北朝鮮の金正恩労働党委員長が25日から中国を訪れ、中国の習近平国家主席と26日に会談しました。
オリンピック前後から、北朝鮮関係の外交の動きが早く大きくなっており、今回もやや驚きましたね。
いくつものメディアでニュースとして出ているので、詳細は参照してもらうとして、金正恩委員長が労働党委員長に就任してから初の外遊となるだけに、そこに並々ならぬ本気度が窺えますな。
中国と北朝鮮は、金正恩委員長の兄金正男氏を暗殺してから関係がかなり悪化していました。
そもそもが、中国の手に余るようになった金正恩委員長の対抗馬として金正男氏を立てようとしているという噂があったことから、金正恩委員長が兄の暗殺を指示したと言われていますので、どう転んでも関係悪化は避けられなかったはずです。
ただ、ここに来て関係改善を図るというのは、アメリカ主導で中国も国連安保理の決議によって徹底を余儀なくされている経済制裁がかなり効いているという側面があるのでしょう。
この辺りは、決断が早く、そして徹底するという、ビジネスマン上がりのトランプ大統領の手腕と言えるでしょうか。
今まではのらりくらりと躱しつつ果実だけを取って来ることができましたからね。
それが、今回は通用し難いという判断なのでしょう。
また、5月とも言われる米朝首脳会談を控え、アメリカに口出しできる中国の発言力に期待するという一面もあるんでしょうな。
中国としても、アメリカとの貿易戦争の入口が見えている今、北朝鮮は、言う事を聞かないならややこしい駒だが、言う事を聞くなら使える駒ですしね。
何かと使い方がある。
ただ、中国側メディアが半島の非核化に言及しているのに対し、北朝鮮側のメディアはそれに触れていません。
この辺り、微妙な両国の立場の違いが表れていますね。
ちょっと心配な部分ではあります。
転じて日本。
昔からですが、北朝鮮はアメリカの方向を向いており、米朝で妥結してしまうと、日本は交渉の余地が少ないというのがありますな。
ここにどうやって拉致問題を絡めつつ、日朝関係を変えていくのか。
日本の外交力が試される場面ですな。
ですが、メディアや国会は、○○が書いてた、△△が言ってた、みたいな小学校の学級会みたいなことばかり。
確かに官僚による決裁文書の書き換えはかなり大きな問題ですが、もう検察が動いてる案件でもありますし、司法に任せておけばいいのに、と、日々感じています。
その為の司法ですからね。
国会は、立法府ですから。
その辺りをしっかりと弁えていて欲しいものです。
もうすぐ参議院で予算が可決されますが、今回の通常国会で予算についてきちんと議論されていましたか?
働き方改革についてはすったもんだがありましたが、その他の予算についてはほぼ無風だったような感じですね。
ちゃんと仕事をしてほしいもんだ。
2018年3月28日水曜日
2018年3月21日水曜日
Windows7起動不可 その2
前回のあらすじ
WindowsUpdateで起動不可に陥る。
しかし、修復ディスクなんて作ってねぇよ!
修復ディスクが無い為、起動不可のまま週明けを迎え、どこぞから修復ディスクをゲットしてきました。
32bitもしくは64bitの数字さえ合わせとけば、修復ディスクはメーカーを問わないみたいですね。
ゲットしてきたのは、Lenovo版の修復ディスク。
起動不可になったのはDellのマシンですが、CDから起動してみると普通に動きました。
ただ、Lenovo謹製修復ディスクは細かい修復メニューが無く、起動の修正は全部自動で診断して修復するようになっているようです。
なので、コマンドからbootrecを打ったりする必要はありませんでした。
で、1度目の修復はすぐに終わって再起動が掛かったものの、変わらず起動不可。
2度目に修復ディスクを起動して修復を掛けると、今度は5分ほど何やらディスクにアクセスし、そのまま再起動で無事Windowsが起動しました。
色々調べてみると、自動修復やコマンド打ったりするのも含めて、複数回修復ディスクを起動するというのは、ままあるみたいですね。
何はともあれ復旧!
と、思いきや、この後も少しハマりました。
無事に起動したので、早速修復ディスクを作っておこうと思ったんですが、
0x80070057 パラメータが間違っています。
パラメータなんて指定するところ無ぇよ!
