになっていますね。
100年安心は嘘だったのか、と。
しかし、自分自身の記憶では、100年安心を謳っていた前回の年金改革の際は、100年先も年金システムは崩壊しないという意味の100年安心だったように記憶しています。
今のままの給付では年金が崩壊する、という疑念に対してのキャッチフレーズとして。
その時ですら、年金だけでは贅沢できないという話でしたが、でも最低限の保証を守る為に年金改革をしましょうと。
それが、いつの間に、「100歳まで生きても安心」や「豊かな老後が送れる」なんて有頂天な話になったんでしょうか。
 
個人的に思うのは、我が家は親も自営業で、小さい頃から年金だけでは食べていけないという話は数年に1回ぐらい聞いていたような記憶があるのですが、公務員や会社員の家庭ではそういう話は無かったのかな?ということですね。
30~40年前の自分が子供の頃の公務員や会社員の年金は、まだ人口ボーナス期にあったので、納付額に比べて給付額は恵まれていました。
だからなんでしょうか。
そのバラ色だった年金の残滓が、今頃になって噴き出してきた感すらありますね。
いずれにしても、働き出せば納めるお金から考えて大体の給付額の大きさというのは予想できます。
納付が40年に対して給付が平均余命程度でざっくり20~25年。
もちろん、会社の投入分や税金の投入分もありますが、まともに納付分が全部返ってきても、単純な期間計算で月の納付額の40/25=8/5もしくは40/20=2倍程度にしかなりません。
しかも、社会保険料として控除される分の内、年金として納める額と言うのは半分以下でしかありませんからね。
納めた額から考えると、現状の給付額でも、個人単位の投資としてはかなりお得な部類に入ると思います
ただ、事業主出資分を考えると、年代によっては減ってしまう可能性は大いにありますが。

ちょっと世間の空気感にびっくりして前置きが長くなりましたが、数字として今回の議論を見てみました。
件の年金世帯モデルの月の消費分の主なものです。
 
食料 64,444円
住居 13,656円
光熱・水道 19,267円
家具・家事用品 9,405円
被服・履物 6,497円
保健医療 15,512円
交通・通信 27,576円
教養娯楽 25,077円
その他の消費支出 54,028円
 
個人的には、老年夫婦2人なのに食費が多すぎ、と言いたいですが、それは置いておくとして、教養娯楽とその他の消費支出が多すぎでしょう。
リタイヤしていると時間があまるからお金を使ってしまいがちになる可能性はありますが、それでも7万9千円は多すぎる。
しかもこれが毎月ですからね。
もし家計相談なら、ファイナンシャルプランナーが餌に喰い付くように喜び勇んで指摘するでしょう。
つまり、この7万9千円は、要は「豊かな老後」の「豊かな」部分に相当しますから、不足分の5万4千円との差額である2万5千円程度の「ほどほど」に枠を抑えれば、「ほどほどの老後」は送れることになります。
そして、退職金等で貯畜があるならば、+αも可能というわけですな。
うむ。
金融屋の煽りの部分を除いたら、当たり前の事しか言ってないな。
そもそも、平均で考えるのが間違いなんですよね。
中央値で出せという議論もありますが、それは取りあえず置くとして、もし全員が平均の年金を貰ったとして計算しても、月額の平均消費額は必ず平均より上に行きます。
なぜなら、貯蓄を取り崩す人がいるから。
貯蓄の無い人は支給年金だけで生活しますが、当然ながら、貯蓄のある人は支給年金にいくらか貯蓄の取り崩しを足して生活します。
結果、支給額より月額の平均消費額は上を行く。
もし、2000万も足りないからと支給額を上げたと仮定しても、結局、平均消費額はその上を行くんですよね。
そして、今回の論法で行けば、やっぱり平均消費額より足りないという話になる。
まるで数学的な話みたいですが、収束することが無い。
そんな計算は無意味なんですよ。
ただ、半面として、増加要因があるのも事実は事実です。
例えば、賃貸であれば住居費がもっと掛かりますし、歳を重ねて入院などが発生すればもっと医療費が掛かるでしょう。
その辺り、個別の条件が違い過ぎて、総論で一括りにするのはちょっと無理がありますね。
今は、年金の支給額を確認できるようになっていますから、結局、全くもって当たり前の話ですが、きちんと自分の年金額を把握し、足りない分は備えておくという、シンプルかつ当たり前の結論が出ているだけですな。
しかし、やたら話題になってるから何事かと思ったら、実際の数字見たら充分やないか・・・
8万弱って、自分が泊ツーに行く月よりも多いぞ!
なんか衝撃ですわ(^^;)
 

