2018年2月22日木曜日

飛騨富山ツーリング その2

前回のあらすじ
 
阪神高速で市内を突っ切るのも意外とイケるもんだ。
 
石山まで進んで迎えた2日目。
名神高速の集中工事による渋滞が予想される中、早起きすべきところだったんですが、ある程度進んだという油断からか、6時過ぎに起きたものの、ダラダラ・・・
結局、出発は7時を過ぎていました。
昨年に泊まった時と同様、石山寺を見ながら北上して瀬田の唐橋を渡り、瀬田東I.C.から名神高速へと入ります。
どこまでスムーズに行けるか・・・と思いつつ進んで行くと、早くも栗東I.C.の2kmほど手前から渋滞。
そこから渋滞を抜けるのに40分ぐらいかかりました。
その後も断続的に工事個所が出てくるので、時々渋滞にハマり、最後は木曽川の上で大渋滞。
東海北陸道に入るまでが長い・・・
ある程度、覚悟していたとは言え、なかなかしんどかったですわ。
早よ起きて出ろよ!
って話ですが(^^;)
東海北陸道に入ってからは快調そのもので、まずは目指す郡上八幡へ。
記憶にあった道程よりも長かったですが、10時前に到着しました。
郡上八幡は何度か来ているんですが、今回の目標としては2点。
ひとつは、以前に来た時に行きそびれていた木越城へ行くことです。
もうひとつは料理サンプルのキーホルダーを買う事。
前のウインナーはずっと車の鍵に付けてて、いつの間にやら樹脂の地肌が見えるほどとなり、最後は金具の部分から抜けて行方不明になってしまいました。
今回、車が新しくなったので、改めて鍵に付けるものを買おうという魂胆です。
 
まずは、ひとつ目の目標である木越城へ。
木越城は、郡上八幡市街から北西数kmの城で、近世遠藤氏の発祥の城とも言われますね。
系図では、斎藤妙椿との歌合戦で知られる英主東常縁の庶子盛胤が築き、その流れが近世遠藤氏とされています。
ただ、この盛胤さんは一次史料に出てこない上、東氏の出でありながら遠藤姓を名乗っているわけですな。
そして、近世遠藤氏は東氏の家臣でありながら主君を打倒する形で大名になっているわけです。
んん?
なんか怪しい香りがしますな。
遠藤姓については、庶子が母方の姓を名乗るのは珍しくない事だとしても、東氏打倒については、その状況がこれまた怪しい。
時の東家当主常慶は、子常堯が粗暴であることから娘婿である遠藤盛数に家督を譲ろうと思っていたといいます。
一方、子の常堯には盛数の兄胤縁の娘を迎えようとしていました。
家督についてはともかく、ここまではそれほど問題ありません。
遠藤兄弟は常慶からかなり重用されていたようですし、有力家臣との縁組は当たり前ですからね。
しかし、胤縁は、常堯の粗暴さから娘を他家に輿入れさせてしまうのです。
これを常堯は恨みました。
そして、胤縁の登城の日を狙って暗殺してしまったのです。
これに怒った盛数は弔いの兵を挙げました。
この辺りも、まだ大丈夫。
それほど不自然ではないと思います。
問題はここから。
弔いの兵を挙げた盛数は、今の八幡城がある八幡山に陣を敷き、東殿山城(赤谷山城)を攻撃しました。
そして、常慶は討死し、常堯は城から逃れて東氏は没落してしまうのです。
・・・なんかおかしくね?
盛数の舅かつ嫡子を差し置いて家督継承を考えるほど好意的であったはずの常慶が討死し、肝心の常堯は逃れているわけです。
家督継承を考えていたなら、常堯の問題が表面化した時点で盛数側に立って常堯の追放なんてことをやってもよさそうな気がするんですがね。
時ここに至っては・・・という心境や状況があったのかもしれませんが、なんか筋がすっきりしないんですよ。
弔い合戦を機に下剋上しました(^^)テヘ
ぐらい開き直られたら解り易いんやけどなぁ
 
ま、それはともかく、木越城。
城への登山道は、国道の反対側、つまり長良川の西岸にあります。
金松館という料理旅館のすぐ脇から山へ入るのですが、麓には休憩スペースが整備されていました。
有り難い事ですね。
立派な説明板もあります。
 
 
説明板には、盛数の事はほんの少しで、八幡藩初代藩主となった子の慶隆と、その妹で山内一豊の妻である見性院という説が有力になっている女性の話が書かれていました。
世間的には、そっちの方が知名度があるんでしょうね。
この説明板がある休憩スペースから、いよいよ山へと入ります。
そして、しばらく行くと、中腹に割と大きな削平地がありました。
 
 
往時は居住スペースとして使われたんでしょうか。
全部で3段ほどあります。
一部には石垣の痕跡も。
 
 
ちょっとブレてるのはご愛敬(^^;)
ここから更に少し登ると、頂上の主郭部に到達しますが、主郭部付近には、石垣の痕跡と思われるグリ石や大き目の石材が散乱していました。
丸い川原石なので、周囲と明らかに雰囲気が違って解り易いですね。
 
 
そして、頂上に到着。
主郭部の最高部から1段下がった場所に城址碑が。
 
 
そして最高部。
 
 
ものの見事に藪・・・
頂上の主郭部は、最後部を中心に南側に1段、北側に4段の削平地がほぼ一直線に並ぶ構造で、典型的な中世的な山城という感じでしたね。
ただ、登山道入口が整備されていただけに、少しもったいない気がする城でした。
 
つづく
 
参考:
木越城
滋賀の地図付きはこちら
岐阜の地図付きはこちら
 

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