2019年4月30日火曜日

平成最後の日

いよいよ平成も幕を下ろしますな。
退位というのにも色々と議論がありましたが、今回は崩御に伴う改元ではないので、慶事として改元を迎えられるのはいい事だと思いますね。
個人的には、昭和生まれの人間として3元号目に入るので、なんだかんだ長く生きてきたという感があります。
経済的には、バブルの直前でスタートし、失われた10年、20年という低迷期があり、そして一時期に比べればやや上向いた感がある中で元号を終えることになりますな。
アップダウンの激しい元号だったという印象もありますが、それを言えば昭和も戦争がありましたし、明治も維新から始まっていますから、改元の間隔が広がっているので、当たり前の事なのかもしれません。
30年以上も続けば、良い事も悪い事もあると。
平成最後の日として個人的に思うのは、不敬にあたるのかもしれませんが、齢80を超えるまで全国の訪問を続けてこられてきた天皇陛下に、本当に長い間ご苦労様でしたと言いたいですね。
恐らく、日本の80代では最も移動距離の長い方のひとりだったと思われます。
心底、お体を労って頂きたいなと思いますね。
 

2019年4月24日水曜日

北陸北信ツーリング その4

前回のあらすじ
 
金沢城は圧巻の石垣群!
石垣の宝石箱や~
 
宿泊したテルメ金沢は朝食付き。
ややゆっくり目の朝食と朝風呂を味わい、出発です。
天気を心配していましたが、どうやら薄曇り程度で何とかなりそう。
まずは海方向にバイクを進め、のと里山海道へ。
ここは、元々は能登有料道路で、近年に無料開放された道です。
地図上で見るとはっきりしていますが、石川県のあのひたすら真っすぐの海岸線沿いに北東へと延びている道ですね。
この道沿いは、左手には砂浜が、右手には砂丘のような地形が続いており、なかなか独特な雰囲気で、同じ石川県内の海沿いの高速道でも、北陸道とはまた違った景色です。
交通量も、ガラガラというわけではありませんが、そこそこ快適に走れる量で、海を見ながら心地よく走れました。
 
 
そうこうしている内に今浜I.C.へ到着。
今日のまず第1の目的地は、ここから砂浜へと入れる千里浜なぎさドライブウェイです。
いざ、行かん!
・・・というわけで、訳も分からずテンションが上がってしまって写真を撮りまくってしまいました(^^;)
 
 
 
 
 
予想以上に海際まで近付けるんですよね。
SSTRがゴールにするのも解かりますわ。
これはテンションが上がる!
この日は平日ということもあって交通量も少なく、孤高感のある写真が撮れて満足満足(*^^*)
 
さて、次なる目標は、前田軍と佐々軍の間で攻防があった末森城。
千里浜なぎさドライブウェイの終点である千里浜で地図を覗いてみると、どうも、のと里山海道の今浜I.C.が最寄りの模様。
完全に寄る順番間違えてるやん・・・
仕方がないので、のと里山海道を今浜I.C.まで戻ります。
そこから、先ほどとは反対側の西へとルートを採り、国道471号線へ。
この国道471号線と国道159号線の交点に、末森城への登山道がありました。
国道159号線には大きな看板も建てられているので、見付けやすい城ですな。
国道の側道のような道をやや上ったところにある駐車場にバイクを止め、散策を開始すると、登山道入口にこんな立派な城址碑が。
 
 
さすがメジャーに城ですな。
ここから武家屋敷だった場所を抜け、登って行くと、主郭部分である三ノ丸に到着します。
あれ?
若宮丸があったはずやけど、どこにあった?
ま、後で回るとしよう。
三ノ丸は、やや技巧的な郭で、見応えがあります。
まず、馬掛場という削平地が分岐した先にあるんですが、そこと動線を区切るように空堀と土塁が設けられていました。
 
 
そして、二ノ丸への動線は、このような食違い虎口に。
 
 
上の二ノ丸から撮るとこんな感じです。
 
 
技巧的ですね。
そして、二ノ丸。
佐々軍は果敢に攻め、この二ノ丸まで落としたといいます。
 
 
二ノ丸は居住空間であったのか、広く、平坦でした。
三ノ丸に比べると、防御構造が薄いようです。
その上には本丸。
 
 
こちらは地形を利用した長円形という三日月というか、そんな形をしていました。
籠城する奥村長福を始めとした前田軍は、この本丸だけになりながら踏ん張ったんですから、どれだけ凄い事かというのを実感します。
そう実感するほど、本丸と二ノ丸の間には数mの高低差しか隔たりがありません。
本丸を進んで行くと、突端部は長い武者走り状の地形になっていました。
 