色々調べてみると、予約語の類が他と重複してる可能性がありそうな感じ。
スタートアップのアプリを外したとか、あるアプリをアンインストールしたとかで動くようになったとの報告がありました。
なので、スタートメニュー内のスタートアップと、msconfigからスタートアップを全部外して起動。
しかし、状態変わらず・・・
Windowsのフォーラムで示されていた、地域と言語の項目の小数点の設定や、レジストリにCopyFileBufferdSynchronousIoのキー追加などのトラブルシュートをやってみても、状態は変わりませんでした。
ん~どこかに原因はあるんやろうけど、Windowsの状態は正常やし、これ以上設定を触るのは面倒やなぁ
Dellで同じエラーの報告もあるみたいで、メーカー特有の症状の可能性もあるみたいやしねぇ
というわけで、取りあえず他のメーカーの修復ディスクで修復可能なのは確認できたので、暇があればWindowsPEを作るということにしました。
でも、PEを作るにはADKとか入れなあかんから、これも面倒なんよな~
WindowsUpdateで起動不可に陥る。
しかし、修復ディスクなんて作ってねぇよ!
修復ディスクが無い為、起動不可のまま週明けを迎え、どこぞから修復ディスクをゲットしてきました。
32bitもしくは64bitの数字さえ合わせとけば、修復ディスクはメーカーを問わないみたいですね。
ゲットしてきたのは、Lenovo版の修復ディスク。
起動不可になったのはDellのマシンですが、CDから起動してみると普通に動きました。
ただ、Lenovo謹製修復ディスクは細かい修復メニューが無く、起動の修正は全部自動で診断して修復するようになっているようです。
なので、コマンドからbootrecを打ったりする必要はありませんでした。
で、1度目の修復はすぐに終わって再起動が掛かったものの、変わらず起動不可。
2度目に修復ディスクを起動して修復を掛けると、今度は5分ほど何やらディスクにアクセスし、そのまま再起動で無事Windowsが起動しました。
色々調べてみると、自動修復やコマンド打ったりするのも含めて、複数回修復ディスクを起動するというのは、ままあるみたいですね。
何はともあれ復旧!
と、思いきや、この後も少しハマりました。
無事に起動したので、早速修復ディスクを作っておこうと思ったんですが、
0x80070057 パラメータが間違っています。
パラメータなんて指定するところ無ぇよ!
色々調べてみると、予約語の類が他と重複してる可能性がありそうな感じ。
スタートアップのアプリを外したとか、あるアプリをアンインストールしたとかで動くようになったとの報告がありました。
なので、スタートメニュー内のスタートアップと、msconfigからスタートアップを全部外して起動。
しかし、状態変わらず・・・
Windowsのフォーラムで示されていた、地域と言語の項目の小数点の設定や、レジストリにCopyFileBufferdSynchronousIoのキー追加などのトラブルシュートをやってみても、状態は変わりませんでした。
ん~どこかに原因はあるんやろうけど、Windowsの状態は正常やし、これ以上設定を触るのは面倒やなぁ
Dellで同じエラーの報告もあるみたいで、メーカー特有の症状の可能性もあるみたいやしねぇ
というわけで、取りあえず他のメーカーの修復ディスクで修復可能なのは確認できたので、暇があればWindowsPEを作るということにしました。
でも、PEを作るにはADKとか入れなあかんから、これも面倒なんよな~
2018年3月18日日曜日
Windows7起動不可 その1
3/13にWindowsのマンスリーアップデートがありました。
毎月の事なので、特に気に留めていなかったのですが、木曜にWindows7端末を起動してみると、「起動しています」の画面からすぐにメーカーロゴの画面に戻ってしまう状態に。
ん~困ったもんだ・・・
時系列に言うと、いつも真っ先に電源を入れてから、暖房を入れたりとか他の事をするので、最初に見たのは、更新適用後のシャットダウン画面でした。
「あぁ、そういえば更新やったな」なんて思いながら次に画面を確認すると、メーカーロゴ。
「ん?えらいシャットダウンに時間が掛かってんなぁ」なんて思ってましたが、それは何度目かの起動だったみたいですね。
そのまま画面を見ていると、ブートローダーが立ち上がり、Windowsの起動画面になってすぐリブートしてメーカーロゴ。
これアカンやつや・・・
デュアルブート環境なので、そのままubuntuを選んで立ち上げてみると、すんなりと立ち上がりました。
どうやらHDDの故障では無さそう。
色々調べてみると、Windows Updateの中にはマスターブートレコード(MBR)やブートセクタ(最初に読みに行く場所)まで更新に行くものがあるようですね。
そして、その更新が掛かると、デュアルブート環境は想定外なので起動不可になってしまうようです。
デュアルブート環境にしてるくせに、これは初めて知りました。
ん~勉強不足!
