2018年10月17日水曜日

慶喜のこと

西郷どんがいよいよ戊辰戦争に入りました。
戊辰戦争から江戸城無血開城までは、西郷隆盛の人生の中でも、最も華やかな活躍を見せた場面ではないでしょうか。
個人的には、坂本竜馬暗殺から大政奉還、鳥羽伏見の戦い、江戸城明け渡しまで、大河ドラマのハイライトで見逃せないと思っていました。
竜馬が暗殺される週は、用事があったので録画をしておいたんですが、ぶらタモリやNHKスペシャルの孀婦岩なんかを録っていたいたら、
消えてもうたやないかい・・・
早く見なかったのが悪いんですがね。
同じメーカーの別の録画機では容量不足の時にぎりぎりまで録るという設定だったので、油断してました。
まさか、古いのから消える設定になっていたとは・・・
 
それはさて置き、慶喜の大坂退去についてなんですが、ドラマでは英仏の代理戦争となるのを避けた、という解釈で進められていましたね。
その側面も多分にあったと思います。
ただ、慶喜が維新後にほとんど語らなかった為に、幕末史の大きな謎のひとつになっていますね。
近年では、京都政界に置ける慶喜の政治力は、朝廷や天皇の権威を背景にしたもので、それを奪われたことが慶喜の大坂退去に繋がったという説が出ているようです。
慶喜の徳川家継承は慶応2年(1866)8月、将軍就任は12月ですが、その12月には孝明天皇が崩御しました。
異人嫌いとして有名で、以前ほどの影響力は無かったとは言え、公武合体派でもあった孝明天皇がいなくなるというのは、徳川家の影響力を残そうとしていた慶喜にとっては痛手だったでしょう。
以降、薩長を筆頭とする討幕派の攻めを躱すように四侯会議での粘り腰、機先を制しての大政奉還と妙手を打っていくわけですが、この辺りはさすがの勘というか、読みと言うか、政治的センスの強さを感じさせますな。
ところが、鳥羽伏見の戦いの頃から、急にその政治力を出さなくなってしまいます。
失ったではなく、出さなくなったという感じ。
この豹変ぶりが、何よりも朝敵になることを恐れた、という説の根拠ですね。
確かに、変わりようが凄いだけに説得力があります。
出身が、尊王の水戸学の本拠地でもありますし。
そこに、新たな説が出てきているわけです。
実際はどうだったのか、本人が語らなかっただけに解明は難しいでしょうが、解析が進むと嬉しいですね。
 

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