 
この先には搦手大門と呼ばれる搦手があったそうです。
 
 
次は、三ノ丸まで戻り、分岐の先にある馬掛場へ。
 
 
写真は一部ですが、相当な広さを持つ郭でした。
あまり整備されていないのが玉に瑕ですが、この広さだと字とは違い、馬を掛けて繋げた場所ではなく、馬を駆けさせた場所だったような気がしますね。
馬掛場から戻って進むと、行きに見失った若宮丸の入口が。
反対方向からやと、これは見落とすなぁ
 
 
右の下ってる道が登城道、正面が若宮丸の虎口です。
この細い道を登ると、大きな若宮丸に到達しました。
 
 
若宮丸の先まで行くと、その下にも削平地が。
縄張では、ここには若宮という社があったようです。
 
 
城の守護社だったんでしょうね。
いや~、さすが歴史的に有名な城だけあって、散策しやすく、遺構もバッチリ残ってて良い城でしたわ(^^)
 
参考:
千里浜なぎさドライブウェイ
末森城
地図付きはこちら
 

2019年4月18日木曜日

北陸北信ツーリング その3

前回のあらすじ
 
黒丸城って2つあったんやね~
現地に来てから気付いたわ(^^;)
 
2つの黒丸城に手間取ったお陰で、もう15:30。
海岸沿いに国道を走って三国湊や安宅関なんかにも寄ってみたいと思っていましたが、金沢城は訪れておきたいので、そこから時間を逆算すると、国道経由のルートでは無理っぽいですな。
というわけで、北陸道に戻って金沢まで一直線で時間を節約。
時間節約で高速を使ったとは言え、去年も、その前も実感しましたけど、この時期の北陸道はいいですな(^^)
石川県に入ると北陸道は海岸沿いを走って行くわけですが、春の海の雰囲気を感じながら遠目には白山の残雪が見え、なんとも趣があります。
そうこうしている間に金沢市内に入り、金沢西I.C.で北陸道を降りて東へ。
幹線道路を走り、国道157号線を北へ走れば、金沢城はすぐそこです。
前回来た時は、金沢城にはまだ金沢大学の一部が残っていた時代で、石川門の前まで行って、散策は全部移転してからにするかと思った記憶がありますな。
あれから17年。
二ノ丸五十間櫓も復元され、城として十分な雰囲気を持つようになりましたね。
金沢城の南側の駐輪場にバイクを止め、散策開始です。
まず出迎えてくれたのは、造られた時期が異なる石垣たち。
 
 
玉泉院丸の東面の石垣で、本丸付段にある三十間櫓の下辺りになります。
ここの石垣は時代がバラバラなので表情が違い、刻印も多く、なかなか見応えがありましたな。
次に玉泉院丸庭園。
 
 
池泉式の優美な庭園です。
外国人観光客の人がたくさんいました。
日本庭園も最近は人気のようですしね。
この玉泉院丸から今の尾山神社のある金谷出丸には、木橋が掛かっていました。
この鼠多門と鼠多門橋は、発掘と復元の工事中だそうです。
 
 
もちろん立ち入り禁止なんですが、工事の様子は見えるようになっていました。
鼠多門から庭園をそのまま廻って北側へ行くと、有名な色紙短冊積石垣があります。
 
 
この石垣は、日本で一番有名な石垣かもしれません。
この一角は色合いも豊かで、美術館の屋外展示型オブジェの趣さえありました。
文化の都金沢を、まるで集約した感すらありますね。
この玉泉丸から登って行くと、いよいよ金沢城の政治の中心であった二ノ丸。
 
 
うむ、広い。
当時は二ノ丸御殿があり、これほどは見渡せなかったでしょうが、御殿もどれほどの広さだったのか。
焼失が惜しいですね。
今や金沢城のシンボルとなった菱櫓と五十間櫓と橋詰門。
 