ubuntu上からなんとか修復できないかboot-repairなんてアプリも使ってみましたが、Windows起動不可は変わらず。
そりゃそうだ。
これは、ブートローダの修復がメインのアプリで、ついでにMBRの修復をしてくれるだけ。
MBRはちゃんと動いてるし、Windows環境のブートマネージャーのお世話までしてくれへんわな。
その後、色々調べましたが、Windowsのブート環境を修正する為には、どうしてもインストールディスクか修復ディスクが要るようですね。
しかし、最近のプリインストールモデルにはインストールディスクなんて付いておらず、うちのPCもまたしかり。
更には、修復ディスクなんて作った記憶はないわけで。
初期のイメージバックアップは取ってるんですがねぇ
メーカー付属のリペアディスクも試してみましたが、予想通りメーカー謹製の修復プログラムが立ち上がるだけ。
そんなわけで、この週末は修復を諦めました。
修復ディスクと言っても、言わばWindowsのLiveCDなわけで、環境にそれほど依存しないはず。
他で作った修復ディスクはあるので、それを借用して動けばいいんですがねぇ
それでも無理なら、WindowsPEのCDを作って対応するしか無いなぁ・・・
つづく
毎月の事なので、特に気に留めていなかったのですが、木曜にWindows7端末を起動してみると、「起動しています」の画面からすぐにメーカーロゴの画面に戻ってしまう状態に。
ん~困ったもんだ・・・
時系列に言うと、いつも真っ先に電源を入れてから、暖房を入れたりとか他の事をするので、最初に見たのは、更新適用後のシャットダウン画面でした。
「あぁ、そういえば更新やったな」なんて思いながら次に画面を確認すると、メーカーロゴ。
「ん?えらいシャットダウンに時間が掛かってんなぁ」なんて思ってましたが、それは何度目かの起動だったみたいですね。
そのまま画面を見ていると、ブートローダーが立ち上がり、Windowsの起動画面になってすぐリブートしてメーカーロゴ。
これアカンやつや・・・
デュアルブート環境なので、そのままubuntuを選んで立ち上げてみると、すんなりと立ち上がりました。
どうやらHDDの故障では無さそう。
色々調べてみると、Windows Updateの中にはマスターブートレコード(MBR)やブートセクタ(最初に読みに行く場所)まで更新に行くものがあるようですね。
そして、その更新が掛かると、デュアルブート環境は想定外なので起動不可になってしまうようです。
デュアルブート環境にしてるくせに、これは初めて知りました。
ん~勉強不足!
ubuntu上からなんとか修復できないかboot-repairなんてアプリも使ってみましたが、Windows起動不可は変わらず。
そりゃそうだ。
これは、ブートローダの修復がメインのアプリで、ついでにMBRの修復をしてくれるだけ。
MBRはちゃんと動いてるし、Windows環境のブートマネージャーのお世話までしてくれへんわな。
その後、色々調べましたが、Windowsのブート環境を修正する為には、どうしてもインストールディスクか修復ディスクが要るようですね。
しかし、最近のプリインストールモデルにはインストールディスクなんて付いておらず、うちのPCもまたしかり。
更には、修復ディスクなんて作った記憶はないわけで。
初期のイメージバックアップは取ってるんですがねぇ
メーカー付属のリペアディスクも試してみましたが、予想通りメーカー謹製の修復プログラムが立ち上がるだけ。
そんなわけで、この週末は修復を諦めました。
修復ディスクと言っても、言わばWindowsのLiveCDなわけで、環境にそれほど依存しないはず。
他で作った修復ディスクはあるので、それを借用して動けばいいんですがねぇ
それでも無理なら、WindowsPEのCDを作って対応するしか無いなぁ・・・
つづく
2018年3月13日火曜日
飛騨富山ツーリング その5
前回のあらすじ
下呂温泉熱すぎ!
