現在は、発掘した以降の埋め戻し作業が行われています。
埋め戻しとは言っても、イオンの建設が決まってますから、保存の為ではなく原状回復の埋め戻しかな?
所々、掘り出された石材が固めて置かれているのですが、なにか石垣を使って城址のモニュメントでも造るのかもしれません。
発掘調査の最後の土曜となった3月28日、最後の現地説明会があったので、急遽、行ってきました。
貰った資料がそれまでの印刷所に頼んだしっかりした紙ではなく簡単なもので、調査ド終盤の時期の開催というのも考えると、説明会自体が急ごしらえだったように思います。
現場も、埋め戻し作業が進んでいる最中。
なぜ、今回はそのような慌しい感じの説明会になったかというと、兵庫城で天守の痕跡が発見されたからです。
天守の痕跡、というか天守台の痕跡、ですな。
織豊時代の石垣構築技術の中に、「胴木」や「犬走り」というものがあります。
胴木は、木材を石垣基壇部に組み込むことによって、弱い地盤の補強と、不同沈下を防ぐ効果がありました。
犬走りは、石垣を二重化することによって加重を分散させる働きがあり、藤堂高虎がよく用いていますね。
これらは、海岸に近い場所や中洲など、地盤が柔らかく不安定な場所の城によく用いられ、胴木は基壇部なのでなかなか目にする機会はありませんが、犬走りは高虎所縁の伊賀上野城や津城で見ることができます。
海際の軟弱な地盤である兵庫城でも、胴木が採用されている訳ですが、これに加え、本丸の一部で石垣が二重になっていたことが発見されました。
つまり、
胴木と石垣二重化が採用された部分は特に補強の必要があった
↓
上に何か重いものがあった
↓
天守!
ということのようです。
実際の写真はこんな感じ。
一重目、二重目の石垣それぞれに胴木が埋め込まれています。
横からだともっと解り易いかな?
二重化された石垣がきれいに残ってますね。
そして、手前側の横軸の石垣は普通の一重の石垣。
対比で解り易い(^^)
実際のところは、石垣は一重目を埋設して表面上一重の二重石垣にしたのか、犬走りのように目に見える形の二重石垣だったのかは判らないそうですが、特に補強が施されていたというのは間違いありません。
行政府のようなシンプルな城というイメージがずっと兵庫城にありましたが、二重の水堀があり、天守も備えていたとなれば、かなり堂々とした近世城だっみたいですな。
これに兵庫の湊町を取り込んだ惣構の構造があり、城下町の所々に寺社が配置されていたとなると・・・
西国に対する出兵拠点だったという説に説得力ありですな!
参考:
兵庫城
地図付きはこちら
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