 
壮観ですな。
こんな長い二重多聞櫓は初めて見ますわ。
ほんと豪壮としか言いようがない。
ただ、開館時間を過ぎていたので、中には入れませんでした。
ま、復元やし、いいかな(^^;)
次は、写真右手の橋詰門へ。
 
 
桝形なので、櫓門は橋詰門の二ノ門です。
ここの石垣も綺麗ですな。
桝形を出て、高麗門形式の一ノ門。
 
 
右の櫓は橋詰門の続櫓。
堀沿いに歩いて行くと、五十間櫓と菱櫓の表の顔が見えます。
 
 
下から見ると、さすがに迫力がありますな。
この菱櫓は、三ノ丸の城門のひとつである河北門が見下ろせる位置にあります。
もちろん連携を狙っての事でしょう。
その河北門へ。
 
 
ここも櫓門の桝形です。
もう1枚。
 
 
門の右手には変わった部分がありますね。
そして、その背後には菱櫓が。
重厚かつ重層的です。
これぞ城!という感じ(^^)
この河北門の先は新丸広場。
名前からすると、江戸期に拡張された部分なんでしょう。
今はだだっ広い空間となっていました。
続いて、三ノ丸へ戻って石川門へ。
 
 
石川門は、他の門と違って現存建物です。
この石川門の桝形石垣は、修復の時代の関係で、石垣が全く違うので面白かったですね。
金沢城では、石川門と河北門、橋詰門で御三門と呼ぶそうです。
確かにどれも桝形門で、立派ですわ。
ちなみに、河北門には櫓が付随していませんが、当時は石川門のように続櫓があったようです。
資料が足りず復元されませんでしたが。
つまり、御三門は同水準の構造だったわけですね。
次は、三ノ丸へ戻って鶴ノ丸へ。
鶴ノ丸付近には、東ノ丸の北面石垣が残っており、尾山御坊から尾山城、そして金沢城へと改修された頃の石垣が残っています。
 
 
野趣溢れる野面積の石垣。
これぞ戦国の城という感じですな。
更に歩を進めると、鶴丸倉庫があります。
 
 
この倉庫も現存で、貴重な建物ですな。
陸軍が接収した後、修理されたようで、なんとなく近代風でした。
ここから登ると東ノ丸です。
 
 
そして本丸へ。
 
 
ん~、この2つの郭は、なんか放置な感じ。
二ノ丸との落差にびっくりします(^^;)
昔は園地として使われていたような痕跡はあるんですがねぇ
本丸北東の辰巳櫓跡からは、兼六園が見えました。
 
 
ちなみに辰巳櫓の石垣は、明治期の改修で石垣の形が変わってしまっており、やたらと細いです(^^;)
ちょっともったいないなぁ
それに対し、二ノ丸や三ノ丸に面する丑寅櫓跡と戌亥櫓跡はきちんと残っていました。
 
 
 
そして、更に進むと、本丸付段にある三十間櫓が。
 
 
これも現存建物です。
なんかポンと現れるのでびっくりしますが(^^;)
この三十間櫓から下りると駐輪場に戻ってきます。
その駐輪場の近くには、石垣の増設の跡が。
 

中央に筋が見えますね。
初期の隅部だった部分です。
最後に、陸軍によって改変された本丸辰巳櫓の直下をば。
 
 
湾曲した下段の石垣が陸軍の手によるものです。
結果的に勇壮な4段石垣になっていますが、下段は谷積ですし、やはり時代不詳な雰囲気になってしまってますね。
ま、それも時代の変遷を表すもので歴史の一部ではあるんですが。
 
満足感を漂わせて金沢城を出たのは18時前。
幹線道路に戻るのが遠回りだったので、金沢城の前身である尾山城や尾山御坊の名前を引き継いでいる尾山神社から路地を辿って昭和大通りへ。
そこから元来た道に戻って、国道8号線へ向かいます。
途中でバイクに給油をし、辿り着いた国道8号線沿いのテルメ金沢が本日の宿。
しかし、結構広い駐車場があったのに満車でビビりましたわ。
そんなに人気の温泉なのか!
中に入ると、典型的な健康ランド。
健康ランドもスーパー銭湯型温泉に押されて数は減りましたが、それなりに根強い人気を保っているようです。
ひとまず、黄味掛かった湯量の豊富な温泉で、人は多かったけど色々と楽しめました。
明日は念願の千里浜。
何とか晴れて欲しいですな。
 