桜谷公園を出発し、上中下の内の上呂を過ぎると、下呂地域とはお別れです。
また、下呂温泉には1泊してみたいですね。
高山へと向かう国道41号線は、飛騨川沿いを北上東進しながら延びていきますが、久々野で東の野麦峠へ向かう飛騨川と別れを告げ、北西に山を越えます。
ここが分水嶺で、山を越えると、今度は北流する宮川沿いの道となり、宮川は神通川となって富山湾に注ぐわけですね。
ここまで来れば、なんだかひと山越えた感じです。
飛騨には、地域としてざっと大きく4つの塊があるんですね。
一番南の下呂地域、そこからかなり北に離れた高山地域、そこから更に山ひとつ北に越えた古川地域、そして古川地域と同じ飛騨市ながら北東に離れた神岡地域。
これ以外に白川村などの庄川の川筋というのもありますが、歴史的に見てもこの4つが飛騨を代表する地域でしょう。
南北朝時代から戦国時代を見ると、この4つの地域にそれぞれ勢力が勃興しました。
南北朝時代早々には国府のある古川盆地に姉小路氏が中央から下って勢力を築き、それからやや遅れて神岡地域こと高原郷に江馬氏が、下呂地域に三木氏が興ってきたのが史料から窺えます。
高山盆地は、守護京極氏の家臣で守護代を務めた多賀氏が拠っていたようですね。
そして、戦国時代に入ると、三木氏が高山盆地までを勢力圏として掌握し、姉小路氏や江馬氏と攻伐を繰り広げました。
まさに、今、辿った道を三木氏も辿って勢力を拡大していったわけですな。
地勢を見ると、三木氏の本拠である下呂市の萩原地区とその周辺は、いくつかの細流が飛騨川に合流して、飛騨の中では盆地が広い部分なんですが、高山盆地は萩原地区の細流よりも大きな川が互いに合流する、より大きな盆地ですし、古川盆地は2本の大きな川が作り出した肥沃な盆地です。
こうして見ると、萩原から高山盆地に進出する三木氏は、戦国時代に山間から平野部に進出して勃興した、いくつもの戦国大名の物語と同じようなものなのかもしれませんね。
そして、次に目指すのは、その三木氏が、本拠である萩原の桜洞城から、高山盆地に本拠を移すべく築かれた松倉城なのです。
ちなみに、今回の旅には副題がありまして、それは、「松倉城の旅」なんですよね。
高山に2回も泊まったことがありながら行けていない飛騨松倉城と、ダムの工事による通行止めで行くことができなかった越中松倉城。
最初に高山に泊まってから、と言っても野宿ですが、22年の時を経て、ようやく1つめの松倉城に到達しました。
いや~長かった・・・。
松倉城へは、高山市街から国道158号線に入り、飛騨民俗村といういくつかの体験施設なんかが集まった松倉城の北中腹を過ぎてそのまま山へ向かうと、城のすぐ西側に到達することができます。
まずは、城への登山道入口のかなり手前にあった説明板をば。
この説明板からかなり上った所に、登山道入口がありました。
一帯は公園として整備されていて、駐車スペースもあります。
ここから登山道に入って行くわけですが、既にそこは城域で、堀切も明確に残っていましたね。
ここは明確な堀切ですが、他にも浅くなった不明瞭な堀切が確認できます。
更に進んで行けば、すぐに主郭部の石垣が見えてきました。
ん?なんかいる・・・
なぜかカモシカがお出迎えしてくれてますな(^^;)
しかし、こんな山上に高石垣は見事ですね。
石垣の脇から主郭部に入ると、まずは搦手門の跡。
そして三ノ丸へ。
三ノ丸の西南隅櫓台。
と、カモシカ(笑)
次いで、三ノ丸の中心部分。
そして、カモシカ。
相当警戒されているようだ・・・
一方その傍らでは、研究者らしき人が石垣の調査をしていました。
お互いがお互いの存在を知りつつも、何ら気にせずに居る。
なんとも、独特の空気感で、自然過ぎてちょっとした感動のようなものがありました。
いや、大げさかな?
続いて三ノ丸の南石門跡と東南隅櫓跡。
続いて二ノ丸。
二ノ丸の先は主郭部の端になりますが、こちらが大手のようですね。
突端部には堀切が明確に残っていました。
写真右手の窪みが堀切です。
いや、位置的には空堀と言った方がいいのかな?
二ノ丸からは、本丸の北に続く段郭も明確に見えました。
ただし、こちらは石垣造ではありません。
次は、いよいよ本丸へ。
小さいながら、本丸虎口は桝形となっていました。
そして、本丸全景。
更に、城址碑と残雪の山々。
ここから見ると、北の段郭も凄く分かり易い。
ちなみに、本丸は2段構成でした。
下は本丸下段から本丸の石垣。
帰りは再びカモシカがお見送り(^^)
バイバイ!
しかし、カモシカと遭遇したのは2度目やけど、相変わらず鹿と違って逃げずに堂々としてますな(笑)
何だか楽しかった(^^)
つづく
参考:
松倉城
地図付きはこちら
下呂温泉熱すぎ!