2019年6月11日火曜日

ファーウェイ騒動の先に

先日、こんなニュースが流れました。
 
台湾と関係強化へ 米国防省、2019年インド太平洋戦略報告を発表
https://www.epochtimes.jp/p/2019/06/43398.html
 
大紀元という、やや信頼性の低いソースではあるんですが、このニュースにあるように、アメリカ国防省が出したインド太平洋戦略報告書の中で、台湾を国家(country)のひとつとして表記したことから、いよいよアメリカは台湾を国家として認めたかと話題になっています。
大手メディアの報道では、ほぼ、というか触れた所を知りませんが、米中関係の転換点のひとつになるのかも知れません。
これに対し、台湾を自国領土とする中国は非常に反発しているそうで、国家のひとつとして認めるというのは、さすがにインパクトが大きいですね。
アメリカがどの程度そこに意図を込めたか、文書を出した国防省の立ち位置もあるでしょうし、単純な話ではないと思いますが、それだけの空気がアメリカ国防省にはあるというのは間違いありません。
また、この数日後に、台湾がアメリカに対してM-1という最新鋭戦車を筆頭に2200億円規模の武器売却を要請したとのニュースも出ました。
中古とは言えM-1が108両という数字で、なかなかの規模感がありますね。
日本ではファーウェイ騒動がいまだ報じられていますが、貿易紛争に留まらず、着実に覇権争いの様相を呈して来ているのは間違いありません。
G20で米中首脳会談があるのか、今後の方向性が見えるのか、要注視ですな。
 

2019年6月6日木曜日

北陸北信ツーリング その8

前回のあらすじ
 
七尾城は凄かった。
超満足ですわ!
 
ツーリング3日目。
この日の最初の目的地は阿尾城です。
氷見の市街から阿尾城というのはとても近く、氷見駅まで一旦出てから海沿いに走って行くと、数分で着く距離なんですね。
海沿いを走っていると、かつての帝国海軍の空母のような断崖絶壁の塊が見えてきます。
それが阿尾城。
地図を見ると、岩質の島が陸繋島になったのがよく解かります。
地形的に、水軍を持った豪族の本拠のようにも思えたんですが、ここの城主であった菊池氏は九州の菊池氏の出で、越中に流れて来て土着したらしく、水軍色はあまり見られません。
ただ、どう考えても多少なりとも水軍を持っていたように思うんですけどねぇ
それはともかくとして、阿尾城の北側に駐車場が整備されており、そこにバイクを止めて散策です。
まずは案内板。
 
 
駐車場から登って行くと、伝三ノ丸跡へと出ます。
伝三ノ丸は2段構成になっていました。
 
 
神輿舎資料館のある三ノ丸の下段。
写真はその資料館の裏手です。
資料館周辺は当然ながら整備されてしまってるんですが、この裏手部分は古城の雰囲気が漂ってました。
ここからすぐ上には三ノ丸の上段があり、榊葉乎布神社の境内となっています。
 
 
ガラス張りの覆いがあって、豪雪地帯の神社らしさが出ていますね。
ちなみに、この写真の左手は土塁です。
これが神社の裏にまで続いていました。
矢竹が生えた土盛り。
断崖の上ですが、城らしさが出ています。
伝三ノ丸からテクテクと鞍部になっている遊歩道を歩いて行くと、伝三ノ丸の東側に伝二ノ丸があります。
二ノ丸の最高部には白峰神社が建立されていました。
 
 
そこから南を覗くと、多層的な構造が見えます。
 
 
ちょっと写真では判りにくいですが、城内で一番広い郭でしたね。
居住スペースがあったんでしょうか。
伝二ノ丸の白峰神社の社殿を過ぎると、本丸との間に小高い部分があります。
 
 
往時は物見台でも建っていたのかもしれません。
また、かつては白峰神社の本殿があったようで、本殿跡の碑が建っていました。
ここから、さらに馬の背のような細い道を進んで行くと本丸に出ます。
 
 
季節柄、草ボーボーでした。
繁茂した草で全体が見渡しにくかったんですが、本丸は北側と南側の2段構成だったようです。
北側が高く、そこに展望台が建てられていました。
展望台からは、氷見の市街から越中三大山城のひとつ、守山城の辺りまで見渡せます。
 
 
春霞のような薄曇りの天気でしたが、初夏の良い景色ですね。
残雪の立山まで見えれば最高だったんですが、それは贅沢と言うものでしょうか(^^;)
最後に本丸の説明板。
 
 
航空写真だと、土砂の堆積で繋がった陸繋島というのがよく解かりますな。
 
つづく
 
参考:
阿尾城
地図付きはこちら