つづく
 
参考:
金沢城
兼六園
金沢松島温泉
地図付きはこちら
 

2019年4月11日木曜日

北陸北信ツーリング その2

前回のあらすじ
 
防御力全国最強の県庁はさすがの威圧感。
 
福井城で出て、次に向かうは黒丸城。
下調べをしてきたので、マップでざっとうろ覚えの地形を確認し、ああこの辺この辺と出発したんですが、これがいけなかった。
下調べで、大きな川が合流する地点にあるということが分かっていたのと、黒丸城は足羽七城のひとつに挙げられることから、福井城の近くを流れる足羽川沿いを探してしまったんですね。
典型的な思い込みのパターンですな。
川の合流地点付近に来ると、どうも地形が違う。
おや?と思ってもう1度調べてみたら、足羽川と日野川の合流点に行ってしまったんですが、正解は少し北の日野川と九頭竜川の合流点だったんですね。

その合流点近くの地名は、その名も黒丸町。
今は田園と集落しかありませんが、当時は川筋が防御力となる沼城だったんでしょう。
集落に足を踏み入れると、城址碑がありました。
 
 
城址碑のある場所は小高くなっています。
でも、圃場整備前は別の場所に城址碑があったようで、櫓台跡などではないみたいですね。
 
 
城址碑の向こうに見えるのが九頭竜川の堤で、どういう性格の城が一目瞭然です。
簡単な説明碑もありました。
 
 
地図を見てみると、近くに神社がありますね。
城跡の近くの寺社には、城の郭をそのまま転用したパターンもあるので、行ってみる価値はありそうです。
遺構が少しでも残っているかもしれませんし。
というわけで、白山神社へ。
予想通り、白山神社にも小黒丸城への言及がありました。
 
 
神社は集落の一角なので、圃場整備の工事は免れていると思うんですが、バイパス国道416号線の脇なので、国道の拡張工事には境内の一部が使われたっぽいですね。
境内を散策してもそれらしい遺構もありませんし、城址碑だけの城のようです。
しかし、朝倉氏に関する説明がないな・・・というのは思っていたんですが、白山神社を調べている間に、壮大な勘違いに気付きました。
越前には、黒丸城という城が2つあったんですね。
通りで"小"黒丸城とあるわけだ。
新田義貞と斯波高経の戦いで登場した黒丸城は、後に高経の家臣朝倉氏に与えられ、その飛躍の土台となった・・・という認識だったんですが、義貞と高経の戦場になったのは小黒丸城、朝倉氏の城は大黒丸城だったわけです。
早速、大黒丸城の場所を確認すると、国道416号線をそのまま北に進めばあるとのことで、黒丸城町なんて地名があるじゃないですか。
地名も似てたら、そら同じ城と勘違いしますわ(^^;)
 
小黒丸城から大黒丸城へは僅か5分ほど。
バイパス国道ですから、流れも速いし、すぐに到着・・・したんですが、1回通り過ぎたのでぐるっと集落を回って改めて到着。
遠目から見ると、城に最適な川沿いの丘陵地ですね。
これは分かり易い地形やな~と、黒丸城町の丘陵部を散策してみると、城に関する案内がない。
おっかしいな~と、丘陵で繋がっている西中野や池尻の方まで足を伸ばしてみたんですが、こちらにも無い。
北側には削平地や城道のような地形もあったんですが、20分ほど散策しても発見できず。
そこで、再びスマホで調べてみると、なんと大黒丸城は国道を挟んだ向かいの三宅という集落にあることが判明。
マジか?黒丸城町なのに城が無いんか?
結構な衝撃でした(^^;)
改めて三宅の集落へ行ってみると、あっさり発見。
 
 
案内板の横には、櫓台だったのか、小高い場所があって祠が置かれていました。
 
 
大黒丸城は、比高10mほどの丘陵にあった居館城郭だったようですね。
写真では判りにくいですが、丘陵の右手には土塁と堀の跡のような地形も残っていました。
 
 
丘陵内部はこんな感じ。
 
 
入った所は散策可能でしたが、この奥は竹が密生していて散策を断念しました。
結局、こちらの城も遺構と呼べるものは少なかったですね。
でも、黒丸城を2つ制覇できたし、誤認も解けたので満足ですわ(^^)
でも・・・
こんな地形があったら城跡と誤解するやろが~
 