桜谷公園を出発し、上中下の内の上呂を過ぎると、下呂地域とはお別れです。
また、下呂温泉には1泊してみたいですね。
高山へと向かう国道41号線は、飛騨川沿いを北上東進しながら延びていきますが、久々野で東の野麦峠へ向かう飛騨川と別れを告げ、北西に山を越えます。
ここが分水嶺で、山を越えると、今度は北流する宮川沿いの道となり、宮川は神通川となって富山湾に注ぐわけですね。
ここまで来れば、なんだかひと山越えた感じです。
飛騨には、地域としてざっと大きく4つの塊があるんですね。
一番南の下呂地域、そこからかなり北に離れた高山地域、そこから更に山ひとつ北に越えた古川地域、そして古川地域と同じ飛騨市ながら北東に離れた神岡地域。
これ以外に白川村などの庄川の川筋というのもありますが、歴史的に見てもこの4つが飛騨を代表する地域でしょう。
南北朝時代から戦国時代を見ると、この4つの地域にそれぞれ勢力が勃興しました。
南北朝時代早々には国府のある古川盆地に姉小路氏が中央から下って勢力を築き、それからやや遅れて神岡地域こと高原郷に江馬氏が、下呂地域に三木氏が興ってきたのが史料から窺えます。
高山盆地は、守護京極氏の家臣で守護代を務めた多賀氏が拠っていたようですね。
そして、戦国時代に入ると、三木氏が高山盆地までを勢力圏として掌握し、姉小路氏や江馬氏と攻伐を繰り広げました。
まさに、今、辿った道を三木氏も辿って勢力を拡大していったわけですな。
地勢を見ると、三木氏の本拠である下呂市の萩原地区とその周辺は、いくつかの細流が飛騨川に合流して、飛騨の中では盆地が広い部分なんですが、高山盆地は萩原地区の細流よりも大きな川が互いに合流する、より大きな盆地ですし、古川盆地は2本の大きな川が作り出した肥沃な盆地です。
こうして見ると、萩原から高山盆地に進出する三木氏は、戦国時代に山間から平野部に進出して勃興した、いくつもの戦国大名の物語と同じようなものなのかもしれませんね。
そして、次に目指すのは、その三木氏が、本拠である萩原の桜洞城から、高山盆地に本拠を移すべく築かれた松倉城なのです。
ちなみに、今回の旅には副題がありまして、それは、「松倉城の旅」なんですよね。
高山に2回も泊まったことがありながら行けていない飛騨松倉城と、ダムの工事による通行止めで行くことができなかった越中松倉城。
最初に高山に泊まってから、と言っても野宿ですが、22年の時を経て、ようやく1つめの松倉城に到達しました。
いや~長かった・・・。
松倉城へは、高山市街から国道158号線に入り、飛騨民俗村といういくつかの体験施設なんかが集まった松倉城の北中腹を過ぎてそのまま山へ向かうと、城のすぐ西側に到達することができます。
まずは、城への登山道入口のかなり手前にあった説明板をば。
この説明板からかなり上った所に、登山道入口がありました。
一帯は公園として整備されていて、駐車スペースもあります。
ここから登山道に入って行くわけですが、既にそこは城域で、堀切も明確に残っていましたね。
ここは明確な堀切ですが、他にも浅くなった不明瞭な堀切が確認できます。
更に進んで行けば、すぐに主郭部の石垣が見えてきました。
ん?なんかいる・・・
なぜかカモシカがお出迎えしてくれてますな(^^;)
しかし、こんな山上に高石垣は見事ですね。
石垣の脇から主郭部に入ると、まずは搦手門の跡。
三ノ丸の西南隅櫓台。
と、カモシカ(笑)
次いで、三ノ丸の中心部分。
そして、カモシカ。
相当警戒されているようだ・・・
一方その傍らでは、研究者らしき人が石垣の調査をしていました。
お互いがお互いの存在を知りつつも、何ら気にせずに居る。
なんとも、独特の空気感で、自然過ぎてちょっとした感動のようなものがありました。
いや、大げさかな?
続いて三ノ丸の南石門跡と東南隅櫓跡。
二ノ丸の先は主郭部の端になりますが、こちらが大手のようですね。
突端部には堀切が明確に残っていました。
写真右手の窪みが堀切です。
いや、位置的には空堀と言った方がいいのかな?
