2019年4月11日木曜日

北陸北信ツーリング その2

前回のあらすじ
 
防御力全国最強の県庁はさすがの威圧感。
 
福井城で出て、次に向かうは黒丸城。
下調べをしてきたので、マップでざっとうろ覚えの地形を確認し、ああこの辺この辺と出発したんですが、これがいけなかった。
下調べで、大きな川が合流する地点にあるということが分かっていたのと、黒丸城は足羽七城のひとつに挙げられることから、福井城の近くを流れる足羽川沿いを探してしまったんですね。
典型的な思い込みのパターンですな。
川の合流地点付近に来ると、どうも地形が違う。
おや?と思ってもう1度調べてみたら、足羽川と日野川の合流点に行ってしまったんですが、正解は少し北の日野川と九頭竜川の合流点だったんですね。

その合流点近くの地名は、その名も黒丸町。
今は田園と集落しかありませんが、当時は川筋が防御力となる沼城だったんでしょう。
集落に足を踏み入れると、城址碑がありました。
 
 
城址碑のある場所は小高くなっています。
でも、圃場整備前は別の場所に城址碑があったようで、櫓台跡などではないみたいですね。
 
 
城址碑の向こうに見えるのが九頭竜川の堤で、どういう性格の城が一目瞭然です。
簡単な説明碑もありました。
 
 
地図を見てみると、近くに神社がありますね。
城跡の近くの寺社には、城の郭をそのまま転用したパターンもあるので、行ってみる価値はありそうです。
遺構が少しでも残っているかもしれませんし。
というわけで、白山神社へ。
予想通り、白山神社にも小黒丸城への言及がありました。
 
 
神社は集落の一角なので、圃場整備の工事は免れていると思うんですが、バイパス国道416号線の脇なので、国道の拡張工事には境内の一部が使われたっぽいですね。
境内を散策してもそれらしい遺構もありませんし、城址碑だけの城のようです。
しかし、朝倉氏に関する説明がないな・・・というのは思っていたんですが、白山神社を調べている間に、壮大な勘違いに気付きました。
越前には、黒丸城という城が2つあったんですね。
通りで"小"黒丸城とあるわけだ。
新田義貞と斯波高経の戦いで登場した黒丸城は、後に高経の家臣朝倉氏に与えられ、その飛躍の土台となった・・・という認識だったんですが、義貞と高経の戦場になったのは小黒丸城、朝倉氏の城は大黒丸城だったわけです。
早速、大黒丸城の場所を確認すると、国道416号線をそのまま北に進めばあるとのことで、黒丸城町なんて地名があるじゃないですか。
地名も似てたら、そら同じ城と勘違いしますわ(^^;)
 
小黒丸城から大黒丸城へは僅か5分ほど。
バイパス国道ですから、流れも速いし、すぐに到着・・・したんですが、1回通り過ぎたのでぐるっと集落を回って改めて到着。
遠目から見ると、城に最適な川沿いの丘陵地ですね。
これは分かり易い地形やな~と、黒丸城町の丘陵部を散策してみると、城に関する案内がない。
おっかしいな~と、丘陵で繋がっている西中野や池尻の方まで足を伸ばしてみたんですが、こちらにも無い。
北側には削平地や城道のような地形もあったんですが、20分ほど散策しても発見できず。
そこで、再びスマホで調べてみると、なんと大黒丸城は国道を挟んだ向かいの三宅という集落にあることが判明。
マジか?黒丸城町なのに城が無いんか?
結構な衝撃でした(^^;)
改めて三宅の集落へ行ってみると、あっさり発見。
 
 
案内板の横には、櫓台だったのか、小高い場所があって祠が置かれていました。
 
 
大黒丸城は、比高10mほどの丘陵にあった居館城郭だったようですね。
写真では判りにくいですが、丘陵の右手には土塁と堀の跡のような地形も残っていました。
 
 
丘陵内部はこんな感じ。
 
 
入った所は散策可能でしたが、この奥は竹が密生していて散策を断念しました。
結局、こちらの城も遺構と呼べるものは少なかったですね。
でも、黒丸城を2つ制覇できたし、誤認も解けたので満足ですわ(^^)
でも・・・
こんな地形があったら城跡と誤解するやろが~
 
 
黒丸城町の丘陵は大黒丸城と同高かつ至近なので、防御の観点からも向かい城か武家屋敷があったと思うんやけど・・・誰か調べてくれへんかな?(^^;)
 
つづく
 
参考:
小黒丸城
大黒丸城
地図付きはこちら
 

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