 
黒丸城町の丘陵は大黒丸城と同高かつ至近なので、防御の観点からも向かい城か武家屋敷があったと思うんやけど・・・誰か調べてくれへんかな?(^^;)
 
つづく
 
参考:
小黒丸城
大黒丸城
地図付きはこちら
 

2019年4月5日金曜日

北陸北信ツーリング その1

新しい元号が決まりましたね。
令和
令という字は日本でも中国でも使われたことのない文字で、新しい雰囲気があっていいかもしれません(^^)
個人的には、頭文字Kの元号が来るかもと予想していたんですが、はずれちゃいました。
Kの元号は慶・嘉といった佳字や、寛・久・弘といった良い状態を表す字、さらに建や興といった前向きな字など、タレントが豊富だったんですがね。
それはそうと振り返って自分の事を考えれば、平成時代の積み残しが。
去年のツーリングの記事を書いてないんですわ。
いやいや、いかんいかん。
というわけで、1年近く前の春のツーリング記事をば。
 
当初、春のツーリングは3泊4日で千葉へ行こうと考えてました。
しかし、直前で予報を見ると、晴雨雨曇の予報。
千葉ともなると、移動はほぼ1日掛かりですからね。
行きと帰りは濡れないが、千葉滞在中は雨で動けないなんて、ちょっと考えられない予報。
仕方が無いので、雨に降られない地方を探していくと、どうも北陸は前半2日は大丈夫らしい。
ん?去年も富山は行ったよな?と思いながら、いざ北陸へ!
 
今回は、まだ新名神開通による割引があるので、行きは高槻まで新名神高速を使用。
高槻から名神高速、京滋バイパス、名神高速、北陸道と辿って行きます。
福井に到着したの11時を過ぎた頃。
朝がゆっくり目だったので、こんなもんかな?
福井でまずは昼食を摂り、そのまま福井城へ向かいます。
福井城は何度か来てますが、まともに写真を撮ったことがあまり無くて、今回は写真撮影がメインですな。
まずは、大手門たる瓦御門から。
瓦御門の近くには、越前藩の維新の英傑、三岡八郎と横井小楠の像がありました。
 
 
維新の志士たちの中では地味な人ですが、新政府の草創期を含め、重要な役回りを果たした両人ですな。
ここから数10mで瓦御門です。
 
 
ん~なんて強そうな県庁だろうか・・・
内部に警察を擁しているのも強い!
構えでは47都道府県最強かもしれません(笑)
本丸に入ると、福井城を築城した結城秀康の銅像があります。
 
 
越前松平家の祖にして、家康の次男。
武将としての器量もなかなかであったようです。
ただ、家康に嫌われた、その1点だけが不運でした。
ここから、県庁と県警の間を通って奥に行くと、天守台が見えてきます。
 

 
当然ながら、今は四層五階だったという天守閣はありませんが、天守台の大きさから考えると、雄藩に相応しい規模だったようですね。
天守台に入ると、福井の名前の元になったと言われる福の井という井戸がありました。
 
 
今も水を湛えた井戸です。
訪れた時は、ちょうど福井のお茶のイベントをやっていて、緑茶を一服頂きました。
うん、熱・・・暑い。
さすがに5月半ばの晴れの日に屋外で熱いお茶を頂くと、汗がダラダラ出ますわ(^^;)
汗をかきかき天守台の中を散策していると、福井地震の痕跡が生々しいですな。
こんな巨石がこれだけ移動してしまうなんて、やっぱり地震の威力は凄まじいですな。
 
 
天守台から西を眺めると、藩主が日常を過ごす御殿と政務の場である本丸を結ぶ、廊下橋と山里御門があります。
こちらは復元されており、城らしい雰囲気がありますな。
 
 
反対側に下り、廊下橋と山里御門と天守台石垣。
 
 
雰囲気抜群ですな。
廊下橋の近景。
 
 
のんびり歩いてるけど、あんた邪魔やで(^^;)
ちなみに、福井城の本丸の縄張はこんな感じです。
 
 
いや~、写真を撮れてなかったのが心残りだったんですが、満足ですわ(^^)
 
つづく
 
参考:
福井城
地図付きはこちら