二ノ丸からは、本丸の北に続く段郭も明確に見えました。
ただし、こちらは石垣造ではありません。
次は、いよいよ本丸へ。
小さいながら、本丸虎口は桝形となっていました。
そして、本丸全景。
更に、城址碑と残雪の山々。
ここから見ると、北の段郭も凄く分かり易い。
ちなみに、本丸は2段構成でした。
下は本丸下段から本丸の石垣。
帰りは再びカモシカがお見送り(^^)
バイバイ!
しかし、カモシカと遭遇したのは2度目やけど、相変わらず鹿と違って逃げずに堂々としてますな(笑)
何だか楽しかった(^^)
つづく
参考:
松倉城
地図付きはこちら
2018年3月8日木曜日
オリンピックの後で
オリンピックは、平和の祭典です。
外交的に厳しい関係にある国同士も、オリンピック期間中は融和ムードがなんとなく醸し出されることが多いですが、オリンピックで流れを堰止めするようなところもあり、オリンピック後に外交が動き出す事がありますね。
前回の冬季オリンピックであるソチオリンピックの後は、ロシアがウクライナに侵攻しました。
これは開催国だから特にそのタイミングになったというのもあったんですが、今回も開催国と開催国の隣国でそれが起きましたね。
北朝鮮は、今年に入ってから急速に融和モードに入り、オリンピックと韓国をテコに表面上は譲歩してきました。
表のNo.2をオリンピックに派遣したばかりか、裏のNo.2とも言える、肉親の妹も外交担当者として派遣し、カードを切ってきましたわけです。
そして今回の条件。
体制保障と引き換えの核放棄、そして下手をすれば軍事行動に繋がりかねない米韓軍事演習への理解。
表面上は、以前では考えられない方針の転換に写ります。
一方、トランプ米大統領は、これまでの歴代政権による米朝交渉を教訓として捉えており、圧力は徹底して掛けるという姿勢で、上の条件が出ても圧力を緩和する姿勢は見せていません。
この経済制裁がかなり効いているのかも知れませんが、そこは瀬戸際外交と微笑み外交を駆使する北朝鮮、苦しくても色々と外交的な策は練っているかと思われます。
北朝鮮の真意がどこにあるのか、しばらくは注意して見ていきたいですね。
外交的に厳しい関係にある国同士も、オリンピック期間中は融和ムードがなんとなく醸し出されることが多いですが、オリンピックで流れを堰止めするようなところもあり、オリンピック後に外交が動き出す事がありますね。
前回の冬季オリンピックであるソチオリンピックの後は、ロシアがウクライナに侵攻しました。
これは開催国だから特にそのタイミングになったというのもあったんですが、今回も開催国と開催国の隣国でそれが起きましたね。
北朝鮮は、今年に入ってから急速に融和モードに入り、オリンピックと韓国をテコに表面上は譲歩してきました。
表のNo.2をオリンピックに派遣したばかりか、裏のNo.2とも言える、肉親の妹も外交担当者として派遣し、カードを切ってきましたわけです。
そして今回の条件。
体制保障と引き換えの核放棄、そして下手をすれば軍事行動に繋がりかねない米韓軍事演習への理解。
表面上は、以前では考えられない方針の転換に写ります。
一方、トランプ米大統領は、これまでの歴代政権による米朝交渉を教訓として捉えており、圧力は徹底して掛けるという姿勢で、上の条件が出ても圧力を緩和する姿勢は見せていません。
この経済制裁がかなり効いているのかも知れませんが、そこは瀬戸際外交と微笑み外交を駆使する北朝鮮、苦しくても色々と外交的な策は練っているかと思われます。
北朝鮮の真意がどこにあるのか、しばらくは注意して見ていきたいですね。
2018年3月5日月曜日
飛騨富山ツーリング その4
前回のあらすじ
郡上八幡でゲットしたキュウリの輪切りは、自らのケツで皮を剥いてしまいましたとさ。
お腹が満たされた和良を出発し、引き続き国道256号線を東へ。
トンネルを2本ほど抜けると、国道41号線へと突き当たります。
濃尾平野から飛騨方面へは、国道156号線と41号線が出ており、これに長野方面の国道19号線を合わせて、綺麗に放射状に3本の道が延びているんですが、これでその西側の2本の間の山道を走破したことになりますね。
今でこそ、こんなに簡単に山越えが可能ですが、人力馬力の昔は大変だったと思います。
それこそ山ひとつで文化圏が変わるほどに。
道具の進歩というのは凄いですな。
そんな感慨に耽りつつ、しばし国道41号線を走って行くと、いよいよ下呂市街が近付いてきました。
この温泉街には、有名な露天風呂があります。
その名は、噴泉池。
ここに入るのも、今回の旅の目標です。
下呂市街地に入り、駐車場にバイクを止め、いざ噴泉池へ。
噴泉池は下呂大橋のすぐ下にあります。
写真では見えませんが、橋のすぐ下はこんな感じ。
風呂は、橋だけじゃなく、宿からも丸見え。
まさに衆人監視。
でもそんなの関係ねぇ!
どっぷり浸かってやるぜ!
しかし、実際に噴泉池に来て分かったことが・・・
めっっっちゃあぢぃ・・・
下呂温泉の源泉温度は高い!
そして、この噴泉池の岩風呂の岩が黒系なんですわ。
晴れて5月の陽光が厳しいこの日、岩風呂の岩は真夏の海岸の砂浜に匹敵するほどの高熱となっていました。
裸足になって、熱っ、熱っと慌てて駆けて足を湯船に突っ込んでみると、これがもう熱湯風呂のごとき熱さ。
なんの罰ゲーム?
10秒と浸けていられない。
浸けても熱し、歩いても熱し!
結果、岩風呂に腰掛けて、足だけ上げて空中で冷ますという妙な体勢に(笑)
ここは、寒い冬か、今頃の季節なら夜に来なあかんねぇ
ちなみに、入る気満々で水着で来たカップルがいまして、男性は自分と同じく軽く浸けてギブアップのような感じでしたが、熱い熱いと言いながら女性の方はがっつり上半身まで浸かってました(^^;)
いや~、覚悟を決めたらやっぱり女性の方が痛みや熱さには強いんやなぁ
結局、自分は浸かるのを諦めて、近くの幸乃湯という銭湯兼旅館で浸からせてもらいました。
いや~銭湯料金で露天風呂も味わえたし、なかなか良かったですな(^^)
この下呂という街には、歴史的に重要なもうひとつの側面があります。
戦国時代に飛騨を統一した、姉小路こと三木氏が興った土地なんですね。
下呂という名前は、「シモツトマリ」であった下留が音読みされたところから来ているらしいですが、下があれば上があり、場所によっては中もあるということで、中呂、上呂という地名もあります。
その中呂と上呂の間に萩原の集落がありまして、この萩原が三木氏の根拠地だったわけですな。
ここから北へ北へと勢力を伸ばして、飛騨を統一したわけです。
その本拠となる城は、桜洞城と呼ばれました。
桜洞。
なんだか風流な名前ですね。
そして、この萩原地区には、三木氏滅亡後に支配拠点として築かれた萩原諏訪城という城もあります。
位置的には、萩原諏訪城の方が南にあるので、まずは萩原諏訪城から訪れてみました。
萩原諏訪城は、諏訪神社が元々あったことから諏訪城という名が付けられていますが、廃城後の江戸時代に諏訪神社が戻ってきており、城跡は境内地となっています。
でも、石垣はしっかり野面積。
川原石の丸石が川沿いの城らしくていいですね。
続いて北東側の隅部。
ここは2段石垣のようになってまいすね。
消えかけの説明板。
東側から境内へ。
どうもこの橋は往時には無く、後で付け足されたようです。
この橋の左右にも、しっかりと石垣が残っていました。
ただ、隅部が丸い場所は後世の改変でしょうな。
境内を過ぎて、神社の表参道に向かうと、立派な内堀がありました。
郡上八幡でゲットしたキュウリの輪切りは、自らのケツで皮を剥いてしまいましたとさ。
お腹が満たされた和良を出発し、引き続き国道256号線を東へ。
トンネルを2本ほど抜けると、国道41号線へと突き当たります。
濃尾平野から飛騨方面へは、国道156号線と41号線が出ており、これに長野方面の国道19号線を合わせて、綺麗に放射状に3本の道が延びているんですが、これでその西側の2本の間の山道を走破したことになりますね。
今でこそ、こんなに簡単に山越えが可能ですが、人力馬力の昔は大変だったと思います。
それこそ山ひとつで文化圏が変わるほどに。
道具の進歩というのは凄いですな。
そんな感慨に耽りつつ、しばし国道41号線を走って行くと、いよいよ下呂市街が近付いてきました。
この温泉街には、有名な露天風呂があります。
その名は、噴泉池。
ここに入るのも、今回の旅の目標です。
下呂市街地に入り、駐車場にバイクを止め、いざ噴泉池へ。
噴泉池は下呂大橋のすぐ下にあります。
写真では見えませんが、橋のすぐ下はこんな感じ。
風呂は、橋だけじゃなく、宿からも丸見え。
まさに衆人監視。
でもそんなの関係ねぇ!
どっぷり浸かってやるぜ!
しかし、実際に噴泉池に来て分かったことが・・・
めっっっちゃあぢぃ・・・
下呂温泉の源泉温度は高い!
そして、この噴泉池の岩風呂の岩が黒系なんですわ。
晴れて5月の陽光が厳しいこの日、岩風呂の岩は真夏の海岸の砂浜に匹敵するほどの高熱となっていました。
裸足になって、熱っ、熱っと慌てて駆けて足を湯船に突っ込んでみると、これがもう熱湯風呂のごとき熱さ。
なんの罰ゲーム?
10秒と浸けていられない。
浸けても熱し、歩いても熱し!
結果、岩風呂に腰掛けて、足だけ上げて空中で冷ますという妙な体勢に(笑)
ここは、寒い冬か、今頃の季節なら夜に来なあかんねぇ
ちなみに、入る気満々で水着で来たカップルがいまして、男性は自分と同じく軽く浸けてギブアップのような感じでしたが、熱い熱いと言いながら女性の方はがっつり上半身まで浸かってました(^^;)
いや~、覚悟を決めたらやっぱり女性の方が痛みや熱さには強いんやなぁ
結局、自分は浸かるのを諦めて、近くの幸乃湯という銭湯兼旅館で浸からせてもらいました。
いや~銭湯料金で露天風呂も味わえたし、なかなか良かったですな(^^)
この下呂という街には、歴史的に重要なもうひとつの側面があります。
戦国時代に飛騨を統一した、姉小路こと三木氏が興った土地なんですね。
下呂という名前は、「シモツトマリ」であった下留が音読みされたところから来ているらしいですが、下があれば上があり、場所によっては中もあるということで、中呂、上呂という地名もあります。
その中呂と上呂の間に萩原の集落がありまして、この萩原が三木氏の根拠地だったわけですな。
ここから北へ北へと勢力を伸ばして、飛騨を統一したわけです。
その本拠となる城は、桜洞城と呼ばれました。
桜洞。
なんだか風流な名前ですね。
そして、この萩原地区には、三木氏滅亡後に支配拠点として築かれた萩原諏訪城という城もあります。
位置的には、萩原諏訪城の方が南にあるので、まずは萩原諏訪城から訪れてみました。
萩原諏訪城は、諏訪神社が元々あったことから諏訪城という名が付けられていますが、廃城後の江戸時代に諏訪神社が戻ってきており、城跡は境内地となっています。
でも、石垣はしっかり野面積。
川原石の丸石が川沿いの城らしくていいですね。
続いて北東側の隅部。
ここは2段石垣のようになってまいすね。
消えかけの説明板。
東側から境内へ。
どうもこの橋は往時には無く、後で付け足されたようです。
この橋の左右にも、しっかりと石垣が残っていました。
ただ、隅部が丸い場所は後世の改変でしょうな。
境内を過ぎて、神社の表参道に向かうと、立派な内堀がありました。
そして、神社を表の鳥居付近から。
神社には裏口があるんですが、そこには桝形の痕跡がありました。
途中で階段として左に折れて行ってますが、右側の石垣は奥まで真っすぐ続いており、往時はもっとかっちり動線が曲げられていたんでしょうね。
なかなか、しっかりと石垣が残る良い城でした。
次は、三木氏の本拠だった桜洞城へ。
桜洞城は、萩原諏訪城から北へすぐの場所にあります。
距離にして500mほど。
桜谷公園というのがありまして、そこにバイクを止めて、南の小川を渡って崖上に上がるとすぐ城でした。
桜洞城は、廃城時期が早かったのもあって、現在残っている遺構は少なくなってしまってますね。
取りあえず、この標柱から奥へ進むとまず空堀と土橋が。
判りにくいですが、右側が石垣付きの土橋で、左が空堀となっています。
更に奥へ進むと、石垣の痕跡がありました。
ぐり石のような石や、それよりやや大きい石材が散乱していますね。
この土壇上に上ると、逆L字型の空堀が明確に確認できます。
ここが桜洞城の最大の見所でしょう。
城のすぐ下には高山本線が通っていますが、鉄路開削の際にも削られたようですし、この遺構が残っているだけ幸運なのかもしれません。
つづく
参考:
地図付きはこちら
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